2016年12月28日水曜日

杉浦醫院四方山話―489『地方病終息20年の年』

 今年は、山梨県で地方病の流行終息宣言が出されて20年という節目の年でした。その為か、2月の県生涯学習センターでの「終息史」の講演に始まって、12月の山日新聞「時標」での論説記事まで、対外的な対応も多かった一年でした。

 

 その中で、お年寄りにデイサービスを提供している施設からも「1時間位、地方病の話をして欲しい」と云う依頼がありました。来館いただいて見学しながら話すのが一番なのですが、「バリアフリー」の言葉も無かった昭和4年建築の病院棟は、段差も多く、車椅子の方々には厳しい実態もあり、当館のDVDを持参して伺いました。

 ホールに集まったと云うより集められた先輩方の前に立つと何だか私の為にボランティア動員されているような感に襲われ、思わず「昼食後のお昼寝に最適な時間にお集まりいただき、ありがとうございます。お疲れの方はどうぞ寝ながらで構いませんから・・・」と自分でも予期せぬ言葉が飛び出し驚きましたが、正直なところでした。

 しかし、話し始めると「わたしゃ、注射15本も打っただよ」とか「俺は30本打った」「うちは月給取りで、百姓じゃなかったから地方病にはならなかった」「地方病になったけど92まで生きてきた」等々不規則発言がどんどん出て、「そうそう、体が大きくしっかりしたお父さんは30本、スタイルがよっかったお母さんは15本と、違ったようですね」と、皆さんの実体験に合わせて話を進めるとアッと云う間の1時間でした。

 職員の方からも「こんなに皆さんが集中して聴くのは初めてでした」と云われましたが、確かに自分や家族の体験談を皆さんが話すということは、話者になる訳で、ただ聴くだけの受け身の状態から一緒に時間を作っていくことになりますから、皆さんにとっても短い1時間だったかと思いました。山梨県内の高齢者施設には、元患者さんも多いことでしょうから、逆にこちらが体験談を聴くことで教えられることがありますので、当館まで足を運べない方々への出前見学会の必要性も学びました。

 

 どなたかが「全国放送のテレビは視聴率1パーセントでも100万人が見ていることになる」と教えてくれましたが、10月にフジテレビの「世界何だこれ!ミステリー」で地方病を取り上げ、当館も取材を受け全国放映されました。翌日から「テレビを見てきました」と云う方々が新潟から京都から横浜から・・・と来館し、テレビの威力をあらためて認識させられた年でもありました。

 

 

文字どおり、申年が去りますが、今年一年当館に寄せられましたご厚情に感謝申し上げ、来る酉年が益々よい一年となりますようご祈念申し上げ、年末のご挨拶といたします。 

2016年11月14日月曜日

杉浦醫院四方山話―488『第4回 杉浦醫院院内コンサート』

  4回目の院内コンサートは、「杉浦醫院のピアノと過ごす午後のコンサート~愛する人へ~」と題して、ピアニスト・佐藤恵美さんをお迎えして行われました。


 このコンサートに合わせて3日前に富士市の辻村音楽企画店の辻村氏と臼間氏がピアノの調律に来てくださいました。

辻村氏は、「調律は弾く人のタッチに合わせて行いますから、佐藤さんの好みが分からないと満足していただける調律は出来ません」と云うので、東京にお住いの佐藤さんのピアノの調律も任されているのか聞いてみました。

「私は、そのピアノを弾く人と必ず事前に話をするようにしています。佐藤さんとも電話で話しました。50年この道一筋ですから、話の中で好みやクセと云ったものが自然に分かり、それに従って調律しますが、まず外れることはありません。そうでなくちゃベテランなんて言えませんよ」と、極控えめにおっしゃいました。


 例えば、「対面して話すと目や口の動きでその人の気持ちが分かる」とか「早口で話す人は頭の回転が速い」と云ったような人間判断を心理学者と称する人が、面白おかしく書いていますが、「話をしてピアニストのタッチの好みが分かる」と云う話は、初耳でした。「佐藤さんのタッチに合うよう調整しておきました」と云って帰途についた辻村氏ですから、初耳の話にも一層信憑性も増し、自信の調律だったこともうかがえました。


 今回のプログラムは、1部は11曲の「愛の曲」で統一され、2部は春夏秋冬の「日本の懐かしい名曲」を15曲、計26曲のピアノ演奏でした。

佐藤さんは、それぞれの曲紹介に作曲家のエピソードなど分かり易い解説を交えての楽しい演奏会を演出してくださいました。

 ベートーベン作曲でオルゴールでもお馴染みの名曲「エリーゼのために」は、ベートーベンが愛したテレーゼという実在した女性のために作った曲だったそうです。ベートーベンが悪筆だったことから判読できず、テリーゼがエリーゼになってしまったというのが、この曲名の定説になっていること等々、エルガーからグリーグまでの西洋音楽史を楽しく学べた演奏会でもありました。


 国立音楽大学で教えている佐藤さんは、杉浦醫院のピアノについても調べたそうで、「現在これと同じピアノは、宮中に一台とここに一台。もう一台は形は残っているそうですが音は出ませんから実質2台しかありません」と話し「しっかりした素材の木が使われているピアノですから、このようにきちんと手入れさていれば、いつまでも使え、音色も違います。弾くたびに私はこのピアノに感動し、虜になってしまいました」と皆さんに語りました。

 

 「ピアニストと話せば自然に好みやクセも分かる」と云った辻村氏の話と佐藤さんの「本当に素晴らしい調律がされていて、気持ちよく弾けました」と云う言葉が重なり、あらためて辻村氏の慧眼と自信に裏打ちされた技術力に敬服してしまいました。

 演奏するピアニストやそのピアノを日常的に使う人の好みやクセを把握した上で、はじめて調律が出来ると云う辻村氏。言われてみれば当たり前のようですが、一般的な調律は、そんなことにお構いなくするのが普通になっているのが現実ではないでしょうか?

 

 昨年のコンサートに合わせボランティアでピアノ再生をしていただき、今年から定期的に調律をお願い出来ることになりましたが、遠路お越しいただき調律作業の時間も人数も「普通」の倍以上ですから、辻村氏からは、「世の普通がおかしいのだ」と言う事を身を以て教えていただいているようです。

辻村さん、臼間さんが調律したピアノの良さを十二分に引き出しての佐藤さんの演奏、一台の名ピアノが醸す絶妙なハーモニーとして、「是非、来秋も」とのリクエストによろしくお願いいたします。

2016年10月27日木曜日

杉浦醫院四方山話―487『杉浦醫院11代目・杉浦修氏』


  東京目黒にある学芸大ファミリークリニックが、10代目杉浦健一氏の長男・修氏が開院している医院です。杉浦醫院の医者の系譜としては、修氏が11代目にあたります。

「このクリニックは一般に思い浮かべる病院とはひと味もふた味も変わっている」そうです。

 修先生は、白衣ではなくカラフルでラフなシャツ姿で診療に当たり、スタッフもそれぞれバラバラの服を身に着け、院内には先生の好きなアメリカンフットボールの用具が飾られるなど、従来のイメージを一新する病院で、随所に先生の個性と交友の広さが光っているようです。

例えば、上記赤字のリンクをクリックすると楽しいホームページに入れますが、この斬新なトップページも先生の知人・友人で著名なクリエイターの手によるものです。また、歩いている人をクリックすると「土日・祝日も診療しているよ」とか「夜も20時まで・・・」と、診療案内が表示されるというユニークで親しみやすいものです。


 「土日祝日も休みなし、診察時間も夜8時まで」と聞けば、それなりの人数の医師がいて・・・と思いますが、「医者は、私一人です」と云いますから驚きです。

「私の医院は、電柱や街頭に看板を出したりの広告活動は一切していません。クチコミの患者さんが中心です。医者が偉いなんて思ったこともないので、患者さんには私の携帯番号も知らせ、何かあったらいつでも連絡が取れるようにしています。」と・・・


 更に「社会という階層構造のなかで、医者は最下層で人々の健康をバックアップすべき」とか「すべての患者は自分の家族であるという想いで診療に当たっている」と云った言葉からは、杉浦家に脈々と伝わるDNAを感じます。

それは、曾祖父・健造氏の信条「医は仁術である」の具体化ですし、開業医をしながら県立医学研究所地方病部長として予防の先頭に立った祖父・三郎氏。父・健一氏も敢えて医官と云う厳しい選択をしたように「人はパンのみにて生くる者に非ず」を自然に想起させてくれますから、学芸大ファミリークリニックは、杉浦修医院長の人生哲学を体現しているのでしょう。

「ここには、小学生の頃に父に連れられて何度か来ました。父があの若さで亡くなったりで、それ以来ですが、部屋も一つ一つよく覚えています。

それにしても隣のお寺もきれいになったり、新しい道や周りにこんなに家が建ちすっかり変わって、道も分からなくなって何度か聞いて来ました」と、約20年ぶりの純子さんとの再会も叶いました。

純子さんも「おさむちゃん、私はもうこんなだから又来てくれるなら早く来てくれないといませんよ」と冗談も交えての旧交を温めました。

楽しい会話の中でも時折、目頭を押さえての涙に甥っ子との再会に感無量な純子さんの想いが滲んでいました。カメラを向けると自然に肩を寄せ合う、家族・親族ならではの一枚となりました。

2016年10月17日月曜日

杉浦醫院四方山話―486『山梨医専・女子医専』

 山梨医専は、山梨県立医学専門学校、同じく女子医専は山梨県立女子医学専門学校の略称ですが、現・山梨大学医学部とは関係無い、かつて県内にあった医学校です。

 

 これは、1944年(昭和19年)の第二次世界大戦末期に不足する軍医を速成する必要から国策として全国に設立された「旧制医学専門学校」=「医専」の山梨版ですが、兵士として男性は出征していきましたから、学校を維持する為にも、翌年には山梨県立女子医学専門学校を併設しました。

しかし、昭和20年7月には「七夕空襲」とも呼ばれている甲府大空襲で甲府は焼け野原と化しましたから、この学校も校舎や設備、附属医院も焼失し、当時の県の財政状況からは復興もかなわず、1947年(昭和22年)に廃校となった幻の医学校でもあります。

 この県立医専の設置の為に県が国に申請した設置理由は、先ずは軍医養成の国策に応える為、次に 県内にある45%の無医村の解消、そして地方病の治療と撲滅の3点をでしたから、県民の期待も多きかったことでしょう。


 この山梨女子医専には、純子さんの妹・郁子さんが合格し、医者を目指して学んでいましたから、前話の健一さんだけでなく次女の郁子さんも三郎先生の後継たらんと云う志を持っていたのでしょう。

上記のようにこの学校は卒業する前に廃校となる中、郁子さんのような在校生は、現・山梨大学等に編入され、医学を継続して学ぶ場を失った訳で、設立から廃校まで全て戦争に翻弄された学校であり世代だったことを物語っています。


 現在の山梨大学医学部の前身・山梨医科大学が設立されたのは、山梨医専廃校後約30年を経ってからの昭和53年ですから、山梨の地方病撲滅の為の医師養成や医学的取り組みは、共立病院の加茂悦爾先生、市立病院の故・林正高先生のようにお隣の信州大学医学部出身者が中心になりました。九州の有病地帯であった筑後川流域の日本住血吸虫症対策の指揮を執ったのは久留米大学医学部だったそうですから、山梨医専や女子医専が存続していたならば、この学校が山梨の地方病対策の拠点になっていたことでしょう。


  郁子さんのように医者を志して入学するも中途で物理的に進路変更を余儀なくされた方の思いを聴いてみたいと云う個人的興味も募りますが、限られた人数だったのに加え、ご高齢なだけに物故された方も多いのが現実です。

 その一人が、昭和町上河東にあった「宮崎医院」の故・宮崎誠氏で、医専廃校に伴い当時の山梨師範へ編入して小学校教員をしていましたが、現役時代も晩年も他の教員OBとは一線を画した雰囲気と断念からくるのか?ニヒルな言動が魅力でした。

同じように塩山市出身の俳優・土屋嘉男氏も山梨医専で学んだ後、俳優の道へと進んだ方ですが、黒沢映画の名脇役としてまた異色の俳優としての活躍は、代えがたい存在感ある男優として映画ファンにはおなじみですね。

2016年10月13日木曜日

杉浦醫院四方山話―485『杉浦醫院10代目・杉浦健一氏』

 杉浦家は、初代・杉浦覚道氏が、江戸時代初め医業を創めてから7代目杉浦嘉七郎氏まで、代々絶えることなくこの地で漢方医として医業を営んできましたが、8代目杉浦健造氏は、いち早く西洋医学を学ぶため横浜野毛の小沢良斎氏の門をたたき、この地に戻って地方病の原因究明に立ち上がりました。

それは、横浜での8年間の修業時代に山梨で原因不明の奇病「水腫腸満」「腹張り」と呼ばれていた患者が、横浜には全くいないことを体験したことから、この奇病は山梨特有の風土病ではないか?と、その原因究明に立ち上がったと云います。

そして、父の遺志を継承した9代目三郎氏が、この病気の治療法を確立し、予防の先頭に立ったことなどは、当ブログでも紹介してきました。


 当館見学者からよく聞かれる疑問の一つに「9代も続いたこの病院は、跡継ぎはいなかったのですか?」と云う素朴な質問があります。「まあ、結果的にはこの地での開院は三郎先生までになります」と答えていましたが、10代目・杉浦健一医師について、長男で11代目に当たる杉浦修医師からも「じゃんじゃん書いて構いませんから」との承諾をいただきましたので、分かっている範囲ですが、先ずは10代目・杉浦健一医師についてご紹介します。

 

 三郎先生には、純子さん、郁子さん、三和子さん、健一さんの順で四人のお子さんがいました。

長女・純子さんは東大の岩井通医師と結婚しましたが、当ブログ杉浦醫院四方山話―36 『純子さんの被爆追体験』と杉浦醫院四方山話―177 『イワイ トホル ノートブック』 に記したとおり不運な死別を余儀なくされ、帰郷し現在に至っています。そういう意味では、10代目は純子さんになる訳ですが、医業に限れば健一氏が三郎氏の跡継ぎとなり、杉浦家の医業は健一氏から修氏に引き継がれていますから11代続いているのが現在です。


 末っ子の長男・健一氏は、甲府一高から昭和大学に進み、自衛隊中央病院で医官(いかん)となりましたから、幹部自衛官でもあった訳です。

 純子さんも「健一は自衛隊の病院でしたから、三島由紀夫が切腹した時や日航機が御巣鷹山に落ちた時などは、テレビにも出て忙しかったようです」とか「父も健一は帰れないものと思っていたようです」と話してくれましたが、医官養成の防衛医大が開校されるずっと前ですから、健一氏が民間の勤務医でなく自衛隊中央病院の医師を選択するには、大きな使命感と相当の覚悟が必要だったことは想像に難くありません。


  純子さんの話を裏付けるように平成24年(2012)11月12日(月曜日)発刊の三島由紀夫研究会のメルマガ会報『三島由紀夫の総合研究』通巻第695号にも杉浦健一氏の活躍が報じられています。 


 ≪ 市ヶ谷駐屯地医務室には外科医師がいなかった。東京女子医大病院と慶応病院には近いが、医官・杉浦健一2佐は、中央病院が丁度外科手術日だったので、手術 準備が整っている同病院に緊急患者を全員受け入れるように交渉し、次々と送り込んだ。≫

≪私はそのまま診察台にうつ伏せになった。医官の杉浦健一2佐が「おい、ハサミ」と言っているので、「服なら自分で脱ぎます」と私が言った途端、「黙れ」と一喝された。杉浦2佐は川名1佐に向かって「黙らせないと危ない」と言った。ここには内科医しかいないので、他の病院へ搬送されるらしいが、「出血多量で時間の勝負だ」 という話が聞こえてくる。東京女子医大病院や慶応病院が距離的には近いが、手術準備の消毒だけでも30分はかかる。自衛隊中央病院は当日は手術日であり、 他の手術を延ばして最優先で受け入れるよう調整したという。「あとは輸送時間が問題だ」「出血多量で五分五分」という電話でのやりとりの声も聞こえてく る。≫


  杉浦健一氏は、自衛隊中央病院を定年退職して柏市の総合病院で医院長在職中、享年64歳で亡くなりました。健造先生が村長在職中、村葬で送られたように健一氏も病院葬だったそうですが、自衛隊医官として最後は1佐(大佐)だったでしょうから、隊友を送る荘厳な葬儀様式も加わった大葬儀だったことも容易に想像されます。

2016年10月6日木曜日

杉浦醫院四方山話―483 『林正高先生 ありがとうございました』

 杉浦三郎先生亡き後、山梨の地方病の治療から研究と対策を担ってきた林正高先生が、先月81歳で亡くなりました。葬儀では朝比奈豊・毎日新聞社会長が「最先端の医療でフィリピンの人たちを助けた、日本の良い時代の、偉大な方の一人だったと思います」と別れを惜しんだことも報道されています。

 

 今年、先生から戴いた年賀状でも昨年夏、診察中に心肺停止の発作を起こし山梨大学で弁置換術と佳動脈バイパス術を受け、「超高齢にもかかわらず副症状の合併もなく過ぎました」と大病されたことが記され、手書きで「無事生還しました。本年もよろしくお願い致します」と書き添えられていました。

当館が地方病終息20周年の今年、「地方病流行20周年記念講座」の開設を計画し、林先生と加茂先生には、そのメイン講師をお願いした折も「涼しい時期が、私も参加者もいいですね」とおっしゃっていただきましたので、そろそろ具体化について連絡しようと思っていた矢先の訃報でした。



 山梨の地方病が一段落着くと林先生は、この病気が猛威を振るっていたフィリピンの患者救済に立ち上がり、多くの患者の命を救ってきたことは、ご存知のとおりです。

 当館開館に際しても協力を惜しまず、多くの資料も先生からご提供いただきましたが、その中には医学資料のみならず、作家・大岡昇平氏の代表作「レイテ戦記」の記載不備を指摘し、その後大岡氏と何回かの協議をもって、大岡氏が「レイテ戦記補遺」を発表した経緯など文学史料とも云うべき資料もあり、林先生のフィールドの広さと日本住血吸虫症の正確かつ深い考察姿勢は屹立していました。その辺の詳細は、以下のブログでお確かめください。


杉浦醫院四方山話―408 『地方病研究者・林正高先生』

杉浦醫院四方山話―416『なぜ出せない安全宣言~日本住血吸虫病はいま~』

杉浦醫院四方山話―422『大岡昇平「レイテ戦記」と補遺ー1』

杉浦醫院四方山話―423『大岡昇平「レイテ戦記」と補遺ー2』

杉浦醫院四方山話―424『大岡昇平「レイテ戦記」と補遺ー3』

杉浦醫院四方山話―427『林正高著・寄生虫との百年戦争』1

杉浦醫院四方山話―428『林正高著・寄生虫との百年戦争』2

杉浦醫院四方山話―429『林正高著・寄生虫との百年戦争』3

杉浦醫院四方山話―440 『長寿村・棡原(ゆずりはら)』

杉浦醫院四方山話―464 林正高著『日本住血吸虫症』


416話の「なぜ出せない安全宣言」は、林先生が出演したNHK甲府放送局制作の映像資料の紹介ですが、番組最後に「山梨県には、この地方病を伝えていく資料館が是非必要です。一日も早く資料館が出来るといいですね」と結んでいましたから、当館の開館を最も喜んでくださったのも林先生だったように思います。

 林先生のこれまでのご指導、ご協力に深謝し、より充実した資料館となるよう努めることをお誓いし、先生とのお別れといたします。ありがとうございました。

2016年9月18日日曜日

杉浦醫院四方山話―482 『話芸』

 杉浦醫院8代目健造先生は、奇病とされていた地方病の原因究明に立ち上がった先駆者ですが、近隣の小沢鹿十郎、吉岡順作両医師と協力して取り組み、そのリーダー的存在だったようですし、村民に推されて村長という舵取りも担ってきました。

また、毎年初夏には自宅で「杉浦醫院ホタル見会」も開催して、県内の名士を招き、若松町の芸者を全員集め盛大な宴の席も設けていました。


純子さんは「祖父は一滴もお酒は飲めませんでしたが、酔ったふりや酔ったような話が上手で、私もよく騙されましたから周りの方は酒好きだと思っていたようです」と話してくれました。


矢張り、人を集めたり指導したり音頭をとったりと云ったオルガナイザーには「話芸」とも云うべき会話術が必要なのは、最近よく耳にする「コミニュケーション能力」の要も「話す力」のようですから、時代には関係ないのでしょうか?


話芸と云えば永六輔、大橋巨泉と云ったラジオ、テレビで「話芸」を売りに活躍した話者の訃報が続き寂しくなりましたが、鬼才・タモリの健在が救いです。未だ若かったタモリの「4ケ国語麻雀」や「7ケ国はとバスガイド」を聞いた時の衝撃は、永六輔や大橋巨泉の「話芸」から「芸」が消えていくようなタモリの才能に驚きましたが、医療の進歩がもたらした高齢社会は、これまで以上に心を潤すエンターテインメントが求められ、なかでも「お笑い」は世代を問わず人人気で、綾小路きみまろに代表される漫談が手っ取り早い笑いとして落語を凌ぐ勢いです。


「漫談」や「落語」は日本の古典芸能ですが、世の中の生活リズムのスピード化や複雑化に「落語」はついていけなくなった感じもします。

旅先に向かうバスの中は、聞く人は聞く、飲む人は飲む、話す人は話すと云う散漫な空間になり、落語は成り立たない話芸となるのに対し漫談は直接的なネタで笑わせ、聞かせる攻撃性がウリなのでしょう。そういう意味では、綾小路きみまろの話芸も時代をつかんだ話芸と云えましょう。


そんな訳で、当館の2階和室で「落語」をじっくり語り、しっかり聴く機会がスタートしました。

同時に、落語と漫談の違いも味わったり、都々逸(どどいつ)などの俗曲や端唄、新内節など三味線の弾き唄と云った寄席音曲の「粋曲」も愉しめる教室です。

語り手と聞き手で一緒に寄席ムードを演出していくのには最適な空間でもありますから、次回以降3回の参加希望者は、当ホームページ「ニュース&お知らせ」コーナーをご参照のうえ、お早めにお申し込みください。

2016年8月15日月曜日

杉浦醫院四方山話―480 『お茶と落語と花火の集い』

 過日、当館2階の和室で甲府のお茶屋さんH園主催の「お茶と落語と花火の集い」が開催されました。表題の順番で進行し、先ずは「利き茶」。

「利き酒」同様、日本茶を「利き茶」して見分け味分けましたが、 茶葉の色と形からお茶の香り、味を確かめながら総合的に判断して自分好みのお茶を選定していくというものでした。

「利き茶」を重ねることで、茶葉の品種や産地も特定できたり、品質の善し悪しも見分ける力が付いてくるそうですから、9回目の今回の参加者は、この「利き茶」が目当ての方も多いのでしょう。


 約30分「利き茶」を愉しんだ後は、山梨落語研究会代表の紫紺亭圓夢さんの落語「たが屋」でした。「利き茶」でも閉めの市川大門の花火屋さんの話に合わせて峡南地区の「南部茶」が取り上げられていましたが、圓夢さんも江戸時代の両国花火大会での庶民と武士のケンカ沙汰を扱った古典「たが屋」を上演しましたから、集い全体の統一性まで視野にした細かな演出も感じられました。

 
 

 この集いは、これまで甲府市民会館の会議室で行って来たそうですが、四方を壁に囲まれた無機質な会議室では、お茶も落語も…と言う事で、和の雰囲気漂う当館での開催について、3月に打診がありました。

 「8月7日の花火の日の前、5日に開催したい」と云うことでしたから「当館は昭和前期の当時のままを観ていただく施設ですから、全館冷房もありません。よりにもよって8月の暑い時では、参加者も大変だと思いますよ」と、庭園も色づく10月頃の開催を提案しましたが、「暑いときに熱いお茶もいいものですし、是非8月5日に・・・」との固い意向での開催でした。

 

 当日は、この夏一番の猛暑日でしたが、開演前から定員いっぱいの参加者が集い、団扇や扇子片手に外国製の安直な線香花火が主流となってしまった中、日本古来の手造り線香花火の違いや良さなど最後まで熱心に聞いて、持ち帰って味わえる「線香花火」をお土産に集いは終了しました。

2016年8月7日日曜日

杉浦醫院四方山話―479 『ブログ再開の弁』

  レストランや居酒屋で注文した料理を食べる前にスマホなどのカメラで先ず撮影する人を見かけたことのある人は私に限らず多いことでしょう。

 

 また、50代女性から「シャメで送るから」と言われ「シャメ」が分からず、同僚に「写真付きメール」の略語であることを教えてもらってからも料理は食して味わってナンボと思っていますが、カメラに納めた写真を友人などに「写メ」して「いいね」の返答も新たな交友ツールのようですから、外野がとやかく言うこともないと納得しました。

 

 この手の写真付き短文の投稿もブログにカウントされるのか、ブログ検索会社のテクノラティ(米)の調査によりますと、世界には約7000万のブログがあり、日本語のブログ投稿数は全体の37%を占め、2位の英語36%を上回っているそうですから、日本は世界一のブログ大国のようです。

小さな日本語圏の投稿数が英語圏を凌ぐのは、携帯電話での投稿ができることが大きな要因だそうですから、日本独自のケータイ文化がブログ大国日本の土壌となっているのでしょう。 

 

 そんな世界一のブログ大国とはつゆ知らず、ホームページ更新の手段として「ブログ」を書いてきましたが、傍から見れば前述の「料理写メ」と五十歩百歩で「日本一とか世界一というテッペン万歳に手を貸すのも何だかなー」の気分で、7月はその辺がネックになり結果的に休止状態でした。

 

 「いいね!」も「どうでもいいね」としか解せない偏屈な私ですが、ブログの内容や感想をわざわざ来館して面と向かって話してくれる友人・知人が何人かいることはありがたくうれしいことでした。

5日(金)に開催した「お茶と落語と花火の集い」に「準備には手数が必要だから」と早々に駈けつけてくれたボランティア部長・坂下嘉和氏もそんな一人ですが、開口一番「このところブログが更新されないけど何かあった?」と聞かれてしまいました。

 

 本来怠け者の上に甲府盆地の暑さも重なると口実にも事欠かず、ずるずるといってしまいそうな感じでしたが、再開のきっかけも顔を合わせてきちんと問うてくれる友人でした。それは単純ですが「どうでもいい人」と「掛け替えのない人」の実存の違いをあらためて思い知らされ、ブログは全て同類と云った薄っぺらな判断も恥ずかしくなり、当初の目標500話まで有終の美となるよう残り20話を書いていこうと思います。

2016年6月29日水曜日

杉浦醫院四方山話―478 岡本夏木氏の『しつけ』論

  前話で数十年前聞いた講演会での記憶を頼りに「しつけ」と題した文章を書きました。そして、その講演者を「何とか調べてでも名前を確認して、その後の著書を探してみたいものです」と結びました。


  先日、0427局の方から「6月13日付けのしつけのブログを読みました。講演者のお名前は分かりましたか?」と電話がありました。「お恥ずかしい話ですが、今日現在未だ分からないんですが・・・」と答えると「京都大学哲学科を出た心理学者のオカモトナツキさんはご存知ですか?岩波新書の幼児期と云う本でしつけについて同じような事を書いていますから、多分オカモトナツキさんだと思います」とご丁寧にご教示いただきました。


 オカモトナツキさんは岡本夏木さんで、私も購読していた教育雑誌「ひと」にも執筆していましたから「ああ、岡本夏木氏の可能性は高いですね、ご親切にありがとうございます。」と頭を垂れました。

 

 そう云えば遠山啓氏が主宰していた教育雑誌「ひと」もすっかり聞かなくなりました.確か1970年代中ごろの創刊だったのでもう40年も前になり、「十年ひと昔」と云いますから大昔ですが、遠山氏の「水道方式」による算数・数学の授業は全国に広がり、読者の集いと云った「ひと塾」もよく開かれました。私は世田谷で開かれた「ひと塾」で、岡本夏木氏の話を聞いたのかもしれません。

 

 岩波新書刊・岡本夏木著「幼児期」から該当する文書を転載致します。

『「しつけ」ということばに、よく「躾」という漢字があてられ、自分の身を美しくするという意味で大変いい字だと好んで使う人も少なくないようです。しかし「しつけ」という語は元来、着物を「仕付ける」ことと結びついて、私たち日本人の生活の中に根をおろして来ました。躾という字が示唆する「礼儀作法」も、しつけの重要な側面ではありますが、着物の「しつけ」が担っている意味の方が、しつけの過程の本質をよりよく表わしていると私は思います。着物を縫う時、あらかじめ形を整えるために仮に縫い付けておくのがしつけですが、大切なことは、いよいよ着物が縫い上がると、しつけの糸ははずす、ということです。しつけの糸はもはや不要であり、それが残っていることはおかしくなります。この「はずす」ことが、子どもの発達にとっても重要な意味をもつのです。』

 

 

  遠山氏は、「教育学者や教師だけが難しい言葉で教育を語る」という、それまでの教育雑誌と教育界のあり方を批判し、「お母さんや子どもたち、そして、教育学者や教師が、それぞれ平等な立場で〈教育〉について考える教育雑誌をつくりたい」と、『ひと』を創刊しましたから、岡本氏の視点も遠山氏に重なるものがあったのでしょう。

つまり、しつけも、教師や親があれこれ細かく指示することではなく、「はずす」ことを前提に枠組みを提示して、子どもが内面の葛藤を通して獲得していくものという理念を提示しています。

 
 

 岡本氏の著書を求め、じっくり読んでみようと思いますが、前後して『ひと』に対抗するように向山洋一が提唱した「教育技術法則化」運動が、多くの教員の授業技術改善、向上に資すると席巻しましたが、これは授業のハウツー化、マニュアル化でしたから「十年ひと昔」で、消費され同パターンの授業が溢れると水泡のように消え去ったように思います。まあ、その程度の内容しか構築できなかったのでしょうが、現在も衣を「TOSS」と変えて継続しているようですから目先の授業に悩む教員の需要はあるのでしょう。

 

 個人的には、「教育技術法則化」運動が、子どもの自主性、主体性などの「本質論」を避け、画一的指導による音楽や図工作品のコンクール入賞を競い助長してきた影は消えない反面、教育雑誌「ひと」の理念や哲学は脈々と継承されているように私は思います。

 
 

 拙いブログを読んでいただいた上にわざわざ「オカモトナツキさんでは?」とご教示いただいたことで、雑誌「ひと」の時代なども思い起こすことが出来ました。お名前もご住所も聞き損じた失礼もこの場を借りてお詫び申し上げ、重ね重ねありがとうございました。 

2016年6月13日月曜日

杉浦醫院四方山話―477 『しつけ』

 北海道の山中に「しつけ」の為に置き去りにされた男の子が、7日ぶりに無事見つかったニュースもホトボリがさめた感じで、親が子どもを「しつけ」ることについても話題になりましたが、これもウヤムヤで・・・

 大騒ぎの末に何も無かったように新たな話題・ニュースが繰り返される度に、その昔、長谷川きよしが唄った「たとえば男はアホウ鳥 たとえば女は忘れ貝」と云ったフレーズが自然に思い起こされ、哀愁とも虚無とも違った暗い感情になるのは、歳のせいでしょうか?

 

 そんな訳で、今回のニュースについての忘備録として2,3書き留めて、せめてもの抵抗としたいと思います。

 

 このニュースを聞いた時、私は、名前は忘れましたが某哲学者からもう40年近く前に聴いた「しつけ」と「仕込み」についての話を思い出しました。名前は忘れたのに語った内容を覚えているのは、私にはそれなりに納得のいく話だったからでしょう。

 

 彼は、講演会の中で「しつけ」は、元々は裁縫用語で、本縫いの前に、布と布がずれないように、しつけ糸で縫い止めることだと云い、これがいつの間にか家庭や学校で大人の価値観を子どもに押し付ける当たり前の勤めのように使われていることが問題だと切り出しました。

 

 そして、「しつけ」は、独立してあるのではなく「しつけ」る前段階が大切だと説き、これを「仕込み」と区分しました。

「しつけ」は漢字表記では「躾」と書くように「美しい身」にすることなのにしつける親や教師が「美しい身」を体現しているかが先ず問われることを自覚する必要あるという訳です。

具体的に「グチャグチャ」と云う形容詞を使い「皆さんの家庭はどうですか?家の中はグチャグチャ。夫婦関係もグチャグチャ。親子の主従関係もグチャグチャ。そんな中で幾ら躾だけ厳しくしても美しい身になる訳ありません」と。


 要は、しつける側が「美しい身」であることが第一の「仕込み」であり、そういう環境下では、物心つく年齢になると子どもも自然に「こうしよう」とか「ああしよう」と云う気持ちになるのだと説き、これを「仕向け」と区分しました。

このように子ども自身を能動的な気持ちにさせる「仕向け」も「仕込み」で、そういう前段階があれば、親や教師が「しつけ」たい内容がスーと入っていき客観的にも美しい振る舞いになっていくのに「仕込み」を手抜きして、一方的に大人が「しつけ」と称して命令しているのが現在の「しつけ」の実態だと云った話でした。 


 今回のニュースや「児童虐待」と云った言葉も40年前より一般化して、日常茶飯事のように耳にする社会になりました。それは、決して成熟社会とか社会進歩とは無縁な社会のグローバル化、競争化、階層化、IT化等の産物で、この40年で、家庭のグチャグチャは社会のグチャグチャに及んだようにも思います。あの老哲学者は、現代社会を見越しての警鐘だったのか?

何とか調べてでも名前を確認して、その後の著書を探してみたいものです。


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 西条小学校の4年生が団体見学に来た際、館内や庭園に消しゴムと鉛筆数本が落し物として残り保管しました。その日の夕方、一組の親子が来館し「この子が今日鉛筆を失くしましたが、学校には無かったので、今日見学に来たこちらで落としたのかも?と伺いました」とお母さん。

「今日は楽しかったけど鉛筆がなくなって」と意欲的に見て廻っているのが印象的だった女の子。「自分の持ち物は鉛筆一本でもしっかり管理させるようにしてきましたから、お騒がせしますが・・・」とお母さん。

「ハイハイ、鉛筆の落としモノありましたよ。確認してください」と見せると満面の笑みで「あった-よかった」と。

しっかり「仕込み」が出来ている上での「しつけ」を目の当たりに出来たのが当原稿の動機となりました。

2016年6月7日火曜日

杉浦醫院四方山話―476 『竹の皮』

 2年生がお土産として持ち帰った「竹の皮」は活用されたのか?ゴミ箱行きだったのか?気になりますが、これを機に竹の皮の歴史や価値について「自由研究しよう」と云う子が一人でもいると面白いのですが・・・

 

 私が子ども頃は、竹の皮や柿の葉には抗菌作用があり防腐能力が高いことから食べ物を包む天然ラップとして使われていました。

竹の皮や葉に包まれた「チマキ」や「笹団子」「柿の葉寿司」など現在では希少価値でもあります。実際おにぎりなどをラップやトレーで包むと発生する水分が密閉され、うま味が無くなりますが、竹の皮では適度な通気性で長時間おいしさが保持されるそうです。そう言えば、程よく湿ったグリーンの竹の葉をさっと出し、端にガリをポンと置いてくれる鮨屋は、なぜか共通して旨いように思うのですが・・・・

 

 竹の皮は、食べ物の天然ラップ以外で思いつくのが「馬連(バレン)」です。

 バレンは、版木に塗った絵の具を紙に転写する際使う道具ですが、紙との接点になるのが竹の皮で、滑りが良く版画には無くてはならない擦り道具として、現在でも代用品は無いように思います。

 もともとは、外側だけでなく写真の丸い黒色部分の芯にも竹の皮が使われていましたが、現在の芯はプラスチック性のモノが多いようです。

 これだけ化学製品が発達するとバレンの外側も竹の皮に代わる滑りの良いモノもあるのでしょうが、手の感触や微妙な力の入れ具合など竹の皮に勝るモノはないから使われているのでしょう。

 

 竹の皮は強い繊維質ですから、これを裂いて草履や雨具にも使ってきたのが日本人の職人文化でもありました。

 杉浦醫院の竹林では毎年竹の子の成長と共に脱皮するように竹の皮が剥げ落ちますから、来年は収穫時期や保存方法など学習して「杉浦醫院天然竹の皮」として秋のフリーマーケットで売り出せるよう図ってみようかと思います。最近あまり聞かなくなった「捨てればゴミ、活かせば資源」は、竹の皮の為にあった標語のようにも思います。

 
 

2016年6月2日木曜日

杉浦醫院四方山話―475 『探検バッグ』



 5月には地元の西条小学校の2年生と4年生が団体で見学にみえました。2年生は「地域探検学習」ということで、当館を含む学区域の施設や公園等を歩いて廻りました。

 

 2年生も4年生も全員が揃いの「探検バッグ」という学用品を肩にかけて来ましたが、昔は無かった学用品ですからどんな構造になっているのか見せてもらいました。


  

 ご覧の様にどちらが表か裏か分かりませんが両面機能になっています。片面(写真下)は下敷きになるボードにA4版の紙がはさめますから「画板」を小型化したものですが、縦横に目盛もあり、ものさしや定規は持ち歩かなくても良いようです。下段にはご丁寧に鉛筆入れもあり大変機能的ではあります。

もう片面(写真上)は、バッグになっていて消しゴムやハンカチなどちょっとしたモノが入れられます。

 

 2年生は、当館に来る前にお隣の正覚寺を見学しますが、子どもの声がするので正覚寺の様子をうかがうと本堂から帰る折に住職と住職夫人から子どもたちはうれしそうに飴を一つずつお土産にもらっているのが見えました。

 

 「何でもお土産はうれしいもんだよな~」と思いましたが、飴や菓子など予算も付きませんから「そうだ、竹の皮なら捨てるほどある。欲しい子はあれを一人一枚採って持ち帰っていいことにしよう」と思い立ちました。


  庭園の池の奥は竹林ですが、今年は豊作だったタケノコがすくすく伸びて丁度きれいな緑の幹に皮がしがみついている状態でしたから、今年はこれも案内して竹林の中まで探検させようと考えていましたので、皮をむしり取ってお土産にすれば一石二鳥かな?と・・・


 中には「私はいらない」という女の子もいるだろうと予想しましたが、子どもたちは我先にと竹林に走り、「僕のが一番大きい」とか「私はカワイイ皮のほうが好き」と、それぞれ一枚の皮をゲットして得意気でした。

 

 そのうち、男の子は皮を丸めてチャンバラを始めましたから「昔の俺と同じだな~」と楽しんでいるとピッピーと笛が鳴り「竹の皮は探検バッグにしまいなさい」と先生の教育的指導が入りました。

 

 「ホホォー、探検バッグはチャンバラ中止にも使えるんだな~」と感心しましたが、「あの皮の感触を確かめたり、丸めて刀や望遠鏡にしたりも探検としては正解なのにな~」と探検バッグを恨めしくも思いました。  

2016年4月28日木曜日

杉浦醫院四方山話―474 『日本住血吸虫発見の記念碑―地方関連碑2-』

 日本住血吸虫症の解明は、1897年(明治30年)の杉山なか女の解剖で新たな寄生虫の卵が発見されたことから、この虫卵を産む虫体の発見へと進みました。

 

 7年後の1904年(明治37年)4月9日に、岡山大学医学部の前身である岡山医学専門学校の桂田富士郎教授は、流行地甲府盆地の開業医・三神三朗医師の協力を得て感染したネコを解剖し、臓器を岡山に持ち帰り、5月26日にその門脈内から新しい寄生虫を発見しました。

 また肝組織内に患者の糞便に見られたものと同一の虫卵も発見し、さらに7月に再び三神氏宅でネコを解剖し、門脈から多数の雌雄異体の吸虫を検出しました。この虫体は、世界で初めて日本で発見したことから、桂田氏と三神氏は「日本住血吸虫」(Schistosoma japonicum )と命名し、世界の学会で認められました。

 

  世界には多数の寄生虫が存在しますが、住血吸虫は、「日本住血吸虫」と「マンソン住血吸虫」、「ビルハルツ住血吸虫症」の3種類が主なものです。

「マンソン住血吸虫」と「ビルハルツ住血吸虫症」の名前は、それぞれ発見者のイギリス人マンソン氏とドイツ人ビルハルツ氏の名がそのまま虫体の名前になっていますが、桂田氏と三神氏は、敢えて、自分の名を残すことを避けたそうですから、二人はその辺の価値観や感覚、センスも共通していたことから意気投合して、共同研究を進めたのでしょう。


 そんな二人ですから、この偉業を顕彰していくにふさわしい記念碑等の存在も不明ですが、現甲府市大里町にある「三神医院」に隣接する旧三神医院敷地内には、三神三朗氏の息子・寿氏が三朗氏の死後、1955年(昭和30年)に建てた「日本住血吸虫発見の記念碑」が、控えめに建っています。



明治三十七年七月三十日 此の地に於て始めて日本住血吸虫が発見された。三神三朗


 ご覧の様に小さな碑文を庭石に埋め込んだ質素な記念碑ですが、碑文の必要最小限の簡潔さが、桂田氏と三神氏の人徳を象徴しているようです。

この記念碑と三神三朗氏については、当ブログの253 『三神三朗氏ー1』から257 『三神三朗氏ー5』もご参照ください。 

2016年4月25日月曜日

杉浦醫院四方山話―473 『杉山なか女の碑ー地方関連碑1-』

 これまでも遠路来館いただいた方から「山梨県内で他にもこの病気の施設はありますか?」と尋ねられたこともありましたが、「ダーク・ツーリズム」の具体化を構想していくと山梨県内の地方病関連碑についての紹介は欠かせません。

 

 先ずは、虫卵発見につながった「杉山仲女之碑」をご紹介します。

この碑は「紀徳碑」と銘打たれていますが、甲府市向町の盛岩寺境内にあります。

建設者は、なか女の主治医であった吉岡順作氏が所属していた東八代郡医会で、明治43年6月建立ですから明治30年に亡くなったなか女の死後15年後になります。

  
 

縦書きの碑文は、全て漢字 で以下の文が彫られています。

 

紀徳碑

紀徳碑何為而建也念賢婦杉山氏之徳而建也杉山氏名仲甲斐国西山梨

郡清田村人為人貞淑而動敏其夫日武七業農民助之乗相従事畝間程好

不怠治家訓子女亦可観甲州有奇疾称地方病病原不良医亦来手

患之者多姥死民亦罷之嗣子源士口看護療養九三葛袋詳及疾篤其族嘱

之日五口不幸臥尊命在旦夕闇斯病不流行地州而独禍我郷国然未能明其

病原是可憾也吾死之後母以供仏語経為特解剖屍体以資病理研究之用

此事而遂功吾願足交言畢遂不起実明治三十年六月某日也享年四十有

凡東八代郡同盟医会従其遺言於成田岩寺銭域設壇操万制其屍啓斯病研

究之端爾来刀圭家研鎖十五年而始有日本住血吸虫病之創見馬顧在当

時弱者戟張之男児猶且厭忌解体而陛之況於茜裾荊叙繊弱之人其畏怖

果如何也而氏則毅然委其遺体為斯病解屍之鳴矢欲隣斯民於仁寿之域

不賢而能至平此哉頃者吾医会育謀伝遺徳干不朽立碑紀其事系以銘

銘自助夫治家死後体状慈恵愈磐

徳仏不忘

従四位勲三等熊谷喜一郎家額

明治四十五年壬子六月上滑東八代郡同盟医会建之

 

  杉山なか女は、死後の自らの体を解剖して、この奇病の原因究明に役立ててほしいと、献身的に治療にあった吉岡順作氏に申し出たそうです。生前、患者が自ら解剖を申し出ることは皆無だった時代でしたから吉岡医師も涙したそうですが、家族と共に彼女の願いを聞き取り文章にし、1897年(明治30年)5月30日付けで県病院宛に『死体解剖御願(おんねがい)』を親族の署名とともに提出しました。

 

『死体解剖御願(おんねがい)』

「私はこの新しい御世に生まれ合わせながら、不幸にもこの難病にかかり、多数の医師の仁術を給わったが、病勢いよいよ加わり、ついに起き上がることもできないようになり、露命また旦夕に迫る。
私は齢50を過ぎて遺憾はないが、まだこの世に報いる志を果たしていない。願うところはこの身を解剖し、その病因を探求して、他日の資料に供せられることを得られるのなら、私は死して瞑目できましょう。」

—死体解剖御願、杉山なか。
明治30年(1897年)5月30日

 

 このは解剖願いを提出した6日後の6月5日になか女は亡くなり、遺言通り翌6月6日午後2時より、県病院長下平用彩医師執刀の下、杉山家の菩提寺である盛岩寺で吉岡医師ら4名の助手を従え解剖が行われました。

 

 杉山なか女の死体解剖は、現代の「献体」にあたるものでしょうが、山梨県では初の病理解剖だったそうですから、ここでも「男より女の方が・・・・」の感を強くします。

2016年4月18日月曜日

杉浦醫院四方山話―472 『桜も散りましたが・・』

 杉浦醫院の庭園は、2月末の梅の花から3・4月にかけて咲いたモクレン・ユキヤナギ・ミツバツツジ・桜も散り新緑の季節を迎えようとしています。

 幼稚園や保育園では、温かくなると屋外で過ごす時間も長くなるのでしょう、先ずは近くのかおり幼稚園の年少組のみなさんが散歩に来て「春になりましたねー」と教えてくれました。

 3月には「ダーク・ツーリズム」でも触れた京王観光のバスツアーの皆さんが3回見えましたが、庭から正面に富士山が見えたのは最終組だけで、花冷えの日になったこともありました。

 ミツバツツジが咲き、桜も5分咲きになると地元・西条新田区のいきがいクラブ主催の「花見会」が開かれました。雨天の場合は公会堂になることから事前に模造紙にちぎり絵の桜も咲かせ、当日は紅白幕も張る気合の入った準備でした。

 いきがいクラブの皆さんには秋の落ち葉の季節に合わせて庭園清掃でもお世話になっていますから、夏に予定している「杉浦醫院・お茶と落語と花火の夕べ」に出演いただく山梨落語研究会代表・紫紺亭円夢師匠に無理を言って、スペシャルゲストとして出演いただき皆さんに漫談をお届けしました。

 

 また、4月3日には「すぎでん・桜まつり」が有志の実行委員会主催で開催されました。若い方は新たな言葉を創造し、オジンには説明を受けないと分からない造語があふれていますが、実行委員の方が作ったチラシには「すぎでん」なる言葉が登場していました。「風土伝承館・杉浦醫院」を「すぎでん」としたのでしょう。どこを組み合わせるかで何通りかの略語が作れるわけですが、確かに音としては「すぎでん」がベストでしょう。

 当館の交流施設「もみじ館」で何回か練習会もしてきた「ウクレレ・ピクニック」のメンバー始め、飛び入りでの楽器演奏や歌唱披露を愉しむ舞台をフリー・マーケットが囲む形での祭りでしたが、正覚寺の桜も満開で、時折舞う桜吹雪も文字通りステージに花を添え、集まった地域の方々にも楽しいひと時となりました。

2016年4月14日木曜日

杉浦醫院四方山話―471 『宮入慶之助記念館だより 第23号』

 特定非営利活動法人宮入慶之助記念館が定期発行している「宮入慶之助記念館だより」の23号が届きました。毎号、記念館や日本住血吸虫症、ミヤイリ貝に関係する記事で構成されていますが、今号には巨摩共立病院名誉院長の加茂悦爾先生の原稿が載っています。
  限られた字数の中でしょうが、先生の研究生活とこの病気との係わりや今は無き「山梨医学研究所」の歴史など書き残しておかないと消えてしまう内容ですので、全文を転載します。
 

 『日本住血吸虫宮入貝感染実験当時の思い出』  

巨摩共立病院名誉院長 加茂悦爾

 

 私は昭和31年に信州大学を卒業、昭和32年に山梨県立病院第一内科に勤務しました。

当時の肝硬変末期患者の治療法は、腹水除去のみでした。

巨摩共立病院は、甲府盆地西側の南アルプス市桃園に所在します。ここに私が来て間もない昭和42年に、山梨県で「地方病(日本住血吸虫症)の神様」と言われていた杉浦三郎博士との出会いがありました。同先生から「今までの仕事をまとめて学位を取りなさい」と勧められました。

 

 私は故郷で開業医になるつもりでいたので学位取得は念頭にありませんでしたが、卒業後十年にして母校の病理学教室の研究生になりました。

そして、毎週金曜日に大学に通い「日本住血吸虫性肝硬変は自己免疫疾患か?」という仮定のもと、数年間の動物実験に携わる事になりました。

それには、寄生虫学と順応生化学両教室の絶大なご支援を頂きました。

 

 巨摩共立病院は職員数約千名の公益法人山梨勤労者医療協会の一病院で、そこの旧伝染病棟を改築して本県における難病解明のために「山梨医学研究所」が昭和52年に開設されました。

その目的は、本県で高死亡率の肝硬変・肝がんは日本住血吸虫やブドウ酒に起因するのではないかを、更にリュウマチの病因も解明する事にありました。

 

 草野信男元東大病理学教授を所長とするこの研究所は病理・生化学・寄生虫の三部門から成り、二台の電子顕微鏡や冷暖房完備の動物飼育室などがありました。

私は研究所前庭の一角に宮入貝飼育池を設置し県予防課地方病科の米山係長の協力や研究所職員数名の協力により集めて来た貝をその池で飼っていました。

 

 私が急性日本住血吸虫症患者を診察したのは、昭和38年が最初にして最後でした。昭和40年ごろから本県における検便の虫卵検出率は激減し、本症の診断には皮内反応と直腸生研が不可欠となりました。

学位取得後も私の研究は続き、諸種の実験動物を飼育しました。宮入貝感染法、皮内反応試薬の作成、COP検査などには、国立予防衛生研究所や山梨県立衛生研究所の大きな協力をいただきました。

 

 残念ながらこの法人は、昭和58年に130億円の債務超過をもって倒産し、研究所は閉鎖され、私の研究生活は終わりました。

診療生活に移って14年後の平成7年に、債務は7千人の債権者に全額返済され、その翌年に私は退職しました。

 

 私自身にとって実体顕微鏡下に観察し得た宮入貝感染状況は驚きであり、これを8mm映画に撮って置きました。このフィルムは昨年2月に私が宮入慶之助記念館を訪問したことが機会となり、映像とともに説明を加えてデジタル化されたDVDとして生き返りました。

いくつかの大学で学生の教育や一般講演にも使われているようです。

多くの方々に喜ばれたことは、偶然の事とは言え、私の望外の喜びとなりました。

2016年4月6日水曜日

杉浦醫院四方山話―470 『ダーク・ツーリズム-2』

 山梨では昨今「ワイン・ツーリズム」が脚光を浴びていますが、これは以前からあった「ワイナリー巡り」とは違った新たな旅行スタイルで、ワインの原料となるぶどうを育んだ土地を散策しながら、ワイン産地の自然や景観からそこで生活する人々や文化にも眼を向け醸造家とも交流して、自分好みのワインを探していく旅と云ったところでしょう。


 味の講釈より腰を落ち着けてじっくり飲みたい私のような人間にはあまり向かない旅ですが、フットワーク良く歩いて見学したり飲んだりの旅は、確かに単なる酒好きの宴会旅行とは一線を画す新たなスタイルで「若かったら、そんな飲み方も・・」とは思いますが、私には「どうも」です。


 そんな根暗向きの旅という訳ではありませんが「ダーク・ツーリズム」も「ワイン・ツーリズム」同様新たな旅のスタイルとして、もっと拡散していくに値する旅で、ジワリジワリですが広がっている様に思います。

 

 「ダーク・ツーリズム」と云う言葉は、日本では聞きなれないかも知れませんが、欧米では歴史も市民権もある旅の一ジャンルです。

直訳すると「暗い旅」ですから、物見遊山やレジャー志向の旅ではありませんが、例えば「広島の原爆ドームと平和公園は見ておきたい」とか「3・11の実態を自分の眼で確かめたい」と云った思いから旅に出るのが「ダーク・ツーリズム」ですから、何らかの「学習」を内包した旅とも云えますが、正確には「人類の悲しみを承継し、亡くなった方をともに悼む旅」と定義されています。

 

 「ダーク・ツーリズム」の象徴ともなっている「アウシュビッツ強制収容所」は、第二次世界大戦中に、ヒトラーのナチ政権が国家をあげて推進した人種差別政策により、最大級の惨劇が生まれた所ですが、ここでは見せしめの「死」からガス室に送られる「死」、飢餓による「死」、病気による「死」、過酷な労働による「死」など、ありとあらゆる「死」であふれていた日常を目の当たりにする訳で、「人類の悲しみを承継し、亡くなった方をともに悼む旅」に世界中から多くの人々が集まるのは、矢張り人間の尊厳ともいうべき畏敬の念は、普遍的に共通して持ち合わせた感情であることを証明しているのでしょう。


 山梨の風土病であった日本住血吸虫症=地方病も流行終息宣言から20年経つと若い世代からは「地方病って痴呆症のことかと思った」と云う素直な声や感想も聞かれる程、ある意味風化の一途をたどっていますが、山梨の近代と現代を語る上には欠かせない風土病で、多くの方々の命を奪った事実は消えません。

 

 山梨の「ダーク・ツーリズム」コースを構想すると当館は外せない存在になりますが、病だけでなく戦争による死者もいますし、死に限らず現在は姿を消してしまった多くの歴史的遺産などもダーク・ツーリズムを構成しますから、さしずめ当館はその拠点施設ともなりますから、点を線にしていくようなハブ機能も考えていきたいと思います。

2016年4月5日火曜日

杉浦醫院四方山話―469 『ダーク・ツーリズム-1』

 京王観光が主催したバスツアーで3月だけで3回、東京から団体見学として来館いただきました。

 

 今回のツアーを企画して1月に下見に見えたI氏の名刺には「仕入部」とあり、常に新たなスポットを提示して集客を図る旅行会社は「仕入部」と云う部署を設け、担当者はアンテナを高くして「これは!」と思う新スポットを開拓していることを知りました。



 I氏は「3月末に3回予定して、京王線沿線の方を対象に参加者を募ります。ただ最少催行人数に達しなかったらキャンセルになりますが・・・」と話しながらも当館に確かな手応えを掴んだようにも感じました。

まあ、一般的には最少催行人数を少なく設定すると催行中止の確率は低くなる分、参加費は高くなり、逆に多く設定すると参加費は安くなるが、催行中止の可能性が高くなるのでしょうから、この辺の人数設定も旅行会社では過去の経験やデータからはじき出すのでしょう。


 2月に入ると「3回とも参加人数に達しましたから予定通り伺います」と連絡があり、当館の見学は午前中1時間の予定であることが分かりましたから、京王観光に当館製作のDVDを貸し出し、バスの車内で事前に観賞して来館いただくよう図りました。


 到着したバスガイドさんが「笹子トンネルを出てDVDを上映しましたら、昭和インターで丁度終わりピッタリでした」と報告くださいましたが、日本住血吸虫症=地方病についてご存知ない方々が、車中でのDVD観賞で「寄生虫病」であることなどの予備知識を得て見学いただくことで、より興味を持って効率的な見学会になりました。




 

 案内しながら参加者から「DVDを観て私は泣いてしまいました。今日は休暇を取って参加して本当に良かった」と云った感想をいただくなど時間も延長しての見学会は参加者の熱意で有意義なものになりました。


 このツアーは、当館と韮崎の大村美術館をセットにした企画のようですが、当初は話題性から「大村美術館目当ての参加者かな?」とも思いましたが、どっこい当館に興味があってと云う方々から直接声掛けをいただき、「日本人の旅行も時代はダーク・ツーリズムの流れかな?」と実感できたツアーでした。



2016年3月17日木曜日

杉浦醫院四方山話―468 『電脳?上野千鶴子講演会』

 パソコンとブログサイトの相性が悪く(?)、しばらく更新が中断していましたが、この度サーバー管理会社専門家のスキルで問題が一掃されましたので、再開してまいります。

  

 アナログ人間には詳細は分かりかねますが、当館ブログは、グーグル無料ブログのブロガーを使っていますが、パソコンのインターネットエクスプローラーの新旧で、写真が起ちあがらなくなったり、プレビューで確認できなくなったりと云った不具合が生じるとのことでした。

 

 個人的なパソコンなら相性のいいと云うグーグルクロームを使えばスムーズなようですが、公のパソコンでは、勝手にグーグルクロームを導入できない規制があることなどこの間のトラブルで、IT学習もできたようにも思いますが、本質的なことはサッパリです。

 今回のような症状は、自分のスキルや扱いに原因があるのかと当初は思いましたが、同僚や決済公開をする課長のパソコンも同じ症状であることが分かるとツール自体の不具合で、自分たちではどうすることもできない所に歯がゆさを感じ「電脳もたいしたことないな」などと思ったりしていました。

 

 電脳で思い出すのは、上野千鶴子氏の講演です。「悔しいくらい頭がいい」と素直に思うのは、話の歯切れ良さに加え構成・展開の見事さと内容の深さとキレで、時折さりげなく入るジョークも一級で、噺家や脚本家も顔負けの感もあります。

 

 その上野千鶴子氏の講演会が、今度の日曜日(20日)に昭和町で図書館まつりの一環として開催されます。最近では、全国からの高齢者問題や男女共同参画問題等々の講演で超多忙な講演活動の中、新刊も出ていますから、時間の使い方や生き方も「電脳では?」と思わずにはいられません。


 昭和町には、今度で4回目の来町で、今回は「読むよろこび、知るたのしみ」と曖昧なテーマでもありますから、逆にどんな内容でどうオチが着くのかまでミステリー講演会として、上野節も堪能できるものと思います。今からでも申し込み可能のようですから、お急ぎ下さい。

「上野千鶴子氏講演会」

平成28年3月20日(日)

午後2時~3時30分(開場1時30分)

会場:昭和町総合会館2F(役場正面)

申し込み先:055-275-7860(昭和町立図書館) 

2016年2月25日木曜日

杉浦醫院四方山話―467 『富士市文化連盟』

  昭和町には「昭和町文化協会」があり、ふるさとふれあい祭りに合わせて「昭和町文化祭」を開催していますが、静岡県富士市には「富士市文化連盟」が約4000人の会員を組織して、毎年「富士市総合文化祭」を開催しています。

(画像)

 

その富士市文化連盟が、今月29日(月)に会員対象に当館の見学研修会を計画くださいました。これは、既に当ブログでも紹介し、山梨放送や山日新聞でも報道されましたが、昨年10月に富士市の辻村音楽企画店の辻村社長と技術主任の臼間氏のお二人が丸一日かけて当館応接室にある昭和8年製造のヤマハピアノの修復調律をボランティアでしていただいた「縁」によるものです。


 辻村氏は、富士市と富士宮市の公共施設や学校のピアノの調律も多数手掛けているそうですから、富士市の音楽関係者や文化団体では知らない人はいない存在でしょうし、辻村夫人はピアニストであり合唱指導者としても著名な方ですから、当館のピアノ修復ボランティアのニュースも富士市文化連盟にも伝わり、今回の研修会場として当館が選定されたようです。


 流石は文化連盟の企画だと感心したのは、予定コースが物見遊山ではなく、当館と県立博物館の二か所で、午前、午後しっかり時間を確保しての計画であることと、当館見学後に辻村氏の手による調律済みのピアノを使って、参加会員によるミニコンサートを開催しようという意欲的な企画です。文化連盟会員の中にはピアノに長けた人やコーラスで鍛えた歌唱力の方、楽器に堪能な方等々多彩でしょうから、当館のピアノを囲んでのミニコンサートも文化連盟ならではの有意義な一時になることでしょう。

 

 当ブログでは、辻村氏のピアノ再生作業を450話からの「ピアノ再生物語」と題して連載しましたが、最終454話の末尾に以下のお願いを書き添えました。

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5回に渡り、今回の当館ピアノ再生作業について、ご紹介してきましたが、ピアノ素人の視点からの記述で、内容的に辻村氏の本意あるいは説明と違う、不正確な部分もあるかと思います。お気づきの点がありましたら、電話にてご教示いただけたら幸いです。055-275-1400

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  富士市観光連盟の皆様の来館が決まった旨を辻村氏からも連絡いただき、その最後で「ピアノ再生物語に一つだけ訂正箇所があります」と遠慮がちにご教示いただきました。

訂正が必要な詳細は次話で報告させていただきますが、今回の「ご縁」をいただいた辻村氏には重ね重ね感謝申し上げます。

2016年2月1日月曜日

杉浦醫院四方山話―466 『終息20周年の今年・・・』

 平成8年2月に山梨の地方病も「流行終息」が出され、県内の有病地25市町村で組織した「山梨県地方病撲滅協力会」も終息碑を建立して解散しました。今年は節目の20年になりますので、山梨県でも博物館が特別展など開催するでしょうが、当館でも講座を開設したいと企画中です。


 杉浦三郎博士が昭和52年に82歳で亡くなった後も地方病の患者さんはいましたから、県内の多くの医師が引き続き治療と研究に携わりました。

元県立病院の横山宏先生、共立病院の加茂悦爾先生、元市立病院の林正高先生は、その代表格でしょう。

 この三人の先生方は、揃って現役の医師としてご活躍中ですが、間もなく90歳を迎える横山先生を筆頭に80代で一番お若い林先生も昨年大病を患ったそうで、この機会にそれぞれの先生方の「地方病」について、是非ご講義いただき記録としても残しておかなければと思います。


 また、地方病終息に向けての取り組みも官民一帯のまさに協働の活動でしたから、特筆すべき内容と歴史性を内包しています。県衛生公害研究所はじめ各保健所での取り組みや昭和町の行政と住民の具体的な活動など当事者だった方々の話もこの先だんだん聞けなくなっていくでしょう。

 

 更に、科学映像館の久米川先生のご協力で、当館には国内にある日本住血吸虫症関連の映像は、ほぼ全作揃っていますので、受講者には長短含めて全ての作品を鑑賞していただけるよう組み入れていきたいと思います。

当館二階の「座学スペース」:53インチのTV画面でデジタル化した映像が楽しめます。
トップページ左の「映像資料の公開」のバナーをクリックすると観賞可能な映像の詳細が分かります。

 県生涯学習センターでも山梨学講座の一環として「やまなし回顧録」を開催し、2月19日の流行終息宣言日に合わせるように2月17日(水)に「山梨県の地方病終息史」を開講します。

当館にその依頼がありましたので、約1時間30分で「100年戦争」と云われた地方病終息までの115年の歴史をギュギュッとまとめてみたいと思います。 会場等の詳細は下記にてどうぞ。ttp://www.manabi.pref.yamanashi.jp/center/index.jsp?mode=topic&id=138&flag=0

2016年1月25日月曜日

杉浦醫院四方山話―465 『ピンセット展』

 オランダ語のPincetが「ピンセット」として日本語のように定着し、人の手や指では難しい緻密な作業を行う道具として、日常生活から高度な医学を支える手術機器にまで広く使われていますが、日本語で「鑷子(せつし)」と云う固有名詞があるのにすっかり「ピンセット」の方が通用する感じです。

 

 甲府で代々医療機器販売をしてきた「マルヤマ器械店」の故丸山太一氏から当館にご寄贈いただいた医療器具の中に多種多様なピンセットがありますので、丸山太一氏の一周忌に合わせ一堂に展示しました。

マルヤマ器械店から寄贈いただいたピンセット(手前)とガラス機器

 ピンセットは、人間の手で直接触ると感染しかねないモノや臓器を扱うために考案されたものでしょうが、細かな作業や小さな宝石などを扱う宝飾産業の発展とともに進化した歴史があることを宝飾作家・塩島敏彦氏から聞いた覚えがあります。

 オタクの原点だと思いますが、昔流行った「切手蒐集」では、小汚い店のガラスケースから白い手袋をしたオヤジがピンセット片手に商品である切手を丁重に取り出し売っていましたが、これが私のピンセット初体験で、切手帖への出し入れにピンセットを使うことでイッパシの切手蒐集家気取りになれたことを思い出します。


 現代では、プラスチック製のものもあるようですが、材質は全てステンレスで、15種類あります。先日行われた丸山太一氏の一周忌の折にこのピンセットの話をしましたら、同居していた長女のMさんが「そうそう、父はピンセットにはコダワリがあって、とにかく新しいピンセットが出れば仕入れていましたから・・・」と医療機器の中でもピンセットにより情熱を注いだ太一氏だったようです。

  一口にピンセットと云っても今回展示したのは15種類ですが、200種類近くあるそうで、日本のピンセットの6割は、荒川区の町工場「幸和ピンセット工業」が製造しているそうです。

 手術用のピンセットは医療の高度化に伴いどんどん先端の細さが求められ、0,05ミリと云う細い加工は、機械では無理で、職人が拡大鏡を使ってカンと技術を駆使して仕上げるそうです。

 

 百聞は一見にしかずですから、この機会に用途に応じて多種多様なピンセットの世界を是非ご覧ください。

2016年1月13日水曜日

杉浦醫院四方山話―464 林正高著『日本住血吸虫症』

 当ブログで何度か紹介させていただいてきました林正高先生から、最新刊の著書「日本住血吸虫症」をご寄贈いただきました。

奥付には、「2015年12月25日 初版発行」とありますから、発行されて間もない本ですが、東京医科歯科大学の太田伸生教授の「推薦の言葉」に続き、林先生が「自序」を記しています。その最後に「付記」があり、次の文章が目に留まりました。


「本冊子が早期に出版されましたのは岐阜大学名誉教授高橋優三先生のおかげです。著者が本原稿を脱稿した8月中旬に突然、心肺停止状態となり、その原因が心筋梗塞と大動脈弁狭窄でした。9月末に弁置換術と冠動脈のバイパス術を受け約52日間は安静状態で過ごしました。その間、本冊子は高橋先生お一人により編集作業が進められました。ここに高橋先生に深甚の謝辞を申し上げます。」 (平成27年10月 甲府にて 林正高)


 

 林先生から当館宛に、「無事生還しました」と書き添えられた年賀状もいただき、賀状の印刷文面と「付記」で、昨年8月以降の先生の闘病生活の詳細を知ることが出来ました。

 
 

 往年の日活の男優を彷彿させるダンディーな林先生は、足取り軽く姿勢もよく話も端的で、私には「かくありたい」と憧れの存在でしたからびっくりしましたが、ご自分でも「医者の不養生と言うのでしょうか」と読み手に気を使わせない洒脱な病状報告に先生のお人柄が滲んでいました。

 
 

 そんな訳で、先生の前著「寄生虫との百年戦争」が、毎日新聞社の発行であることにも因るのか「読み物」として、先生の文才やセンスを窺えたのに対し本書は、医者・医学者林正高先生のライフワークの集大成として、後継者への医学資料としての色彩が濃い内容であることが読み取れます。

 そうは云っても例えば、明治37年、岡山医専の桂田富士朗教授が三神三朗医師宅で猫の門脈内に棲息していた世界初の新種の吸虫を発見した記述には「その種を桂田吸虫とせず、日本住血吸虫と命名し、本症を日虫症と命名した。」のように林先生の価値観?も感じ取れる文章も垣間見られます。

 

 昨年から林先生には貴重な文献や著作等々をご寄贈いただき、2階座学スペースのテーブル上が、先生からの資料でグッとアカデミックになりました。大病を患われた先生ですが、「超高齢にもかかわらず副症状の合併もなく過ぎました」と術後の経過は良いようですから、この場を借りての御礼とお見舞いで恐縮ですが、今年もご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。

2016年1月6日水曜日

杉浦醫院四方山話―463 『山日新春文芸雑感』

 
あけましておめでとうございます。
開館以来、毎年橋戸さん手づくり干支作品で受付を飾っていただいています。

 地方新聞である山梨日日新聞の元旦号には、今年も「2016年山日新春文芸」の各部門の応募数や入賞者の紹介と入賞作品、受賞者の声が掲載されました。

甲州人の定番化した正月休みの一つに、この入選作品を読む事も入ると思う程、継続されている企画だと思いますが、「第153回芥川賞・直木賞」のように「第何回」で表示されると「山日新春文芸」の歴史もカウントでき、重みも増すように思うのですが、この企画は今年で何回目になるのでしょう・・


   まあ、「A rolling stone gathers no moss.ー転がる石には苔がつかないー 」の諺も日本人や英国人には、「仕事や 住居を転々と変える人は金も貯まらず、友人も出来ない」と、否定的に使われていますが、アメリカでは「常に活動的な人は新鮮で 、魅力的だ」と肯定的に使われていますから、多分相当長い歴史のある「山日新春文芸」も「苔むす」成熟期に入っているのでしょう。


 個人的には「A rolling stone gathers no moss」を「苔の着かないよう転がり続ける石でありたい」と思い込んできましたが、両用の解釈のあることを知ってからは、千代田葛彦の名句「巌奔り(いわばしり)水は老いざる去年今年」の方がピント来るようになりました。


 遠足で行った昇仙峡の流れを彷彿させたこの句。

透き通るような澄んだ流れがあちこちの岩にぶつかりながら、止まることなく勢いよく流れて行く・・・水も生きているなぁ~ ほとばしっているなぁ~ と、子ども心にも巌奔る水の魅力は、「若さ」の象徴だったように思います。

 また、巌奔る水は、岩も削り小石も呑み込んだりですから、矢張り「A rolling stone gathers no moss」は、ヤンキー君の解釈が正しいように思います。



 今年の「山日新春文芸」小説入選作は、閉校になって久しい吉田商業卒業生・鈴木君の「ローリングストーン」物語と同級会に集まった61歳の憧憬としての「巌奔る水」が織りなす小世界でした。

 

 今年は山梨県の地方病流行終息から20周年になります。国の登録有形文化財にも指定されている当館を単に苔むす歴史的建造物として保存していくだけでなく、巌奔る水のような企画も求められていることを肝に銘じて、当館の魅力を発信していきたいと思いますので、本年もどうぞよろしくお願いいたします。