2015年2月26日木曜日

 杉浦醫院四方山話―401  『山本酉二氏の自決-1』

 「重なる時は重なる」と云う慣用句もありますが、397話の「追悼・丸山太一氏」から死や命をテーマにした話が続いてきましたが、西条一区の町指定文化財「山本忠告の墓」の山本家から新たな資料が見つかりましたので、紹介いたします。



 忠告から神官職にあった山本家の山本酉二氏は、甲府中学から当時の陸軍学校の一つである陸軍航空通信学校に進みました。通信学校を『抜群の成績』で出た山本酉二氏は、朝鮮で『小隊長として、兵隊の信望を一身に集め連日猛烈なる任務に奮闘して』敗戦を迎えました。


 

 新資料は、山本酉二氏の最期をみとった上官の小池中隊長が、酉二氏のご両親に宛てた酉二氏の自決の状況をびっしり8枚に記した手紙です。




 平譲郊外の捕虜収容所に3日後に入る様、命が出たその夜、

『二人で飲み共に語りました。その折、酉二君はもう既に私の任務は終わった。もう私はこれ以上永く生きて捕虜の辱しめを受けたくはないから自決すると云う主旨の事を私に語りましたので、私も同感であるが、然し当時連隊長からも我等のこの事あるを予期してか、若い将校は決して自決する様な事があってはならぬ。敗戦が確定したからは大局に従い一日でも長く生きて敗戦日本の為に奮闘せねばなら大事な体だ。等の注意もありましたから、酉二君の決心を変えて呉れるよう努力致しました。(中略)暫くして「では山本は自決はしません」と云う約束で夜も更けたので別れました。(後略)』


翌朝、

『兵隊が慌てて報告に来たので早速駈足で参りました所、酉二君は紋繍山頂東天を仰ぎ正座し、愛刀を以って割腹苦しんでいました。「山本!どうしてこんなことをして呉れたんだ。なぜ生きてくれなんだ。昨夜あれだけ言ったではないか!山本、しっかりしろーしっかりしろ-」私は酉二君に叫びました。「小池中尉殿申し訳ありません。山本はこうして大義に生きます。許してください。拳銃を貸してください。お願いです」苦しみの中から静かにこれだけ申されました』



 等々、敗戦を迎えた日本軍人が「大義に生きる」ことを選択して、割腹自決をした状況を当時の上官が帰国後、『こうして生き永らえていることを詫び』つつ、部下の最期を両親に報告することで『お許しください』と、敗戦から2年半後の昭和23年1月に記しています。



 このような筆舌に尽くしがたい史実は、枚挙にいとまがなかったのが戦争の実態だったことが手に取るように伝わる文面で、戦後70年、忘れ去ってはならない昭和町出身の軍人の壮絶な体験を地元の当館で伝承していく必要を痛感し、山本家(現三井家)に残る山本酉二氏自決史料を暫く拝借いたしました。

2015年2月18日水曜日

杉浦醫院四方山話―400  『節目の400話に「テロリストの悲しき心」』

 若尾久氏の講演に続き、大塚先生のピアカウンセリングを紹介しましたが、お二人に共通する意識と姿勢は、弱い立場の人の「死」を看過できず、どうしたら「命」を守ることが出来るかと自らに問うた結果のように思います。若尾氏は子どもの、大塚氏は心を病んだ人の「命」をどうやって守っていくかをそれぞれの手法で実践しているのでしょう。

 

 この「命」の問題は、軽々と話題には出来ない多面性を内包していますが、その問題に正面から向き合い本気になることを「ダサイ」「クライ」と退ける風潮があることを戒めた色川大吉氏のエッセイは大変インパクトがあり、私にはテロ事件の報に接する度に思い起こされますから、あらためて全文を読み直してみました。


 10年以上前の2004年に、このままだと「日本も国際テロの標的に必ずなる」と、鋭く指摘した歴史家の考察は、昨日書いたかのように全く色褪せていないことに驚くと共に「命」についても特攻隊を指揮した体験を踏まえ「テロリスト」の悲しみにも眼差しが及ぶ深い洞察ですから、当ブログ400話の節目に全文を転載させていただき、「いのち」を重層的にとらえる一助にしたいと思います。



 尚、色川先生は、大学退官後は山梨の八ヶ岳南麓に暮らし、執筆と講演活動を行っていますから、本町でも2003年(平成15年)に「タイムリー講座」の講師として、「現代史を読む連続講座・全7回」を担当いただきました。

 また、色川先生は、大正14年7月生まれですから、大正15年3月生まれの純子さんとは同級生になります。

混乱の戦前、戦中、戦後の生き証人として、お二人の対談も是非実現したいと思っています。


色川大吉 : 「テロリストの悲しき心」  

 未来を生きる君へ (2004年6月13日朝日新聞統合版より)

 

石川啄木の詩にこうある。

 

「われ知るテロリストの悲しき心を」。

 

天皇暗殺をくわだてたとして処刑された12人への同情だが、テロの犠牲になった人びとの悲哀と絶望も限りなく深い。

 

腹に爆弾を巻きつけてエルサレムで自爆したパレスチナの女子高生の心も悲しい。

 

私は日米戦敗戦の年、特攻隊員を送りだす基地の島にいた。

 

命令を受け30人の部下から12人を選んだ。

 

一度出たら帰れない自爆攻撃だ。

 

みな17~18歳だった。

 

私も大学在中の20歳。

 

愛していた者ばかりだった。

 

悲しみと悔恨は今も消えない。

 

 

米軍はこの者たちを、神なる天皇のために自殺志願した狂った日本人と恐怖し、嘲(あざけ)った。

 

また特攻隊と、9・11のアルカイダによる自爆突入機を同一視した。

 

二つとも全くの誤解だ。

 

私たちは天皇のために死のうとしたのではない。

 

滅亡に瀕(ひん)した故郷と国民のためだった。

 

特攻はテロではない。

 

国と国の戦争行為で、相手は米軍に限られていた。

 

だが、そこまで追いつめられて若者が死ぬことはともに悲しい。

 

自爆攻撃の犠牲になって、その数倍の人たちが死ぬことはもっと痛ましい。

 

 

そんな事態を招いたのは、ヒラの兵士や庶民ではなく、上にいる者たちが作りだした憎しみの関係だ。

 

その不条理を解決する行為が政治ならば、その政治にダサイ、汚いからと注文もつけず、顔をそむけて、危険な方向に傾いてゆくこの国と世界を傍観していて良いだろうか。

 

 

21世紀はテロとの戦争の世紀だという。

 

米英日ロのような大国の政治家が口をそろえていう。

 

アフリカやアジアや南米の大多数の貧しい民衆から見たらどうだろう。

 

テロの温床を自分でこしらえておきながら、じぶんの影に怯(おび)える尊大なやつら、自業自得と映るだろう。

 

第2次世界大戦から半世紀余、日本は一人も殺さず殺されず、第九条を盾に平和な暮らしを維持してきた。

 

それがこの2、3年、急に変わりつつある。

 

黙っていたら、戦争をする国、国際テロの標的なる国に必ずなる。

 

戦前、戦中、戦後を生きてきた歴史家として私はそう思う。

 

 

この国にも自爆死の悲劇がおこる危険が迫っている。

 

止められるのは君たちだけだ。

 

「君、知るやテロリストの悲しき心を」

2015年2月17日火曜日

杉浦醫院四方山話―399  『大塚ゼミ・ピアカウンセリング』

 過日、山梨県立大学の大塚ゼミのみなさんが来館されました。

 女子学生から「2月10日の9時30分から11時30分で、地方病についての話しを聞きたい」旨の電話予約を受けました。大塚先生も女性ですから、「ここは、当時のままの医院を観ていただくのが売りですから、全館暖房等の設備はないので寒いですよ。せっかくなら、3月の後半ぐらいの方がいいと思いますよ」と対応すると「しっかり着込んでいきますからお願いします」と寒さなんか大丈夫と云う若者らしい返事ですから、お受けしました。

 
 
 

 当日、下調べもしてきた3人の学生は、的確な質問と臨機応変な対話で、約1時間地方病の学習をして、DVDを観賞後、館内見学をして帰りました。

 

                                              

     大塚先生とは、他の機会でご一緒して話したこともありましたが、ゼミ生3名とは初対面でしたから「どうかな」と思っていましたが、揃って「対話慣れ」していてスムーズな学習会になりました。                若い大塚先生と学生も和気あいあい楽しそうなフレンドリーな会話が「時代なのかなー」と思いましたが、これには訳がありました。                                            

  当日は、その辺のことをすっかり忘れていましたが、大塚先生は、県立大学赴任前は北海道や東京などでピアカウンセリングの専門家として、多くの実績を残されていましたから、大学でも「山梨県立大学山ちゃんサロン」と云う市民に開かれた学習機会を学生と共に毎月開催しています。

 

 この「山ちゃんサロン」は、ピアカウンセリングの理念を基盤とした住民と教員と学生によって運営される自主的なサロンですから、参加者は対等平等で自由な交流が出来る学校や教室とは全く違った雰囲気の中で楽しく話し合える談話室と云った場です。

 

 3人のゼミ生の「対話慣れ」は、このような活動に参加することで、学生の視野が広がるだけでなく、個人的には嫌な言葉ですが、「コミニュケーション能力の向上」に間違いなく繋がっていると感じました。

 

 和歌山県で小学生が近所の青年に殺害されたニュース報道も核心に迫る中、安心して暮らせる街づくりには、「山ちゃんサロン」のような地域の人と人との繋がりを結ぶ場を住民同士の協働で、もっともっと多くの地域で創っていく必要性と重要性を考えさせられます。 

 

 それは、成熟したと言われる現代社会では「うつ病」「自殺」「虐待」「いじめ」など心の健康を抜きに安全・安心の社会は成り立たないわけで、監視カメラや見守り活動だけでは、孤立した或いは孤立させられた人間の苦しみや不安は増大しても癒えることはないのでしょう。

大塚ゼミが取り組む人と人のつながりの場を創設していくピアカウンセリングを基盤とする活動をもっともっと周知して、拡大していく必要性を学んだ2時間でした。


2015年2月16日月曜日

杉浦醫院四方山話―398  『いのちの町・昭和』

 
 

 過日、町内のアピオに於いて、「命の授業と企業の社会貢献」と題した若尾久氏の講演会が開催されました。これは、昭和町商工会主催による「新春経済講演会」でもあり、町内商工会の方々も多数参加されていました。

 

 

 若尾久氏については、当358話359話でご紹介しましたように、子どもたちにいじめ問題を考えさせる意味でも全国の学校から若尾氏の「命の授業」要請が続いていることを朝日新聞が「花まる先生」として取り上げました。

それを機に、押原小学校をはじめ町内や県内の学校での「命の授業」も増えている中で、地元昭和町商工会が若尾氏を招へいして、この授業に取り組むまでの経緯から授業に臨む姿勢や覚悟、更に授業の概要と授業を通しての子どもたちの変化と若尾氏が子どもたちから学んだことまで、「命の授業」についての総論を伺える機会を設定したものでした。 

 
 

 イスラム国の「テロ」事件もあり、「命」は一層重い課題でもあり、聴きながら様々な「命」を逡巡しましたが、今回の講演は、限られた時間でも若尾久氏の「本気度」が、ひしひしと伝わる内容で、この本気な大人の魅力が、子どもたちの魂をゆさぶるのだとあらためて実感し、本気になることをテレたり小バカにする風潮もある現代への警鐘とも受け止めました。

 
 

 今年で定年を迎えると云う若尾氏は、最後に、これまでは会社の社会貢献活動として取り組んできた「命の授業」を退職後は、地元昭和町を拠点にNPO活動として継続していく考えであることを語り、「昭和町を命を大切にする町として全国に発信し、いのちの町・昭和に貢献していきたい」と結びました。

 

 

 多くの命を救うことを使命に研究と治療を重ねた杉浦健造・三郎父子の杉浦醫院に隣接する若尾家に育った久氏が「いのちの町・昭和」をライフワークにしていこうと云うのも縁でしょうが、名付け親の三郎先生が聞いたらさぞお喜びでしょうから、純子さに報告して「うれしい話」を分かち合いました。

2015年2月5日木曜日

杉浦醫院四方山話―397  『追悼 丸山太一氏』

  1月31日(土)に木喰上人の研究者・丸山太一氏が、98歳でご逝去され、通夜、告別式が家族葬で行われました。新聞等での死亡通知も故人の意志で控えた、丸山氏の送別にふさわしい密葬でもありました。



 純子さんは

「丸山さんとは祖父健造の時代から親戚以上のお付き合いでしたから、私たちが女学校に入る時の保証人も皆丸山さんにになっていただきました」

「丸山さんの所は皆さん頭がよくって、優秀でしたから父からは少しはあやかるようにとよく言われ、プレッシャーでしたよ」

「太一さんの妹のぎん子さんは、私が甲府高女に入った時、私を連れて先生方に紹介してくれたり、私を初めて映画館に連れて行ってくれました。その時観た≪オーケストラの少女≫は今も覚えています」

「父は、新しいモノ好きでしたから岡島にも良く行きましたが、帰りに三日町の丸山さんの所に寄るのが楽しみで、いつもお邪魔していたようです」等々、丸山家と杉浦家の交流をよく話してくれました。


 

 病院棟に残っている医療機器には、「マルヤマ器械店」のステッカーが貼ってあるように丸山家は代々、医療機器販売が家業だったことから、杉浦家との交流が始まったようです。



 太一氏は、甲府中学から山梨工専(現・山梨大学工学部)に進み、東芝に入ったエンジニアでしたが、家業を継ぐべく「私は、東芝を辞めさせられましたから、甲府に帰ってグレました」と、笑いながら話してくれました。

「銀座の仲間と写真クラブを作って、写真に凝った時もあり、木喰を始めてからは、家業は家内に任せっきりで、本当に苦労を掛けましたからグレっ放しの人生ですね」と、話も洒脱そのものでした。

「父は、杉浦醫院ホタル見会を毎年楽しみにしていました。その日は、若松町の芸者さんは全員杉浦さんの所に呼ばれたので空っぽだったそうですよ」

「母は、近くに醫院もたくさんあったのに杉浦先生の薬しか効かないと言って、健造先生に往診してもらいました。遠いですから人力車の車夫も二人で来ていただいたのを覚えています」

「私や妹たちの仲人も三郎先生にお願いしましたが、健一さんの結婚式に私も呼んでいただいたり、杉浦さんには親子二代に渡って大変お世話になったんです」等々、丸山家も杉浦家と親戚以上の付き合いだったことを懐かしそうに語ってくれたのを思い出します。



 身銭で生涯、在野の一研究者として、木喰行道像と微笑仏について、ここまで究めた丸山太一氏の功績は、きちんと継承していく必要は云うまでもありませんが、晩年の丸山氏から直接ご教示ただいたり、ご寄贈いただいた数々の今となっては遺品も一層の活用を図っていくことを当面は考えていきたいと思います。

男のグレ方まで、ご指南いただいた私は「本当に果報者だったんだ」と・・・深く深く合掌です。 

 

尚、丸山太一氏については、当ブログの「丸山太一氏」ラベルに数話ありますので、ご参照ください。