2015年4月24日金曜日

杉浦醫院四方山話―414 『横山宏先生からの寄贈品』

  元県立中央病院医院長で現在、恵信甲府病院名誉医院長の横山宏先生から電話をいただきました。全く面識のない横山先生からの電話を受けた私の感想は「大変な人格者だなあ」の一言に尽きました。



 電話で「私も88歳になり、3月で60年間講義した県立大学も辞めましたから、授業で使ったスライド写真をはじめ地方病関係の医学資料を整理しました。県立博物館に寄贈しようと連絡したところ引き取れないと云うので、先日の新聞で杉浦先生の所が資料館になったのを知りましたから、そちらで活かしてもらえたらと思って電話しました」との事で「必要ならお届けしますよ」とまでおっしゃっていただきました。



 過日、加茂・林・梶原の三先生方が来館くださった折にも「中央病院の横山先生は・・・」と、お話も伺っていましたので、「こちらから戴きにあがります」と、ご自宅を想定して答えると、現在も恵信甲府病院で週何日か診察しているとのことで、先生の出勤日に合わせ伺いました。



 通された「理事長室」には、既に段ボール箱から溢れんばかりのスライド写真が用意されていました。「これを写すプロジェクターももう無いでしょう。球も6000円程かかりましたが探して付け替えておきましたから一緒にどうぞ」と映写用のプロジェクターやマウントまで至れり尽くせりで恐縮してしまいました。


 また、先生が執筆された地方病関係の論文や機関誌などの資料も一括されていて、書かれた経緯やエピソードも説明いただきました。

 ご多忙の中、限られた時間でしたが、現在の県立大学や県立中央病院の歴史まで的確にご教示いただきました。

 

 三郎先生は、この地で開業医として患者の治療にあたるとともに1949年(昭和24年)には、山梨県立医学研究所地方病研究部長に就任しています。

この「山梨県立医学研究所」は、昭和20年の甲府空襲で全焼した「山梨県病院」をどう再建するかの過程で出来た研究所でしたが、昭和26年3月に今度は火事で全焼してしまったそうです。

2年後の昭和28年には、山梨医学研究所附属病院としてスタートし、後に「県病院」となり、更に「県立中央病院」へと名称が変更されて現在に至っているそうですから、三郎先生が就任した山梨県立医学研究所は、現在の県立中央病院の前身であることが分かりました。


 

 横山先生も「県病院からも県立博物館が出来る時、地方病関係の資料を移管しましたから、開館した時、先生方と観に行きましたが、あの展示にはがっかりしました。A先生はー山梨県の地方病を何だと思っているのかーと大変怒っていましたよ」と、加茂、林両先生と同じ思いを県博に抱いていることも知りました。

 

 資料の収集、収蔵、保管も博物館の大事な任務の一つでしょうが、開館して10年、一度も公開されずに眠ったままの現状は、資料提供者からすれば「何とかしたい」と思うのは当然でしょう。

 県立博物館が掲げた「ハブ博物館構想=県内各地の自然、文化遺産や文化施設等と結びつき、それらと相互に連携しながら地域の文化振興や活性化をもたらす、いわばネットワーク博物館」に鑑みても収蔵資料の移管も含め、県立博物館には、目に見えるハブ機能の発揮を期待したいものです。

2015年4月20日月曜日

杉浦醫院四方山話―413 『甲府CATV 新番組スタート』

 ローカルな話題を追って地域情報を発信している甲府CATVは、これまでも何度か当館を取材し放送してきましたが、5月から「街かどトピックス」と云う新番組を企画したそうです。

 

 これは、放送エリアを①甲府市②笛吹市③甲斐市、韮崎市、北杜市④中央市、南アルプス市、昭和町、市川三郷町、身延町と4分割し、そのエリア内の情報をエリアごとに放送するというもので、 4分割することにより、放送時間が大幅にアップし、より身近な番組にしようと云う主旨だそうです。この4エリア分けの根拠は人口なのか?④エリアだけ寄せ集めの感も否めませんが、より多くの地域の方に届くと思えば良いのでしょう。

 

 そんな 訳で、5月4日からスタートする「街かどトピックス」の取材が3月から始まり、担当者が行事やイベントに合わせ、その都度取材をして「トピックス」造りに余念がありません。


 

 前話で紹介した「おままごと茶会」も収録していましたが、過日、ウクレレ愛好家が当館庭園で、ウクレレの練習と相互発表の「ウクレレ・ピクニック」を開催しました。

 「桜も咲き、暖かくなるから屋外で気持ち良く」と計画しましたが、当日はあいにくの雨で急遽旧納屋を改装した「四方山ギャラリー」を会場に行われましたが、CATVの担当者は約束の時間に来て、収録していました。


 このように昭和町の杉浦醫院を数か月取材した番組は、50分番組として、このエリアで繰り返し放映されるそうです。5月4日からの放映予定時間も多くの方に観てもらおうと、大変きめ細かく設定されていますので、是非ご覧ください。 

中央市・南アルプス市・昭和町・市川三郷町・身延町エリアの「街かどトピックス」放送時間帯
月曜日・金曜日13:00~22:00~ 

火曜日・土曜日 8:00~19:00~

水曜日・日曜日  9:00~と20:00~   

木曜日12:00~と21:00~

 

2015年4月16日木曜日

杉浦醫院四方山話―412 『おままごと茶会』

 杉浦醫院母屋では、これまでも有楽流の茶会が開催されてきましたが、昨秋の「杉浦もみじ伝承の会」のイベントに参加された方から、病院棟で型に拘らず誰でもお茶を楽しめる「おままごと茶会」をやってみたい旨の申し出がありました。



 既に南アルプス市などで定期的に開催して、子どもから大人までお茶を身近に楽しんでいるとのことで、桜の季節に開催することになりました。



 病院棟の診察室と応接室を会場に椅子に座ってお茶をいただくと云う話でしたが、具体的にどうするのかは全く想像がつきませんでしたが、当日社中の方々が準備に来て、そのままの室内でお茶が味わえるようセットされました。



 主宰者は、せっかく病院での茶会だし、「おままごと」の趣旨からも着物ではなく白衣で対応したいと、白衣を持参しておもてなしをしていましたが、着物でいらした方もあり、土蔵の和室では、正式の茶会も用意して二席回って完結するという仕掛けでした。

 

 また、参加者は、お茶と共に健造・三郎父子と杉浦医院の歴史や地方病の学習もして帰っていただくという企画でしたから、随時、館内の案内や説明もし、期せずして「お茶会付見学会」にもなりました。 



 文化財でもある建造物をどう活用していくかは、全国的にも課題になっていますが 、「杉浦もみじ伝承の会」も今回の「おままごと茶会」も当館を訪れた方からの具体的な提案をきっかけに開催されたイベントですから、今後も来館された方々の「こんなことは出来ないか」と云った提案には出来るだけ応えて、試行錯誤をしていきたいと思います。

杉浦醫院四方山話―411 『地方病研究者・梶原徳昭氏』

 梶原徳昭先生は、杉浦醫院整備保存活用委員会にも地方病専門家として参加いただいてきましたが、県衛生公害研究所の研究員として流行終息宣言の取りまとめや山梨県地方病撲滅協力会の事務局を担当するなどこの道一筋の行政マンでもありました。

 

 先輩でもある薬袋勝氏と共に「山梨県における日本住血吸虫症の流行状況 」を著したり、山梨県国際協力専門技術者派遣事業では中国の実態調査に赴き、「四川省西昌市および蒲江県における日本住血吸虫病の流行状況について」の報告論文も残しています。

 

 

 前話でも触れましたが、「百年戦争」とも言われた山梨県の地方病撲滅事業にも終息の兆しが見え始めると終息宣言後を見据え、「この病気との闘いの歴史を後世にどう伝えていくか?」と云った「終戦処理」も梶原先生が担いました。
 「山梨県の近現代史に地方病は欠かせない」という県立博物館建設構想とも絡み、県博での「地方病コーナー」充実のための文献資料や展示資料の収集活動もその一つでした。

 

下の写真は、2013年5月に国立科学博物館で開催された「日本はこうして日本住血吸虫症を克服した」の企画展に山梨県立博物館が提供した資料です。殺貝活動に使った看板から桶や写真など梶原先生が収集して、県博に収めた一部でしょう。


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この写真は、こだわり百貨店 TSUBURAOKA.COMから転載させていただきました。


  今回ご紹介してきた地方病研究者御三方の来館は、県博に提供した貴重な文献資料や展示資料が、一度も公開されず眠ったままになっている現状を憂い、当館に移管して活用を図ったらどうかと云う、大変ありがたいご提案の為でもありました。

プレオープン時にも同様の申し出が高橋積氏からあり、県博、県学術文化財課と協議した経緯もありますので、後日、県博の担当者学芸員とも協議することとしました。

 

 梶原先生も加茂、林両先生同様、往年のVHSテープ2本の映像資料を「お土産」に持参くださいました。さっそく、二階座学スペースで観賞できるようDVD変換を図っていますので、三先生から提供いただいたお土産の映像・音声資料が揃ったところで、「新資料公開展」を企画しようと思います。

2015年4月9日木曜日

杉浦醫院四方山話―410 『地方病とのたたかい3部作』

 この3冊の本は、「山梨県地方病撲滅協力会」が、1977年(昭和52年)、1979年(昭和54年)、1981年(昭和56年)と2年おきに発刊した「地方病とのたたかい」3部作です。


 山梨県地方病撲滅協力会は、この病の患者がいた県内25市町村(平成の合併前)が負担金を出しあって組織した会で、県と一体になって進めた地方病撲滅活動の要でした。

 上記の3冊は、昭和52年から発刊されていますから、協力会もこの年代になると新たな患者もなくなり、ミヤイリガイ撲滅に向けた事業もほぼ完了し、「地方病流行終息宣言」も射程に入ってきた結果、この病気との闘いをどう後世に伝えていくのかがテーマになったのでしょう。



 本は3冊ですが、昭和53年には映画「地方病との闘い」も製作していますから、協力会は解散を前に記録事業をメインにしたことがうかがえます。3部作最終の「地方病とのたたかい」は、副題にー日本住血吸虫病・医療編ーとあるように先に紹介した加茂先生や林先生など医師が執筆しこの病の疫学や症状についての解説、論文で構成されています。

 この医療編の「あとがき」には、冒頭「永い間、熾烈を極めながらも推進されてきた、山梨県の地方病撲滅事業は、関係者の努力の甲斐がありまして、ようやくここにその終息を迎えるに至りました。」と、書かれています。



 当ブログ306話から3回にわたって紹介した「泉昌彦著 地方病は死なず」でも触れましたが、三郎先生が亡くなった昭和52年以降は、県をはじめとする行政も県民も「地方病は終わった。早く忘れたい」と云う機運だったのでしょう。

 そんな流れの中で、映画も含めて5年間に4本の記録資料を撲滅協力会は作製して、解散も予定していたのでしょう。



 しかし、正式に「地方病流行終息宣言」が出され、撲滅協力会が記念石碑を造って解散したのは、天野建知事になってからの平成8年ですから、この総括資料ともいうべき3部作作製後、15年と云う歳月が必要だった事が分かります。



 平成8年の解散に伴い出された「地方病とのたたかい」最終号をまとめたのが、梶原徳昭先生ですから、その15年の間の「山梨県地方病撲滅協力会」の活動についても梶原先生には、ご教示をお願いしていかなければなりません。

2015年4月2日木曜日

杉浦醫院四方山話―409 『老人と桜』

 昨日、庭園で西条新田地区いきがいクラブ主催の「観桜会」が開催されました。

 

 隣の正覚寺の桜も満開で、杉浦醫院の一本の桜の下に集い、正覚寺の桜も観賞すると云う企画でした。早めに開催日を設定して満開を逃した昨年の反省から、桜の満開に合わせて開催日を決めたという知恵は流石で、天気も「花曇り」と花を添えた感もしました。



 約30人の皆さんが、ボランティアの方々が用意したお茶菓子や料理を食べながら、時折みんなで懐かしい唱歌を静かに歌ったり、頭の体操などを楽しんでいました。



   「いきがいクラブ」は、「老人クラブ」の別称のように近年「老人」は避けられる単語になっているようです。

 ヘミングウェイの名作「老人と海」に代表されるように間違いなく歳を重ねて放つ味や重みと云った渋さは、「老人」でなければ醸せないものがあります。そんな意味でも個人的には「老人」と云う言葉は嫌いではなく、むしろ「いきがい」なんて云う冠は失礼のようにも思います。

 

 例えば、今回の「お花見会」も短い人間の一生の中で、年にただ一度巡ってくるこの桜の季節に「自分はもうそう長くないだろう」というような思いを持った方が、今咲き誇る桜を愛でながら来年の自身について思いを馳せると云う事は、どれ程に重い事だろうか?と・・・遅まきながら感じ入るようになりました。


 そんなことを感じながら綺麗に咲いた桜を見上げると桜も自分をダシにドンちゃん騒ぎを楽しむ若者より、老人の方々に観てほしいと咲いているように思えてきました。

2015年4月1日水曜日

杉浦醫院四方山話―408 『地方病研究者・林正高先生』

 甲府市立病院や山梨病院でご活躍だった林正高先生については、ご存知の方も多いことと思いますが、先生は甲府市立病院時代から国際協力事業団のスタッフとして、フィリッピンでの住血吸虫症の疫学調査と診療にあたってきました。

赴任した甲府が日本住血吸虫症の流行地であったことから、先生は昭和41年以来一貫して治療と研究に打ち込んできましたから、加茂先生と同じく住血吸虫症の三郎先生の後継的権威でもありました。
 

 

 山梨では、昭和40年代から急速に終息に向かった住血吸虫症ですが、林先生は、この風土病の世界的根絶に情熱をかけ、専門が神経内科であったことから、フィリッピン・レイテでは虫卵が脳に塞栓を起こす脳症型が主流だったことに着目し、レイテを調査対象にしたそうです。

 

 脳症型は、山梨などの肝脾腫型とは異なり、35才ぐらいで発症し、突然、手足に痙攣を起こし、意識を失ったりする発作性の病気で、進行すると手足に麻痺を起こしたり、失語症になったりする一方、肝脾腫型のように腹満にはならないなどの違いがあることやレイテでの疫学調査から、脳症型になるか肝脾腫型になるかを決定しているのは家系であり、脳症型の患者がいる家系は脳症型ばかりで、両者が混ざることはないことを突き詰めたそうです。



 ちょうど春の彼岸と云うこともあり、先生方は杉浦家のお墓参りも組み込んでの来館で、最後にはお隣の正覚寺で、御墓参りをしてくださいました。



 林先生が、ご持参くださった「お土産」は、林先生と三郎先生の「対談テープ」です。

「1977年MAY26」と外箱に表記されたテープは、林先生がフィリッピンから戻られて、この病気のフィリッピンでの実態や治験を三郎先生に報告に伺った際、収録したものだそうです。

 1977年MAYは、昭和52年3月ですから三郎先生が亡くなる約半年前の対談になります。 純子さんにその辺のことを聴きましたが「林先生は存じ上げていますが、父と対談してテープが残っていることは知りませんでした」とのことですから、多くの資料を大切に保存してきた杉浦家に残っていないと云うことは、林先生が録音をして、先生の研究資料として保存されてきたテープだったのでしょう。

 

 カッセトテープそのものが既に姿を消しつつあり、再生するCDラジカセはあってもカッセトラジカセが無い状況ですので、テープをCD化して当館資料にも加えさせていただくべく、林先生から借用させていただきました。

林先生のお話では、三郎先生もフィリッピンの様子に大変興味があり、日本での流れとフィリッピンでの今後について意気投合して話されたそうですから、聴いたことの無い三郎先生の肉声も楽しみです。