2010年10月27日水曜日

杉浦醫院四方山話―2 『煙草』

 先日、囲碁界で当代一の実力を誇り、ずば抜けた実績を残した二十三世本因坊の坂田栄男氏が90歳で亡くなった。「カミソリの坂田」といわれたように切れ味鋭い碁風と飾らない性格が多くのファンを魅了し続けた。同時に煙草好きとしても有名で、くわえ煙草での対局は、「対局モラル」としても話題になった。                                 煙草と言えば、杉浦三郎先生もチェーンスモーカーだったそうです。医院長室の机には、何種類もの灰皿がゴロゴロあり、愛用のシガレット・ケースも保存されています。患者さんから「先生は煙草を止めた方がいいじゃない?」と言われても「煙草は医者にはいいのだ」と開き直っていたと笑い話で純子さんが語ってくれました。「病気は、医者が治すんじゃない、本人が治すんで、医者はそのほんの手伝いをしているだけだ」が、三郎先生の口癖だったそうです。アメリカ発の「禁煙(ファシズム付ける識者もいる)運動」ですが、煙草は元々アメリカが発生地で、神への供物として欠かせなかったばかりか、病気は体に宿った悪霊を追い払うことで回復すると紫煙は治療にも利用されていたといいますから、三郎先生の愛煙の弁にも理があります。
日本でも禁煙の嵐はますます・・で、愛煙家は、ひたすら「しのぎの坂田」で行くしかありませんが、「煙草屋の看板娘」と言う言葉も生まれたように煙草に由来する文化的側面や習俗は否定できません。「きざみ煙草にキセル」といってもピンとこない日本人が多くなると「古典落語」の名場面も理解不能になります。コレクターが世界に広がったヨーロッパのパイプ文化も素材や技法の歴史や名工の作品など奥深い「文化」を内蔵しています。
煙草を止めない人は意志が弱いかのように言われていますが、煙草がどんなに悪者にされても吸い続ける方が意志は強いのだと、マーク・トウェーンは次のような名言を残しています。
「煙草をやめるなんてとても簡単なことだ。私は百回以上も禁煙している」
三郎先生は、正真正銘「強い医師」だったと言えますね。

*醫院長室に三郎先生が愛用したシガレットケースと灰皿が展示してあります。

杉浦醫院四方山話―1 『ダットサン』

昭和町で最初に自家用車を購入したのは、杉浦三郎先生のようです。
健造先生は、人力車で往診していましたが、夜の急患を診た帰り道、当時の夜道は真っ暗なうえに舗装されていないデコボコ道だったことから、人力車がひっくり返り、健造先生は投げ出され、大怪我をし、この事故が元で・・・・。
三郎先生は、運転しての往診では、診察に集中出来ないと考え、免許は取らずに運転手に任せていました。現在、私たちが事務室として使っている「看護婦室」が、夜は運転手の「宿泊室」を兼ねた6畳間でした。
 三郎先生が購入した「ダットサン」は、黒塗りで、日本の「ものづくり力」を象徴したデザインは、今も斬新で美しく、特にヒップが上品です。 押原小学校の校医として、学校検診にもダットサンで来たことをよく覚えている築地のNさんは、「運転手が、毛叩きでいつも磨いていたのでピカピカだった」「触るとビリビリしびれた」と昨日のことのように話してくれました。自動車がめずらしい時らこそ記憶も鮮明なのでしょう。
「ダットサン」は、「プリンス」と並ぶ、かつては日産自動車を代表する商標の1つでしたが、1981年に「日産」に一本化されたため、化石化しつつあるブランドです。「プリンス」といえば「スカイライン」、「ダットサン」といえば「ブルーバード」ですが、「ダットラ」の愛称で、今でもマニアに人気の「ダットサントラック」が、押越の清水米穀店で健在です。現役で活躍している「ダットラ」の持ち主・清水裕さんは、健造先生の功績を讃える「頌徳歌」を3番までスラスラ歌える方ですが、車にも「温故知新」の姿勢が屹立しています。
自動車は、数千パーツの部品から出来ていることから「その時代の流行や産業力の総体」を丸ごと醸してくれるように思います。河口湖に「自動車博物館」があるように、現存する古い車を「文化遺産」として保存していくことも意味あることだと思います。

*館内にダットサンと共に健造・三郎父子が正装しての記念写真が展示してあります。