2019年2月21日木曜日

杉浦醫院四方山話―573『もうすぐ春ですねぇ』

 中原よ。地球は冬で寒くて暗い。 ぢゃ。さやうなら。  ー 草野心平ー

詩人の中原中也は、昭和12年10月23日に30歳で死去しましたが、友人の草野心平が詠んだ亡友中原中也への追悼詩です。

中原と云えば、


 汚れつちまつた悲しみに

 今日も小雪の降りかかる

 汚れつちまつた悲しみに

 今日も風さへ吹きすぎる

 

など、豊かな抒情詩が多い訳ですが、季節的には矢張り「冬の詩人」と云ったイメージでしょうか。

そんな中原の死を草野心平は「地球は冬で寒くて暗い」と草野の寂しさを暗喩して「 ぢゃ さやうなら」と結びましたが、饒舌を排した稀に見る弔辞で忘れられません。

杉浦醫院母屋の座敷は茶室としても使われていました。茶室を囲むように
侘助(椿)が何本も植えられています。
 



 杉浦醫院がプレ・オープンした九年前は、純子さんもお元気で見学会の折には母屋の玄関先で見学者の方々に杉浦家にまつわる話などを歯切れよく話してくださいました。

そういう時は必ず「これを着ると少しはシャッキとしますから」と着物に着替えての対応でした。

 

 参加者の中には俳句の達人もいて「侘助や八十路の帯のやはらかく」と、やわらかなピンクの花をつけた椿と着物姿の純子さんを重ねた句を残してくれました。純子さんにこの句を見せると「盲千人目明き千人と言いますけどあの侘助を詠ってくれる方がいたなんて嬉しいわ」ととても喜んだのを思い出します。


 そんな純子さんもこの3月で93歳になります。「寒くて暗い」日本の冬を今年初めて温かな病院で過ごしました。インフルエンザの流行で病院は見舞いも制限されていますが、純子さんは至って元気に過ごしています。

 杉浦醫院庭園の草木が一斉に花をつけ、池の水がぬるむ春はもうすぐそこです。

歌の好きな純子さんにキャンディーズの「もうすぐ春ですねぇの春一番」をお届けしたい気分ですが、リンク可能な祖父健造先生の功績を称える「頌徳歌」を贈ります。 


2019年2月14日木曜日

杉浦醫院四方山話―572『武田騎馬隊と地方病』-2

  山梨県に限らず、早くから馬の産地とされてきた長野県や南部駒の岩手県南部地方、熊本県など伝統的な馬産地域には共通して、馬刺しに代表される馬肉を食する文化があります。

馬肉は桜肉とも呼ばれ山梨県内の食堂には「桜丼」や「桜鍋」が馬刺しと共に用意され、それをウリにもしていますから、山梨は矢張り甲斐の黒駒に代表される馬の産地であったことは確かなのでしょう。

先日入った食堂には「馬鹿丼(うまかどん)」と云う丼もありましたから、山里では鹿も貴重なタンパク源にしていたのでしょう。


 しかし、同じ馬の産地だったとされる隣の長野県には、日本住血吸虫症の罹患者は全くいませんし、武田家臣の南部氏が甲斐の黒駒と共に移住した(と云う説もある)岩手県にも患者はいません。熊本県も同様ですから、「日本住血吸虫症の馬移動による伝播説」には無理があるようにも思います。


 ここで、浅学の推測も勝負あったかに思いますが、馬の移動により中国などから持ち込まれた日本住血吸虫症も感染が広がるためには、中間宿主ミヤイリガイの存在が不可欠になりますから、古くから馬肉文化の有った上記の地域には、ミヤイリガイが棲息していなかった?…と云う仮説も可能なように思います。


  有病4県の山梨・佐賀・福岡・広島についてみると、佐賀県には、日本に初めて馬が渡って来たという伝承の島「 馬渡島(まだらしま)」がありますし、対馬海峡も馬と無縁では無かった名前でしょう。

  福岡県福岡市には、馬出(まいだし)1丁目から6丁目の地番が現在も残り、宮入先生が奉職した九州帝国大学(現・九州大学)もこの馬出町にあります。また「福岡の馬刺し」は、熊本に勝るとも劣らない九州の名物ですから、馬とは古くから縁の有ったことを物語っています。

  広島県にも馬洗川(ばせんがわ)と云う川や馬木町(うまきちょう)と云う地名があるように「馬」の歴史が残り、県指定の文化財に鎌倉時代の作とされる「木造飾馬」もあります。


木造飾馬
広島県指定文化財「木造飾馬」
 

 このように観てくると、日本住血吸虫症の感染原は、和種馬の元になったと云うモンゴル馬が中国を経由して入ってきて、ミヤイリガイが棲息していた地域には感染が広がり、ミヤイリガイが居なかった地域では有病馬の死で終わったと推論できます。

ですから、ミヤイリガイがなぜ日本の限られた地域だけにしか棲息できなかったのか?が解明されなければなりませんが、これまでの地形、湿地、土壌の共通性からの説明では十分とはいえませんので、浅学なりにその辺も整理していきたいと思います。 

2019年2月8日金曜日

杉浦醫院四方山話―571『武田騎馬隊と地方病』-1

 日本住血吸虫症(地方病)の謎の一つに「なぜ山梨県の甲府盆地に蔓延したのか?」があり、中間宿主ミヤイリガイの棲息に適した地形風土からと言う説明が、推論の主流であったように思いますが「なぜミヤイリガイが甲府盆地をはじめとする限られた地域にのみ生息していたのか」という疑問は解明されていません。

もちろんこれまでも地理学や生物学、地質学、遺伝学等々あらゆる観点から研究は行われてきましたが、依然として大きな謎だというのが実際の所です。

 

 同じように「日本住血吸虫の卵から孵化したミラシジウムは、なぜミヤイリガイだけに寄生して同じ巻貝で同じような所に生息していたカワニナには寄生しないのか?」も解明されていません。要は、まだまだ解らないことは沢山あるということですから、何でも解った風な顔をしないで整理しながら謙虚に学び、考える姿勢こそが大切なのでしょう。

 

 前話のように辻教授が「フィラリアなど他の感染症の伝播も人間の移動が主原因だから、甲府盆地に蔓延した地方病も中国から持ち込まれた可能性が大きい」と云う指摘を受け、あらためて「日本住血吸虫症の伝播」について考えてみました。

 

 辻教授の示唆を聴いて私には「人間の移動」と「中国から」がキーワードのように残りました。

それは、甲府盆地の地方病は、甲陽軍鑑によれば武田家臣の小幡豊後守昌盛が地方病のため武田勝頼のもとへ暇乞いに来て、やせ細った昌盛の形相を見て勝頼も涙したと云う記述があることから既に戦国時代には患者が居たとされてきたこと。

もう一つは、日本住血吸虫の虫卵は、中国湖南省長沙の馬王堆(まおうたい)古墳で発掘された紀元前の女性の遺体からも発見され、中国では古代から存在している病気で、決してせまい地域の風土病ではないと云う定説が結びついたからでした。

 

 武田家臣の地方病説から、天下最強と云われた(?)武田騎馬隊が連想され、地方病は人間同様哺乳類も感染しましたから、モンゴルから中国経由で甲府盆地に入った「馬の移動」により地方病は中国から甲府盆地に持ち込まれたのではないか?と云う仮説を思いつきました。

 

がしかし、悲しいかな浅学の思いつきは???だらけのことは自明です。だいたい「天下最強の武田騎馬隊」が本当に存在したのかどうかも怪しいのは、当時日本には入っていなかった洋馬のサラブレットのような馬上にまたがる信玄像が一人歩きしていることにも象徴されています。

≪山梨県(甲斐国)では、4世紀後半代の馬歯が出土していますから、山梨を含む中部高地には西日本に先行する古い段階で馬が渡来したと見られている≫との学説もありますが、武田氏館跡から出土した馬の全身骨格からは、体高は115.8cmから125.8cmと推定されていますので、武田騎馬隊が存在したと云う仮定に立っても、その馬は「甲斐駒」とも「甲斐の黒駒」とも呼ばれた和馬で、いわゆるポニー種だろうと云うのが一般的です。

甲斐駒・甲斐の黒駒と呼ばれた和馬に近い「北海道和種」

 この辺については、歴史学や考古学の成果に負うしかないのですが、和馬と分類される日本古来の馬も中国や朝鮮半島から「移動」されてきた訳ですから、もう少し勝手な推論を整理していきたいと思いますので良かったらお付き合い下さい。

2019年2月5日火曜日

杉浦醫院四方山話―570『加茂先生のEMBAY 8440』

  過日、昨年に引き続き北里大学医学部寄生虫研究室のメンバーが来館くださいました。

これは、辻教授が研究者と学生に授業の一環として設定した校外学習でもあることから、実際に臨床医として地方病の患者を診察・治療した巨摩共立病院名誉医院長の加茂悦爾先生にもご足労頂き講義をいただきました。

 地方病の患者を実際に診察・治療したドクターも山梨県では、横山先生と加茂先生のお二人になってしまったことも地方病風化と無縁では無いように思いますが、今回のように寄生虫を研究していこうと云う若い研究者・学生に当館がお役に立てることは光栄でもあります。

加茂先生の講義を熱心に聴く辻研究室の方々

  辻教授から加茂先生には昨年も持参いただいた「プラジカンテル」の試作段階で商品名も無い[EMBAY 8440]を今年も持参願いたいとの連絡がありましたから、加茂先生にお伝えし持参いただきました。

加茂先生所有の「EMABY 8440」 

 辻教授によれば、「これは何処にも無い貴重な物で、写真ですら見たことがありません」と云うお宝ですが、几帳面な加茂先生は自筆で「1975~1976」更に「昭50~51」と包装箱に忘備メモがありますから、加茂先生がこの試作段階の薬を入手した時期でしょう。

 

 加茂先生は、信州大学医学部を卒業して、昭和32年に当時の山梨県立病院の内科医として医者生活をスタートしたと云う自分史と地方病との係わりを重ねて語りました。先生は「杉浦三郎先生に背中を押してもらって」といつも謙遜して云いますが、昭和48年に「日本住血吸虫性肝硬変症の免疫病理学的研究」の英字論文で学位を取得しました。

先生は、学位取得後も研究を重ね、昭和50年から51年には国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)の寄生虫部長 石崎 達先生の下で研究を重ねていますから、この「EMABY 8440」は、国立予防衛生研究所時代のものだそうです。

その翌年にはWHOのデュッセルドルフ会議にも参加していますから、三郎先生同様、勤務医をしながらも研究を欠かさなかった稀な医師でもあったことが分かります。

 

 加茂先生が持参下さった日本住血吸虫症の特効薬「プラジカンテル(Praziquantel)」の試作品「EMBAY 8440」名の実物は、ドイツの製薬会社バイエル社が開発したものですから、包装箱や薬瓶の表示文字は全てドイツ語です。

分子式は、C19H24N2O2だそうですが、寄生虫の細胞膜のカルシウムイオン透過性を上昇させることで寄生虫が収縮し、麻痺に至る薬のようです。

 

 浅学には詳細は分かりませんが「EMBAY 8440」について検索すると英語、ドイツ語表記サイトが主で、数少ない日本語サイトの中に1979年発刊の医学専門誌に「日本住血吸虫症に対するEMBAY8440 (Praziquantel) の臨床的使用経験」と題した加茂悦爾・石崎達両氏連名の論文がありました。

加茂先生名が筆頭ですし、「EMBAY8440の臨床的経験」の題名からも石崎氏の要請で加茂先生が日本住血吸虫症の患者に使ったうえでの論文と推測できます。

 

 このような臨床過程を経て「EMBAY8440」が、商品名「プラジカンテル」として発売されたのは、山梨県でも新たな患者が出なくなった昭和50年代ですから、日本の患者には「スチブナール」が身近な特効薬ということになりますが、林正高先生がフィリッピンの患者20万人を救済した募金活動は、この「プラジカンテル」の購入費用でもありました。

 

 質疑応答の中では、辻先生から「プラジカンテル」は水に溶けないから子どもには服用が難しいことやフィラリアなど他の感染症の伝播も「人間の移動」が主原因だったから、甲府盆地に蔓延した地方病も中国から持ち込まれた可能性が大きい」と云った示唆もあり、私たちにとっても貴重な学習機会となりました。