2015年1月29日木曜日

杉浦醫院四方山話―396 阿刀田高講演会 『言葉遊び』

 講演後、図書館の依頼に応じて阿刀田氏が色紙に記した言葉は

「花は散るために咲く」でした。

 「花は散るために咲く」は、太平洋戦争の特攻隊員の座右銘でもあった「散るために咲いてくれたか桜花  散るこそものの見事なりけり」や軍歌・同期の桜の「 咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ 国のため」と重なります。



 現在、昭和町立図書館ロビーでは、この色紙を囲むように「阿刀田高フェアー」が開設されています。「花は散るために咲く」をステロタイプに額面通り受け取ると阿刀田氏は、軍国少年のままなのか?と・・・・


 阿刀田氏は、日本ペンクラブ会長当時、毎日新聞紙上で次のように明言しています。


 ≪実は私たちの世代は戦時下の子ども時代、国家のために死ぬんだと教えられました。だから、やれ本土決戦だと竹やりを持つようになると、敵国が攻めてきたら死ぬ覚悟でした。

しかし、戦争が終わって日本国憲法が施行されたとき、戦争の放棄をうたい軍隊を持たないというのだから、なんと素晴らしい決心だろうと感動した覚えがあります。私は、人を殺すくらいならば、自分が死ぬ道を選びたい。特別な倫理ではなく、同じ倫理観の持ち主はきっといるはずです。

だから私は命がけで平和を守り、それでも攻撃を受けたら、丸腰で死ぬんだと覚悟を決めています。攻められたら死ぬんです、という覚悟が憲法9条の精神だと思います。

私たちはこうした憲法を保持し、培ってきた。だから、この65年間戦争しないでやってきたのです。≫と。

 

 また、別のインタビューに答えても

 

≪ 私は10歳のときに長岡大空襲に遭い、強いと教えられた日本の軍隊が国を守ってくれないことを思い知らされました。広島、長崎の惨禍も防ぐことができなかった。だから軍隊を持てば国を守れると言われても、どこまで信頼したらいいのかと思ってしまう。
一方で、軍備を持つ国から攻め込まれたらどうするのか、と必ず問われます。私の答えは決まっています。そのときは死ぬんです、とはっきり申し上げております≫と。

 

 

「花は散るために咲く」の言葉も単に軍国用語として捨て去るのではなく、慣れ親しんだ言葉を阿刀田氏流のアイロニー、逆転の発想で、平和主義に徹するために「丸腰で攻められたら死ぬんです」の覚悟、信条を「花は散るために咲く」と形象する鋭さと柔らかさ!

青二才は「また見事に一本を取られたな~」と脱帽です。

 

 超洒脱な阿刀田氏は、昭和町での「講演会」にも疾風のように現われて、きっちり記念色紙への揮毫まで計算して、日本語の言葉遊びの楽しさと文化を語り、疾風のように去って行きました。

余韻も味わえるよう仕立てられた「読書はおいしいぞ」講演会、「わかるかな~」と帰路の中央線車中でニンマリする阿刀田氏。

「いやあ~おいしすぎて!参った参った」デス。 

2015年1月28日水曜日

杉浦醫院四方山話―395 阿刀田高講演会 『読書保険論』

  阿刀田氏の読書遍歴は、父親の落語全集から野村胡堂の「銭形平次」を経て、芥川龍之介の作品へと移って行ったそうですが、振り返れば「物心ついた時から本が好きだった」ので「読書が素晴らしいのは宮沢りえが美しいのと同じで当たり前のこと」でもあったから、「どうしたら子どもが本を読むようになるか?」と云った質問が一番困るそうです。


 

 今回の講演会の質疑応答では、その手の質問はありませんでしたが、「社会のIT化に伴う紙媒体の行く末」についての質問がありました。それに関連して、講演の中で阿刀田氏は、日本の中央紙と呼ばれている新聞の特徴について言及されました。

 

 下の写真は、上から朝日・日経・毎日・読売の昨日の朝刊一面下段の広告欄です。

 阿刀田氏は「地方紙」はともかく、中央紙の一面の下は現在も全て本の宣伝です。これは、出版社もここでPRすれば確実に売れるから出すわけで、新聞も衰退は避けられないでしょうが、一面の広告が毎日、本の広告であることは矢張り識字率の高い日本ならではの特徴ですから、絵本を含め本の持つ魅力や力は、本しかなかった時代と違う意味で残っていくだろう」と指摘されました。


この一面の文字広告は、三八広告(さんやつこうこく)と云うそうで、名前の由来は、3段分のスペースを8つに分けたことによりますが、最近は読者の高齢化に伴い?朝日・読売のように6つに分けて大きくしているケースも見受けられます。

この1枠の費用は、朝日新聞だと約150万円のようですから、出版社の費用対効果も案じられます。


 阿刀田氏の指摘を受けて、町立図書館が備えている中央紙の同じ日の「三八広告」を撮影して気づいたのですが、ダブって広告している「本」は、朝日と読売にある「小説と推理」だけですから、出版社も自社本PRをどの新聞に載せるのが有効なのか?統計等を駆使して選択しているのでしょう。

 阿刀田氏は「本は、読んでいけば必ず面白くなるように仕組まれているから、最初はちょっと労力がいるけど読み進めることが大事」とし「スポーツの練習と比べれば読書を習慣化するのは楽なもの」ですから「掛け金を支払うつもりで、若い時から読書の習慣をつけておけば、本当の保険は、配当が返ってこないことがあるけど、読書の掛け金は、老後確実に返ってくる」と「読書保険論」を提唱されました。
 

 80歳とは思えない滑舌で生き生き話す阿刀田氏の「読書保険論」は、確かに説得力がありました。

2015年1月26日月曜日

杉浦醫院四方山話―394 阿刀田高講演会 『隠居と識字率』

   昨日、昭和町立図書館まつりの一環として、県立図書館長でもあり作家の阿刀田高氏による「読書はおいしぞ」と題した文化講演会が押原小学校多目的ホールで開催されました。星新一のSFモノよりエロスもあったりの阿刀田氏のショートショートの方が私には親しめ、一時期通勤電車の友でしたから聴きに行ってきました。


 阿刀田氏が本の楽しさを覚えたのは父親の本棚にあった「落語全集」を読み漁ったことからだそうで、幼少期に落語のネタ本を何度も読み返した影響でしょう、阿刀田氏の語りは落語家を彷彿させる歯切れ良さとリズムカルなものでした。

 また、阿刀田作品の計算しつくされた構成や巧な伏線、テンポの良い展開と落語のオチに繋がる奇想天外な結末なども幼少期の落語全集が阿刀田氏の文体として色濃く残っているように思いました。

何より落語のご隠居のセリフやお説教には、歴史や文化・風俗・芝居などの雑学や生活の知恵、人生訓までが詰まっていますから幼くして楽しみながら、多くの教養を阿刀田氏は自然に身につけたのでしょう。

この講演内容の全体報告は、図書館に譲るとして、私的に興味を持った話をご紹介します。

 

 阿刀田氏は、日本が世界に誇る資源は?と問い、「識字率の高さ」を挙げました。日本と同じ文明国とされる欧米各国でも移民人口の多いこともあり、識字率は85パーセント前後なのに対し日本の識字率は99パーセントと世界一で、読書を楽しむ最低条件は字が読めることですから、日本人は、この資源をもっと誇り、活用しなくてはもったいないと指摘しました。


 そして、日本の識字率の高さは、江戸時代の隠居制度にまでさかのぼることを教えてくれました。江戸時代は、人生5、60年でしたから、 早ければ40歳を過ぎたら家督を息子に譲って隠居しました。

まあ、40代で一線から身を引いても知力、体力を持て余す人も多かったのでしょう、隠居した若年寄りが手軽にできたのが「寺子屋」で、武士の子どもは藩校などで学びましたが庶民の子どもはこの「寺子屋」で、「読み書きそろばん」を習ったのが日本の識字率に大きく貢献したという話でした。

 

 現代のようにいつまでも子どもの教育にお金など掛けないで、農民、職人、商人の子どもたちは、寺子屋で読み書きそろばんを習い、さらに細かく分けた職業別の教え=実学を修めたから子どもの独立も早かったのでしょう。

 隠居してから日本中を測量をして日本地図の作成をした伊能忠敬は楽隠居の典型でしょうが、隠居制度の持つ文化価値も超高齢化社会のこれからの日本では、再検討、再評価が必要かもしれないと阿刀田先生の話を聴いて思いました。

2015年1月22日木曜日

杉浦醫院四方山話―393『肥前平戸焼 古代富士透画御飯茶碗-2』

 世界文化遺産になった現在の富士山は、約5千年から1万年前に形成された姿で、その下には約70万年前から噴火したと言われている小御岳(こみたけ)火山と約10万年前から噴火していた古富士火山があり、この古代富士の形は現在のような左右対称に裾野が広がる優雅な円錐形ではなかったというのが通説ですが、誰もどんな形であったかは特定できない以上、一回り小さな円錐形の古富士を描きたくなるのも自然でしょう。


 この古富士を取り巻いていたのが「せの海」と呼ばれた広大な湖で、名前のように海のような広さでしたが、現在の富士山に至る噴火の溶岩流で「せの海」は全て埋め尽くされたそうです。

 現在の精進湖と西湖は埋め立てを免れた西端と東端で、流れ出た溶岩はせの海一帯を広く覆い「青木ヶ原溶岩」を形成し、その後この溶岩の上に新たに森林が生育して、現在の「青木ヶ原樹海」となっているわけですが、「樹海」も下に眠る「せの海」の「海」から来ているのでしょう。


 全11客の「肥前平戸焼 古代富士透画御飯茶碗」は、ご覧のとおり純白に青の繊細な器です。

 平戸焼は、肥前国平戸藩松浦家の庇護の下で、松浦家の御用焼として焼成された陶磁器で、特徴は純白な肌に御用絵師の緻密な絵付けと細工・彫刻で知られる多種多様の技法が他窯では見られない至芸と言われているようです。

 

 松浦家が一貫してこの平戸焼きを補助し続けたのは、4代藩主松浦鎮信が茶道・鎮信流(ちんしんりゅう)を立ち上げた茶人でもあったことから、藩主好みの繊細優美な神経が隅々にまで行き届いた陶磁器として、現在も愛好されているそうです。


 杉浦コレクションのこの碗は、彫刻された古代富士が「透画」と表示され、その古代富士の周りには「せの海」の波と航行する船が青く描かれ、「御飯茶碗」ですが、薄く小ぶりの品の良いつくりを一層際立たせています。この船舶数からも幻の富士王朝の栄華が偲ばれるようでもあります。

 

 茶会の主催者が来客をもてなす料理が日本料理の「懐石」ですから、一服の茶をたしなむ方々の「御飯茶碗」は、このように余韻の残る器でなければならなかったのでしょう。

 深遠な茶の世界は、とどまることを知らない奥深さで、矢張りお殿様でなければ追求できない世界でもあるようにも思いますが、昭和村西条で人知れずこの手の名品を蒐集してきた杉浦家の美意識も矢張り世間とは屹立したものだったのでしょう。

そうそう、田吾作は、懐石を弁当にしたものを「点心」と呼ぶことも今回初めて知りました。

杉浦醫院四方山話―392『肥前平戸焼 古代富士透画御飯茶碗-1』

  詩人の宗左近は、名著『日本美 縄文の系譜』(新潮選書)で、≪8世紀初頭に成立した「古事記」や「日本書紀」に富士山は全く無視されて登場しないのに、僅か40年たらずの759年頃に編まれた「万葉集」には、富士が霊峰として華々しく登場しているのはなぜか≫と、詩人の直感で疑問を持ったようです。

 

 富士山は天照大神が祀られている伊勢からも見ることのできる山で、大和朝廷がその存在を知らぬはずはなかっただろうし、ヤマトタケル(日本武尊)は大和から東方に蝦夷征伐に向かう際、富士山を左回りにめぐるコースを辿った記録があるのに富士山についてひと言も触れていないのはなぜか?

ところが「万葉集」のなかでは、たとえば山部赤人(やまべのあかひと)は富士山を指して「天と地が分かれたときから神々しい」とか「霊妙な神の山」「国の宝」とまで礼讃しているように、富士山が突如「日本の神」と讃えられるようになったのはなぜか?

宗左近は、想像力を駆使して次にように推理しました。


 それは、富士山は東国・蝦夷の信奉する山で、大和朝廷の山ではなかったからではないか!「万葉集」で急遽「富士山」を持ち上げたのは、朝廷の御用歌人が蝦夷の歓心をかうためにでっち上げた「老檜な文化工作」であった!と、結論付けたのでした。

 

 今年の山日新春文芸短歌の岡井隆選の入選一席は、神の山くぐりて里に噴きいでし水のよろこび鯉をやしなう ー中央市・萩原照子ーのように、山を御神体とし、巨木や岩にしめ縄を張って神聖視する山岳信仰は、綿々と現在まで引き継がれていますから、縄文人たちが、大噴火とともに突然出現した巨大で美しいこの富士山を、神の仕業と考えたのは当然でしょう。

 

 この並はずれて秀美な富士山は、太古の昔から日本に存在していたわけではなく、その歴史は意外に浅く、現在の三千メートルを超える高さと均等のとれた円錐形が完成したのは、今から五千年からせいぜい一万年だろうとされています。

五千年前とすると縄文時代真っ只中であり、一万年前としても、縄文時代の初頭ですから、宗左近の「日本美の源は縄文にあり」の推理は説得力もあります。


  当話は、新杉浦コレクションの「肥前平戸焼 古代富士透画御飯茶碗」が肝心なテーマですが、「古代富士」で引っかかってしまい、宗左近センセイに登場願った次第です。

 額面通り「古代富士」とすると透画の富士山は、写真のように円錐型に裾野が広がった縄文から現在にいたる富士の姿で、なぜ「古代」なのか?詩人ではありませんが釈然としません。

 

 確かに、縄文時代の富士山大噴火以前の富士山を「古代富士」とし、その麓に大和朝廷と並ぶ富士王朝があったと古代史ファンの間では論議され、富士山大噴火で溶岩に埋まって消滅したとされる富士王朝の上に現在の青木ヶ原樹海が形成されたことになっています。

 

 青木ヶ原樹海には「謎の石垣」もあることから、一層信憑性を帯びて語られてきましたが、富士王朝があったとすれば、その王都のあった場所は大樹海地帯ですから完全に未発掘で、しかも堆積した溶岩で金属探知機などの地中探査レーダーも機能しないことから、富士王朝が本当にあったのかどうかは、一切不明というのが考古学の常識のようです。

 

 この肥前・平戸焼の名工も、古代史ファンで富士王朝存在説の信奉者だったのだ!しかも彼が透してみた古代富士は、高さ広がりこそ現在より小さかったものの円錐型の優雅な姿であったのだ!と、詩人・宗左近に学び、浅学も推理してみたのですが・・・・

2015年1月11日日曜日

杉浦醫院四方山話―391『萬朝報(よろずちょうほう)』

 丸い器を四角の箱に納めておくのに動いて割れないよう四隅に新聞紙を丸めて入れたのは、健造先生の奥様だったことが大正10年の新聞で推測されますが、前話の「時事新報」ともう一紙「萬朝報」と云う新聞紙も3枚使われていました。



 この萬朝報は、「よろずちょうほう」と読むそうで東京5大新聞には入っていませんが全国紙で、名前の由来も「よろず重宝」とシャレから来ているそうですからスズキの軽自動車「あると便利」のアルトと重なり、日本人特有の命名知恵の一つでしょう。

 

  萬朝報は、日刊新聞で明治25年(1892)に翻訳家であり作家の黒岩涙香(るいこう)が東京で創刊しました。黒岩自身が同紙を舞台に『鉄仮面』『巖窟王』『ああ無情』などの翻訳小説を発表したことが固定読者を獲得した一因だったそうですから、歌を詠み水墨画を描く文人でもあった健造先生が黒岩涙香編集の紙面に共感していたのかも知れません。


 また、社会記事、政治記事の充実を図り、内村鑑三・幸徳秋水・堺利彦ら当時の社会主義者も加わって社会批判を展開し、日露開戦前には一時非戦論を主張したことでも知られていますが、その一方で、政治家や有名人の妾調査をしては三面で暴露するゴシップ記事も多く、萬朝報が現在の「三面記事」の語源となったと云われています。

 

 まあ、現代では死語となりつつある「妾(めかけ)」ですが、萬朝報は権力者のスキャンダルから一般人の商店主や官僚の妾も暴露し、その内容も妾の実名や年齢にとどまらず妾の父親の実名、職業まで記載する徹底ぶりが大衆にも受けたのでしょう、社会思想社から「蓄妾実例」と云う文庫本になって出版されたようです。

 個人情報とかプライバシーがうるさくない時代で「男の甲斐性」と云った言葉も日常語でしたから、スキャンダルも有名税的要素もあり、「俺の妾をなぜ載せない」という逆抗議もあったと云う、何とものどかな時代で、ちょっと羨ましくさえ感じてしまいます。

2015年1月8日木曜日

杉浦醫院四方山話―390『時事新報』

 代々、杉浦家の建造物を手掛けてきた東花輪の橋戸夫妻が、年末に純子さんが生活している母屋の掃除や正月飾りにみえ、人形作りが趣味の夫人からは、今年も前話の写真のように干支の人形をいただきました。

ご主人が「純子さんもあまり記憶にないモノのようだけど押し入れから土蔵に展示できるお宝が出てきたから」と、器の入った三箱の新杉浦コレクションを届けてくれました。


 

 年頭あいさつ後の当話は、この器の紹介から始めようと先ず「備前平戸焼古代富士透画御飯茶碗」と書かれた木箱の蓋を開けると写真のように布に包まれた器の四隅には、筒状に巻かれた変色した新聞紙が、きっちり割れ防止に入っていました。


 「おいしいものは最後に」を口実に、骨董品級の器より俗な話題も散見できる古新聞にどうしても興味が行ってしまう自分を自覚できたのも杉浦コレクションのおかげですが、視力が衰えて新聞も読まなくなったと云う純子さんが「新聞は読まなくってもいろいろ使い道がありますから」と二紙購読を継続しているのもこのように新聞紙を活用してきた杉浦家の生活習慣からでしょう。

 

 そんな訳で、早速この古新聞を広げてみると大正10年7月8日付けの「時事新報」でした。「時事新報」は、東京日日新聞・報知新聞・国民新聞・東京朝日新聞と共に戦前は「東京五大新聞」と云われた全国紙で、大正中期までは「日本一の時事新報」とも呼ばれる購読数を誇っていたようです。

 

 この「東京5大新聞」は、東京日日新聞が毎日新聞、報知新聞が読売新聞とスポーツ報知、国民新聞が東京新聞、東京朝日新聞が朝日新聞と現在ある全国紙の前身になっていますが、唯一日本一と呼ばれた時事新報だけが消えてしまったようです。その辺の詳細については、時事新報 - Wikipediaをご参照ください。

全盛期の大正10年の「時事新報」。朝刊と夕刊があり、山梨版もあることから、甲府に支局があったことも分かります。

 

2015年1月5日月曜日

杉浦醫院四方山話―389『羊』

 

 あけましておめでとうございます。

干支も午から羊に変わった2015年、フルオープン2年目を迎える杉浦醫院を今年もどうぞよろしくお願いいたします。


杉浦醫院受付に毎年、干支の人形を飾ってくれる橋戸さんの作品です。バックは広報昭和1月号表紙。

 

 羊で思い出すのは「羊の皮をかぶった狼」と云う諺ですが、このフレーズも様々に引用されていますから、人によって抱くイメージも違っているのでしょう。

 

 例えば、車好きの人なら「羊の皮をかぶった狼」と云えば、往年のスカイラインGTが一般的ですが、シャリオのリゾートランナーGTやプレーリーリバティーのハイウェイスターGT4などミニバン、ワゴンタイプの車で、トンデモナイ走りをみせる車こそ正真正銘の「羊の皮をかぶった狼だ」と譲らないマニアもいます。

 

 この「羊の皮をかぶった狼」は、新約聖書の中で『偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。(マタイ7;15)』 から来ているようです。

聖書では、「心迷える人間」を「羊」に例えていますし、「羊」は大人しく従順な女性や弱者、「狼」は乱暴な荒くれ者の比喩として使われてきて「子羊が送りオオカミに・・・」に代表されるような慣用句もありますから、群れる羊は万国共通で争わない平和的なイメージが定着しているようです。

 

その羊でもある今年は、敗戦70年の節目の年にも当たります。

フランスの哲学者サルトルの箴言に「金持ちが戦争を起こし、貧乏人が死ぬ」があり、「老人が戦争を起こし、若者が死ぬ」という言葉もありますが、これらの戦争観も通用しなくなってきているのが現代のようです。

 

 要は、「死ねた貧乏人や若者は幸せだった」と云う、より悲惨な戦争が現代戦だということでしょう。

「戦争が科学技術を進化させた」のも真理で、兵士の防弾服がめざましく進化し、爆破物による死亡率は著しく低下した反面、四肢や脳、眼球等を損傷されても生き残り、一生身体的、精神的に重篤な障害を抱え、死ぬ以上の苦しみで生きることを強いられるのです。

 

 戦死者より、負傷者のほうが救護兵力が必要になることやその後の医療費や社会保障費の支出で財政をひっ迫させることまで計算された戦術が現代戦の特徴です。

その結果、身体的損傷はなくてもPTSD=心的外傷後ストレス障害を患った帰還兵の自殺未遂は月平均1000件以上とか、財政に占める帰還兵関係の予算などアメリカが抱える課題は、現代戦の「如何に効率よく殺すか」ではなく、「如何に効率よく負傷させるか」の深刻さを物語ってます。


 

 そのアメリカが同盟国に負担を求める政策を強め、日本も応じるべく施策が際立ってきました。そんな中、今年の朝日新聞の<新春詠>(短歌の部)で、

高野公彦氏は、太郎を眠らせ次郎を眠らせ白き雪ふり積む秘密保護法列島

永田和宏氏は、まさかそんなとだれもが思ふそんな日がたしかにあった戦争の前と詠みました。

新春詠にも平和な羊年になるよう願わずにいられない歌人の魂の叫びが響き、群れて弱者、被害者を嘆く羊より、荒くれ一匹オオカミが求められる年であることを痛感した新年でもありました。