2014年12月26日金曜日

杉浦醫院四方山話―388『2014雑感』

 好きな車のナンバーを有料で選べる制度があり「希望ナンバー制」と言うそうですが、その希望ナンバーで人気のある番号は、ラッキーセブンと末広がりの八を組み合わせた「78-78」とか「いいパパ、いい母」の語呂合わせで「11-88」など「8」は人気のようですから、今年の四方山話も8が重なるこの388話で締めたいと思います。


  今年一年を振り返って様々な「〇〇大賞」と云った報道が年末の恒例になっている感もしますが、そちらにはあまり興味もありませんが、今年亡くなった方などの報道には、歳のせいでしょうか、感慨深く見入る時もあります。今年で云えば、俳優の高倉健と菅原文太両氏の相次ぐ死は驚きと共に「昭和の終焉」を実感させられました。

 

 1970年前後からの高倉健と菅原文太主演のいわゆるヤクザ映画は、娯楽映画の枠を突け抜けた大きな社会現象となりました。

 画家の横尾忠則が健さんをモチーフに描いたポスターは飛ぶように売れ、「桃尻娘」で有名な作家・橋本治が学生時代書いた「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」のコピーを配した東大駒場祭のポスターも「背中で泣いてる唐獅子牡丹」を東大のシンボル「銀杏」に変えてのパロディー作品として一世を風靡しました。

 

 この第19回駒場祭のあった1968年は、学生運動が東大から全国に広がった年でもあり、翌年1969年の東大入試は中止になった程でした。

 「東大以外は受けない」と宣言して一浪中だった同級生の故K君は、高校時代「悲しみの多き母の赤い顔 母よわかれぞ 母よ泣くなよ」と詠いましたから、この時代に共通するシンボリックは「おっかさん・母」であり、突き詰めれば団塊世代など単に「マザコン」集団だったようにも思えてきます。


 池袋文芸坐でオールナイトで観た健さんや文太さんは、今思い出しても間違いなく紫煙漂う先のスクリーンでの勇姿でした。「タバコを吸いながら映画を楽しめたのも昭和だったのだ」と、つらつらつら思い出します。


 マザコンと云えば、今年の流行語大賞は「ダメよダメダメ」だそうですが、「ダメよダメダメ」なら森進一かと思いきや名前も知らないコンビでした。

健さんや文太さんで溜飲を下げて巷に戻れば、森進一が歌う「年上の女」で「だめよだめだめ つらいのと」と連発していましたから、矢張りあの時代は、マザコン集団が虚構の強さを求めて健さん、文太によりかかったと云うのが客観的なように思います。塊によりかかられたご両人には、素直に「ありがとうございました」と頭が下がります。

 

 ヤクザ映画や学生運動が潮時を迎えた頃のヒット曲は、中島みゆき作詞・作曲の「時代」でした。「まわるまわるよ時代はまわる」のリフレインが思い起こされますが、最終フレーズの「今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ」は、マザコン男への中島みゆきの応援歌でもあり、「歌は世につれ世は歌につれ」で、あらためて「ことわざ」の奥深さにも思い至った一年でした。

2014年12月25日木曜日

杉浦醫院四方山話―387『長八の宿・つげ義春と山梨』



 

   静岡県の西伊豆にある松崎町の町長と観光協会会長ご一行様が昭和町に視察にみえ、当館にも来館いただきました。松崎町と聞けば「長八の宿」ですから、勝手に親しみを覚えてしまいましたが、漫画家でエッセイストのつげ義春の名作「長八の宿」は松崎町に現存する旅館を題材にした忘れられない作品で、30年以上前に泊りに行ったのを思い出してしまいました。  

 

 松崎町には観光協会があるように夏の海水浴だけではなく、山も温泉もあり、魚も旨いと云う恵まれた風土ですが、鏝絵(こてえ)発祥の地にふさわしく、左官職人による「なまこ壁」の街並みも保存され、その一角には、豪商の館・中瀬家や長八美術館など見どころも多く、伊豆と云えば松崎町が先ず思い浮かびますが、平成の大合併で西伊豆町になったものと思っていましたが、昭和町同様単独行政を貫いているそうで、一層親近感が増しました。

 

 

 寡作で、ある意味マイナーな漫画家・つげ義春ですが、私たちの世代ではカリスマ的な存在でもありました。私事で恐縮ですが、狛江市と調布市にまたがる多摩川住宅と云う団地内の小学校に勤め先が決まった時は、多摩川住宅につげ義春が住んでいて散歩が日課のつげ義春に会えるのが楽しみでした。シュールな作品も身近な多摩川住宅の給水塔や狛江駅前のお寺や古本屋など舞台が特定できることも魅力でしたが、つげ作品のテーマは、一家の「日常」とつつましい具体的な「夢」とささやかな「旅」の3本柱で、自己を「無能な人」と否定する暗さで一貫していました。

 

 このようにつげ義春は、甲州弁で云う「ひっけ」な性格(内気・人見知り)を作品に表象した作家ですから、取材旅行に出ることも少なく、家族で行く近場の温泉や振り向きもされない鄙びた片田舎が「旅」のテーマでもありました。散歩コースの多摩川はじめ調布から安近短の千葉や静岡、山梨などが主な旅先で、北海道など遠い旅は一切してないのも特徴です。そんな訳で、東京近郊のうらぶれた街や山峡の侘びしげな宿、名も知れぬ温泉を好んで訪ね歩いていたつげ義春は、山梨もお気に入りの旅先でした。 

 

 まあ、山梨と云えば富士五湖だったり八ヶ岳南麓が観光スポットなのでしょうが、そう云った所には見向きもせず、有名なエッセイ「秋山村逃亡行」は、山梨のチベットと云われた秋山村ですし、「猫町紀行」は、甲州街道の野田尻宿の犬目宿を目指すもののたどりつけぬまま 「猫町」 を見たと云う幻夢的な作品ですが、これも上野原市の外れが舞台です。

 

 つげ義春の代表作「ゲンセンカン主人」は、群馬県の温泉宿がモデルのようですが、現身延町の下部温泉にも来ていますから、下部の元湯「源泉館」からの命名でしょう。

 

その他にも「塩山鉱泉」「田野鉱泉」「嵯峨塩鉱泉」「鶴鉱泉」など山梨県民でも知らないような温泉宿を訪ねては作品に残して、山梨への移住も考えた程でしたが、「歳とったら寒さは こたえるし、耕作も考えると、気候温暖、地味肥沃(ひよく)の千葉県などが ・・・」とエッセイに記しています。

 

 そう云えば、もう20年近く前でしょうか、つげ義春全集が刊行された折、昭和バイパスにあったブックス三国に申し込むと、店主のMさんが毎月職場に届けてくれましたが、そう云った街の本屋さんも消え、つげ義春本もアマゾンで購入する時代ですから、つげ氏が描かなくなったのも無理からぬことのように思えます。

2014年12月11日木曜日

杉浦醫院四方山話―386『アジア各国の獣医師研修会』

 アジア各国の獣医師が、科学技術振興機構(JST)の研究交流事業「さくらサイエンスプラン」で現在、麻布大学で研修活動を行っていますが、その一環として昨日35名の皆さんが来館し、日本住血吸虫症について研修をされました。

 

 事前に大学で、この病気について学んでからの現地研修会で皆さん獣医であることから、この病気と動物とのかかわりについての資料を用意して案内しました。

 

 桂田富士郎博士と三神三朗氏が、三神氏の愛猫「ひめ」を解剖して、初めて日本住血吸虫の虫体を発見したことや感染経路を確定する為に馬を甲乙二組に分け、甲の馬には、水を飲めないように口元を袋で覆って経口感染出来ないようにし、乙の馬は皮膚感染しないように四脚に防水装置を付けて、水田に放った百年前の実験から、当時主流だった経口感染説が覆り、寄生虫の皮膚感染が確定したことなどを写真を使って説明しました。

 

 また、健造先生が進めたアヒルやウサギ、ザリガニなど天敵によるミヤイリガイ殺貝活動など地方病終息に至るまでに動物の果たした役割の大きかったことも伝え、現代の機械化された日本農業も五十年前は人と牛や馬など家畜と一体だった映像なども観ていただきました。

現在もこの病の患者や患畜の多いアジア諸国で獣医として働く皆さんですから、寒い部屋も温かくなるほど熱心な研修会となりました。

 

 館内見学後、記念写真を撮りましたが、日本家屋の母家や庭園にも興味が尽きず写真撮影に忙しく、予定時間をだいぶオーバーして、次の研修地である北杜市の県酪農試験場へと向かいました。

2014年12月8日月曜日

杉浦醫院四方山話―385『杉浦家家相図-1』

 国や県が指定する文化財の建造物は多数ありますが、茨城県の水戸街道に面した土蔵造の造り酒屋「矢口家住宅」は、店蔵・袖蔵・元蔵の三蔵が並ぶ江戸時代の建造物で、家相図が7枚残っていることでも著名です。

この矢口家住宅の家相図は、天保9年(1838)から大正5年(1916)年のものまでで、増改築ごとに家相を観てもらい家相図に残したことから、内部の変化や歴史的背景が分って、建造物同様家相図も貴重な文化財になっています。


 県内でも富士吉田の「小佐野家住宅」と大月市の「星野家住宅」は、県の重要文化財に指定されている建造物ですが、両家には、「附家相図1枚」と家相図も一緒に指定されている表示が付いています。

また、南アルプス市の「安藤家住宅」には、家相図は残っていないようですが、「棟札」が母屋にあることから「附棟札1枚」の表記になっています。

家相図や棟札から建築年代が正確に判明できることも資料的に重要と云うことでしょう。


 

 純子さんから預かった資料の中から、下の写真のような「家相図」が出てきました。



 「明治5年12月」に「陰陽歴博士家大阪住 松浦翫古」の署名・捺印のある「家相方位鑑定図」です。  

現代ではあまり顧みられることの少ない「家相図」ですが、現在の杉浦家と重ね合わせてじっくり見てみると面白く、中国4千年の知恵に日本人の風土や経験値がなんらかの形で込められているのだろうと思えてきます。赤字で360度の方位を細かく分けていますから、方位学的なアプローチが基本なのでしょうが、そういう意味では、日当たりや通風なども考慮する合理性も加味されているようです。
 現代でも「家相図」まで作らなくても地形であるとか、地盤だとか方位、風向きなど「土地を読む」ことを自然にしていますから、「風水的」な検討が成されているわけで、「家相」という言葉を使うかどうかは別に必ず行われていることに気づかされます。

 

 杉浦家にこういう図面まで残されているというのは、風水に乗っ取った設計だった証でしょうが、大阪在住の陰陽歴博士に明治の初めに依頼していたわけですから、相当の金額が必要だったことは想像に難くありません。

 また、こう云った陰陽歴博士という職業も確立していて、実力さえあれば遠く甲州からも依頼があったことを物語っていますが、この家相図どおり現在は溝蓋がかかった水路ですが、杉浦家の南には川が流れていましたから、大阪の陰陽歴博士・松浦翫古氏は、当地にも足を運んで鑑定したのでしょうか?
さまざまな疑問や想像と共に思わずじっくりと見入ってしまった図面ですが、100年以上経過していますから、しっかり修復して保存、公開していくことも課題です。

2014年12月4日木曜日

杉浦醫院四方山話―384『昭和9年の新聞ー4 東京大学総合研究博物館 』

 健造先生の肖像額裏にあった昭和9年の新聞は、現在からすると面白い記事や広告で溢れてれていて、興味が尽きません。

地方紙に広告のあった「第十銀行」と「有信銀行」、「大森銀行」も戦時経済が加速する中で、軍需資金調達に追われた国は、「戦時非常金融対策実施要領」などで銀行の国家統制策を進め、新聞同様、銀行の「一県一行政策」を打ち出し、現在の山梨中央銀行一行に併合された歴史も知りました。



 広告にあった名も知らない「薬」の歴史を調べていく過程で、東京大学総合研究博物館の画像アーカイヴスと云う存在も初めて知りました。そこには、明治24年から昭和20年までの日本の新聞広告が3000点収録されています。

東京大学総合研究博物館小石川分館

 大学の博物館では、東京農業大学「食と農の博物館」と東海大学の「自然史博物館」は知っていましたが、東京大学にも入館無料で、こんな素晴らしい博物館があることも知りませんでした。

それでは、地元の山梨大学にも発酵生産というユニークな学科があることから「ワイン博物館」があるのかと検索すると「ワイン研究所」はありましたが、「ワイン博物館」はありませんでした。

まあ、東京大学総合研究博物館もスタートは「資料館」だったようですから、研究所から博物館への移行も可能でしょう。国立大学の博物館は、入館料無料が共通していますので、ワインの試飲も含めての山梨のワイン博物館なら、さぞ人気の博物館になることでしょう。

 

 東京大学総合研究博物館の画像アーカイブスを拝見して、何処かでこう云った資料を保存していかないと確かに残らない史料であることを実感できますから、財政力のある東京大学が幅広くカバーしていくのも一つですが、「食と農の博物館」のように特色ある学部や学科を活かした大学の博物館、例えば山梨大学の「ワイン博物館」以外にも山梨学院大学なら「カレッジスポーツ博物館」とか、身延山大学なら「仏像博物館」など、地方にも点在する方が全体としては面白いかなと思いました。  

杉浦醫院四方山話―383『『昭和9年の新聞ー3 花柳病 』

 昭和9年の2月20日前後の新聞を紹介してきましたが、東京朝日新聞は薬の広告が8割を占めていました。全面広告の「ブルトーゼ錠」をはじめ「肺ぜん息にイマジミン」や「生殖器障害に特効コムポルモン」、「感冒予防にわかもと」「虚弱児童に飲み易い肝油」「ひび・しもやけ・やけどにエゼン軟膏」等々症状に合わせた薬の広告に混じって「正義が勝って製薬の王者今や起てり!ホシ胃腸薬」と、勇ましいフレーズの広告もあります。


 一方、山梨日日新聞はじめ地方紙の広告主は、医院と銀行が8割です。昭和9年当時の医院は全て「醫院」表記で、開業医の広告ですから、「杉浦醫院」も探しましたが、広告を出す必要もなかったのでしょうありませんでした。


 中央紙の東京朝日新聞と地方紙の医院広告で共通した特徴は「花柳病(かりゅうびょう)」「花柳病科」と云った現在では目にしない病気の醫院広告の多いことです。

 
 日本の伝統的な交遊スポットを「花街(かがい・はなまち)」と総称し、高尚には芸子の存在もあり「花柳界」と呼んでいたことから、性病をオブラートに包んだのが「花柳病」でしょう。ですから、カルテには、花柳病と云う病名の記載はなく、淋疾(淋毒性尿道炎)、軟性下疳、梅毒の三つの性病のいずれかだったようです

 

 江戸時代の遊郭や兵士の性病予防の必要性から敷かれた日本の公娼制度は、GHQによる公娼廃止令が出るまで、売春を特定目的のためには有用なものと認め,いわば必要悪としてその存在を承認してきました。

公娼制廃止後も赤線地帯、青線地帯と云われた売春目的の特殊飲食店が集まった地域が温存され、その後もトルコ風呂と呼ばれた特殊浴場等を経て、「手を変え品を変え」の風俗店で、売買春は、現在まで綿々と続いているのは日本に限りません。いわゆる「従軍慰安婦」問題の困難さと本質もそこに集約されているのでしょう。


 医学の進歩や新薬の開発などで、病の主流も時代と共に変わり、現在では、花柳病も死語となりましたが、1958年(昭和33年)に売春防止法が施行されてからもこの菌は生き続けていると云われていますから、地方病同様、流行が終息しているだけで、根絶されたわけではないと云うことでしょう。

2014年11月30日日曜日

杉浦醫院四方山話―382『庭園の紅葉をお楽しみください』

杉浦醫院庭園の紅葉が見ごろを迎えました。庭園は無料でご自由に散策できますから、

是非ご覧ください。


2014年11月27日木曜日

杉浦醫院四方山話―381『昭和9年の新聞ー2 地方紙 』

 三郎先生が、父の遺志を引き継ぐ意味もあってか診察室に掲げた健造先生の写真額の裏には、前話で紹介した昭和9年2月20日付け「東京朝日新聞」と共に「山梨日日新聞」「山梨毎日新聞」「山梨民友新聞」の計4紙がありました。日付けも昭和9年2月15日、16日、18日と全て2月20日前の新聞で、当時の杉浦家ではこの4紙を併読していたことも伺えます。




東京朝日新聞は現在の朝日新聞ですし、山梨日日新聞も昔の名前で出ていますが、「山梨毎日新聞」は、現在ある毎日新聞とは無関係で、山梨の地方紙の一つでした。

 

 1931年(昭和6年)の満州事変から1945年(昭和20年)の敗戦までの15年間は、翼賛体制で軍国主義一色に染められた日本であったことは歴史が教えていますが、国民の世論を操作する上で、新聞等のマスコミへの統制も続きました。

その代表的な一つが「新聞統制」で、地方新聞を「一県一紙」体制にするのを目的に統合、削減を命じました。山梨県では、1940年(昭和15年)に「峡中日報」と「山梨民報」が、翌年の昭和16年に「山梨毎日新聞」が「山梨日日新聞」に統合され、山梨日日新聞が山梨の地方紙となりました。


 昭和9年当時は、杉浦家で4紙を併読していたように、県内には少なくとも4紙以上の地方紙や地域紙があったのでしょうが、6年後には、山梨日日新聞だけに統制されたことが分かります。

 9年当時の「山梨民友新聞」と15年に統合された「山梨民報」が同一紙なのか?今ある資料では断定できませんが、新聞統制で統合された山梨の地方紙には「山梨民友新聞」の名前は残っていませんから、「山梨民報」に変わっていた可能性大です。


 敗戦を機の民主化で、地方紙の「一県一紙」体制も解かれ、昭和21年には「山梨時事新聞」が創刊され、昭和44年までは、山梨日日新聞と山梨時事新聞の二地方紙があった山梨県でしたが、現在は山日新聞一紙の独占状態ですから、現象的には戦時中に戻ってしまった状況です。この選択の余地のない地方紙一紙状態は、県民にとっても心ある新聞人にとっても決して望ましい状況とは言えないのではないのでしょうか?

2014年11月26日水曜日

杉浦醫院四方山話―380『昭和9年の新聞-1 広告 』

 杉浦醫院には、健造先生が東京銀座・江木写真館で撮った額入り顔写真が、診察室を見守るように飾られています。来年度オープン予定の「山梨近代人物館」の準備作業を進めている県立博物館の学芸員が、健造先生のこの写真をスキャンするために来館しました。



 初めてこの額を降ろして中の写真を出しましが、写真の裏には額との厚さ調節に何枚かの新聞紙が入っていました。

下の写真は、昭和9年2月20日付けの東京朝日新聞の全面広告です。

 何時の時代も広告の命は見出しであることに変わりなく、ドーンと「迫る!試験地獄」のコピーに「すし詰め教室」で勉学に励む「生徒諸君」の写真で受験競争の深刻さを表出し、この「受験準備戦線」に勝ち抜くには「健康保持の秘訣」が必要であるとさりげなく謳い、「ブルトーゼ錠」が効く!と云うコンセプトで、「生命の源泉」でもあるブルトーゼ錠の連用で「如何なる難関をも突破せられよ」と結んでいます。

 この全面広告は、現在の「藤沢薬品工業」の前身「株式会社藤澤友吉商店」が出していますから、「親子数代で愛飲しているブルトーゼ錠」と銘打って、引き続き発売されているのが薬効かと思うのですが、私の世代(団塊)でも「ブルトーゼ錠」は記憶にありません。

殺菌剤として中国等で戦う兵士の水あたりなどの特効薬として愛用された「忠勇征露丸」が、戦後「正露丸」となって現在に引き継がれていますが、その服用については物議も醸していますから、戦前の栄養補給剤ブルトーゼも食糧事情が一変した現代では「信じられない薬」だったのかも知れません。


 健造先生は、昭和8年9月10日に村葬で送られ67歳の生涯を終えていますから、診察を見守る健造先生の写真額は、引き継いだ三郎先生が、約半年後の昭和9年2月20日以降に掲示したことが、この新聞で判明しました。 

2014年11月19日水曜日

杉浦醫院四方山話―379『皇太子生誕記念ピアノを使った院内コンサート』

 16日(日)に当館庭園では、実行員会「マイパラ」の主催で、「杉浦もみじ伝承の会」が開催され、500人余の参加者で、用意した4か所の駐車場では足りず、急遽アルプス通り沿いの駐車場を杉浦精さんに手配していただき、事なきを得た程でした。             このイベントに合わせ、主に横浜や鎌倉など湘南をフランチャイズに演奏活動をしている「ライトハウス・アンサンブル」のメンバーが、ボランティアで院内コンサートを開催してくださいました。

 ライトハウスアンサンブルは、バイオリンやチェロ、ビオラの弦楽奏団ですが、今回はプロピアニスト市田良子さんのご協力で、純子さんたち三姉妹が使った皇太子(現天皇)生誕記念家庭用グランドピアノを加えた特別プログラムを用意いただきました。

 

 純子さんも「まあ、すてき。この家も父や祖父もさぞ喜ぶことでしょう」と、会場に出向きピアニスト市田さんと手を取り合って挨拶を交わしました。 昭和4年に病院専用棟として建築された会場ですが、音楽コンサートまで想定して造られたわけではありませんから、演奏家には無理があったと思いますが、「演奏しながら歴史的な重みをひしひし感じ、経験したことの無い気持ちで演奏できました」と、轟さんからおっしゃっていただきましたが、聴いた方からも「アマチュアと言っていたけどレベルの高い演奏で楽しかった」と好評でした。

 

 この日のために正午からと2時からの二プログラムをご用意いただき、2時からの「言葉と音楽のコンサート」には、劇団昴の女優吉田直子さんの朗読も入り、内容的にもハイレベルかつ多彩なコンサートを開催いただきました。

 実行委員会マイパラとライトハウスアンサンブルの皆さんは、自分たちの活動を楽しみながら、参加した方々にも愉しんでもらいたいというメンタリティーが共通していました。

 予算や仕事でやるんじゃなく、付き合いや動員でやるんじゃない、「何をやるかやるのは自分」の判断で、時間はもちろんお金も自腹で参画しようという「やる気」こそ、「協働の町づくり」の原点であることを実感させてくれた今回のイベントでした。

 

 

2014年11月13日木曜日

杉浦醫院四方山話―378『伝染病と感染症』

  「うつる」病気の総称を感染症というのでしょうが、正確には、環境中[大気、水、土壌、動物、人など]に存在する病原性の微生物が、人の体内に侵入することで引き起こす疾患を感染症と云うようです。

  ヒトスジシマカが媒介する「デング熱」騒動がおさまったかと思ったら、「急速に感染者数を拡大している」と、今度は「エボラ出血熱」が、前例のない大流行であると報じられ、感染症が人々を不安に陥れていると言っても過言ではありません。


 過度?に衛生的な無菌、無臭社会が構築された現代社会ですが、約50年前の昭和36年の山梨県の感染症の統計を高橋積さんが提供してくれましたので、感染症への対応を考えたり、半世紀前の山梨を知る上でもご紹介しておきたいと思います。

 

 1998年(平成10年)までは「伝染病予防法」があり、赤痢(せきり)や疫痢(えきり)のほか腸チフス・パラチフス・ジフテリア・猩紅熱・ポリオ・日本脳炎などが「法定伝染病」として指定されていました。

すっかり聞かなくなった「赤痢(せきり)」と「疫痢(えきり)」は、赤痢菌が腸に感染することが原因で起こる感染症ですが、NHKの「花子とアン」でも花子の子は疫痢で亡くなったストーリーだったように一般的でした。大腸の赤痢が重くなって小腸にまで回ったものを疫痢とする分かりやすい分類もありますが、医学的に正しいのかは分かりません。

 

 この「赤痢」「疫痢」の昭和36年の山梨県の発生数は994例と1000人近くが感染し、疫痢で一人が死亡しています。この年の山梨県の「法定伝染病」の発生数は、赤痢を筆頭に合計1113例で、疫痢とジフテリアで、二人が亡くなっています。

 

 また、県民のカイチュウをはじめとする寄生虫の卵の保卵率も29%あり、「ムシクダシ」はポピュラーな日常薬でもありましたが、寄生虫対策が始まった昭和26年の寄生虫卵の有卵率は、95,8パーセントですから、県民のほとんどがカイチュウ等の寄生虫と共生していたことが分かります。学校での「検便」などの徹底で、10年後には29%へと激減し、現在では1%前後のようです。


 寄生虫病も感染症ですから、旧法定伝染病も含めると昭和36年当時の県内の患者数は、相当数になることが分かります。それらの反映として、昭和26年の日本人の平均寿命は、男60,8歳、女64,9歳、昭和36年には、男66,3歳、女70,79歳と推移して、現在に至っています。

 

 「伝染病」と云う言葉は「うつるんです」と、端的でいいと思うのですが、曖昧にボカスのが流行りなのでしょうか「感染症」に置き換わって、「伝染病」は物言わぬ動物、家畜に特化して「家畜伝染病予防法」として残っているのも不思議ですが、周りに感染者が多数いた半世紀前は、ニュースになることもありませんでした。

無菌清潔社会は、感染症の発症をニュース的価値にまで高めたことにもなりますが、それは「先進国」と呼ばれる国々のことである事実も見落としてはいけないことを統計は物語っているようです。

2014年11月10日月曜日

杉浦醫院四方山話―377『コレクション考』

  杉浦家は、初代・覚東氏が当地で江戸時代初期からから医業を営み、7代道輔氏まで漢方医で、慶応2年生まれの8代・健造氏は近代医学を学び、9代・三郎氏まで引き継がれた医業・医者の家系であり、この一帯の地主でもありました。

 杉浦家歴代が構築してきた家風は、医学に限らず、書や絵画を描き歌を詠み、蛍を愛で、茶を嗜む等々の文化的嗜好が顕著で、代々が収集してきた書画骨董をはじめ「杉浦コレクション」と呼ぶにふさわしい収蔵品が残されています。



 「コレクション」は、本来の実用的な機能から切り離されて、日常とは別の体系に組み込まれているモノを云いますから、杉浦醫院に多数残る「カルテ」は、医者には必要な実用品でしたから、杉浦家のコレクションとは言えませんが、風土伝承館杉浦醫院にとっては、史料的価値のあるコレクションとなります。

また、売るために集められた品物の集合もコレクションではありませんから、旧温室に展示してあるマルヤマ器械店から寄贈された医療機器も丸山さんにとってはコレクションとは言えませんが、当館にとっては、カルテ同様貴重なコレクションと云えます。

 

 同時に、「杉浦コレクション」として保存していく場合は、構成する品物の集合が特別な庇護のもとに置かれていることも大切な要素となります。

杉浦純子さんから町にご寄贈いただいた杉浦家の収蔵品は、より良い保存と必要な修復など「特別な庇護」が町には求められます。杉浦コレクションを保存しながら公開していくために町では、土蔵と納屋をギャラリーへと改修工事を行ったのもその具体化の一つですし、一点一点写真に撮り、寄贈品目録の図録化作業を進めています。

 三郎先生の長女・純子さんと二女郁子さん、三女三和子さんはご健在で、純子さんは東京在住の妹さん達とよく電話で話していますが、純子さん同様妹さんたちからも「町で残してもらうのが一番だから、私たちは何もいらない」とおっしゃっていただき、現在に至っています。


 

 ここに来て、純子さんのもとには「町にやるなら、私に譲って欲しい」と云う要望も多いようですが、個々の収蔵品が個人に散逸した場合、集合体としての杉浦コレクションの価値は落ちますし、個人に渡った品の行く末も案じられます。


 昭和町西条新田に江戸時代から続いた杉浦家が代々医業を営み、この地の風土病であった地方病の研究治療の第一人者として患者を救い、地域医療に貢献しつつ文化的趣味生活の一環として価値ある品々を収集してきた証が、杉浦コレクションです。

モノには,本来それにふさわしい場所というものがあります。「取らずともやはり野に置けレンゲソウ」の句を出すまでもなく、その辺については、相続争いして分散していた文豪のコレクションも最終的には公共施設に寄贈され、記念館となった例など歴史的教訓も多数ありますから、杉浦家の意志を尊重されるよう切に望みたいものです。

2014年11月6日木曜日

杉浦醫院四方山話―376『土蔵の建築年が判明』

  純子さんは「お蔵は、母屋(明治25年築)の後に建てたそうですから、明治の終わりか大正時代の建築だと思います。納屋はお蔵が手狭になって建てたようですが、新館(昭和4年築の病院棟)より前ですから大正時代だと思います。」と、土蔵と納屋の建築について教えてくれましたが、確かな建築年は不明でした。



 新たに純子さんから預かった手紙や写真などの資料の中に土蔵新築に伴う石屋さんの領収書があり、土蔵の建築年が確定できました。

 手書きの領収書は、「甲府市穴山町 志村三代蔵」と云う石屋さんのもので、「土蔵下に入れた山崎石の代金や石工十五人の工賃、セメント代金」等が記載され、「明治四十五年三月七日」とあります。

 

 登録有形文化財の申請をした折に来た文化庁の調査官も「明治後期から大正にかけての典型的な土蔵づくりの建物」と評していましたから、符合します。


  明治45年は、1月から7月までで8月以降は大正元年でもありますが、この時代の「六拾参円」が、現代の幾らに相当するのかはモノによっても違い換算は難しいようです。

例えば、明治45年の白米10キロは、1円位だったそうですから現在は約3500倍位になっているわけですが、消費者物価等の統計資料を単純に換算すると明治末期と現代では、約8000倍となるようで、これも家などの建築費になると大工さんの賃金も入ってきますから、単純には比較できないようです。


 杉浦家に残る古い資料を拝見していつも感心するのは、この時代に書かれたものは全て達筆な手書きであることです。石屋の主が記した(であろう)この杉浦様宛の領収証もご覧の通りです。

 

 和紙に墨の毛筆が主要な筆記具であった時代には、専門書家以外にも数多くの能筆の人が存在したわけで、それらの人たちの書は、決して書家と呼ばれる専門家の書に劣るものではないように私には思えます。書家の字が見事なのは当たり前ですが、市井の石屋が仕事の一環で書いたこのような書を目の当たりにすると、この人たちは、自分が能筆であることは意識していたかも知れませんが、書家になろうなどとは考えたこともなかったのが、またとても素敵なことだと思えてきます。

2014年10月29日水曜日

杉浦醫院四方山話―375『言葉と音楽のコンサート・もみじ伝承の会』

 今回の「杉浦もみじ伝承の会」は、実行委員会「マイパラ」の企画を基に進んできましたが、この日に合わせて、湘南から自主的に参加して演奏会を開催していただく話が急遽まとまりました。これは、杉浦精さんの従兄弟の方とご一緒に来館された轟秋彦さんの提案によるものです。

 

 轟さんは「ライトハウス・アンサンブル」と云う楽団を組み、横浜や鎌倉、都内などで演奏活動を続けて10年になりますが、当ホームページで、昭和8年にYAMAHAが製作・販売した皇太子生誕記念家庭用グランドピアノの存在を知り、実物の見学を楽しみに来館されました。

 

 さっそく、ピアノの調律具合を調べ演奏可能かどうかを判断し「是非このピアノを使った院内コンサートを」と進み「私も杉浦さんと同じ製薬会社の社員で、アマチュアの音楽愛好家なのでノーギャラで構いません。アンサンブルのメンバーもみな同じ思いですから、何かのイベントに合わせて開催できるといいんですが・・」で、「11月16日にもみじ伝承の会が予定されている」旨を話すと、即断で「その日に合わせて来ますから」とトントン拍子でした。

 

 

 その後もメールで進捗状況を報告いただき、轟さんの弦楽四重奏にプロのピアニスト・市田良子さんを加えての演奏会になることや劇団昴の女優・吉田直子さんも趣旨に賛同いただき、演奏の合間に語りや朗読が入る「言葉と音楽のコンサート」になるなど内容が一層濃くなってきました。

  轟さんによると「ライトハウス・アンサンブル」と云う名前も「湘南の海を照らす江の島灯台(=ライトハウス)のように、音楽の灯で街角を照らしてみたい」と云う思いからだそうで、湘南の地に誕生して間もなく10年の節目を迎える「ライトハウス・アンサンブル」が、海の無い山梨の昭和でも音楽ボランタリーで明るく灯していただけることをうれしく思います。

 

 当日は、午前10時から三科紗知さんの「魂の歌声」、11時から林法子さんの「優しい琴の音」、12時から「ライトハウス・アンサンブル」の「言葉と音楽のコンサート」、13時から「山梨が誇る若手津軽三味線奏者 福島孝顕さんの独奏」と、音楽イベントも連続して楽しめます。

 

 今回は試験的取り組みで、何かと行き届かないことも多々あるかと思いますが、女優吉田直子さんは、他のステージでも必要でしたらと、ご活躍いただけるとか・・・・実行委員マイパラの皆さんはじめ参画者が、臨機応変に盛り上げていこうと云うの献身的な姿勢での開催ですから、天気さえ良ければ、紅葉を愛で、和文化を堪能いただける身近な行楽イベントとしても乞うご期待デス。

2014年10月26日日曜日

杉浦醫院四方山話―374『もみじ伝承の会に出品の町内作家』

 先に押原中学校で、昭和町内にお住いの坂本泉さんと三枝史博さんの作品展が開催されました。

 坂本泉さんは、押越で「子ども造形教室」も主宰し、当館や町のホタル観賞会でも子どもたちが大型紙芝居で、杉浦父子や地方病とホタルの関係を上演していただいたりしてきました。

また、甲府市にある実家の医院をギャラリーと宿泊施設にかえ、海外の作家が滞在しながら作品を描き、発表するという「アーティスト・イン・レジデンス」の活動にも取り組み、アートを通して相互の文化交流を図っています。既に約20カ国からのアーティストを受け入れ、地域でアーティストと住民の交流を図り、甲府市を盛り上げる活動となって定着しています。

坂本さん自身も現代美術作家として多くの作品を発表していますが、今回の「杉浦もみじ伝承の会」は、「和」に限定した作品ということもあり展示はありません。


 今回、作品を展示いただく「絹彩画」の三枝史博さんは、河東中島の神輿保存会にも所属する若い作家です。

古い着物や桐ダンスなど和の素材を活かすのが特徴ですが、技術的にも「らでん」や「象嵌(ぞうがん)」と云った和の職人芸に近いモノがあるように思います。日本でも希少な絹彩画の作家として、介護施設で働きながら町内で作品作りに奮闘中と云う縁で、神輿保存会のメンバーからもあつい応援を得ています。

聞き慣れない絹彩画ですが、本物の良さは実際に観てみないと分かりませんから、ネット上にも作品は載っていますが、是非、当日足を運んで、実物をご鑑賞ください。


 

 「ハコ・テキスタイル」と云う言葉も新鮮ですが、ハコは箱で、テキスタイルは織物ですから、和の織物箱と云った所でしょうか?

この「ハコ・テキスタイル」は、「Haco Textile」名で、三越等で販売されている昭和町発の作品です。作っているのは、紙漉阿原にある森工業写真社の森昭子さんで、印刷業で培った技術を応用した作品で、私も名刺入れに愛用しています。

 

 若林よしこさは、杉浦醫院の地元・西条新田にお住まいで、義父の写真家・若林賢明氏同様フォトグラファーですが、「観ると幸せになる写真」がテーマで、当日6点のハッピーフォトが展示されます。

 

ハッピーな気分で、ヘルシーな上に栄養満点でおいしいお麩などお召し上がりいただくと幸せ感も倍増されます。「麩」と云う和食文化を昭和町で伝える岡田屋さんの出品にもご期待ください。 

2014年10月23日木曜日

杉浦醫院四方山話―373『雀のお宿・もみじ伝承の会』

 「毎週の台風で仕事が出来なかったから、もみじの会へ出そうと思って作った巣箱だけど」と、新装建設の笹本社長が、「雀のお宿」を制作し、庭園内に設置してくださいました。


 「家にあった古瓦と檜の木端で作った道楽だけど、11月16日は、安協の研修会と重なって出られないから、今年は作品だけ観てもらって、来年もやるんだったら数を作っておくから」と、当館庭園のもみじの紅葉に合わせ来月16日(日)に開催される「杉浦もみじ伝承の会」に笹本さんも参加しようと試作した本格的巣箱です。

 「最近、ギャーギャー(ひよどり?)ばっかりで、すっかり雀が少なくなったから入り口は雀専用に小さくした」と、二種類の雀のお宿が建ちました。


 上のお宿は、「平屋 二世帯」と説明もあるように平瓦を屋根に入り口も二つに分かれ、中もしっかり壁で仕切られています。

下のお宿は、屋根も丸い小じゃれたお宿で、エサのお米も用意され至れり尽くせりのワンルームです。

笹本さんは、河東中島神輿保存会のリーダーでもあり、新しい神輿を手造りしたことでも知られていますから、巣箱くらいはお手の物でしょうが、古瓦に合わせた自在な部屋は、やはりプロならでの作品です。


 このように自分の作品を展示して多くの方に観てもらい、欲しい方には頒布すると云うコンセプトで、今回20数名の作家が杉浦醫院庭園にブースを設け、紅葉を楽しみながら秋の一日様々な交流を深めようと企画されたのが「杉浦もみじ伝承の会」です。

女性3人の実行委員が「和」にこだわった作家を厳選し、相応しい会場を探した結果、当館庭園での開催を要請されたのを機に、実行委員会「マイパラ」と当館の協働として、今回試験的に開催することとなりました。


  過日、白州台が原で3日間行われた「第10回台が原市」は、5万人以上の客で賑わったそうですが、今年で10年目になる恒例行事も地元の山梨銘醸やJA梨北などが協働して作り上げてきた結果、今年は全国から集まったクラフトや骨董の店舗が旧街道沿いに150以上並ぶに至ったようです。



 地域に開かれた公園としての活用も目的に整備された杉浦醫院庭園は、スペースも限られていますが、国の登録有形文化財に指定された5件の建造物を背景に和の伝道師が集い、「琴」「声楽」「津軽三味線」の音楽家による生演奏会も随時開催して、当館にふさわしい文化イベントにしていこうと云う実行委員のしっかりした姿勢が、多くの賛同に繋がっているのでしょう。急遽、東京からノーギャラで出演していただけることになった弦楽四重奏団<ライト・ハウス・アンサンブル>や町内の参加作家について、次話でご紹介いたします。 

2014年10月22日水曜日

杉浦醫院四方山話―372『有楽流・秋の茶会-2』

 床の間の次ぎは、実際に茶を点てた今回の茶道具をご紹介します。

2年前の11月に開催された茶会では、座敷に炉が切られ、五徳の上に茶釜が設えてありました。

 今回は、ご覧のように炉は無く、風炉に茶釜です。この違いは、茶会が開催される月によって違ってくるようで、これも客人への細かな気配りの一つです。

11月から4月の寒い季節には、炉に炭を入れ暖をとれるようにし、5月から10月の暖かい季節には客人から炭を遠ざけるよう風炉を使うという「おもてなしの心」が、炉と風炉の使い分けになっているようです。

ですから、同じ秋の茶会でしたが、前回は11月25日に開催したことから炉を使い、今回は10月19日でしたから、風炉を使ったという茶道正傳有楽流と云う名称どおり「正傳」に則っていたわけです。

 

 この風炉と釜は、純子さんが有楽流の一線を退くにあたり、有楽流山梨支部に寄贈したものだそうですが、この風炉は形から「窶(やつれ)風炉」と呼ばれ、風炉の欄干や口縁部などが破損したり、欠けたような形になっていることから、欠風炉(かけぶろ)、破風炉(やれぶろ)などとも呼ばれているそうです。

 鉄製の風炉は、腐食で口縁部などが欠け落ちても茶人はそこに「風情」や「枯れ」などの深みを見出し、そのままか割れを継いだりして、その「詫びた景色」を愛でたのでしょう。

江戸以降は最初からやつれたものを作り、欠けた所から炭の暖もほのかに取れることから10月の名残のころには、この窶風炉を使うのが正統のようですから、5月から10月の風炉の季節でも開催月によって違う風炉を使うと云う茶道の「深さ」に驚いてしまいます。

 

 また、風炉の先にある「風炉先屏風」にも有楽流の桐の紋が彫られていたり、手前の「水差し」や「なつめ」「茶杓」など細かに観ていくととても書き切れませんので、これらの茶道具を使って清韻亭で開催された秋の茶会の雰囲気を写真でご鑑賞ください。

 

 

 

 

2014年10月20日月曜日

杉浦醫院四方山話―371『有楽流・秋の茶会-1』

 一昨年に続き、19日(日)に母屋の座敷・清韻亭において、純子さんも長く師匠として活躍された有楽流の秋の茶会が開催されました。

純子さんは「私はもう歳ですから引退した身ですが、ここでやると参加者も多くなるというので会場をお貸しするだけで・・・何も出来ませんが」と控えめにおっしゃっていましたが、昔からの社中の方々との再会も愉しみのようでした。




 前回の清韻亭での秋の茶会は、お釜をはじめとする茶道具から掛け軸まで全て純子さんのコレクションでの開催でしたが、今回は、有楽流山梨支部の品や会員の所持品での開催でしたので、ご紹介します。


 

 茶会での床の間は、その席主の想いが込められたものだそうですから、先ず床の間の品々です。今回は武川会長の茶軸と季節の花と香合をバランス良く配した設えになっていました。

この三点の組合せで、床の間全体が一つの小宇宙になるようですが、これは着物と帯と履物の組合せと同じで、一つひとつ単独で観る時と組合せて全体で観るのとでは趣も変わってきます。

 「茶軸は、天祥作の紅葉です」と歌の解説もいただきましたが、書に見とれてはっきり覚えていません。奈良の紅葉の名所・龍田川の秋を歌ったものでしょうが、漢字とかなのバランスと右上から左下に流れるような構成は、龍田川を表出しているかのようです。

 同じ龍田川の紅葉を歌ったものでは、六歌仙の一人で、平安時代きっての色男として伊勢物語では「昔男ありけり」と謳われた、稀代のプレイボーイ・在原業平の『千早(ちはや)ぶる 神代(かみよ)もきかず 龍田川(たつたがは) からくれなゐに 水くくるとは』が有名ですが、これを機に「天祥」についても調べてみようと思います。

 

 紅葉の茶軸に秋の花九点を活け、虎竹の籠で包んだ見事な季節の花で、ミニザクロまで盛られている花々の名前もご教示いただきましたが、これもうっとり見とれていて覚えていません。   挙句に「秋の花でこういう感じにと花屋さんに注文するんですか?」とバカな質問をして「お茶をする者は花も活けますから、これも自分たちで活けました」と。同席したM氏も「そう云えば、うちの庭にみんなあるような花だ」と発しましたが、どこにでも咲いている季節の花も活け方のセンスでこのように絵になるのでしょう。

 

 帛紗(ふくさ)の上の「香合(こうごう)」です。帛紗は、着物の帯にはさんで茶道具を拭い清める絹の布ですが、他の流派では帯の左側にはさむのが一般的ですが、武家の茶道・有楽流では左側には刀が入りますから右側にはさむそうです。帛紗の折り目には、紫色の有楽の桐の紋と白く織田家の木瓜紋(もっこうもん)が配されています。織田家にはいくつもの紋があるようですが、お茶のときは、桐の紋を使ったことから有楽流の紋になっているようです。

 香合(こうごう)は、香を収納する蓋付きの小さな容器の茶道具です。今回の香合には雁が三羽舞っていますが、お茶菓子も「月に雁」の饅頭、箸も花籠と同じ虎竹で統一されるなど細かな所まで気配りが行き届き「だいたいでいいやダイタイデ」と云った大雑把な人間には窮屈でもありますが、大変勉強になり、あらためて「茶道は日本文化の総体」を実感しました。

2014年10月16日木曜日

杉浦醫院四方山話―370『病院の博物館』

 過日、静岡県からお一人で来館されたYさんは、ネットで当館のことを知り、「博物館のように見学できる病院は無いんで来ました」と来館動機を教えてくれました。

確かに当館のメイン名称は「杉浦醫院」ですから、「杉浦醫院〇〇です」と電話対応もしています。Yさんから見学予約のFAXが届き、記載されていた電話番号に予約受付の返答をした折も母親らしき方に「杉浦醫院の××と申しますが、〇〇さんいらっしゃいますか?」と尋ねると、「えっ留守ですが、何か?」と不安気な声に変わり、用件を話すと「病院からなので、何かあったのかとびっくりしました」と子を思う母の自然な思いが電話越しにも伝わりました。



 「塩の博物館」「自動車博物館」「タバコ博物館」「寄生虫博物館」等々ありとあらゆるジャンルの博物館や資料館がありますが、確かに病院や医院がそのまま見学施設になっている所は、日本では、数年前に開設された東京大学医学部にある「健康と医学の博物館」位しか思い当りませんから、Yさんのご指摘の通り、杉浦醫院の医院棟は昭和初期の医院が見学できる貴重な存在です。


 医学や医院の博物館として有名なバンコクの「死体博物館」は、東アジア最大のシリラート病院に隣接した博物館です。このシリラート病院の敷地には、「法医学博物館」「解剖学博物館」「寄生虫博物館」「病理博物館」「タイ医学歴史博物館」「先史博物館」と六つもの博物館があり、タイ観光の目玉にもなっています。

この中でも特に「法医学博物館」は、通称「死体博物館」と呼ばれ、病気で死亡した人の臓器や奇形胎児のホルマリン漬けなど衝撃的なものが展示されていることから「死体博物館」と呼ばれるようになりました。

こんな展示は、序の口で・・・・・・

  怖いもの見たさの好奇心旺盛な人には人気でしょうが、この種のものが得意ではない方にはおぞましい展示内容で、賛否が分かれたり物議を醸して有名にもなりました。

 もともとは、タイの国民性として死体を忌み嫌う習慣が無いことから、事故現場などの死体や死体写真集を日常的に見るというタイ人の習慣が、この博物館の誕生につながったようですから、現代日本では、せいぜい「寄生虫博物館」まででしょう。


また、病院や医療に関わる展示をして博物館としているのではなく、ロンドンやパリにある博物館は、病院だった建物に価値と人気があり、博物館となっています。

 杉浦醫院医院棟は、日本住血吸虫症の研究、治療の足跡が辿れ、かつ昭和4年築の開業医の建造物としても国の登録有形文化財に指定されていますから、日本国内屈指の病院見学施設と云っても過言ではないでしょう。

2014年10月8日水曜日

杉浦醫院四方山話―369『新着映像・NHKまるごと山梨』

 2日の団体見学は、昭和町母子愛育会のメンバーでした。その直前にNHK甲府放送局のYデュレクターから、「まるごと山梨」で放映された長田アミナ・ウスマンさんを紹介した録画映像が送られてきました。

  愛育会員は、一日研修会の一環で見学時間は45分と限られていましたから、当館の見学者用DVD映像15分をご覧いただくと、土蔵を含めた見学時間が少なくなってしまうこともあり、とっさに約5分の新着映像を観ていただくことにしました。

幸い、全員の方がその番組は観てないということもありましたが、何より長田さんの「自分が少しでも社会のお役にたてる仕事をしたい」と思って生きてきた99年の人生は、愛育会役員と云うボランティア活動に時間をかける方々と重なる部分があるように思ったからです。 

見学時間は、最低でも1時間ないと・・・町内の皆さんですから、もう一度たっぷり時間をとってお越しください

 9月18日にNHKの「まるごと山梨]で5分間放映された内容は、長田さんの全体像の紹介で、当館で収録した部分は入っていませんが、11月7日放映予定の25分番組では、インドネシア独立運動の具体的な話で、応接室で4時間に及んだ収録映像がメインになるかと思います。

5分とは言え、「山梨出身でこんな立派な生き方の女性がいたのか」と放映後、キャスターがもらした率直な感想に全てが象徴されていますが、長田さんのひと言ひと言の重みと映像の力に驚く内容です。

 

 圧巻は、 10月4日に百歳を迎えた長田さんの最後の言葉でした。

「生き方のモットー」を問われ「お互い助け合って平和に暮らさなきゃ」に続き「せいぜい100歳しか生きない人間が殺し合ったんじゃしょうがない」。

 山梨でも長田さんのことを知らない方が多い現状ですが、テレビ東京も取材を始めたとのことですから、長田さんの人生がもっと広く周知されれば、ノーベル平和賞にノミネートされても不思議はないと思います。

長田さんには、もっともっと長生きしていただいて、山梨県人初のハレのニュースにもご登場願いたいものです。


PS:NHK甲府放送局のYデュレクターから電話で、25分編成の番組は、予定通り11月7日(金)の「クエスト山梨」での放送が決定したそうです。

2014年10月5日日曜日

杉浦醫院四方山話―368『来館者素描-2』

前話がちょっと重たい来館者の話でしたので、今回はアットホームなBさん親子の素描です。

まあ、「アットホーム」なんて言葉も簡単に使いましたが、「具体的なイメージや意味も人によってだいぶ違うんだろうな」とふと思い、同じように「家族」も当たり前の共通理解があるようで、実は個々には違っているのかも知れません。

 

  一時期「サルもの」と分類された書籍がよく出版されましたが、京都大学の山極寿一教授がサルやチンパンジー、ゴリラとのフィールドワークを重ねて書いた本が好きでした。

 山極氏から「子育てをするサルはいるが、父親であり続けるサルはいない。人間の家族はオスが父親になることで出来上がった訳で、家族は人間にしかない」ことを教えられ、子どもの目途が付いたらサルのように自由に放浪したいという思いが強くなったのを覚えています。

山極 寿一(やまぎわ・じゅいち) 1952年生まれ。京都大学大学院理学研究科教授。日本霊長類学会会長。長年にわたり、野生のゴリラやチンパンジー、ニホンザルの社会的行動を調査するとともに、その保護活動を行ってきた。主な著書に『暴力はどこからきたか』(NHKブックス)、『ゴリラ』(東京大学出版会)、『家族の起源』(東京大学出版会)、『人類進化論-霊長類学からの展開』(裳華房)、『サルと歩いた屋久島』(山と渓谷社)など多数。
京大学長より一研究者がお似合い?

しかし、山際氏は「人間は共同で長い時間をかけて子どもを育てるから、そこに共感が生まれ育って家族が誕生したと云う文化的、生物学的進化の賜物である」と、私のような浅学にクギを刺してくれました。

そういう意味でも「個人主義に突き進み、格差を生み出している現代の人間社会は、利益を重視し、ヒエラルキーを構築するサルの社会そのもので、人間社会がサル化してきた」と警鐘を鳴らす山際氏の危惧は一貫しています。

 

  アットホームな来館者Bさん親子は、この山極氏を思い出すに余りある方でした。

定年で一線を退いた父親と娘さんがご一緒に来館され、「全く家族だけで読む家族新聞を作っているので、写真を撮ってもいいですか」と、それぞれが展示物や館内を熱心に撮影していかれました。

インターネットのHP等で、手作りの家族新聞を紹介している人が増えていると云う話は知っていましたが、「家族だけで読む家族新聞」を成人した家族で発行していることに驚きと新鮮味を感じました。

同じ杉浦醫院を見学しても60代の父と30代の娘では、記事にしたい視点も違ってきて、それを新聞に載せることで、家族全体でその違いを認め合ったり、違いを楽しんだりしているのでしょう。

「人間にしか造れない家族であればこそ、時間をかけて一層良い家族を構築していこうと云う具体的な営み」が、Bさん親子の家族新聞取材見学だったのでしょう。

 

 最近は、「おひとりさま」と云う言葉も一般化するほど家族をつくらず個人で生きていくスタイルも増えていますが、山極氏は、「それは危険だと思います。家族という集団に縛られないことで自由になれるかというと、実はそうではありません。個人のままでいると、序列のある社会の中に組み込まれやすくなってしまうのが現実なわけです。それはまさにサルと同じ社会構造です」と、裁断していますから、Bさん家族は、山極氏のベスト推奨家族と云っても過言ではないでしょう。

 

 「是非、ご迷惑でなかったら私にも読ませてください」とお願いして、ピーピング癖を晒してしまいましたが、覗きたくなる魅力をBさん親子が醸していたのは確かです。

2014年10月1日水曜日

杉浦醫院四方山話―367『来館者素描-1』

 10月は、団体の見学予約が多いのですが、夏休みから9月に掛けては個人の来館者が多く、案内しながら個人的な話も伺えたりして団体客とはまた違った面白さもありました。

そんな訳で、ここ数カ月の来館者の素描を試みてみたいと思います。


  「一番怖いのは人間」と言い切ったAさん。


Aさんは、箱バンと俗称されている軽自動車のワンボックスカーで、身延方面から52号を上って来館されました。「私は、全国の市町村に行って見学するのが仕事みたいなものだけど、必ず役場に行って、職員にお勧めのスポットを紹介してもらい道案内もしてもらいます」と云い「昭和町役場で、ここを紹介されて来ました」と。「見学時間のご予定は?」と聞くと「時間はたっぷりあるから、いくらでもいいよ」との返答から、「個人情報」に立ち入った話になりました。

 

 要は、善意から間に入った仕事で労務災害が起き、一命を取り留めた方の親族から「責任を取れ」と脅迫が続き「家に居られない状況となって、車で全国を転々としながら、ホトボリが冷めるのを待っている」身であることを語ってくれました。

「だから、時間は十分あって、障害者手帳を交付されているから、博物館や美術館は無料だったり、割引があるので、この際全部周って勉強しようと思いたった」と明るく話してくれました。

「ホテルや旅館に泊まる金はないから、あの車で寝泊まりして、昨日静岡県から身延町に来て、しばらく山梨県内の未だ行ってない市町村へ行って、長野県に行く予定」とのことでした。

 このように山梨県も既に3回目だというAさんは、全国の資料館や博物館などを観ているので、随所にその勉強の成果が発露され、「日本住血吸虫」についての知識もあり、質問も鋭い内容に終始しました。


 そのAさんから帰り際「あなたは、この世で一番怖いモノは何ですか?」と問われ、「うーん、怖いもの・・・一番・・」と、正面切って聞かれると「この歳になると死も身近で、怖くもないし・・」と窮してしまいました。

すると「あなたは、幸せですね。私は人間ほど怖いモノは無いと思っています。こんなに豹変してしまうのかと云う人間不信を経験しないで済む人は幸せです」と、しっかり目を見ながら諭されました。

 

 有名な西郷隆盛の教えに「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也」がありますが、命も、名も、地位も、金もいらぬというような人は、大人物過ぎて処遇するのが難しいが、こういう「俗欲」で動かない人は、誠、仁、義といったもので動くから、そういう人でなければ、困難をともに克服して、国家の大業をなすことはできないんだと云った教えかと思います。確かに、このような大人物はなかなか居ませんから、「この世」は「金など俗欲で動く人間の集合体」であれば、Aさんの「人間ほど怖いモノは無い」は、リアリズムに満ちた箴言として届きました。 

2014年9月25日木曜日

杉浦醫院四方山話―366『保健文化賞と莨壺(タバコツボ)』

 1950年(昭和25年)に創設された「保健文化賞」は、医療や高齢者・障害者の保健福祉などで顕著な実績を残した団体と個人に贈られる、この分野では国内で最も権威ある賞とされ、厚生労働大臣名の表彰状を受け、贈呈式翌日は皇居で両陛下と面会するのが恒例となっています。


 創設された翌年の昭和26年、保健文化賞を受賞したのが、杉浦三郎先生です。純子さんも「父は、田舎の一開業医で、この賞をいただいたことに本当に感激したようで、後の叙勲よりこの賞状の方が医者冥利に尽きると素直に喜んでいました」と話してくれました。

下の表彰状等は筒に入ったままで、掲示されたことは一度もなかったそうですから、三郎先生の性格、人柄が偲ばれます。 


 純子さんから、「整理していたらこんなモノも出てきました」と新たな箱入りの品が届きました。木箱の表には「彫金莨壺」とあり、裏には「洋」の署名が入っています。莨壺の丸蓋には、丸く「第三回保健文化賞」と彫金が施され、壺の部分には鯉が彫られていて、中に保健文化賞の共催である朝日新聞厚生事業団の名前で、この作品の彫金家・信田洋氏のプロフィールが入っていました。



 信田 洋(のぶたひろし)氏は、明治35年東京生まれで、平成2年85歳で死去した昭和を代表する彫金家です。東京美術学校(現・東京芸大)を卒業し、昭和5年の帝展で初入選、昭和9年には<蒸発用湯沸瓶>で特選、26年芸術選奨、35年からは日展審査員・参与をつ とめた「日本の彫金界の重鎮であります」と書かれています。  


 今まで、母屋の茶箪笥に入っていたようですから、茶道具にも見えますが、作者が意図したのは「莨壺」ですから、タバコを湿気ないようにこの壺に入れて、蓋を開けては一本取り出して、至福の時間を味わうと言う、タバコが立派な文化的趣向品としての歴史を秘めていることを実証するものでもあります。

 三郎先生は、愛煙家として生涯タバコを手離さなかったそうですから、この副賞もさぞお気に入りだったと思いますが、表彰状同様あまり拘りや執着心は無かったのかも知れません。 

それにつけても厚生大臣名で第一生命が主催する天下の「保健文化賞」副賞が「莨壺」だった昭和26年から60年後の禁煙日本。ホントにタバコはそんなにワルイのでしょうか!と素晴らしい莨壺を観ていると、<喫煙文化>の長い歴史の前で、声高の<禁煙ヒステリー>の浅さが浮き彫りになってきます。

2014年9月22日月曜日

 杉浦醫院四方山話―365 『9・19 朝日新聞』

 この夏から秋は、マスコミでは「デング熱」と「朝日新聞叩き」の報道が続き、現在も進行中です。そんな中、「デング熱患者数は去年は249人、今年は81人であるのになぜこんなに報道が加熱するのか?何かを隠ぺいするためではないか?」と云ったブログが、フェイスブック等で拡散され、「代々木公園で開催予定の大規模な反核集会を潰すため」とか「テレビ朝日ニュースステーションディレクターの怪死を隠ぺいするため」等々が流布されました。

 その後、このブログは、データの読み間違いによるデマ情報と裁断されましたが、正確なところは、今回デング熱が騒がれているのは、海外渡航歴のあるデング熱患者は、去年もいたが、海外渡航歴のない人がデング熱を患ったのは戦後初で、日本国内のヒトスジシマカが媒介したこの疾患による患者の発生は、70年ぶりということのようです。

 しかし、昨年も海外から国内に戻って、200人以上が発病していたとする報道は聞きませんし、グローバル社会で疾患も海外渡航歴の有る無しで大きく違う報道の在り様もどうかなぁーと考えさせられ、あながち「陰謀説」とも云えない貴重な情報でもありました。



陰謀論とは何か (幻冬舎新書)  このように、広く 人々に認められている事実や背景とは別に、何らかの陰謀や策謀があるとする見解を「陰謀説」と言いますが、自ら「陰謀論とは何か」という著書もある副島隆彦氏も「陰謀家」と揶揄されることも多い評論家です。

 副島氏が「陰謀家」と評されるようになったのは、35年前のアポロ計画で人類が初めて月面着陸に成功したという定説に、「アポロ計画は、世界中を騙すアメリカのショーだった」と「人類の月面着陸は無かったろう論」を著してからでした。この副島説は、未だ蒸し返したように採り上げられたりしていますが、副島氏は「自説が間違いであった証拠が出たら文筆家としての筆を折る」と、現在も自説を曲げていません。


その副島氏が、ネットサイト「副島隆彦の学問道場」の中で『安倍改造内閣は、第二次 "統一教会” 内閣である。』と題したブログで「朝日新聞は、謝罪などする必要は全くない」論を展開しています。

上記サイトで読んでいただく方が副島氏の正確な論旨が伝わりますから要約は控えますが、この国の世論形成に係る全てのメディアが同一論調で、時の政権までもが「それに乗って?」あるいは「それ以上に?」肩入れするような情況は、「先ず疑ってかかった方がいい」という齢65年の私の到達価値観ですから、副島氏の異論は私には歓迎すべきタイムリーな見解でした。


 

 朝日新聞の謝罪記事と山梨版での「住血吸虫はいま」の連載が、期せずして9月12日に載ったことを前話で書きましたが、連載2回目は、予告通り19日(金)にありました。

今回は、この病の「語り部」を採り上げ、西条新田の塚原省三さんや高橋積さんから若い語り部小野渉さんまで、谷口記者の取材による簡潔にして緻密な文章が光ります。

 今回の朝日新聞問題では、「次期社長を巡って社会部政治部の暗闘もあり、社内が一枚岩ではなく「内紛」に近い状態にある」などと週刊誌は報じていますが、そんな事とは無縁な一地方で、甲府盆地の暑い夏に汗を流して取材して回った谷口氏のような記者が、朝日新聞の紙面を創っていることを思うと、副島氏の見解も「陰謀説」とは無縁な「言論の自由」が保障されている日本国での一見識と私には読めました。

2014年9月17日水曜日

 杉浦醫院四方山話―364 『9・12 朝日新聞』

   9月12日(金)付けの朝日新聞一面は、深々頭を下げる社長と幹部の写真を載せた「謝罪」と「おわび」の記事で埋め尽くされた異様な紙面でした。

 私も朝日を購読していますが、その9月12日の朝日新聞が、甲府支局の谷口記者から杉浦醫院に送られてきました。

それは、谷口記者が約5カ月、精力的に県内外を取材してまとめた「遠ざかる記憶 住血吸虫はいま」の連載が、山梨版で9月12日からスタートしたからです。

 「この連載は谷口哲雄が担当し、毎週金曜日に掲載します」と表示された署名記事なので、T記者とイニシャルを使う必要も無いと判断して書き進めます。

 今回の記事も「甲府盆地西部」で、自らミヤイリガイを採集をして現地で会った方、昭和町の町長室へ出向いての角野町長と志村副町長、元甲府市立病院林正高医師、山梨大学医学部の松田政徳医師、と計5名への取材と栃木県の独協医大で撮影した写真とで構成されています。

 

 このように、谷口記者は徹底して関係者に当たって、直接話を聞くという手抜きしない取材が気持ち良い記者で、当館にも何度も足を運び曖昧なことを確認したり、新たな情報を教えてくれたりが続きました。

こちらで紹介した方には全員取材したことが、「朝日新聞が来たけど、いつ載るの?」と云う問い合わせが来たりして分かりました。じっくり時間をかけて丁寧に取材した膨大な取材ノートから、この連載が繰り広げられる訳で、毎週金曜日が楽しみです。

 

 また、特に要求した訳でもないのに前日には「お陰様で明日から掲載が始まります」と連載内容の報告電話もいただき、「一つ確認ですが、〇〇は、××と云うことでよろしいですね」と聞かれ「それはもう、谷口さんの想像で構いませんよ」と答えると「いえ、私の想像で書いたら問題ですから、事実を確認したくて」と最後も谷口氏の記者魂と気位に感動しました。

 その上、掲載された新聞を郵送してくれたのもY新聞A記者以来ですから、心遣いといった品性にも長けた谷口氏の人間性も記事には滲み出るものでしょうから、期待したいと思います。

杉浦醫院四方山話―363『インドネシア独立の母・長田周子さん-2』

 NHKが収録機材設定などの準備中の約30分間、診察室で控えていた長田周子さんと話しました。

 周子さんは、開口一番「西条とか常永とかこの辺はね、小作争議の盛んなところでしたよ」と話し出しました。

「小作争議の指導者として、臼井治郎なんていう名前は子どもでも知っていたくらい有名でした。臼井治郎もこの辺の人でしたよね」とか「その点、ウチの二川辺りではそんな争議はありませんでしたから、地主のあり方が小作争議に火をつけたんでしょうね。平野力三とか浅沼稲次郎なんかも来て応援していましたよ」と、固有名詞もポンポン正確に飛び出す話しは、とても99歳とは思えません。

 

 そう云えば、「昭和村誌」には、初代から28代までの歴代村長と歴代助役、歴代収入役の顔写真と名前がありますが、第五編「世の変遷」の第三章「農民運動史」のページに記されている農民組合の組合長や会計、幹事と云った幹部の名前と町の幹部がダブルっていることが多いのを思い出しました。

例えば、長田さんの云う臼井治郎氏は、常永村河西区で大正十年に結成された最初の農民組合で組合長を務め、26代村長でもあります。同、副組合長の今村虎房氏は17代助役に、同会計の油川真氏は22代助役を務めていますから、小作争議や農民組合のリーダーは、人望と指導力に長け、村政のかじ取りも村民から任されたのでしょう。

 周子さん親子からよく出る「二川のウチ」は、現在も残っているようで、「この間、横内さんがインドネシアにトップセールスとやらで来たので家に招いて、早く二川のウチを県の文化財に指定しないと無くなってからでは遅いよとよく言っときましたが、分かっているのかどうか・・」と知事もヒヨっ子と云った物言いでした。

 その「二川のウチ」の襖は、東郷平八郎直筆の書だそうで、周子さんの父・長田瑛(あきら)氏を訪ねては、東郷平八郎が二川のウチでよく酒を飲んでいたと話してくれました。

要は、長田家は二川村の地主で、瑛氏は県会議員として活躍したり、蚕糸組合長や製糸組合「模範社」の初代社長も務め、「県会議員の選挙では、臼井治郎と一騎打ちもした」そうです。


 このように故郷・二川のウチや二川で過ごした思い出は、若くしてスマトラに渡り、長くインドネシアで暮らす長田周子さん親子にとっても忘れがたく、近年望郷の思いを一層強くしているのではないかと感じましたが、人間が歳を重ねるということは、案外そういうことかとも知れないと思えてきた30分でした。

 

 杉浦醫院応接室での約4時間のインタビューと前日収録した映像等は、インドネシア独立解放の礎を築いた甲府市出身の長田アミナ・ウスマンさんのドキュメンタリー番組として、NHKの「まるごと山梨]で、9月18日頃放送予定だそうです。更に11月7日放送予定の「やまなしクエスト」では、約25分番組として放送されるそうです。

2014年9月16日火曜日

杉浦醫院四方山話―362『インドネシア独立の母・長田周子さん-1』

 9月6日(土)に急遽、醫院応接室で長田周子さんを追ったドキュメンタリー番組のインタビュー収録がありました。これは、NHK甲府放送局からの依頼でしたが、インドネシア在住の長田周子さんが娘さんと帰国して、故郷山梨の親戚との面会やお墓参りに来県するのに合わせて、6日帰京予定の限られた時間にNHKが取材することが前日に決まったという超過密スケジュールでした。



 長田周子さんは大正3年、甲府の二川(現・甲府市西下条町古屋敷)の富豪の家に生まれ、甲府高女から日本女子大に進学、在学中にセツルメント活動を通じて、明治大学に留学中のスマトラ王族の子息であるマジッド・ウスマンさんと知り合い結婚し、シティ・アミナ・ウスマンと名前を変え、西スマトラのウスマンさんの郷里へ移住したという経歴の方です。 国際結婚が珍しい戦前の昭和13年の事でもあり、当時の雑誌でも”スマトラの青年と国を越えての愛”と大きく報道され話題となったそうですが、この長田周子さんの娘さんが、西条一区の三井夫妻と懇意にされていることから「ウスマンが・・・」と何度か話しもうかがっていましたが、今回のウスマン親子の帰郷に際しても三井夫妻との会食も予定されていました。

 

 また、三井さんのお話で、長田周子さんのお父さんは、東郷平八郎とも親交があった早稲田大学卒業のインテリで、趣味が狩りだったそうで、二川から鉄砲を担いでよく西条方面に狩りに来て、その度に杉浦家にも立ち寄っていたと教えてくれましたので、純子さんに聞くと「朝早く見える長田さんのことを父や母がよく話題にしていました。当時は、土人なんて言葉が使われていた時代ですから、お嬢さんのご結婚も大変だったようです」と覚えていました。


 

 そんな関係で、ウスマンさんご一行の収録は、純子さん88歳と周子さん99歳のご対面から始まりました。インドネシアで医者をしている周子さんの娘さんが「杉浦先生は、日本住血吸虫症の先駆者として、よく存じ上げております」と表敬すると純子さんは「まあ,お上がりください」とおもてなしましたが、インタビュー収録を控え、「収録後おじゃまします」と醫院棟に移動しました。

 

 NHKが用意したインタビュー内容は、昭和16年に始まった大東亜戦争で、ウスマンさん一家は夫人が日本人だという理由で、オランダ当局に逮捕され、ジャワに抑留された当時の様子から、日本軍のジャワ上陸で救出されて故郷に帰り、ウスマンさん夫妻が闘士として活躍された独立運動の実態や初代大統領・スカルノとの関係などインドネシア独立を長田周子さんの視点で語ってもらうモノでした。

 

 ウスマンさん一家は、矢野兼三西スマトラ州知事から「内閣情報員」の資格で日本行きの命を受けますが、スマトラの軍政当局はウスマンさんの現地での影響力を危惧して、実質は日本への”追放”だったようですが、その辺の真実を周子さんの証言として、NHKは引き出したかったようです。

 

 99歳とは思えない体力と知力で、休みなしで約4時間近く「スマトラ義勇軍」について語った周子さんの話しは、人名や地名と年月日までしっかり記憶されていて、廊下で聴いていた私も引き込まれてしまいました。このインドネシア独立運動を担った「スマトラ義勇軍」の「義勇軍」は、日本語ですが、インドネシアでは、当時も現在も「スマトラ義勇軍」として通用していると云った貴重な話を25分の番組にどう編集するのか、NHKディレクターは、これからが始まりなのでしょう。

2014年9月10日水曜日

杉浦醫院四方山話―361『塚原 等 氏-2』

 前話では、山梨訓盲院を設立し、校長として、学校運営の先頭に立った塚原等氏が、資金調達為の東京で、志半ばで帰らぬ人となったことをお伝えしましたが、その志は、息子の塚原馨氏にしっかり引き継がれました。

 

 塚原等氏について、「昭和村誌」には「昭和村西条4319番地に安政3年(1856年)1月13日に生まれ、本名を塚原等という」と記載され、「明治7年山梨日日新聞記者として入社し、梅の家馨の号で俳諧和歌を発表し、後に梅の家三菊と改め文芸を通して庶民の啓蒙に尽くした」旨が紹介され、「45年の長きにわたり県内文芸界の指導者として活躍した」と、村の文人として取り上げられています。

 「大正8年不具な青少年の教育に思いを致し、甲府市百石町に山梨盲唖学校を創立し自ら校長となり、特殊児教育のために尽くし、大正11年2月1日享年69歳で歿した」とありますから、「やまなし近代人物館」の選定功績でもある「県内初めての盲学校である山梨訓盲院を設立した功績」は、塚原等氏の晩年4年間の実績であり、その多くは、文芸活動に注がれていたことが村誌からはうかがえます。


 村誌には、「学校は、嗣子馨が遺志を継いで経営し、成果を収めたので、昭和16年県の経営するところとなり」、現在の山梨県立盲学校、山梨県立聾学校に至っている記述もありますが、この塚原馨氏は、昭和17年7月に誕生した今の昭和町の母体となる昭和村の村長を昭和22年4月から23年8月まで務めていますから、戦後の地方自治の要として、昭和町の礎を築いたことになります。


 また、山梨県立ろう学校「開校二〇周年氏小史」には、「塚原等前校長の愛孫、現校長馨氏の子、塚原一氏は、東京盲唖学校師範部に入学し、卒業後は祖父、父の志を継ぐ予定であったが、入学して僅か3か月、急病のため25歳で亡くなられ、祖父、父と塚原家三代の苦節に、哀しき終止符が打たれた。」とあります。

西条の塚原家は、空き家状態になって久しいと聞いていますが、この一氏の急逝によるものか?引き続き調べていきたいと思います。


 山梨県の盲聾教育の先駆者として、母体となる山梨訓盲院、私立山梨盲唖学校を大正期から立ち上げてきた塚原父子が、この昭和町域から出ていることを誇るとともに、もっともっと周知していく必要もあるように思います。

2014年9月1日月曜日

杉浦醫院四方山話―360 『塚原 等 氏-1』

 来春開館予定の「やまなし近代人物館」で紹介される50人の中には、昭和町から杉浦健造氏と塚原等氏が選定されたことが過日公表され、健造先生については紹介しましたが、塚原等氏については、情報が少なく詳細を報告できませんでした。

 この度、町立図書館のIさんが、図書資料から塚原氏の情報を収集してくださいましたので、それを基に塚原等氏の足跡をたどってみたいと思います。

 

 「山梨県教育百年史ー大正・昭和前期編ー」によると、「山梨県の特殊教育は、先ず盲人、続いて聾啞者に対する私的な施設の開設から始まった」そうですが、いわゆる「劣等児」や「低能児」は、明治、大正、昭和前期まで「就学免除」とか「就学猶予」とし、学ぶ機会が長く閉ざされていたようです。

まあ、学習機会も後手後手に回されてきたからこそ、こういう教育の歴史資料に「劣等児」「低能児」といった言葉が堂々と使われていたのでしょうが、統計のある明治43年で、「尋常小学校の教科を修めてない者」は、男女児童400人以上、昭和4年になっても約150人を数えています。


 今回、塚原等氏が選定された功績は、山梨県初の盲人学校である「山梨訓盲院」を設立し、初代校長を務めたことによりますから、山梨訓盲院について先ず触れておきましょう。

現在の山梨県立盲学校「校訓・和顔愛語」=なごやかな顔と思いやりのあるやさしいことば

 「山梨県教育百年史ー大正・昭和前期編ー」には、「大正8年になって、甲府の盲按摩業者たちによる熱心な運動が実を結び、当時山梨日日新聞の記者で、盲人に対する理解者であった中巨摩郡旧西条村の塚原等を院長とする山梨訓盲院がアルゴン牧師の斡旋によって甲府市旧百石町のキリスト協会に開校された」とありますから、この「山梨訓盲院」も心ある民間人が設立した私立学校で、その中心になったのが塚原等氏だったことが分かります。

 

 しかし、設立当初の生徒数は20名足らずで、社会の無理解もあって、その経営は資金面でも厳しく、「職員はもちろん生徒も募金活動や啓蒙宣伝活動に懸命であった」とあります。

その為でしょうか、山梨訓盲院の名簿には、校長 塚原等 以下、講師、職員数名の後に「顧問」14名の名簿があり、当時の貴族院議員名取忠愛等と共に杉浦健造、吉岡順作と云った医者や実業家の名前が連なっていますから、これらの名士からの資金援助が学校経営には欠かせなかったものと思われます。


 山梨訓盲院第一回卒業生「永関ためよの回想」と云う一文も収録されていますが、「募金活動の苦闘」が縷々綴られ、閉めは「発起人の塚原先生には、資金調達のため、東京に在住している名士の所を狂奔中、過労のためその宿舎で脳溢血で倒れ、学校実現の寸前にして、そのまま帰らぬ人となられたのであります」とあります。

 「山梨訓盲院」を「私立山梨盲唖学校」へと昇格させるべく、資金集めの東京で殉職した塚原等氏の遺志が、現在の山梨県立盲学校に結実しているのでしょう。 

2014年8月15日金曜日

杉浦醫院四方山話―355 『女優・鈴木京香さん来館』

 当館では、4年前のプレオープンと同時に歴史建造物を映画やテレビドラマなどの撮影場所に提供して活用を図っていこうと、県が進めるフィルムコミッションにも登録し、撮影希望に応じてきました。

これは、昭和初期の病院建物と医療機器が原形のまま残り、全て実物である当館の特徴を活かした文化財活用の一つとして、病院としての撮影を予想しての登録でした。

しかし、これまで具体的に使われたり、視察に見えた撮影側の設定は様々で、病院設定での話は未だありません。先日は、人気のAKBメンバーの一人が主演するホラー映画で、彼女の実家が地方の旧家で、御屋敷と云ったイメージの撮影場所としてでしたが、シナリオには「大きな洋館」とありましたから「ここは全て日本家屋ですよ」と担当者に伝えると「その辺は大丈夫です」と沢山写真を撮って帰りましたが、後日「監督のイメージとちょっと違ったようで・・・」と連絡がありました。


  昨日の撮影は、BS日テレの『迷宮TRANOVEL~太宰治「走れメロス」と中期短編集~』というテレビ番組で、太宰治ゆかりの甲府を女優の鈴木京香さんが訪ね、現地で中期の短編を朗読するという内容でした。

 太宰が甲府で暮らした時代の洋室や建物が必要なことから、当館の醫院応接室と廊下で鈴木京香さんが、「女生徒」と「新樹の言葉」の2編を朗読するという撮影内容でした。


 暑い中、総勢15名余のスタッフが各部署の撮影準備に入り、手分けしてのリハーサルを終えると大型ワゴン車内で待つ鈴木京香さんが颯爽と現れ、事も無げにソファーに座り、「女生徒」の本に目を通したかと思うと本番、全て一回でOKでした。


 朝陽の射す洋室と云う設定が夕方5時過ぎからの撮影でしたから、東側のガラス窓越しにライトを付け、扇風機で風を送り・・・と、スタッフが知恵を出し合っての撮影をモニター越しに拝見しましたが、爽やかな朝の洋室で、綺麗な鈴木京香さんが落ち着いた声で朗読する女生徒は、見応え、聴き応えがありました。長い廊下での撮影も壁を背に無造作に座って本を読む鈴木京香さんを遠くから引いて撮影していましたが、見慣れた醫院廊下が女優の息吹でこんなにも見違えるのかと思う映像で、完成が楽しみです。


 9月7日19時より放送とのことです。醫院内にあった置物も何気なく使われたり見どころ満載です。「観てのお楽しみ」が半減しますので、詳細はこの位にしますが、色紙サインにも快く応じていただいた鈴木京香さんは、日本の芸能界では別品に位置する美貌と風格、気品を備えた「別嬪さん」であることを遅まきながら認識いたしました。  

2014年8月13日水曜日

杉浦醫院四方山話―359 『花まる先生 若尾久氏-2』

 純子さんも巌さんの奥さんを「隣のおばちゃん」と呼び、現在も親交の続く若尾家ですから、花まる先生の「久」さんの名付け親も三郎先生だったそうです。

当館も駐車場の大きなサインを隣接する若尾さんの塀に取り付けさせていただいたり、何かと便宜を図っていたいただいてきました。

駐車場整備の段階で、若尾さんがトラクターなどを収容している農業用倉庫の敷地との境に新たにアルミフェンスを設けましたが、花づくりが趣味の久さんがフェンス越しに花木を植えて駐車場に花を添えてくれました。


 3年半ほど前でしたか、久さんから「朝顔の種を採りたいんで、フェンスに朝顔をはわせてもいいでしょうか」と声を掛けられました。「いつもきれいな花を楽しませていただいていますが、今度は朝顔ですか」と聞くと「実は、仕事がすっかり学校巡りになって、朝顔の種を子どもたちに育ててもらって、命の勉強に役立てたいと思いましてね」と控え目におっしゃり、学校や幼稚園の求めに応じて、久さんは全国を回っていることをその時知りました。

アサガオは、朝撮らなければ花が写りません。本気度が問われていますね。

  それから毎年、写真のように夏はアサガオのグリーンカーテンが出来、朝来ると花が迎えてくれるようになりました。秋になると久さんが丁寧に種を収穫している姿をよく見かけ、久さんが講演で忙しい時には、巌さんが種取りをして応援していますから、若尾親子の「命のアサガオ」でもあります。

 アサガオの種もカシオ計算機の社会貢献事業費から幾らでも購入は可能でしょうが、久さんの本気で立ち向かう姿勢の中には、そのような選択肢は無いのでしょう。

自ら蒔いて育てたアサガオを次の命のバトンとして、種を収穫し子どもたちに直接渡すアサガオの命のリレーを通して、子どもたちに具体的、継続的に「命」を見つめ、意識させようという久さんの授業には、このようなシャドーワークがいくつも隠されていることでしょう。

  

 この西条新田発のアサガオの種は、全国の子どもたちによって育てられ花を咲かせています。横浜の小学校では、「奇跡の発芽」として話題になった事例も紹介されています。

「持続可能な社会構築」事業でもありますから、若尾さんの「命のアサガオ」は、子どもたちが作った牛乳パックの鉢に種が蒔かれ、「奇跡」のような発芽を子どもたちが実体験したようすは、ここをクリックしてご覧いただけます。

 これを読むと若尾久さんの本気の取り組みと授業を通して子どもたちと築き上げていくしっかりした絆と云ったものやなぜこの授業が全国に広がっているのかについてもお分かりいただけると思います。

2014年8月11日月曜日

杉浦醫院四方山話―358 『花まる先生 若尾久氏-1』

 杉浦醫院のお隣、若尾巌さんのご長男・若尾久氏が8月9日(土)付け朝日新聞全国版に「花まる先生」として紹介されました。毎週土曜日のこの教育欄では、毎回ユニークな教育を実践している全国の教員が紹介されてきましたが、今回は何故か「特別編」と注釈が付きましたから、学校の教員以外では若尾さんが初めてなのでしょう。新聞記事には「山梨県昭和町」云々もありませんから、気付かなかった方も多いか?と、補足も兼ね、新聞記事と若尾さんについてご紹介いたします。

 新聞記事で先ず目に入ったのが、少年たちの目の輝きと好奇心に満ちた表情に呼応する野武士を彷彿させる腹の座った若尾久氏の真剣な眼差しでした。

朝日新聞デジタル版にカラー写真がありましたからご覧いただくと、この一枚の写真に若尾さんの授業に対する思いや姿勢、若尾さんの思想が全て集約されているように思います。

写真・図版

 若尾さんは、2007年から勤務するカシオ計算機の社会貢献活動として、環境問題など持続可能な社会の構築のための活動に取り組んできました。
その中で、日本の年間自殺者は約3万人、そのうちの約600人が20歳未満の子どもたちだという現実を知り、こうした悪循環を断つためにも、子どもの世界へ働きかけることが重要だと考え、「子どもたちに何を伝えたいのか考え抜いた末、たどり着いた答えが『命』でした。やるからには形だけの取り組みにしては絶対にいけない。そのためには、子どもたちに『本気』で向き合わなければならない。」と。

 若尾さんの「本気の授業」は、これまで全国の延べ1万5千人を超える子どもたちに及び、カシオ計算機の社会貢献活動の代名詞にもなって広がり、今回の「花まる先生」にも繋がったわけですが、写真に集約された若尾さんの思いが伝わる言葉に耳を傾けてみましょう。


 当初、学校の先生方からは「子どもには分からないだろうから、そういう話はやめてほしい」と言われることも多かったといいます。
 しかし、若尾さんは『私の授業では命の大切さを伝えるとともに「何のために生きるのか」を伝えています。これは幼稚園で授業をするときも同じです。ある小学校で1年生の児童に授業を行った時のことです。授業が終わるとひとりの男の子が私に「僕は生きる意味が分かった」と言ってくれた。ちゃんと理由も「生きることは本気で生きることだ」と。子どもだから分からないのではなく、子どもだからこそ 分かることがあるのだと思います。大人の勝手な価値観で子どもの可能性を決め付けてしまっているだけで、子どもたちは本気で向き合えば必ず分かってくれる。』


『だからこそ私の授業にはマニュアルはありません。授業では私自身の人間性を伝えるようにしています。授業は毎回異なり、授業をやるごとにさらに変わっていく。子供たちから気づきをもらい、それを次の授業に肉付けしていく。子どもは大人を見て成長します。本気かどうか大人が問われているのです。』

もう一度、上の写真をご覧ください。「本気の大人が子どもを本気にさせる」過不足ない証明写真であること。その本気な大人は、昭和町に生まれ育った昭和町民であること。こんな愉快な写真は、巌さん、酒の肴にも最高ですね。     

2014年8月7日木曜日

杉浦醫院四方山話―357 『現代虫取り考』

  暑いのが当然の8月、杉浦醫院を囲む木々で止むことなく続く蝉のコーラスが時に一層暑苦しく感じさせる毎日ですが、蝉の声同様子どもの声も甲高く、庭に子どもが来たことを知らせてくれます。

 子どもの遊びもネットゲームなど室内化して・・・の指摘通り、夏休みに虫を追いかける子どもの数は確かに減少し、虫取り網と虫かごの定番セットで友達と連れ立って杉浦醫院庭園に来る子どもの顔も限定的です。

蝶やトンボ、ハチだけでなく、コンナ虫もいます。

 私も蝉の抜け殻やホタルの産卵を見るにつけ、哀れさや儚さと云った無常観が先立つ歳のせいか、山へ虫取りに行きたいと思うこともなくなって久しくなり、毎日飽きずに湯村山に登った子ども時代がウソのようですから、もっと楽しい遊びがあれば、そちらに夢中になったのかもしれません。

そう思うと、自分自身がそうであったから、現代の子どももみんな虫取りが好きだと思うのは身勝手で、より高度なゲームが簡単に出来る現代では、虫取りは魅力のないダサい遊びとなっているのでしょう。

 

がしかし、虫取りには室内やバーチャルでは学べない副産物があることを伝承しておかなければなりません。

 

 仲間にも自慢できる自分だけの虫を獲るには、発見と勇気、知恵が必要なことを学びました。

それは、早朝から夕方までの子どもの時間では、いくら探し回っても似たり寄ったりの虫しか獲れませんが、大人の時間、そう夜になると大物が獲れると云う発見でした。

発見した以上、怖さを我慢して暗い山道に入る勇気が必要になり、それでも一人では…と云う時は、友達を引っ張り込む知恵や昼のうちに下見して目星を付けておくと云った知恵も自然に付きました。

何より、若くして夜な夜出歩くことの楽しさを発見したのが一番かと思いますが、出歩く先が木々のざわめきやケモノらしき影がちらつく真っ暗闇の山でしたから、緊張の連続が充実した時間にもなり、捕まえた虫よりも夜のコピッとした山徘徊が目的化していったようにも思います。


それからすれば、後年出没したネオンの灯る怪しげな暗闇など何ということもなく、より怖そうな刺激が欲しくなったのも虫捕りの副産物だったように思い、虫捕りは「好奇心も育む」と言っていいかと思いますが、私の場合「向上心は付きませんでした」と自他とも認めるところです。
 
 
 

2014年8月6日水曜日

杉浦醫院四方山話―356 『水腫張満茶碗のかけら』

 日本住血吸虫症=地方病が、原因不明の奇病とされ恐れられていた長い間、この病は、罹った人の特徴から「腹っぱり」とか「水腫張満」と呼ばれていました。この病に罹ると茶碗のかけら同じで、使い物にならい廃人になって亡くなっていくしかないという悲しいたとえが甲府盆地ではささやかれていました。


 

  山梨放送=YBSが作成した『YBSラジオスペシャル 水腫張満茶碗のかけら~地方病100年の闘い』が、第10回日本放送文化賞関東甲信越地区代表に選ばれ、9月に行われる中央審査会に出品されることになったと云うニュースが届きました。

この作品は、2014年日本民間放送連盟の関東甲信越地区大会の報道番組部門でも1位を獲得していますから、ダブル受賞の栄誉に輝いたわけで、両全国大会での受賞も大いに期待したいと思います。


 この作品を手がけたYBSラジオの石川治氏は、立派な体型の方ですが何度か当館にも足を運び、周到な構想と緻密な取材が印象的なデュレクターでした。その上、大変丁重な紳士で、先に決まった2014年日本民間放送連盟での1位受賞時もわざわざ東京から電話でお礼と報告をいただき、今回もメールで『昨日東京で「日本放送文化大賞」の審査会が行われまして「水腫脹満茶碗のかけら」が地区代表に選ばれました。ありがとうございます。報告とお礼が遅くなり申し訳ありません。 先日の「連盟賞」とはまた別の賞で秋に全国審査が行われます。結果が分かり次第、また連絡申し上げます。 』とご丁寧な報告をいただきました。

やはり、こういった姿勢が作品に反映されるのが「仕事」の怖いところでしょう。石川氏の脚で稼ぐ取材が今回のダブル受賞の評価となったことは、労が報われた意味でも本当におめでたく、協力できたことを共に喜びたいと思います。

 

 間違いなく私より若い世代の社会人ですが、石川氏の在り様は、私のこれまでの来し方をあぶり出さずにはおられない実存で、山日新聞の清水記者、朝日新聞の谷口記者同様、山梨のジャーナリストから大いに学ばせていただいている以上、「万(よろづ)のこと、きしかたゆくすゑ思ひ続け給(たま)ふに、悲しきこと、いとさまざまなり」などと斜に構えず、しっかり来し方を顧みて、行く末に活かしていきたいと素直に思う今日この頃です。


 当343話『山梨放送開局60周年記念番組』 のDVD観賞と合わせて、この「水腫脹満茶碗のかけら」のCDを聴く会を涼しくなったら企画したいと思います。山梨放送が60周年の節目に地元の歴史に光を当て、当館もその一助になった番組を観て、聴いて、感想を出し合う会もあながち意味のないことではないと押し出せる作品であることがうれしい限りです。


 尚、山梨放送開局60周年記念番組のDVDは、過日当館で行われた昭和町社会教育委員の会議で、フルオープン後の業務報告で触れましたら、録画しておいた小池副議長が、さっそく寄贈くださいました。見学の折に観賞できますから見逃した方はどうぞ来館ください。

2014年7月24日木曜日

杉浦醫院四方山話―354 『健造先生「山梨近代人物館」入り』

  山梨県庁の別館と呼ばれている建物は、1930年(昭和5年)に3階建てで新築され、その後30年近く本庁舎として使われてきました。杉浦家の醫院棟が昭和4年築ですからほぼ同時代の歴史的建造物で、県はこの建物を保存すべく整備改修工事と活用計画を進めてきました。

中央奥の建物が昭和5年築の当時の山梨県庁本館(現・別館)
手前左は、昭和6年オープンの山梨県立図書館
昭和40年代まで県庁と図書館が向かい合って建っていた懐かしい写真

 22日付けの山日新聞によるとこの別館を「山梨近代人物館」として整備し、来年度オープン予定であることと、有識者5名で構成する「県庁別館展示施設整備検討委員会」が各分野で活躍した50人を選考したそうです。


 学術のジャンルで、ハンセン病治療の小川正子、東京タワー等の設計で著名な建築家内藤多仲と共に地方病の研究で杉浦健造先生が選考されました。約半年ほど前、事務局の県学術文化財課から、「健造先生が選考され、展示公開されるようになりますが、杉浦家の承諾は得られますか?」と打診があり、純子さんに説明し了承した旨を報告しましたが、「地方病関係では、三郎先生や三神先生も入れないと」と、私見を伝えると「そうなんですが、今回は健造先生お一人です」と、担当者の苦慮がうかがえました。


 確かに、この種の人選の困難さは容易に想像出来ますから、外堀である選考基準を一定のラインで決めてしまう必要があるのでしょう。今回は、先ず「近代を明治から戦前までの昭和」と規定して、更に「十分な資料が残っている」という基準まで設けて絞り込んでいったようです。    

三郎先生同様、日本住血吸虫の虫体発見者・三神三朗氏は、戦後も活躍しましたから、近代枠から外れてしまうことになり、業績とは関係なく選外となると云った選考で、今回の50人に絞ったのでしょう。


また、出身地別のバランスなども最終段階では加味されたやも知れません。今回、昭和町出身者は、健造先生と塚原等氏の2名です。塚原氏は、県内初めての盲学校である「山梨訓盲院」を設立した功績によりますが、昭和町民でも知らない方が多いようですから、周知していきたいと思います。

また、甲府市出身とされている外交官・杉浦譲氏も杉浦家と姻戚関係があるようですから、その辺も調査が必要です。


 県立美術館や県立博物館と違って、甲府駅から歩いて数分の地の利を得てオープンする山梨近代人物館で、昭和町の杉浦健造、塚原等の両氏が紹介されることで、昭和町や当館へと足が伸びるような「ハブ人物館」としての機能や展示を期待したいものです。

2014年7月20日日曜日

 杉浦醫院四方山話―353 『今週末の講演会二題』

 今週末の7月26日(土)に甲府盆地で開催される講演会についてお知らせします。


一つ目は、本町の文化財主事でもある今村さんからの情報で、お隣中央市教育委員主催の講演会「甲斐源氏と浅利氏」についてです。

 これは、豊富郷土資料館の開館20周年を記念して、甲府市出身の歴史学者・笹本正治信州大副学長を講師に招き、豊富地区ゆかりの浅利与一と甲斐源氏についての講演会です。

また、講演会の後には、「甲府盆地の開発」をテーマに、開発されるまでの経緯について、笹本副学長と市文化協会の比志保郷土研究部長、豊富郷土資料館の末木健館長をパネリストに語り合うシンポジュームもあります。

 会場は、玉穂生涯学習館2Fの視聴覚ホールで午後1時半から、入場無料で申し込み不要です。詳細等のお問い合わせは市教委生涯教育課、電話055(274)8522までお願いします。


 もう一つは、同じ日時に南アルプス市市民活動センター主催で開催される脳科学者の中野信子横浜市立大学客員准教授の講演会「脳科学から見て、市民活動って幸せですか?」です。

これは、南アルプス市のスポーツ少年団で、サッカーコーチも務める山日新聞の清水記者からの情報で、「スポーツ少年団とクラブチーム、どっちが脳にいい?」と云った設問も用意され、講師の一方的な講演ではなく、来場者との対話形式で進める講演会だそうです。
 
  南アルプス市には「南アルプス市市民活動センター」が存在し、担当職員も配置されていることから、こういった企画も生まれるようです.
昭和町にも「すっきり昭和」はじめ町民の自主サークルが町内を舞台に活動していますから、川を隔てたお隣の南アルプス市の市民活動との交流も含め、参加してみようと思います。

開催日時は、7月26日(土)午後2時から、会場は櫛形にある南アルプス市市民活動センター(055-282-7325)です。会費1,000円、申し込みは不要。お問い合わせは、上記センターまで。


 なお、両講演会のチラシは、当館にもありますので、必要な方は当館までどうぞ。