2014年11月27日木曜日

杉浦醫院四方山話―381『昭和9年の新聞ー2 地方紙 』

 三郎先生が、父の遺志を引き継ぐ意味もあってか診察室に掲げた健造先生の写真額の裏には、前話で紹介した昭和9年2月20日付け「東京朝日新聞」と共に「山梨日日新聞」「山梨毎日新聞」「山梨民友新聞」の計4紙がありました。日付けも昭和9年2月15日、16日、18日と全て2月20日前の新聞で、当時の杉浦家ではこの4紙を併読していたことも伺えます。




東京朝日新聞は現在の朝日新聞ですし、山梨日日新聞も昔の名前で出ていますが、「山梨毎日新聞」は、現在ある毎日新聞とは無関係で、山梨の地方紙の一つでした。

 

 1931年(昭和6年)の満州事変から1945年(昭和20年)の敗戦までの15年間は、翼賛体制で軍国主義一色に染められた日本であったことは歴史が教えていますが、国民の世論を操作する上で、新聞等のマスコミへの統制も続きました。

その代表的な一つが「新聞統制」で、地方新聞を「一県一紙」体制にするのを目的に統合、削減を命じました。山梨県では、1940年(昭和15年)に「峡中日報」と「山梨民報」が、翌年の昭和16年に「山梨毎日新聞」が「山梨日日新聞」に統合され、山梨日日新聞が山梨の地方紙となりました。


 昭和9年当時は、杉浦家で4紙を併読していたように、県内には少なくとも4紙以上の地方紙や地域紙があったのでしょうが、6年後には、山梨日日新聞だけに統制されたことが分かります。

 9年当時の「山梨民友新聞」と15年に統合された「山梨民報」が同一紙なのか?今ある資料では断定できませんが、新聞統制で統合された山梨の地方紙には「山梨民友新聞」の名前は残っていませんから、「山梨民報」に変わっていた可能性大です。


 敗戦を機の民主化で、地方紙の「一県一紙」体制も解かれ、昭和21年には「山梨時事新聞」が創刊され、昭和44年までは、山梨日日新聞と山梨時事新聞の二地方紙があった山梨県でしたが、現在は山日新聞一紙の独占状態ですから、現象的には戦時中に戻ってしまった状況です。この選択の余地のない地方紙一紙状態は、県民にとっても心ある新聞人にとっても決して望ましい状況とは言えないのではないのでしょうか?