2019年1月24日木曜日

杉浦醫院四方山話―569『1945年1月のレイテ島-2』

 日本兵は飢えとマラリアに冒されつつ、フィリピン人ゲリラ部隊と米軍の火炎放射器に追われ、次々に命を落としていったそうですが、レイテ戦で米軍が使った武器が「火炎放射器」だったことは、私にとってはミヤイリガイ殺貝活動の中で活躍したのが火炎放射器でしたから意外でもありました。しかし、あまり知られていませんが、いわゆるゲリラ戦では鉄砲より火炎放射器の方が有効だったことからベトナム戦争から現代にまで引き継がれているそうです。

ベトナム戦争でもアメリカ軍は火炎放射器を最大限使用したそうです

  レイテ島では指揮系列もなくなった日本兵は、数人もしくは個人で塹壕や洞穴に身を隠してのゲリラ戦を余儀なくされましたから、アメリカ軍は暗い穴の中に火炎放射器で燃える液体を吹き込み閉所にいる日本兵を窒息死や焼死に追い込む作戦を採ったのでしょう。

 同時に火炎放射器では、着火しない状態で燃料を敵兵舎や装甲車両に噴射し、燃料まみれになったところで着火してより被害を拡大することも出来たそうですし、着火されなくても人体に燃料が付着すると強烈な痛みと炎症を引き起こしたそうですから、戦争や兵器が科学技術を前に進めた好例でもありましょう。

 

 このように一方的なレイテ戦でしたが、アメリカ兵の間にも皮膚のかゆみや発熱、下痢といった症状の奇病が広がり、次第に肝臓や脾臓がはれ、けいれんや脳梗塞を起こす者まで出ましたが、アメリカには存在しない病気だったことからアメリカ軍も苦慮して、この奇病の原因に乗り出しました。アメリカ兵1700人以上が感染したアメリカにとっての奇病は、日本では解明済みだった日本住血吸虫症(「地方病」)でした。

日本住血吸虫
杉浦三郎博士が診察する末期の日本住血吸虫の症状

 

 1953年(昭和28年)、三郎先生はフィリピンのマニラで開かれた環太平洋感染症学会に招聘され講演しましたが、当時のフィリピンでは、反日感情が強く、敗戦国の日本人はどんな目に合うかわからないと云われていたことから、三郎先生は中国人と偽り、チャイナ服でフィリピン入りするよう指示されたと云う純子さんが話してくれたエピソードを思い出します。

 

 フィリピンの反日感情は、日本軍のフィリピン侵略によるものでしょうが、もう一つ「日本住血吸虫症」もこの侵略過程で、日本がフィリピンに持ち込み流行らせた病気だというフェイクが信じられていたことにもよるそうです。

 その後遺症は、故・林正高先生が1987年(昭和62年)にフィリピンの患者救済に立ち上がった時点でも現地には反日感情が根強く残っていて最初は警戒された旨を話してくれましたので、戦後間もなくの三郎先生が中国人を装ったとう云うのも頷けます。

 

 このように、日本で全てを解明したことから付いた学名「日本住血吸虫症」も名前が一人歩きして日本軍がアジアに広めた病気という誤解を生んだ史実は、戦争が生んだ憎悪や疑惑の国民感情からですから、扇動され増幅されていく一面の強い国民感情と云う名の世論には要注意!ですね。

 

2019年1月21日月曜日

杉浦醫院四方山話―568『1945年1月のレイテ島-1』

 今年平成31年・2019年で「平成」も終わりますから、昭和20年・1945年8月15日は一層「昔」の事になりそうですが、1945年8月15日の敗戦の日は突然訪れた訳ではありませんから、地方病にも関係する1945年1月のフィリッピン・レイテ島の惨事と史実を大岡昇平の代表作「レイテ戦記」等を元に振り返ってみるのも必要ではないでしょうか。

 

  後に日本に進駐したGHQの最高総司令官マッカーサーがレイテ島に再上陸したのは、前年の1944年10月20日でした。さすがにパイプこそくわえていませんが、再上陸の先頭に立つ姿からは、「ウイ・シャル・リターン(絶対に帰って来る)」の決意が滲み圧倒されます。

この有名な写真もアメリカ軍が撮影記録して公開しているものですから、今となっては「余裕の上陸」を物語っているようです。

レイテ島に上陸するマッカーサー

 

 迎え撃つ日本軍は、1944年12月28日に島の北西部にあるカンギポット山に司令部を移し、1945年の1月1日には、司令部周辺にいた日本兵は、米の飯を炊いて正月を祝ったそうでが、実態は大きく違っていたことを大岡氏は戦記文学三部作で詳細に書き残しています。

  『レイテ戦記』によれば、レイテ島に派遣された日本兵は8万4006人でしたが、生還できたのは、わずか2500名で8万人以上が戦死しています。

一橋大学の藤原彰教授の著書≪餓死した英霊たち≫(ちくま学芸文庫)では「アジア太平洋戦争において死没した日本兵の大半は、いわゆる「名誉の戦死」ではなく、 餓死や栄養失調に起因する病死であった―。戦死者よりも戦病死者のほうが多いこと、しかもそれが戦場全体にわたって発生していたことが日本軍の特質だ」と、戦死者の多くが餓死、病死が実態であったことを指摘しています。

 

 ですから、1945年1月1日の時点で、司令部から遠い場所にいた日本の兵士は飢えに苦しみ、『蛇、とかげ、蛙、お玉杓子、ミミズなど兵士はあらゆるものを食べた』(レイテ戦記)そうです。

 

   このように同じ島内の兵士でも食べ物にも事欠くようになると信じられない規律違反も次々起ったそうで、1月5日には第102師団長の福栄真平中将ら幹部が、命令を無視してカンギボット山からセブ島に脱出したそうですし、2月になると、残された兵士の間で「人肉を食べた」という噂話まで広がったそうです。

 その辺については、大岡氏のみならず武田泰淳氏も人間が極限状態に置かれた時、「人肉を食べて」でも 助かる方法があれば何をしてもいいのか、という重いテーマで昭和29年に「ひかりごけ」を書いています。

 3月23日には、レイテ島の軍司令部のトップ、鈴木宗作中将らが島から離脱して、レイテ島では指揮官が不在のまま、兵士が飢えとマラリアに冒されつつ、フィリピン人ゲリラ部隊と米軍の火炎放射器に追われ、次々に命を落としていきました。

 

 74年前の1月前後、フィリピンのレイテ島に派兵された日本軍兵士はアメリカ兵と戦う以前に空腹、餓死との闘いを強いられ、その中では法も規律もズタズタになり空中分解して、悲劇の沖縄決戦、本土空襲、広島・長崎への原爆投下へと敗戦の旅路が始まった事実は、遠い昔の話ではなく、もう一度私たちが肝に銘じて記憶しておくべき現代史だと思わずにいられません。

2019年1月11日金曜日

杉浦醫院四方山話―567『身延線唱歌』

 山梨県知事選挙が告示され4人の立候補者が選挙戦に入り、暫くは知事選がらみのニュースや話題が続くことと思います。

確か数か月前は「富士登山鉄道構想」が争点のように話題になっていましたが、本日の山日新聞「4候補の第一声」報道では、具体的にこの構想実現を訴えた候補者はいなかったようです。

  まあ、この構想は、世界文化遺産に登録された富士山をもっと集客につなげようという観光政策でしょうが、現在の有料道路・スバルライン上に鉄道を敷いて、車より環境への負荷を小さくして世界遺産にふさわしい富士山、山梨県にすると云う大義名分もありますから、今後の展開を見守りたいと思います。



 そう云えば、現在の身延線も前身は「身延登山鉄道」だったと聞いていますから、「富士登山鉄道構想」も単に河口湖から五合目までの往復鉄道構想に限らず、河口湖から五合目を経由して沼津あたりに繋がる構想もあっていいように思います。

 

 それは、身延線が山梨県と静岡県を結んでいることから、富士宮市の文化団体が「身延線唱歌」を作製して、地域の活性化を図っていると云う話を数年前聞いたことにもよります。

 この唱歌は、「汽笛一声新橋を♪」で有名な「鉄道唱歌」を模して、富士駅から甲府駅までの身延線各駅の歴史風土を紹介をしていますが17番まである歌詞も7番以降は山梨県内の駅で、最後の歌詞は「山梨静岡両県の明るく平和な郷づくり 身延線とともに栄えあれ」と結ばれ、身延線が両県民を結んでいることを謳いあげています。



                7                         

 稲子で駿河を後にして

 甲州十島よいところ

 昔は身延路御番書で

 今は電車で自動車で

 

8

 井出ては寄畑内船へ

 南部の火祭り空焦がす

 奥州南部の祖の地なり

 威風は今に伝えらる

 

9

 身延の駅に降り立ちて

 日蓮宗の総本山

 五十の塔の再建に

 枝垂桜木花添える

 

10

 信玄公の隠し湯の

 下部で疲れ癒されん

 湯の奥甲州金山は

 武田氏支えた軍資金

 

11

 市ノ瀬 久那土 甲斐岩間

 印章で名高き里にして

 向かいの西島和紙づくり

 書家の望み叶う町

 

12 

 視界が開けて鰍沢

 舟運の名残り今は無く

 敷かれし鉄路に拠るところ

 甲駿交流夜明けなり

 

13

 市川大門花火まち

 知恵の文殊は甲斐上野

 團十郎の出たところ

 ゆめゆめ共々忘れなん 



14

 笛吹川を打ち渡り

 見よや果樹やら野菜やら

 果樹王国と謳わるる

 甲府盆地の花輪なる

 

15 

 四方の山に目をやれば

 雲突く山脈(やまなみ)いや高く

 老樹の深き善光寺

 石和の湯けむり指呼の間

 

16 

 終点甲府は中央線

 乗り継ぐ人も数多く

 躑躅ヶ崎の夢のあと

 武田の遺跡守れかし

 

17

 時は人を替えれども

 山梨 静岡両県の

 明るく平和な郷づくり

 身延線と共に栄えあれ

 身延線と共に栄えあれ

 

事務室の扉に掲示してある「身延線沿線が楽しいポスター」には「じょうえい」駅に、杉浦醫院が入っています。

 

とかく縄張り意識が強いのが甲州人の特性と指摘され「山国根性」とも揶揄されますが、子どもの頃私も身延線が県都・甲府行きが「下り」で、富士行きが「上り」が解せませんでした。反面、中央線の新宿行きが「上り」は素直に納得していた訳ですから、矢張り立派な「山国根性」少年だったのでしょう。

 

 この折角の「身延線唱歌」も山梨県内ではあまり知られていないように思います。

先ずは身延線の電車内で控えめに流すことで利用者から自然に広まるように思いますが、御多分に漏れず身延線乗客もイヤホーンを耳に自分の世界に浸っている方が多いので無理かなあ~

2019年1月7日月曜日

杉浦醫院四方山話―566『謹賀新年』

 あけましておめでとうございます。

今年も玄関受付で来館者のお迎えは、橋戸夫人制作の干支人形です。


 昭和町風土伝承館杉浦醫院は2014年4月1日に本オープンしましたから、今年は5年目の節目の年を迎えます。おかげ様で県内外から多くの方々にご来館いただき、国内唯一の日本住血吸虫(地方病)終息の歴史を伝える資料館として認知され、様々なメディアを通して周知もされてきましたことにこの場を借りて御礼申し上げます。

開館5周年を機に一層充実した資料館となるよう心新たに取り組んで参りますので、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


 さて、本年初の見学者は期せずして前話重なるお二人で、一段と冷え込みも増した昨日、開館早々「見学もですが話を聞きたくて来ました」と来館目的が話のようでしたから、応接室のストーブをつけお二人のお話を伺いました。

話を要約すると・・・山梨県内で生まれ育った来館者も子どもの時、地方病に罹り「注射を40本して治った」そうですが、その弟さんは鎌倉市で生活して40年近く経つが、ここにきて体調を崩し、入院したところ大腸から寄生虫が検出されたそうで、山梨県出身ということで、その寄生虫が日本住血吸虫ではないか?と云われたようだけど、鎌倉の病院ではハッキリしないので聞きに来た・・・と云う事でした。


 山梨県内でも「地方病」について、どこの病院に行って相談すればよいのか分からない状況は確かにありますから、来館者の母娘が当館の開館を待って相談に観えた心中は察しが付きましたが、名称こそ「杉浦醫院」ですが資料館ですから臨床医のようなアドバイスを期待されても無理であることを伝え、その上で「先ず100パーセント日本住血吸虫では無いと思います」と終息の歴史の中で明らかになっている諸例を根拠に話しました。


 折しも今月末の31日(木)に北里大学寄生虫研究室の皆さんが見学にみえるのに合わせゲスト講師に加茂悦爾先生をお願いしてあるので、その辺の具体的な対処など加茂先生に相談するのがベストであることを伝え納得していただきました。


 あらためて前話での倉井先生の同僚でもある現在の医師へのご指摘

『感染症が制圧されることはすばらしいことであるが、診断を想起できる医師が減ることは事実である。目の前に住血吸虫症の患者が来たら、あなたは診断することはできるだろうか?日本住血吸虫症という疾患に苦しんだ患者が数多くいたという事実、戦いの歴史を私たちは忘れてはならない』

の重みは、現実として進行形であることを本年初来館者が教示してくれた年の初めでした。