2013年11月30日土曜日

杉浦醫院四方山話―295『母屋の建築年月日が特定できました』

 杉浦醫院の母屋は、これまで「明治中頃に東花輪の橋戸棟梁の橋戸工務所が建築した」と云うことで、正確な建設年月日は分かりませんでした。   

 過日、3代目の橋戸伯夫棟梁が、自らもかかわった屋敷蔵の2階天井に掛っていた棟上げ式に使った弓矢を外してくれました。
上棟式は、家屋の守護神や工匠の神をまつって、これまでの工事の無事と竣工までの加護を祈願し、新しい住まいに災厄が起こらないように祈念する祭事で、建前とも呼ばれていますが、最近ではあまり見かけなくなりました。この弓矢は、鬼門の方向に向けて放たれるようセットされたもので、伯夫棟梁は「この矢もオジイサンさんが造った矢だと思うよ。昔の大工はこういうものから神棚まで何でも造ったから」とお祖父さんの手仕事を懐かしんでいました。

 長いこと屋敷蔵の天井にしっかり釘打ちされてありましたから、下から見ると表の部分(写真右)しか見えませんでしたが、矢の先端部分(写真中)の裏に「明治二六年八月起工 同二七年五月二二日 上棟挙行」としっかり読み取れる文字で書き込まれていました。(写真下)
「明治26年の8月から始まって、10か月かかって上棟式をしたんですね」
「そうさね。上棟式からが細かな大工工事が多いから、多分出来上がったのは2年後くらいだったと思うよ」と伯夫棟梁。
純子さんも「祖父や父がよく橋戸さんがやりぽーけやった家だと云っていましたから、その位かかったかもしれませんね」と・・・
「昔は手間代が安かったから出来たけど今じゃあ無理だね。屋敷蔵の入り口の黒塗りの左官工事でも親方が自分の顔がきれいに写るまでそりゃー丁寧に時間をかけて塗って、鏡になる壁だと自慢していたけど、自分の仕事が残るから職人はきっちりした仕事をしていたもんさ」
「この矢でも今じゃベニヤなんかを使うけど、いい木を使って造ってるだよ」と云うように厚手の木を曲線で切込みを入れながら左右対称に細工され、それにご覧のようなデザインの絵も描かれていますから、あらためて大工さんは「総合芸術家でもあるなー」と感じ入りました。
この弓矢は、旧車庫の天井に吊り下げて展示してみようと思います。

2013年11月28日木曜日

杉浦醫院四方山話―294『庭園の紅葉をお楽しみください』

 
 
 
 杉浦醫院庭園の紅葉が一気に進み、見頃を迎えました。庭園の自由散策だけでも可能ですから、この機会に杉浦醫院にお越しいただき紅葉をお楽しみください。尚、入り口門前の駐車場も駐車出来ますのでご利用ください。

2013年11月27日水曜日

杉浦醫院四方山話―293 『ヨロビ起こし-2』

  基礎の石を外し地面を掘り下げて、砕石と コンクリートで補強された地面に再度基礎の石が水平に積まれました。                 そこに土 壁の芯「コマイ」が入るよう中央に溝を彫った新しい土台を入れる微妙な工事が始まりました。基礎石の上に新しい土台が入るようジャッキで、壁全体をギリギリまで上げて、土台を置くと写真でもお分かりのように壁と土台の間にきれいな水平線が描かれました。(写真上)

 ここから、土台にあて木をして、基礎石の中央まで叩いて押し込んでいきます。
 既存の柱の垂直を確認しながら、新しい土台と柱ががっちり組み合うまで打ち込んだところで、ジャッキを下げると重量で柱と壁が刻んだ溝に入り、ピッタリおさまりました。(写真中)
このように文章で説明すると10行足らずの工程ですが、実際は付随して起こる予期せぬ問題への対応が多く、引っかかるコマイをのこぎりで切ったり、隙間に合わせたクサビを作って打ち込んだり等々、簡単には進みません。
特に古い部材と腐食して交換が必要な部材をつなぎ合わせる個所は、採寸して刻んで繋ぐ訳ですが、何か所もある繋ぎ目を合わせる加工には技術と手間がかかり、きっちり納まる度に「やりますねー」と、自然に称賛の声になります。

2013年11月20日水曜日

 杉浦醫院四方山話―292 『ヨロビ起こし』

 現在進行中の納屋の改修工事で、設計士と棟梁が工法を検討するなど一番気を遣った工事は、建物東側が約10センチ落ち込み、全体が東側に傾斜している「ヨロビ起こし」と云う修正工事でした。土壁をすべて落してしまえば比較的簡単な工事のようですが、現在の土壁は生かすことが前提ですので、笹本棟梁は、特注の金具を発注して、東側壁全体をジャッキアップし、腐食している土台を差し替え高さを調節して、元に戻すという工法で工事にかかりました。右写真が特注の金具です。この金具を内と外で連結して計6個セットしました。                                       更にジャッキアップしたとき浮いた壁の重量で、梁や柱が広がらないよう帯ラジェット(下写真のグリーンの帯)やチェーンラジェットでしっかり絞めて固定しておきます。

右写真のように特注金具と下のジャッキとの高さに合わせた柱を6個所にセットして、いよいよジャッキアップと云うところまで進みました。   当初予定した通りに事が運ばないのは、土蔵の改修工事でも経験済みでしたが、今回も屋根瓦を外して屋根の下地作業を始めると雨漏りで腐っている梁や土台、垂木などが随所で明らかになり、新たに刻みをして新しい梁や土台に入れ替える作業が次々起こります。
 ここまで、セットされた段階で、設計監理を担当している薬袋設計士を交えての協議の末、基礎の石も一度外して、基礎が沈まないよう基礎石の下を採石とコンクリートで補強してから再度基礎石を積み、新たな土台に入れ替えることになり、土間の土を掘り出して約30センチ掘り下げることになりました。             要は、具体的な問題に直面したらその都度、みんなの知恵でより良い工法や手順を考えて、現場の大工さんが試行錯誤格闘して事を運ぶ以外ないということが、改修工事の大変なところでもあり、面白いとこでもあるようです。取り壊して新しく建て直した方が安く出来ると云う現代では、「ヨロビ起こし」の工事など滅多にないそうですから、工法も現場の状態から編み出すしかないようです。 

2013年11月16日土曜日

 杉浦醫院四方山話―291 『秋のお香教室』

 当館の病院棟の2階は、座学スペースとしてデジタル化された日本住血吸虫関係のDVDを観賞したり、和の学習教室の会場として活用を図っています。改修工事の終わった土蔵にも畳敷きの和室がありますので、参加人数によって、どちらの会場も選択できます。
 
過日、「秋のお香教室」が参加者の都合に合わせて、午前の部と午後の部に分かれて開催されました。       香司の長坂先生が前回も和服でしたから、和服での参加者もあり「和の教室」の雰囲気が満ちていました。今回は、香袋を柱などにさりげなく吊るせるよう紐状の材料をさまざまな方向ににくぐらせて引き締める「結び」までを2時間集中して学びました。              「結び」は、人間が習得した最初の技法と云われ、これによって、物を束ねたり、結び合わせたりすることができるようになり、人間が他の動物と一線を画した力や文化を築く基礎になったと云われています。たとえば,石と木とをつる等ででしばりつけた石槍や銛(もり)で猟を始め、弓矢などの進化した道具へと発展したのも「結び」からで、日本の和結びも100種類以上あるそうですから、奥が深い和文化です。
下の写真は、午前の教室の参加者の作品です。中の「香り」もそれぞれ自分の好みの香りを調合したように香袋のデザインや色も多彩で、「結び」もそれぞれが挑戦した形で決まっていて、個性的な作品に仕上がりました。
                       

2013年11月9日土曜日

  杉浦醫院四方山話―290 『河西秀吏さんの写真』

 過日、西条二区の河西秀吏さんが「文化祭に出品した写真だけどここの池だから・・・」と秋の杉浦醫院庭園の池を撮影したパネル作品を持参くださいました。河西さんは既に数冊の写真集も上梓している写真家ですから、アッと驚く素晴らしい写真で、言われなければ杉浦醫院の池だと瞬時には分からない見事なものです。
 
 杉浦醫院庭園の秋は、何と言ってもモミジの紅葉です。この時期は、落ち葉も庭一面を赤く染めますので、紅葉を楽しんでもらうよう朝の落ち葉掃きも控えています。河西さんも前話の堀之内さん同様、人知れず撮影して、何も語らずさりげなく置いて帰ってしまう方ですから、この紅葉が去年のものか一昨年のかも分かりませんが、生半可な講釈を垂れたがる悪癖で、水野晴郎センセイ風にこの写真を解説してみましょう。
 <先ず何と言っても敢えて逆光を選択できる河西さんのカメラ技術とセンスが凄いですね〜。逆光故にまっすぐ伸びる竹の影が水面に投影され立体的な遠近感を醸し、実際の池の奥行きを倍加していますね〜。水面に広がるモミジの落ち葉に輝きを与える木漏れ日も素晴らしいですね〜。その上に、逆光にもかかわらず水面に反射される秋の青空もしっかりとらえて、赤や黄の紅葉を一層引き立たせていますね〜。いやぁ、写真って本当にいいもんですね〜>
 
 下の写真は、河西作品を劣化させて申し訳ありませんが、持参いただいた作品を私が撮影したモノです。クリックすると拡大しますので、概要をご覧いただき、間もなく全面紅葉を迎える杉浦醫院で、診察室に掲示した河西さんの実作品を是非ご鑑賞ください。実際の池と作品のアングルなどを見比べてみるのも面白いかと思います。玄関では、堀之内さんの丹精込めた菊花と菊香がお迎えいたします。 
 

2013年11月8日金曜日

  杉浦醫院四方山話―289 『堀之内一郎さんの今年の菊』


菊咲イチゲ「雪の精」
菊苗 福菊 元禄丸 1株
 プレ・オープン以来、杉浦醫院の玄関には、季節ごと花が絶えませんが、11月になると春から秋まで咲いたサフィニアを交換に西条一区の堀之内一郎さんが、菊を届けてくださいます。これも毎年ですが、音もなく現れサッと交換して疾風のように去って行きますからお礼の挨拶も出来ず、本当に「洒脱な方だなー」と憧れてしいます。まだ咲いていたサフィニア3鉢はそのままに丸菊3鉢に上の写真の「雪の精」2鉢と下の「元禄丸」4鉢です。

 菊の種類や育て方も無知の私たちに「元禄丸」「雪の精」と名札も立てて置いて行ってくれますから、今回の2品種の菊は和菊と総称される古代菊の代表的な品種であることも分かり大変助かります。
また、届いた鉢を見ると土が白く乾いていたので、「名人・堀之内さんが水遣りを忘れる訳もない」と育て方を調べていくと、土が白く乾くまで「水絶ち」をして、またたっぷり「水遣り」して、また「水絶ち」を繰り返すことで、茎もまっすぐ伸び強くなることが分かりました。ただ機械的に毎日水遣りすれば良いというものでなく花や葉を観察しながら土の乾き具合にも配慮するという綺麗な花は咲かせる「菊づくり」は「丹精こめて」が肝要なようです。
「元禄丸」の花写真から、日本のパスポートを飾る十六弁菊花紋を思い出しました。外国では、国旗と国章という紋章が法律で決まっていて、パスポートには国章を表紙にしているようですが、日本は国章が法律で決まっていない為か、天皇家の家紋が八重の十六弁菊花紋であることから、パスポートには一重の十六弁菊花紋が使われたそうです。矢張り、天皇が日本人であることを証明をしてくれているのが、日本のパスポートだということでしょうが、「春の桜と秋の菊」は、日本を代表する国花として定着していますから、桜と菊のデザイン2種類を用意して、好みで選択できると云った洒落があってもいいのになー・・・・と、余談でした。


2013年11月7日木曜日

 杉浦醫院四方山話―288 『台風被害と修復』

 10月の波状攻撃のような台風で、母屋屋敷蔵の壁や軒(正確には「けらば」と云うそうです)が、写真のように風圧なのか水によるのか定かではありませんが崩れ落ちる被害に遭いました。       
木造建築でも土蔵造りとか蔵造りと呼ばれているこの日本建築は、鉄砲の伝来で、城郭に防火・防弾のために30cm以上の分厚い漆喰大壁が用いられたことから、江戸時代以降は、城郭で発展した技術が生かされ、火災や盗難防止のために倉庫として裕福さの象徴ともなって盛んに建てらました。                                       漆喰の外壁が落ちて隠れていた軒の構造が露わになりましたが、あらためて竹と縄で編まれた土壁の芯を見ると手の込んだ技術であることに感心します。現代では、土壁に変わる断熱材もいろいろ開発されましたが、これも土壁の手間が工期の長さとなり建築費のコストを押し上げたからでしょう。
 
伝統的な木造工法
a= b=貫 c= d=床梁 e=束石(つかいし)
 土壁はいくつもの工程と職人さんの手間によって作られてきました。「木舞(コマイ)」とよばれる、丸竹と平竹を組み合わせた土壁の芯になるものを、右図cの柱とbの貫(ヌキ)にワラ紐を使い編みつけていきます。

この工程が終わると木舞が筋違になり、一つ一つの壁が固定され、がっしりと力強くなります。その後ワラを細かく刻んで混ぜこみ発酵させた土を丹念に木舞に塗りつけていきます、これは荒壁といい壁の芯になります。この後しばらく乾かし、荒壁の上に荒壁よりさらに細かいワラを練りこみ塗りつける中塗りをします。この時点で壁厚は約10センチほどになり、最終的にこの表面に珪藻土や漆喰を塗り、土壁が出来上がるのですが、長年にわたる使用に耐えるよう柱に溝をいれ、ここに土壁をさしこみ壁の端が柱から離れるのを防ぐ、といった細かい工程も必要になるそうです。 
 
 杉浦家の建造物は、土蔵造りの土蔵・納屋・屋敷蔵に限らず、母屋・病院・温室も全て土壁ですから、それぞれが、明治・大正・昭和初期の建物ですが、一世紀を経てもしっかり持ちこたえているのは土壁だからでしょう。全くの素人としては、現代建築しか知らない子どもたちにも上記の土壁の工程と職人技術が目の当たりにできるよう、補修工事も軒と壁の一部は、中の構造が分かるよう透明な素材で修復出来ないものかと思いますが・・・可能なのでしょうか?

2013年11月2日土曜日

  杉浦醫院四方山話―287 『鬼瓦』

 納屋の改修工事が始まり、昨日は屋根瓦の撤去作業が終日続きました。土蔵の改修では、瓦を一枚一枚外して水洗いし、野地板を張替え土盛りし、外した瓦を再度屋根に載せましたが、納屋の瓦は痛みが激しく、再利用しても先行きもたないということで、新しい瓦を載せることになりました。

 現代建築では、屋根に瓦を使うことも少なくなり、棟の末端に鬼瓦を付けることもありませんが、瓦屋根では、大小やデザインなど様々ですが雨の侵入を防ぐ役割も兼ねた鬼瓦が付いています。いわゆる魔除(まよ)けとしてつけられてきたものですから、怖い鬼の顔を彫刻したことから、「鬼瓦」と呼ばれてきましたが、時代と共に鬼面の瓦を付けると近隣の家を睨みつけているようで・・・と敬遠され、家紋や苗字を入れたものから福槌や宝珠など富を願ったものまで鬼面でない鬼瓦へと変遷してきました。
 
 旧中巨摩郡若草町加賀美地区は、良質の粘土の産地で、豊富な湧き水や燃料を採取する山が近くにあることから、古くから瓦産業が発達し、現在も甲州鬼面瓦と云う工芸品が、家内安全、無病息災、商売繁盛のお守りとして、屋根材と云うより装飾用贈答品として特産品になっています。

日本瓦は日本の気候に適応し、地震や台風に強い特徴や1,000度以上で焼成する粘土瓦は、不燃材としても優れ、耐熱性や遮音性も高いことから現代でも「屋根は瓦でなければ」と云う方も多いようです。


今回の改修工事で、瓦は新しくなりますが、由緒ある鬼瓦は活かすことになりましたので、慎重に外されました。
納屋の西先端の鬼瓦は、杉浦家の家紋「丸に鷹の羽」が彫られています。
 
この「鷹の羽」紋は、武士が多く用いたとされる紋ですから、江戸時代から苗字帯刀を許された医者の杉浦家の家紋も武士に準じた紋だったのでしょうか?はたまた、現在も杉浦姓が多いのは愛知県ですが、武田信玄が三河の国へ遠征した際、当地の名医を甲州に連れて戻ったのが杉浦家のルーツと云った話も聞きましたからその辺も関係するでしょうか?三郎先生の口癖は「昔のことを詮索するより先のこと」で、系図や来歴などには全く興味が無かったそうですから純子さんも、「ウチなんか田舎開業医の一平民でしょう」と淡々としています。     土蔵に隣り合わせた納屋の東端の鬼瓦には、たとえ土蔵が焼けても納屋には延焼しないようにという呪いで、写真のように「水」の文字が彫られています。
二つの鬼瓦は、単に真ん中が「鷹の羽」と「水」の違いだけでなく、左右の脚の部分のデザインも微妙に違い、それぞれが特注で造られたことを物語っています。
 
当館にお越しの折には、母屋をはじめそれぞれの建造物に鬼瓦など歴史的意匠や用途に応じた特徴も随所に見られますので、それらも是非お楽しみください。