2013年4月30日火曜日

杉浦醫院四方山話―233 『若尾蔵の吸物膳』

 私が小学生のころ郷土の偉人として、若尾逸平の話を副読本か何かで読んだ記憶があります。旧白根町(現在の南アルプス市)在家塚の貧農の家に生まれた逸平は、武士になろうと志を立て江戸にのぼりましたが、そこで見たものは、商人にペコペコする武士の姿で、いっそ商人になろうと転じ、甲州と江戸を行き来する行商人になって、財を成したという立身出世物語でした。
 卒業式で「身を立て名を挙げ」と歌っていた時代ですから、若尾逸平はその模範的な人物だったのでしょう。そう云えば、現在の愛宕山子どもの国は、甲府市長も務めた若尾逸平を記念して作られた公園で、昔は「若尾公園」と呼ばれていました。

 明治中期には、この若尾逸平一族は横浜や東京で、甲州出身の雨宮敬次郎や根津嘉一郎らをまとめ「甲州財閥」を形成し、現在の東京電力や東京ガスを傘下に治めたと云う逸材でした。
昭和初期の金融恐慌で若尾家は没落したため同じ甲州財閥の山梨市の根津嘉一郎や韮崎市の小林一三と比べると現在、その存在も希薄になってきた感もしますが、山梨の人物伝や近代史には欠かせない人物であることには変わりないでしょう。

その昭和5年の若尾財閥没落で、若尾家が所蔵していた多くの動産、不動産が売りに出されたそうですが、「これは、若尾さんが傾いた時、祖父が引き取ったものです」と純子さんが主屋屋敷蔵押入れに眠る二つの木箱を案内してくれました。

木箱の蓋には「明治二十九年新調 壽々竹吸物膳十人前 但四十人前之内 若尾蔵」としっかり文字も残り、一箱に十人前の吸物膳が五人前づつ二段に納まっています。
若尾家が明治29年に40人分の膳を新調したうちの半分20人分の吸物膳を健造先生が引き受けたという物語も内包する歴史的逸品です。
明治中期の若尾家は、飛ぶ鳥を落とす勢いだった訳ですから、新調した膳も吟味された素材とつくりの品なのでしょう、形容しがたいサーモン色と云った感じの塗が時代を感じさせませんし、きちんと土蔵で保管されていたので、痛みも一切ありません。
さっそく、整備改修が終わった土蔵ギャラリーの展示台に運びましたが、「杉浦コレクション展ー1」は、この吸物膳をはじめとする杉浦家の器展として、連休明けから公開できるよう準備を進めています。

2013年4月25日木曜日

杉浦醫院四方山話―232 『花・2題』

桜や椿、モクレンといった花木の花は、今年は3月中にほぼ咲き終わり、杉浦医院の庭園は芽吹きだした青葉が気持ち良い季節となりました。医院棟前の庭は、小高い丘のように土盛りされ清韻先生壽碑が建っていますが、碑を囲むように写真の「シャガ」が群生し、今を盛りに白い花を咲かせています。シャガは中国の原産で、種子が発生しない三倍体植物ですから中国から株ごと持ち帰ったものが日本全国に広がった帰化植物で、日本に現存する全てのシャガは同一遺伝子だと云います。
杉浦家は8代目健造先生が西洋医学を修めて開業するまで、代々漢方医でしたから、庭園には薬草や薬木が多いのも特徴ですが、シャガも薬草だったことから、池の周りにも植えられ現在に至っているようです。この連休に散歩がてらシャガの花と新緑の庭園をお楽しみください。
プレオープン以降、医院玄関を四季折々の花で飾っていただいてきた西条一区の堀之内一郎さんが、今回も4色のサフィニアを2鉢づつ計8鉢をそっと置いて下さいました。写真右端の白と黄のパンジーのプランタは、昨年末に葉ボタンと一緒に届けていただいたものですから、全て堀之内さんの花々です。去年の夏には見事な大輪のサフィニアをいただきましたが、今年は、ここから丁寧に育てて何とか昨夏のような大輪に仕立て上げたいと思います。
それにしても「疾風のように現われて、疾風のように去っていく」どころか、「音もなくきれいな花を置き去っていく」堀之内さんは、月光仮面のおじさん以上の「イイ人だな~」という感動と共にいつもいつもほんとうにありがとうございます。

2013年4月24日水曜日

杉浦醫院四方山話―231 『奇陶軒 桝吉製』

明治参壱年七月 清韻亭」と箱裏に書かれた「珈琲茶碗」のセットを、「西条の片田舎にあるものですから、古いだけでたいしたものじゃないと思いますが調べてみてください」と純子さんが持参下さいました。明治31年ですから健造先生が求め、愛用していたもので、箱は六客分入るように仕切られていますが、「奇陶軒 桝吉製」と書かれた器が三客と「小澤造」とある器が一客です。茶碗も皿も非常に薄く、ちょっと油断すると割れそうな瀟洒なつくりです。

杉浦家に残る骨董類は、手がかりさえあれば必ず古美術を扱うサイトで、同じ作家の作品や説明に行きつき、調べることができます。
今回も「奇陶軒桝吉製」としっかり判読できる器ですから、これを頼りに検索すると愛知県の「森宮古美術」のホームページに「川本桝吉 染付花鳥紋花瓶」の写真と説明がありました。ちなみにこの花瓶はすでに売り切れで、値段は分かりませんが、「川本桝吉」については、以下の説明がありましたので、そのまま拝借します。

幕末・明治期の瀬戸の陶工。常に製磁の拡張を改良を重ねて、安政一年(1854)には既に西洋風の器を製作し、輸出磁器制作の先駆けとなる。明治九年(1876)パリ尾万国博覧会に青花磁の額面を出品したところ、その作品があまりにも巧妙だったので磁器ではないと疑われた。その際に玉砕して審議を確かめたという。明治十八年(1885)には退隠して奇陶軒桝山と号した。

「奇陶軒桝吉」製と号が残っている杉浦家の器ですが、川本桝吉は退隠して「奇陶軒桝山」と号したとありますから、「吉」「」と一字違います。
そこで、更に検索すると、「陶磁器・唐津焼 茶道具 鶴田純久の章 お話」と云うブログに「川本桝吉」の稿があり、次のように記されていました。

瀬戸の陶工。幕末より明治期の人。1858年(安政五)五代川本半助の養子となり義弟六三郎を育成し、1864年(文久四)分家しました。常に製磁の拡張と改良を図り、1854年(安政元)すでに西洋風の器を製し輸出磁器製作の先駆をなしました。
1876年(明治九)青花磁の額面を製してパリ博覧会に出品したところ、その作がはなはだ巧妙であったので、当地の製造家がこれを磁器ではないと疑って破砕し真偽を確かめたといいます。1885年(同一八)五代川本半助の次男作太郎を迎えて養子となし、自らは退隠して奇陶軒桝山と号しました。
作太郎は第二代を継ぎ桝吉と改め奇陶軒と号しました。また改良磁器製造家として有名でありました。器に奇陶軒桝吉製の六字を書く。

これで、右の器の作者は、「奇陶軒桝吉製」の六字を書いた川本桝吉の養子・川本作太郎であることが判明しました。
作太郎は、明治19年に養子となったとありますから、健造先生が購入した器は「明治31年」ですから、作太郎の全盛期の作品と云えるものでしょう。
また、「パリ博覧会に出品したところ、その作がはなはだ巧妙であったので、当地の製造家がこれを磁器ではないと疑って破砕し真偽を確かめたといいます」とあるように器全体がこんなに薄く作れるのかと云うほど薄いのが川本父子の器の特徴のようですから、杉浦家の器と合致します。

もう一客の「小澤造」とある器は、今のところ出自は不明ですが、奇陶軒桝吉製とよく似たつくりですから同時代の名工のものと思いますが・・・・どなたか情報や知識がありましたらご教示ください。

2013年4月23日火曜日

杉浦醫院四方山話―230 『留守ノート5・目黒寄生虫館』

H・P閉鎖中の3月13日(水)に、目黒寄生虫館の小川和夫館長と国立科学博物館の寄生虫博士・倉持利明氏が来館されました。
「財団法人・目黒寄生虫館は、寄生虫学を専門に扱った世界で唯一の研究博物館です」と銘打っているように寄生虫の実物標本も並ぶ、マニアには大変人気もあるユニークな博物館です。
1953(昭和28)年に医学博士 亀谷了(かめがいさとる)氏が私財を投入して東京目黒に設立開館したと云いますから、実に60年の歴史ある博物館です。 クワガタやチョウと違って寄生虫は、万人受けする「虫」ではありませんが、医学的にも科学的にも必要な科学資料館として、その存在は貴重です。              
農学博士でもある小川館長が、東京大学教授を退官後も目黒寄生虫館で、主に魚類や海産物への寄生虫の研究を続けているように現在進行形の寄生虫の研究機関でもあります。「日本寄生虫学会」同様、地道な活動がここでも継続されています。

  杉浦医院診察室の書棚には、三郎先生の専門誌や学会誌などが当時のまま納まっています。
その中に分類整理の為のファイル・ボックスが数個あり、先生の字で「目黒寄生虫館」と記された箱には、目黒寄生虫館から三郎先生に送られていた当時の月報が残っています。
 杉浦医院に残る多数の医学文献を前に「こう云った貴重な文献を誰かが保存、整理していかないと何処でも捨てているから心配だね」とか「小川さん、医学文献学って云うのを立ち上げたらどうですか」等々、歓談しながら丁寧に館内を見学し、写真に収めていました。
 
また、「杉浦医院のブログを読んでは、誰が書いているのか、どんな人なのか興味もあって・・」と聞かれ、「えー光栄です。恥ずかしながら私が・・」と応えると「面白く読ませてもらっています」と励ましの言葉や「目黒寄生虫館にお越しの節は、私を呼び出して下さい」と優しい言葉をいただきました。

以前、町の文化講演会に来町いただいたカイチュウ博士・藤田紘一郎先生も日本寄生虫学会の太田伸生医学博士もそうでしたが、寄生虫の専門家、大御所の先生方は、皆、気さくで優しく楽しいのは、「寄生虫」の成せる業なのか?はたまた、そう云う資質の面々が「寄生虫」に集うのか?どちちらにせよ「かくありたい」という人間的魅力と姿勢が共通していることを実感できた両博士の来館でした。

2013年4月19日金曜日

杉浦醫院四方山話―229 『留守ノート4・映像・画像のデジタル化』

東京にお住まいのN氏から、「三郎先生の葬儀の8ミリフィルムが出てきましたが、当方では不要ですので・・・」と、当館宛に3本のフィルムを送付いただきました。
健造先生の葬儀は、村葬として執り行われたこともあり「頌徳誌」はじめ写真もかなりの枚数がありますが、三郎先生の葬儀資料は、数点の写真だけでした。純子さんは、こと身内の方の話題になると極力控え目で、多くを語ってくれませんから客観的な映像が存在することで、甲州の風土としても定着していた所謂「大規模葬儀」の様子が分かります。そんな甲州葬儀も近年すっかり影をひそめセレモニーホール主導のスマートなものに激変していますので、岡島全盛時代、筆頭株主でもあった三郎先生の葬儀には、医学関係者から患者さん、岡島全社員まで多くの焼香が続き、会場の遠光寺に入りきれない弔問客だったと聞いています。その葬儀映像は、風土伝承館としても大変貴重かつ有効な映像資料ですから、早速近くの写真館に相談すると「外注で東京に出してデジタル化します」と話が進みました。

下のポスターは、山梨県が1971年(昭和46年)に作成した地方病予防の啓発ポスターです。デザインと色使いのインパクトが凄すぎてちょっと引いてしまいそうですが、地方病予防の徹底を「強調」したかったのでしょう。こういう画像もすっかり見かけなくなり、消えてきていますから、デジタル保存も必要です。今回、一口にデジタル化と云っても注意が必要なことを科学映像館の久米川先生からの電話で知りました。

先生は、三郎先生の葬儀の際のフィルムが発見された旨を話したところ「ご親族の皆さんの承諾が得られれば、葬儀映像は珍しいので科学映像館でも配信しましょう」とおっしゃり、翌日の「ブログ・科学映像館だより」で、以下のようにご教示くださいました。

昨日午後、昭和風土伝承館の中野氏と電話中、日本住血吸虫の研究と治療にご尽力された、杉浦先生のお葬式の8mmフィルムが発見されとの話を伺う。そのフィルムは地元の写真屋さんでデジタル化中、しかしその処理は東京で行うので2週間を要するとの話。しかもデジタル化の費用は5,000円である。
本格的にデジタル化すれば、最低3万円前後要する。デジタル化にはピンからキリまであり、ひどい例はフィルムの修復・複製なくデジタル化。このケースは多分最低のデジタル化例であり、フィルムを映写した画面をデジタルカメラで撮影してのデジタル化と推察される。しかしこれもデジタル化である。
これから貴重なフィルム、VHSのデジタル化を行うときは、DP屋さんではなく、修復,デジタル化を行っている会社に直接、お願いされんことを。

2013年4月18日木曜日

杉浦醫院四方山話―228 『留守ノート3・杉浦医院照明器具-番外編』

昭和4年に新築された杉浦医院内に残る当時からの照明器具をH・P閉鎖前、順次紹介してきましたが、今回、番外編として、それ以降の照明器具をご紹介します。
 
この外灯は、昭和10年前後にいち早く自家用車・ダットサンを購入した三郎先生が、土蔵横に建てた車庫入口に残る外灯です。70年以上の風雪に耐えてきた存在感がありますが、このシンプルなアーム型の外灯は実用性にも優れていたのでしょう、昭和40年頃までは、街々の電柱にもこれと同じアーム型外灯が灯っていました。今となっては滝田ゆうの漫画でお目にかかれるくらいで、貴重なブリキ笠外灯ですが、この後、蛍光等がスッと伸びた当時としてはモダンな、でも温かみの薄れた外灯に取って代わられた記憶があります。


このシャンデリアは、応接室の照明です。昭和8年に皇太子生誕記念で発売されたヤマハグランドピアノを購入した三郎先生は、このピアノを応接室に入れました。
それまでは、診察室と同じ形状の丸い照明が付いていたと純子さんが記憶していますので、ピアノに合わせてシャンデリアに交換されたのでしょう。

昭和の初期に板張りの洋室にシャンデリアが灯り、その下でグランドピアノを弾く純子さん達三姉妹は、間違いなく近寄りがたい「お嬢様」で、「高嶺の花」だったことでしょうが、そんな話や素振りを微塵も見せない有り様は、「ローマは一日にして成らず」の至言どおりです。

最後は、院内廊下の照明です。病院棟は、「出来るだけ当時のままの現物、実物をそのまま見ていただくこと」を方針に整備しましたが、見学者の足元の安全も考慮すると廊下には新たな照明設置が必要になりました。

「昔からあったようなレトロ照明で違和感のないモノ」で、選んだのがご覧の白熱電球照明です。
次々と生産が中止されて行く白熱電球ですが、エジソンの発明した白熱電球は、「世界から夜を消した」功績のみならず、蛍光灯やLEDには無い、温もりのある消しがたい照明です

 1月から6回にわたり、杉浦医院内に残る照明器具を紹介してきました。現在では貴重なアンティーク照明でもありますが、純子さんは常々「父は新しい物好きでした」と三郎先生を評していますから、昭和4年当時は、全て最先端のモダンな照明器具だったのでしょう。

 懐かしいのにどこか新鮮な味わいがあり、古風な中に近未来を思わせる洗練された意匠が感じられるものを「レトロモダン」とも言いますから、杉浦家が選択、保存してきたものは、共通してこの「レトロモダン」の意匠で統一されているように思います。

2013年4月15日月曜日

杉浦醫院四方山話―227 『留守ノート2・日本寄生虫病学会』



製作:日映科学映画制作所「人類の名のもとに」
1959
年 30分 (カラー)
資料提供:山梨県/米陸軍第406総合医学研究所/山梨県中巨摩郡昭和町 
【製作者の声】この映画は、山梨県で多くの方が永らく苦しんだ地方病、日本住血吸虫撲滅の模様を、実話にもとづき製作される。出演者も農村の青年孝三、母およし、妹しのぶ以外、すべてご本人が登場、杉浦三郎博士自身も。
地方病の映画では、もっとも古いもの。
 
H・P閉鎖中の3月末には、「第82回日本寄生虫学会」が、東京医科歯科大学湯島キャンパスで開催されました。この学会期間中、会場で科学映像館が所蔵する日本住血吸虫関係の映像が上映されることになったと、科学映像館の久米川先生から連絡をいただきました。そして、「その関係でしょうか、この所、日本住血吸虫関係の作品へのアクセスが連日多数続いています」と教えてくれました。
当館が探していた幻の映像≪人類の名のもとに≫もその一本ですが、これは久米川先生のご尽力で、製作会社日映科学製作所の倉庫で埃をかぶっていたフィルムが見つかり、久米川先生は、トップ映像右上に「昭和町風土伝承館」の文字も挿入して、デジタル化してくださいました。 
先生も医科系大学の教授でしたが「いやあ、びっくりしました。日本にまだ寄生虫学会があったなんて知りませんでした」と驚いていた程ですから、大変地味な学会なのでしょうが、東京医科歯科大学を拠点に研究活動を継続しているようです。
そのリーダーが太田伸生教授ですが、太田教授は開館以来複数回、外国人研究者を案内して来館され、貴重なお話やアドバイスをいただいてきました。

特に、今年の学会は「ミヤイリガイ発見百周年記念」の年に当たることから「住血吸虫病との闘い~宮入慶之助に学ぶ~」の市民公開講座も開かれ、盛況のうちに閉会したそうです。学会事務局から杉浦醫院のパンフを会場に置いて、当館の存在も周知したいとの連絡もいただきましたので、手づくりのパンフを送り、参加者に配布いただきました。

山梨・日本では、終息に至ったこの病ですが、現在も患者数では、世界三大病の一つに挙げられるほど猛威をふるっているのが実状で、中国やカンボジア、フィリピンをはじめとする有病国の実態調査から有効対策や医薬品の開発など日本寄生虫学会の研究や成果は、世界の有病地帯を対象にしたものになっているようです。

 1959年(昭和34年)制作の「人類の名のもとに」は、文字通り日米で協力して、人類の名のもとにこの病を世界から終息させようと製作された映画で、その精神は日本寄生虫学会に受け継がれ、脈々と継続されている訳ですから、54年前のこの地域の風景や生活ぶりも貴重な映像として楽しめるこの映画を当館2階の大型モニターでご鑑賞ください。

2013年4月12日金曜日

杉浦醫院四方山話―226『留守ノート1・庭園に春・花々の協奏』

文明が進んだと云う現代社会は、「待たなくてよい社会、待つことができない社会だ」との指摘もあるように、私たちは自分の意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないものへの感受性をなくし、腹をたてストレスを感じる人種になってきているようです。             

サイバー攻撃によるホームページの閉鎖を機に自分の手を超えたものには「待つしかない」という断念についても考えさせられました。
江戸の町人は、「待たされる」という被害意識より「待つもまた楽し」とか「待たせてもらえる幸せ」という余裕の文化を形成していましたが、昭和初期には、太宰治が「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」と、「待たせる身」の辛さを敢えて強調したフレーズを名言として残していますから、時代や文明の進歩と共に「待つ」文化は衰え、「待たせる」ことは罪悪と云った価値観が定着してきたように思います。

 
 「冬来たりなば春遠からじ」の諺も「待つ」姿勢についての含蓄と人生訓でしょうが、教えの通りHP閉鎖中に杉浦医院の庭園は一気に春景色となり、隣の正覚寺境内を埋め尽くす満開の桜を主旋律に杉浦医院庭園の花木がハモル、「花々の協奏」と云った風情です。
ハモル・・・で、もう30年近く前でしょうか、ヒット曲「待つわ」の女性デュオの「私、待つわ」のリフレンを思い出しましたが、これも待つ女性が希少価値となり目新く、受けたのでしょう。

再構築されたHPが、いつから再掲載されるのか、じっと待つ身には分かりかねますが、自然は人間の都合どおり待ってはくれませんから、2013328日の春到来の庭園を書き記しておいて、再スタート時を花で飾りたいと思います。






2013年4月11日木曜日

杉浦醫院四方山話―225 『ブログ再スタート=飲水思源=』

2月19日(火)付け杉浦醫院四方山話224 『残りの雪と湯気』を最終更新後、当ホームページは、ウイルス感染により閉鎖され、この度、セキュリティーを高めたホームページが再開されました。閉鎖期間中、多くの方々からお問い合わせやご心配をいただきましたことに感謝申し上げると共に当ブログ再開へのご声援もたまわり、誠にありがとうございました。       

新ホームページのURLもhttp://www.sugiura-iin.com/で引き続き、トップ画面も全く同じですから、「変わり映えしないな」とのつぶやきも聞こえてきそうですが、再開を機に画面の全面リニューアルをしなかった理由を記して、旧ホームページにご尽力いただいた方々に敬意を表したいと思います。



例えば、上のトップ画面表題部分には、杉浦医院と昭和町の頭文字Sの字のロゴマークがありますが、デザイナー甘利弘樹氏の手による地方病の特徴であるお腹の膨らんだ愛嬌あるSの字は、同時に門脈に住み着いた日本住血吸虫の特徴をデザインしたロゴマークです。
「風土に学び 風土を活かす」のキャッチフレーズは、昭和町風土伝承館のコンセプトを端的に表現したいと故玉井袈裟男先生の教えに学んだものです。
その下に控え目に昭和町、やや大きく風土伝承館、中央に杉浦醫院を大きく表示して、淡い桜色の色調に庭園のメインツリーであるモミジを配した過不足ないデザインにまとめたのは、(株)ABSのK氏の積み上げの賜物でした。
また、当時の町教育委員長A氏の「ホームページの命は更新だよ」のアドバイスで開設した「杉浦医院四方山話」も30話を越えた頃から思いもかけない方々から評価をいただくなど博物館、資料館のホームページの中でも特色ある一つの形として定着し、広がりも見せてきました。

この度、根本的な再構築に伴い、開設以来協働で進めてきたK氏による保守管理は3月で終了しましたが、上記のように多くの方々の知恵とご協力で共に築きあげてきたコンセプトやデザインは、そのまま継承されましたので、あらためて「飲水思源」を肝に命じて、運営、更新していきたいと思います。

「飲水思源」は、故田中角栄氏が失脚後も中国首脳部が角栄前首相を熱烈歓迎した際使って,一躍有名になった四文字熟語ですが、中国四千年の歴史と知恵が結晶された故事成句が、歳のせいでしょうか、最近身につまされて感じ入ることが多くなりました。
「飲水思源=水を飲む時は、井戸を掘った人の恩を忘れず」は、蛇口をひねれば水が出てくる水道が当たり前になった現代ですが、つい4,50年前まで井戸水をくみ上げては風呂に水を運ぶのが子どもの仕事だったことやひとたび大震災に見舞われれば、先ず「水」の供給が緊急問題になる現実からもサーバー攻撃を機にあらためて「飲水思源」に思いを馳せ、このH・P立ち上げから今日までかかわっていただいてきた皆様にこの場を借りて御礼申し上げます。

そんな訳で、当四方山話のブログも再スタートとなりましたが、データアップ等の方法も変わり、超アナログ人間の操作が入ったことから、慣れるまで何かとお見苦しい点も多々あろうかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。
次話からしばらくは、H・P閉鎖中の杉浦醫院の動きなどを「留守ノート」という形でお伝えしていきますので、引き続きのご愛読を合わせてお願いいたします。