2012年2月25日土曜日

杉浦醫院四方山話―120 『ひかりの2月』

    2月のりんと冷たい晴れた朝、落ち葉を掃いていると純子さんが母屋玄関の障子戸を音もなく開けて、「2月はひかりですね」と声をかけられました。純子さんは、こう云った大変含蓄のある「言の葉」をさりげなく発するので、不意を突かれて返事に窮することがままあります。「うーん、風は身を切る冷たさで、指先は凍てつく感じだが、確かにひかりは暮れや正月のひかりとだいぶ違う」と遅まきながら感じ入り、思い出した一句が、そうかあれもひかりの句だろうと「誰の句か忘れましたが、春障子閉めて明るき日ざしかなは、2月のひかりでしょうね」と返すと「春障子が2月の季語ですからそうですね」と。またまた「うーん、含蓄の言の葉に隠された教養!恐るべし」と脱帽して、「この季節、月の光も冴えるので熱燗が旨くて困ります」と下世話に切り替えて・・・です。
 「ひかりを表現できる写真家は、未だいない」と天才アラーキの本で読んだ記憶が蘇り、「よし、ひかりの2月に俺が挑戦してやろう」と昔取った杵柄?で、杉浦醫院で撮った2枚です。旧病院玄関左手の梅の木と今日の空です。注目は、露出を開いてとらえた枝と蕾の陰影ですが・・・2月のひかりを感じていただけるでしょうか?
 東に隣接する正覚寺の石塔が2月のひかりでまぶしく光る様を樹木と板塀のコントラストで捕らえた傑作です。盗撮も辞さないアナーキーな姿勢をアラーキにも評価いただきたいと・・
駄作を詭弁で繕っていると「洗心」の2文字が、「先ずは心を洗いなおしてからだな」と諭してくれました。事務所の出入り口に対坐している「洗心」のお清め手水舎。何だかこれから毎日、徳目道徳が苦手の私に洗心・洗心・洗心とつきまといそうで・・・

2012年2月24日金曜日

杉浦醫院四方山話―119 『カートメル女塾』

   前118話の「木綿屋お帳面」を持参いただいた折、純子さんから焼かれる前の甲府中心街の興味深いお話をうかがいましたので、順次ご紹介していきます。
「平和通りを下って、県立病院を左側に入った一帯は、木綿屋の成島さんの所有地がずっと続いていました。県病院も成島さんの地所だったのか?定かではありませんが・・」   「私が初めて勤めた英和幼稚園は、反対側の平和通りを右に入った所にありました。空襲で焼かれてしまいましたが、カートメル女塾は、母も女学校を卒へて通った花嫁学校でした」で、初耳の「カートメル女塾」と死語となって久しい「花嫁学校」に先ず興味を覚え、
「カートメル女塾ってミッションスクールですか?」「カナダのメソジスト教会は、東洋英和を開いたカートメル先生を始め、山梨英和にはグリンバンク先生を送るなどしていましたからカナダミッションでした。建物が左右に扇に広がって素敵でした。木造でしたが最新式の洋風建築で、トイレも当時としては珍しい水洗式でした。1階が英和幼稚園、2階がカートメル女塾、3階が寄宿舎になっていたと思います。」
    「山梨英和学院120年史」に焼失した「カ-トメル会館」の写真が残っていました。      
純子さんのお話のとおり横一線まっすぐな日本の校舎とは一味違う優雅で重厚な斬新さが際立っています。純子さんは「子どもだからと手を抜いたり、誤魔化したりは一番してはいけないことで、子どもだからこそ本物を見せたり、本気でかかわらなければならないことをこの幼稚園で学びました」「ちょうど東京から甲府に疎開した方も多い時代でしたから、都会のお嬢さんもたくさんで、私のような若い先生ばかりでしたからご父兄もさぞご心配だったでしょうけど讃美歌に惹かれて教会に行ったり・・・あの建物も甲府空襲で全焼して、甲府には八百竹さんの料亭など立派な建物がいっぱいあったのに・・・戦争とは言え、この辺まで火の粉も飛んで来た凄い空襲で、今でも真っ赤な甲府の空を覚えています」と。純子さんがキラキラ輝いていた青春時代の象徴的建物の焼失を惜しむ無念に私も打たれました。

2012年2月22日水曜日

杉浦醫院四方山話―118 『お帳面』

 純子さんが「これは、木綿屋さんのお帳面ですが・・」と昭和17年の「薬種之通」と表書きされ、裏には「杉浦醫院御中 成島治平」と記された和綴じの「お帳面」を持参下さいました。純子さんが極く自然に発した「お帳面」という言葉、はて何十年ぶりだろう・・と、感激してしまいました。
 昭和も30年代までは、品物だけをもらって、帳面につけておき盆と暮れに清算する掛け売りがありました。お盆と暮れに店の人が集金に来ても「これだけ入れとくから」と借金しているのにえらそうな親の態度を理不尽に思った記憶もあります。     
 成島治平氏は、昭和2年から6年まで14代甲府市長を務めた方ですが、甲府市錦町の薬舗「木綿屋」の当主でもありました。この成島氏は、裁判所に隣接する現在の中央公園にあった明治43年築の県立病院にレントゲン装置を寄贈され、山梨県でも初めてレントゲンによる診断治療が実施できるようになったことでも著名です。
また、昭和6(1931)年5月に設立された山梨水晶工業組合の初代理事長も成島治平氏が務めていますから、甲府の地場産業と云われる宝飾産業の確立にも尽力された方です。錦町木綿屋がいつ消えてしまったのか?この達筆かつ自然な運筆の書は?・・とこのお帳面は、マニアックな興味をかき立てます。

2012年2月21日火曜日

杉浦醫院四方山話―117『彫刻家・笹野恵三氏』

 杉浦医院応接室には、杉浦健造先生のブロンズ胸像があり、対面するようにビーナスのような石膏の彫刻が同じ木製の台座にあります。この全く対照的な二つの立体作品は、同じ彫刻家の作品であることが分かりました。
 昭和9年に石原国吉氏が編集委員長を務めて編まれた「杉浦健造先生頌徳誌」は、約100ページに及ぶ健造先生と杉浦家の功績や人となり等を網羅した本ですが、健造先生形像建設(頌徳碑)までの経過についても記されています。
 形像制作は、各地の碑や胸像を見学した建設委員諸氏の協議で「東京美術学校を卒へ数度帝展に入選し新進芸術家たる東京市瀧野川区中里町 笹野恵三氏に依嘱し」とあります。
 この笹野氏は、神奈川県相模原市の笹野一族と呼ばれた素封家の生まれで、現在も「笹野家の長屋門」は、相模原市の登録有形文化財に指定され保存されています。
また、笹野恵三氏の東京美学校(現東京芸術大学)卒業作品「川底」は、全高108cmの木彫作品で、東京芸術大学収蔵作品として母校に残されているそうです。代表作には、相模原市・梅宗寺の南山禅師顕彰碑にある南山禅師のブロンズ像などがありますが、写真で見る限り健造先生のブロンズ像の方が大きさも精巧さも勝っているように思いますが、笹野家の方々も戦争中の金属供出令で多くのブロンズ像が消えましたから、笹野恵三氏の製作したブロンズ像もまさかここ昭和の地に二作揃って残っていることは知らないのではないでしょうか。
 純子さんのお話から、頌徳碑のブロンズ像は押原小学校の庭に設置されると聞き、「雨ざらしではかわいそう」と室内に置くべく笹野氏に同じものを注文して購入したそうです。「戦争中は、鍋釜まで供出しましたが、祖父が溶かされてしまうのは忍びないと床下に隠しておいたんです。そうそう、同じ木製台座のケース入りの裸婦像は、笹野先生が翌年に制作されたものということで、ふくよかで綺麗なのでおじいさんが喜ぶように向かい合って設置されましたから、二つとも笹野恵三作品です」と。
 純子さんの記憶力は、杉浦健造先生頌徳誌に記載されているとおりで、漢字一字の間違いもなく正確無比です。

2012年2月14日火曜日

杉浦醫院四方山話―116 『紫煙文化-2』

   上の写真は、三郎先生の醫院長室です。「父はここで庭を見ながらの煙草が唯一の趣味でした」と云うように愛用の喫煙道具が机の中に残されていました。机上前列は、三郎先生愛用のシガーケース、後列は、灰皿です。シガーケースはべっ甲や銀の携帯用や来客にも勧める為のボックス型など様々です。灰皿も三郎先生の好みの丸型のモノと患者さんからプレゼントされた動物型のモノまで、「その日の気分で楽しんで使い分けていました」と純子さん。
 
 前話で紹介した 「喫煙文化研究会」のスローガンは「喫煙文化を守り、美しい分煙社会の実現を!」ですが、三郎先生はそのパイオニアでもありました。以前「当時の醫院長室にしては狭く質素で不自然だ」と文化庁の調査官が指摘したとおり、この部屋は三郎先生が「美しい分煙」を実践する為に増築した醫院長室でもありました。誰にも気兼なく紫煙を楽しめるよう東南西の三面はガラス窓で開放でき、廊下に続く北側も二枚引き戸を閉めると個室になります。

 渋谷の公園通りにある「たばこと塩の博物館」では、現在「林忠彦写真展〜紫煙と文士たち〜」の企画展を開催中です。酒場のカウンターで煙草片手に足を放り投げた太宰治の写真は、あまりに有名ですが、井伏鱒二の書斎でのさあいっぷく写真も味わい深い一枚です。この書斎、三郎先生の醫院長室と構造がよく似ています。煙草を自然に楽しめた昭和の文士。その文士を煙草に絞って撮影した林忠彦氏。「紫煙文化」が堪能できる企画展でしょう。

2012年2月10日金曜日

杉浦醫院四方山話―115 『紫煙文化-1』

    還暦も過ぎて「あと何回の晩酌?」とカウントダウンに入ると急に里心つくのが凡人の習性でしょうか?同級生と群れる機会が多くなりました。先晩、カラオケに流れた折「閉めはみんなでザ・タイガース花の首飾りだ」とさっきまで「いい加減に煙草はヤメろよ」と正論を吐いていた健康法師が嬉々として音頭をとりました。「名曲だよなぁー。作曲はモーツアルトか?」とフルと「バカか。すぎやまこういちの代表作だ!すぎやまこういち知らないの?」「おー、すぎやまこういちか。流石だねぇー」「すぎやまこういちはあの頃から垢ぬけていて俺は好きだったんだ」と。「まだ生きてるの?」「80過ぎてるけど相変わらずダンディーだ」「そうか、いい歳を重ねているんだな」「俺たちもああいう大人のジジイを目指さないとな」と得意満面な健康法師。そこで「もしもし、すぎやまこういちの呼びかけで、俺は喫煙文化研究会に入ったんだ。日本を覆う喫煙バッシング、禁煙ファシズムに歯止めをかけることに余生をかけると云う、すぎやまこういちは、ホント大人だよな」と返すと「嘘だろう。お前は昔から勝手なつくり話でケンカを売るからな」と。思えば昔から合わない男だったなあとスタコラサッサしましたが、どうもケンコウ法師やセイロン大使には、この手の人間が多くて「困っちゃうなー」です。
 「バカの壁」の養老先生は、「始めて禁煙運動を命じたのはヒットラーで、健康崇拝は禁煙から始まって精神患者の断種、障害者の安楽死へとエスカレートし、最後にユダヤ人撲滅にまで至ったという歴史に学ぶとこの国が制定した「健康増進法」も大きなお世話では済まされない「危険性」がある」と事あるごとに指摘しています。
そう言えば、甲府駅北口に出来る新山梨県立図書館の館長に内定した作家の阿刀田高氏は、「喫煙は紛れもなく一つの文化である。文化の営みは、どこかに必ず毒のようなものを含んでいる。それぞれの主張や好みが、権力や人気取りや多数の力により不当に貶められることはよくある。文学の歴史はつねにこの憂きめにさらされて来たから、自分はタバコを吸わないが、近年の禁煙運動にはくみしない」と。初代館長にホントの文化人を招聘出来ることを喜びましたが、原理主義者の標的にされ、潰されなければ・・と、心配です。
 「喫煙文化を守り、美しい分煙社会の実現を!」と謳う「喫煙文化研究会」がWebで「愛煙家通信」を出しています。順天堂大学医学部教授・奥村康氏の「不良長寿のすすめ」など決してマスコミでは報じられないホントの話が満載で、間違いなく禁煙サイトのステレオタイプな話より、私にはずっと面白く、生きていることのなつかしさが実感でき、免疫力も上がります。「これも父の愛煙道具でした」と純子さんが持参下さった新たな煙草ケースも文化の香り漂う見事な細工、意匠で、煙草文化を研究し、守ろうと云う喫煙文化研究会を先導する椙山浩一氏は、目指すべきジジイ像として異存ありません。

2012年2月8日水曜日

杉浦醫院四方山話―114 『辺境日本論・余話』

    1月30日(月)に東京地裁は「主文。原告の請求は棄却する。訴訟費用は、原告の負担とする。」と、たった数秒の判決文で、原告・土肥信夫氏の完全敗訴を言い渡しました。土肥氏は、その場で控訴を決めましたが、翌々日の朝日新聞社説でも「がっかりする判決が東京地裁で言い渡された。」と裁判経過を詳細に追ってきた記者の公平、率直な見解が論じられていました。
 土肥氏は、東京大学卒業後に入社した大手商社で談合に異議を唱え退職、通信教育で教員免許を取得し、町田市の小学校で障害児と健常児の統合教育に情熱を傾ける教員として再スタートしたように極めて正義感の強い人で、三鷹高校校長となっても都教委による不当な干渉を黙って見過ごすことができませんでした。特に、2004年10月の園遊会で、当時東京都教育委員であった山梨県出身の将棋棋士・米長邦雄氏が、国旗・国歌問題について天皇から「強制はしないでください」と諌められたにもかかわらず、都立高校に対して強制を強めました。この米長氏を批判した土肥氏は、密告されて都教委から3回も呼び出され「米長氏の批判をするな」と強く指導されたのでした。退職後の再任用試験で、都教委は、土肥氏にオール「C」の評価で報復し、受験者790人中790番で不採用としました。これを受けて、土肥氏は、都教委が業績評価における公正評価義務違反を犯していると裁判に訴えたのでした。
 内田樹著「日本辺境論」でも日の丸と君が代に言及し、「法律で決まっているのだから、という思考停止議論」も日本人の辺境性だと看破していました。戦後憲法は、アメリカの押しつけだと自主憲法制定を主張する一方で、欧米にある国歌というものを日本でも作らなければ・・・と、「きょろきょろ」して作った君が代も最初に曲をつけたのはイギリス人ジョン・ウイリアムズ・フェントンで、それが宮内庁の雅楽の伶人によって改作され、さらにドイツ人のフランツ・エッケルトがアレンジしたものだという史実には知らんふりを決め込み、10数年前、やっと国歌と定められた君が代をずっと昔から日本の国歌だと・・思考停止してはばからない日本人の辺境性。
 日の丸と君が代を国旗・国歌と法律で定めようという動きは20数年前から着実に始まり、消耗感と法律で決まるのだからと「思考停止」で教職を去った私には、土肥氏の校長就任も驚きでしたが、「学校」と「教育」を真剣に思考した土肥氏の校長職のありように「信念の知」の真価を教示いただきました。「7パーセントの【自覚した知】が、辺境日本を救う」と云う内田氏のメッセージも土肥氏へのエールとして読むのが正解でしょう。

2012年2月5日日曜日

杉浦醫院四方山話―113 『杉浦家2月のお軸』

    「これは、茶掛けですので、八百竹さんからのものです。亡くなられた八百竹さんのご主人は、お軸にも造詣が深い方でしたが、とても面白い方でした。うちのような田舎家では、こんな立派お値段のモノはとてもとても・・とお断りすると、それは残念ですねぇ、でもちょっと裏の木の小枝をゆすって来てみて下さい。きっと大丈夫ですから、とかおっしゃって、その気にさせるんですよ」と純子さん。時代は、江戸かと思う小粋な会話ですが、その今は亡きご主人・小林敏宏氏は、山梨県の文化財審議委員も務めた博学な目利きで著名ですが、浅川伯教・巧関係の収集家として多くの白磁碗や書画を八百竹美術品店は現在も収蔵しています。私と同級生の弟の真氏も40歳前に急逝しましたが、学生時代からの博物館通いで「本物」を観る眼を養って、東京美術倶楽部で買い付けが出来る数少ない若き古美術鑑定士でした。この小林兄弟と八百竹美術品店については、鎌倉で「えびな書店」という古書店を開いている蛯名則著「えびな書店店主の記」という本や里文出版刊「浅川伯教の眼+浅川巧の心」などでも紹介されていますが、二冊とも小林真氏の奥様からご寄贈いただきましたので、当館でも読むことができます。
 
   表題「江天暮雪」は、瀟湘八景(しょうしょうはっけい)に選ばれた景勝地の一つで、特に雪景が良いと謳ったものですから、杉浦家が2月のお軸としてきたのも頷けます。
書は、華道青山流の家元で江戸時代の権大納言・園基勝の真筆です。
純子さんが欲しくなるのも分かるような柄、色調で統一された八百竹美術店表装の2月のお軸ですが、表題「江天暮雪」で、正月に読んだ内田樹著「日本辺境論」に繋がりました。
内田氏は、丸山真男の日本人論を紹介しながら「絶えず外を向いて、きょろきょろしている日本人」と「きょろきょろして持ってきた外来文化や思想」について論じています。
 金沢八景や近江八景、江戸八景など地域における八つの優れた風景を選んで観光名所とする「八景」選定方法も日本中に○○八景が400か所もあることから、日本独自の様式かと思いますが、10 世紀の中国北宋の時代、湖南省で選ばれた瀟湘八景(しょうしょうはっけい)がモデルで、きょろきょろして持ってきた外来様式を全国に広めて、元祖のように知らんふりを決め込む「辺境日本人」の得意技で、数多い「きょろきょろ」成果を具体的に挙げていた「日本辺境論」にも無かった「小さな発見」を「江天暮雪」で、楽しませていただきました。