2015年3月16日月曜日

杉浦醫院四方山話―406 『地方病学習会とホタル幼虫放流』

 昨日、NPO法人「楽空(らく)」と協働で育ててきたホタルの幼虫を放流しました。

楽空の鎌田川ホタル部会代表の古屋氏は、彼が甲府青年会議所=JC時代、昭和町源氏ホタル愛護会と共同事業として、昭和町で「ホタル舞う町復活事業」を始めてからの繋がりです。

当時、提案を受けた愛護会内部では「ヒサシを貸してオモヤを取られかねない・・」とか「JCは花火のように打ち上げて1年で終わりだから・・」と云った異論もありましたが、事業が終わった翌年、古屋さんは甲府市在住ですが、愛護会にも入会し、4年前発足したNPO楽空の中にも「鎌田川ホタル部会」を作り、以来当館と協働してホタルの飼育から放流、観賞会まで、持ち前のフットワークの良さで取り組んできました。



 4回目となる今回の放流は、マンネリ化しないように新たに「地方病とホタル」についての「学習会」も開催してと計画し、2階座学スペースで事前に「学習会」を開催しました。

 

 愛護会の若尾会長も「NPO楽空の皆さんが昭和町でホタルに取り組み、愛護会のホタル夜会にも協力してもらって感謝しています。今日放流する幼虫が4月の雨の夜、光ながら上陸するのは大変幻想的ですから、成虫も楽しみですが、幼虫の上陸も是非見てください」と、挨拶されました。                                                           プロジェクターでの地方病とホタルについての映像観賞と健造先生が地方病の原因究明に立ち上がった経緯について話し、館内見学後、参加者が幼虫採集を体験しました。

今年の幼虫は、種ホタルの採卵から始めましたから幼虫数が昨年より少なめでしたが、採集した幼虫を池に放流して解散しました。

  昭和町では、愛護会と教育委員会で公民館裏の源氏ホタル飼育室で幼虫を飼育し、今月下旬に「ホタル放流式」を予定していますから、4月に上陸した幼虫が土の中で繭をつくり、5月末から6月上旬には、今年も町内で舞い光るホタルの成虫が観賞できます。上陸情報も含め引き続き報告していきますので、昭和の源氏ホタルをどうぞお楽しみに! 

2015年3月15日日曜日

杉浦醫院四方山話―405 『わたしたちの研究室』



第12回私たちの研究室ご案内  県立考古学博物館の主催で毎年行われている青少年対象の郷土史や考古学に関する自由研究「わたしたちの研究室」の今年度の選考結果が発表されました。


 これは、平成26年9月から11月末まで公募し、本年度は54点の応募作品の中から、小・中学生それぞれの部門で最優秀賞から奨励賞までを審査委員が選定すると云う歴史研究コンクールです。

 

  考古学博物館が青少年向けに開催している事業の一つですが、今年で12回目の今年度の最優秀賞(山梨県教育委員会委員長賞)には、山梨大学附属小学校5年生の上田歩実さんの 「地方病から人々を救った杉浦医師」が選ばれました。



 夏休みに来館する親子には、「地方病」や「杉浦父子」を「自由研究」の対象に選び、見学や質問と資料集め、写真撮影など幾つかの共通点があり、必要な資料等はコピーしてあげるなど協力してきましたが、上田さんもその中の一人でした。



 今回の受賞者の研究内容は、考古学博物館ロビーで展示公開されていたようですが、山日新聞紙上で上田さんの最優秀賞受賞を知った時点で、展示公開は既に終了していて上田さんがまとめた「地方病から人々を救った杉浦医師」の内容を見れなかったのは残念です。

山日新聞には、受賞者決定のニュースと共にその作品展示公開期間をセットで報道すべく、もっと早く取材して欲しかったと思いますが、今後の為にも上田さんから直接拝借して、今年の夏には館内で展示できたらと考えています。

第12回わたしたちの研究室展示会1
県立考古学博物館ロビーでの展示公開の様子、左が最優秀賞上田さんの作品
(考古学博物館ホームページからのコピー)

 また、当館は「地方病」「杉浦医師」に限らず、「自由研究の宝庫」だと自負していますから、先ずは来館して「自由研究が・・・」と、率直に言ってくれれば、興味に合った課題やヒント、資料をご案内いたします。

2015年3月12日木曜日

杉浦醫院四方山話―404 『ホタルの幼虫放流に向けて』

 今年もNPO「楽空」と協働で育ててきた源氏ホタルの幼虫を放流する季節になりました。

 これまでの実績から、幼虫放流数と羽化した成虫数が期待どおりでなかった原因についてあれこれ協議したきましたが、一つには池に棲息しているザリガニが放流したホタルの幼虫を餌食にしているのではないか?と云うことで、普段から子どもたちにも池でのザリガニ釣りを奨励したりしてきました。

 その結果、水底を素早く移動するザリガニの数は減りましたが、冬眠あけのこの季節、念には念を入れてとザリガニ捕獲器3個を池に仕掛けました。

 

 ザリガニの名前の由来は諸説あるようですが、私には「いざり蟹」が転じての「ザリガニ」説が、一番しっくりします。「いざる」は「膝や尻を地につけたまま進む」ことですから、19組計38本の足と体全体をしなやかに使って結構なスピードで「いざるようなカニ」と命名した人の観察力には敬服します。

 もう一説「しざり蟹」が転じて「ザリガニ」説も的を得ています。「後退り、後退行すること」を「しさる」「しざる」と云うそうですが、私の貧しい語彙の中には「しざる=後退り」はありませんでしたから、「いざり蟹」説に軍配が上がった次第ですが、ザリガニの移動は、エサの捕獲以外は前進ではなく後進であることも大きな特徴です。

 
 

 3個のザリガニ捕獲器は、愛護会の若尾会長と杉浦精さんから提供されたものですが、中にサキイカや煮干しを入れて仕掛けておくと一日に20匹前後のザリガニが獲れます。 放流したホタルの幼虫が食べられてしまうのを極力減らすには、ザリガニの迷惑は承知で、根こそぎ捕獲したいところですが、それ以上の繁殖力を持つザリガニは、後を絶たないことでしょう。まあ、本来ホタルもザリガニに負けない繁殖力があるからこそ、フナや鯉、ザリガニ等々が生息している自然界でも毎年毎年自然発生しているのでしょうから、根本的には、過保護な養殖ホタルは生命力や繁殖力が弱いということかも知れません。

そうは言っても5月の終わりから6月上旬にかけ杉浦醫院庭園の池で去年以上のホタルが乱舞することを願って、15日(日)に放流しますので、今年のホタルにご期待ください。

2015年3月3日火曜日

杉浦醫院四方山話―403 『山本酉二氏の自決-3』

 山本酉二氏の割腹自決に関係する資料は、上官の手紙や弔辞に限らず他にも貴重な資料があり、山本家でも戦後70年、戦争体験者が年々減り続けていく中で、これらの資料も活かせたらという意向もうかがえましたから、甲府市にある山梨平和ミュージアムにどうかと提案しました。

 

 山梨平和ミュージアムでは、現在「戦争体験記・戦後体験記」を募集中ですから、山本家の承諾を得て、この酉二氏自決資料を添えての応募を問い合わせました。


 「今回の募集は、あくまでも本人の体験記ですから、それは該当しません」と、端からシャットアウトの返答に「自決して亡くなった戦争体験を本人が書けるわけないのに・・・」と腑に落ちませんでしたが、400話で紹介した色川先生の「テロリストの悲しき心」も特攻隊で散った部下の青年の死を生き残った者の使命として語り継いで行こうという内容ですから、他館を当てにするより当館でと、思い直しました。



 まあ、平和ミュージアムに一言申し上げるとすれば、募集要項で「本人の体験記」と限定しているとしても、たかだかミュージアムに関係する人間が作った要項ですから、絶対視するのではなく、もっと臨機応変に広く募った方が、より深く濃い内容の原稿も集まるのではないのでしょうか?と・・・


 当館は、昭和町の郷土資料館としての活用も念頭に整備を図り、町内外の方々から寄せられた民具や農具を展示公開し、昭和町の風土を伝承していますが、「物から人へ」のキャッチフレーズは、博物館や資料館にも必要なフレーズだと以前から思っていました。

 

 そんな訳で、これまで当ブログでも、健造・三郎父子と共に昭和町の「人」を何人か紹介してきましたが、昭和町で生まれ、育った「人」をもっともっと掘り起こし、周知していくこともこれからの課題だとあらためて感じました。


 今回の山本酉二氏のような「壮絶な人生」に限らず、例えば、352話の曽根義順さんの日記のようにその人の足跡が辿れる資料があれば、当館母屋の今後の活用を考える上でも資料を収集していきたいと思います。

 先ずは、前話の弔辞を残した故・井口伝(いぐちつたえ)氏は、本町の歴史研究や文化財保護の先駆者としてもご活躍いただいた方なので、これを機に柳沢八十一氏等に繋がる昭和文化人脈から始めていきたいと思います。

2015年3月2日月曜日

杉浦醫院四方山話―402 『山本酉二氏の自決-2』

 平譲で敗戦を迎えた山本酉二氏は、ロシア軍の捕虜になる事を拒み割腹自決し、現地で野辺の送りを受け、土葬された事も小池上官の手紙には報告されていますが、手紙の最後には『以上のような訳でありますが、部隊長其の他上官とも相談の上、死亡證書は「衝心性脚気」と致しました。これはいろいろの事情から一応こうして整理したのでありますから承知して戴きたく(後略)』と、死因は「衝心性脚気」と云う病死で「整理」されたことも報告されています。



 酉二氏のように個人の意思による自決では、ゆくゆく軍人恩給や靖国神社への祭神合祀に支障をきたすことを上官が慮っての病死扱いだったのか、前夜、自決を止まるよう説得した上官の命に背いた自決でもあることから、自決者を出したことは、上官や部隊の責任問題にも繋がると合議されての事か、定かではありません。 



 山本家では、酉二氏の葬儀を昭和22年10月10日に西条の自宅で行いました。この葬儀に寄せられた二人の方の弔辞が残っています。

一人は酉二氏の甲府中学同級生・花形博氏から、もう一方は、西条在住だった井口伝氏からのものです。

 井口氏の弔辞は、ご覧のように2メートル弱に及ぶ渾身の弔意文で、井口氏の酉二氏自決への思いが綴られ、読み応えと共に井口氏の死生観も表出されていて考えせられます。

『山本酉二君は克く伝統八百年の山本家の家門にうるわしの花を咲かせて下さいました 私は何よりそれが嬉しいのです 敗戦国民として占領治下にある吾々が戦死を賛美するのはどうかという向きもないではありませんが 私は否と答えます』


『人間道徳も社会道徳も枯れ果てた一個の普遍的実在ではないのです 時と場所とに脈々と波打つ生命の実体をこそ吾々は道といふのです (中略) 壮烈に散花せられたことは誠に男子の立派な最期であったと云わねばなりません あの時はああする事が最も美しい最も高い臣民の道だったのです 酉二君それでいいのです』


『 (前略) 一生涯を通じて君の宿願は悠天の大義に生きんとする事でした そして見事にその宿願は達せられました 生死一如と申します 大なる死は大なる生と其の軌を一にします (中略)  詩聖ゲーテは「地上にある日に確乎たる我等は永遠の不滅を保証する」と云われました 君の二十五年の人生は永遠に朽ちない光であり不滅の花でもあるのです 酉二君今や静かに冥し給へ』



  自決した酉二に捧ぐ弔辞を井口伝氏は、究極のオカルトで一貫させていますが、山本家が設定した葬儀日の10月10日は、後に平和の祭典・東京オリンピックの開会式の日となり、その後「体育の日」として国民の休日にもなっていますし、昭和町の「ふるさとふれあい祭り」の開催日にもなっていますから、山本家の先見性も含め酉二氏の意志と無縁ではないようにも感じ、「目には見えない神秘性」をオカルトと定義するならば、井口氏が酉二氏の永遠の魂を謳いあげた弔辞は、見事の一言に尽きます。