2017年8月27日日曜日
2017年8月21日月曜日
杉浦醫院四方山話―515 NHKeテレ『よろしく!ファンファン』
8月18日にNHK教育テレビで放映された「よろしく!ファンファン」のDVDを担当されたSさんが送付くださいましたので、早速拝見しました。
Sさんによると今回は「地域の困難に立ち向かった人々」をテーマに甲府盆地で400年以上に渡って地域の人を苦しめた「日本住血吸虫症」(地方病)を取り上げ、その治療や撲滅活動に尽力した杉浦健造・三郎医師の取り組みから、先人たちの思いや努力、そしてそれが今の生活にどう息づいているかを子どもたちに伝えたいという制作意図でした。
この番組は、小学校4年生向けの社会科の番組だということで、Sさんは6月末から何度も来館して取材を重ね、その上でカメラマンと音声担当者と共に7月に3日間甲府に滞在して収録し、編集して、18日の放映と云うスケジュールの中で仕上げた10分間の番組でした。
Sさんのアイデアなのでしょう、日本の調査に3人の宇宙人が多機能ロボット「ファンファン」と共にやって来て、日本人と仲良くなるために日本人の暮らしや考え方を知る計画を立て、今回は「地域の困難に立ち向かった人」ということで、日本住血吸虫症と杉浦父子や地域住民の取り組みを3人が知りたいことを「よろしく!ファンファン」とロボットに依頼して、ファンファンがフットワーク良く調査して報告するという展開でした。私から見ると有能なロボット・ファンファンは、Sさんその者でした。
宇宙人の3人もそれぞれが「時間」「空間(地形)」「人」という3つの視点から知りたいことをファンファンに依頼するという設定ですから、子ども達にも視点を持って考えたり調べることの大切さを知ってほしいという「教育的指導」も組み込まれていて「なるほど」と唸ってしまいました。
また、10分間の番組とはいえ、NHKが収蔵している貴重な映像が要所要所に入り、私たちも初めて観る映像もありましたから、小中学生に限らず当館で是非ご覧いただきたいと思います。
この「よろしく!ファンファン」は、来年春から小学校4年生にシリーズで放送していくことを想定した実験番組だということで、その開発番組を任されたSさんにはさぞプレッシャーもあったことと思いますが、私に欠落している若さと緻密さと丁寧さをバランスよく持ち合わせたSさんには、ある意味楽しい制作だったのかもしれません。
昨日来館した小学生、中学生にも「新着の特別番組をどうぞ」と勧めると、保護者も含め大変好評でしたから、当館の映像資料に新たな一枚が加わり、見学者にも選択肢の幅も広がりました。この場をお借りして、S様はじめNHK教育テレビのスタッフの皆様に御礼申し上げます。
2017年8月10日木曜日
杉浦醫院四方山話―514『殺貝剤開発と田の草取り』-5
農民の期待に応える画期的な除草剤PCPは、ミヤイリガイ殺貝剤の開発の中で、水稲への被害調査を担った山梨県農業試験場由井技師らによるあらゆる角度からの調査実験から生まれたものの、特許や販売権などは、その辺の事務にも精通していた大学や製薬会社が取得するところとなりました。
こうして、1959年(昭和34年)、PCPは普及に移されました。
このPCPが画期的だったのは2・4‐Dと異なり、非選択・接触型除草剤で、すでに成長の進んだ稲には影響しないが、発芽直後の雑草は全て枯らすところにありました。
この特性を活かし、田植え直後の土壌表層にPCPを散布して、発芽してくる雑草を枯らす土壌処理技術が考案され、 最初は水溶剤だったPCPも、やがて土壌処理に適する粒剤が開発されました。
これにより、日本の稲作史上初めて、手取り除草や除草機なしに除草が可能になり、甲府盆地でも真夏の炎天下での「田の草取り」から解放されました。山梨に限らず当然、農家に歓迎され、1960年代の最盛期には、全国で約200万ヘクタール、全水田の65%でPCPが使われたそうです。
しかし、昭和37年(1962)の集中豪雨で散布直後のPCP薬剤が有明海や琵琶湖などに流入し、魚介類に深刻な被害を与えました。
三郎先生が目撃した水路での魚への被害が、大雨で土ごとPCPが流出した結果起きたのでした。これを機にPCP使用は規制されるなどかげりが見え始めるとPCPに代わる低毒性除草剤の開発が進みました。
さらに、すでに使われなくなったPCPが昭和50年代(1980年代)になると、土壌中に残存していて環境汚染の元凶ダイオキシンが含まれていることも判明しました。
当話‐18「現代」でも触れましたが、山梨県と米軍406医学総合研究所の共同研究と住民、行政の一致した取り組みで、地方病を撲滅寸前まで追いつめたという記録映画「人類の名のもとに」を科学映像館での配信映像で観た科学者遠藤浩良先生から、「河川や湖沼、地下水といった環境水の化学物質による汚染は、現代では、世界的な大問題ですから、ペンタクロロフェノールを使った甲府盆地の映像は、今ではとても考えられないことです。殺貝作業に従事した住民には、この薬の中毒で苦しんだ人がいたかも知れませんね」とご教示いただいことを思い出します。
由井氏はもとより、大学や製薬会社の研究者もPCPの副作用を当時はそこまで予測できなかったのでしょう。これらの教訓を活かして、より安全な除草剤が開発され、現代ではすっかり「環境汚染農薬」と云う汚名のPCPですが、炎天下の草とりから農家を解放しようという由井氏らの誠意と努力は、伝承していくに値するものと思います。 由井重文氏は、山梨県農業試験場長を最後に退職され、昭和62年(1987)に68歳で亡くなっています。
2017年8月8日火曜日
杉浦醫院四方山話―513『殺貝剤開発と田の草取り』-4
これまで観てきたように日本の除草剤の歴史は昭和23年(1948年)、アメリカから導入された2・4‐Dに始まりましたが、農民はこの薬剤の効果に期待したもののノビエや浮き草には効果がなく、引き続き炎天下の田の草取りは欠かせない作業でした。
太平洋戦争当時、アメリカ軍の保健衛生体制は、知識でも予算でも世界最先端のものであり、事前の感染症対策も万全を期していたアメリカにとって、日本軍とのレイテ戦での勝利による滞在で、日本住血吸虫症に多くの米軍人が感染したことは、予期せぬ不覚となりました。
その辺の詳細は、小林照幸著 「死の貝」(文藝春秋刊)に譲るとして、このフィリピンでの苦い経験からGHQは甲府盆地で流行する地方病に大きな関心を持ち、三郎先生を頼りに地方病の調査研究を始めました。GHQ406総合医学研究所は、甲府駅に市民から『寄生虫列車』と呼ばれた3両編成の研究施設で、さまざまな薬品テストを行いました。
米軍が持ち込んだ多くの薬剤の中からサントブライトがミヤイリガイ殺貝に有効かつ安価であったことから、同一成分で日本国内で精製可能な、殺傷効果の高い殺貝剤としてペンタクロロフェノールナトリウム=略称PCP-Naの開発に成功しました。
三郎先生は、この新たな殺貝剤PCP-Naの水稲への薬害調査を由井重文氏に依頼したのでした。由井氏ら山梨農事試験場では、想定される様々な水稲被害を調査していく中で、図らずもPCP-Naが画期的な除草剤発見の糸口になりました。
それは、PCP-Naをまいた田では浮き草が枯れ、ノビエなど1年生雑草の発生も抑えられることが判明したのです。 昭和29年(1954)、由井氏はこの観察結果を公表しました。由井氏ら山梨農事試験場での発見は、たちまち大学や製薬会社の研究者の注目を集め、この後は農林省や大学が中核になり、全国的な研究に発展していきました。
こうして、「炎天下の田の草とりから解放される除草剤が欲しい」と云う農民の要望に応え、最初に世に出た除草剤が、PCP(ペンタクロロフェノール)でした。みつけたのは山梨県農業試験場由井重文 技師らであり、そのきっかけとなったのが三郎先生からの依頼電話でした。
宇野善康著「イノベーションの開発・普及過程」によりますと、この山梨でのGHQ406総合医学研究所と県立医学研究所の地方病対策としての殺貝剤開発と山梨農事試験場との連携による成果も「水田除草剤PCP」の特許は、宇都宮大学の竹松哲夫氏によってなされたため由井重文氏らは、竹松氏への特許に異議申し立てを行ったものの「ある権力」の介入もあって製薬業界での抗争にまで発展したそうです。
その辺について、由井氏は次のように述懐しています。
「1957年におけるPCPの田植え前処理試験や1958年の試験によって明らかとなり、山梨農試としては自信を得たのであるが、ここで一つの問題が残された。というのは、専門外のこととなると、一生懸命研究して立派な成果が得られても、第三者の目が違い、信用度というか評価が低いのが世の通念であって筆者の場合もそうであった」(由井重文:除草剤PCP開発の想い出) と。
2017年8月6日日曜日
杉浦醫院四方山話―512『殺貝剤開発と田の草取り』-3
田植えが終わり一息つくと田の草取りが稲刈りまで続きますが、草の成長は真夏がピークになりますから、炎天下の草取りも避けてはとおれません。
この時代に最も普及していた除草剤は、「2・4‐D」というホルモン系の選択的除草剤でした。
これは、水稲には無害で雑草のみを選択的に枯らすという除草剤でしたが、真夏に伸びるノビエ、浮き草、アオミドロには全く効きませんでした。さらに2・4‐Dは、寒冷地では水稲に薬害が生ずることから新しい除草剤の出現が望まれていました。
2・4‐Dの後、新除草剤として「MCP」が出現しました。これは、2・4‐Dの弱点を克服する改良的な除草剤で、高温多湿でなければ効力がなかった2・4‐Dでしたが、低温で日照が少ない年や場所でもMCPは効きました。何よりも散布の分量が多少多すぎても薬害が出ないことなどの改良はされましたが、真夏のノビエ、浮き草、アオミドロに対しては2・4‐D同様で、画期的な除草剤とは言えませんでした。
元来熱帯性の水稲は30°C~32°Cの地温が必要なのに浮き草、アオミドロが繁茂すると根には日光が照射されなくなり、水温を低下させますから、稲作には冷害と同じ凶作をもたらします。炎天下でも田に入り田の草取りを余儀なくされる理由がそこにありました。
その辺について由井技師は次のように述べています。
「山梨県の標高850m付近の水田地帯では、農林17号、陸羽132号の品種を栽培しているが、7月中旬には、毎年浮き草の発生が多過ぎて、竹製の網で手掬いして防除している現状さえ認められる。浮遊中の浮き草を完全に掬い取ることが、如何に困難であるかは、その情景が目の当たりに浮かんでくる。かかる地帯の稲作にとっては、1°Cとは言わず、たとえ、0,5°Cでも高ければ高いだけ、生育量が上がる地帯だけに、浮き草防除こそ、水温上昇の良い方法と云えよう。」
ですから、更なる改良で、真夏のノビエ、浮き草、アオミドロに効力のある除草剤の出現は、稲作が柱であった農民から切望され、山梨農事試験場でも石灰を使った浮き草防除試験が行われるなど全国的に「真夏の田の草取り」から農民を解放し、同時に生育量の増産を図る取り組みが始まりました。
2017年8月3日木曜日
杉浦醫院四方山話―511『殺貝剤開発と田の草取り』-2
日本住血吸虫の生活環が解明されると、ミヤイリガイ殺貝がこの病気の終息に欠かせない課題となりました。宇野善康著「イノベーションの開発・普及過程」によりますと、ミヤイリガイの強力殺貝剤の開発は、戦後進駐した「GHQ403医学総合研究所」に負うところとなりました。
小泉義孝医学博士は、ミヤイリガイの殺貝方法は(1)生物学的方法(2)物理的方法(3)化学的方法の三種類に分類されるとしています。
(1)の生物学方法は、杉浦健造先生が実践した方法で、ミヤイリガイの天敵であるホタルの幼虫やアヒル、ウサギ、ザリガニなどを増やすことでミヤイリガイを捕食させる方法です。
(2)の物理的方法は、山梨県が土地供給公社を設立して、ミヤイリガイの生息地である「どぶった」と呼ばれた湿地帯の田んぼや沼を掘り起こしミヤイリガイを土中深く埋めてしまう土埋法が代表的ですが、火炎放射器による焼却法も物理的方法と云えましょう。
(3)の化学的方法が薬剤による殺貝方法になります。日本では、生石灰の散布から始まり石灰窒素へと発展しましたが、更なる開発がGHQ403医学総合研究所を中心に行われ、実用化したのがPCP-Naによるものです。
化学的方法で薬剤を開発していくには、ミヤイリガイの正確な生態が前提になりますが、昭和5年までミヤイリガイの繁殖は、胎生なのか卵生なのかも不明でした。卵生であることを発見したのが杉浦三郎先生で、昭和8年には英文論文として世界にも発信されました。
それらを踏まえたGHQ403医学総合研究所のマクマレン、ライト、オリバーの各氏は、昭和20年8月15日敗戦の僅か12日後の8月27日には杉浦醫院に三郎先生を尋ねています。オリバー氏はその後4か月間杉浦家に滞在して、三郎先生の指導のもとGHQ403医学総合研究所が行う日本住血吸虫と殺貝剤の研究方針の立案に努めたそうです。
その結果、前話で触れたとおり、アメリカから持ち込んだ約6000種の化合物の中からミヤイリガイ殺貝に有効な2種類、「サントブライト」と「DN-1」を特定しました。
当時「サントブライト」が1kg500円であったのに対して、「DN-1」は2000円であったため、山梨県内ではミヤイリガイ殺貝剤としてサントブライドが推薦されることになり、それに先立って三郎先生から山梨農事試験場の由井重文技師への水稲への薬害試験の依頼となりました。
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