2017年8月8日火曜日

杉浦醫院四方山話―513『殺貝剤開発と田の草取り』-4

 これまで観てきたように日本の除草剤の歴史は昭和23年(1948年)、アメリカから導入された2・4‐Dに始まりましたが、農民はこの薬剤の効果に期待したもののノビエや浮き草には効果がなく、引き続き炎天下の田の草取りは欠かせない作業でした。     

 

 太平洋戦争当時、アメリカ軍の保健衛生体制は、知識でも予算でも世界最先端のものであり、事前の感染症対策も万全を期していたアメリカにとって、日本軍とのレイテ戦での勝利による滞在で、日本住血吸虫症に多くの米軍人が感染したことは、予期せぬ不覚となりました。

その辺の詳細は、小林照幸著 「死の貝」(文藝春秋刊)に譲るとして、このフィリピンでの苦い経験からGHQは甲府盆地で流行する地方病に大きな関心を持ち、三郎先生を頼りに地方病の調査研究を始めました。GHQ406総合医学研究所は、甲府駅に市民から『寄生虫列車』と呼ばれた3両編成の研究施設で、さまざまな薬品テストを行いました。

 

 米軍が持ち込んだ多くの薬剤の中からサントブライトがミヤイリガイ殺貝に有効かつ安価であったことから、同一成分で日本国内で精製可能な、殺傷効果の高い殺貝剤としてペンタクロロフェノールナトリウム=略称PCP-Naの開発に成功しました。

 

 三郎先生は、この新たな殺貝剤PCP-Naの水稲への薬害調査を由井重文氏に依頼したのでした。由井氏ら山梨農事試験場では、想定される様々な水稲被害を調査していく中で、図らずもPCP-Naが画期的な除草剤発見の糸口になりました。

それは、PCP-Naをまいた田では浮き草が枯れ、ノビエなど1年生雑草の発生も抑えられることが判明したのです。 昭和29年(1954)、由井氏はこの観察結果を公表しました。由井氏ら山梨農事試験場での発見は、たちまち大学や製薬会社の研究者の注目を集め、この後は農林省や大学が中核になり、全国的な研究に発展していきました。

こうして、「炎天下の田の草とりから解放される除草剤が欲しい」と云う農民の要望に応え、最初に世に出た除草剤が、PCP(ペンタクロロフェノール)でした。みつけたのは山梨県農業試験場由井重文技師らであり、そのきっかけとなったのが三郎先生からの依頼電話でした。

 

 宇野善康著「イノベーションの開発・普及過程」によりますと、この山梨でのGHQ406総合医学研究所と県立医学研究所の地方病対策としての殺貝剤開発と山梨農事試験場との連携による成果も「水田除草剤PCP」の特許は、宇都宮大学の竹松哲夫氏によってなされたため由井重文氏らは、竹松氏への特許に異議申し立てを行ったものの「ある権力」の介入もあって製薬業界での抗争にまで発展したそうです。

 

その辺について、由井氏は次のように述懐しています。

「1957年におけるPCPの田植え前処理試験や1958年の試験によって明らかとなり、山梨農試としては自信を得たのであるが、ここで一つの問題が残された。というのは、専門外のこととなると、一生懸命研究して立派な成果が得られても、第三者の目が違い、信用度というか評価が低いのが世の通念であって筆者の場合もそうであった」(由井重文:除草剤PCP開発の想い出) と。