2015年8月27日木曜日

杉浦醫院四方山話―439 『ウエルカム・キノコ』

 「個人情報」が喧伝されてから、表札は自ら公開している個人情報ともなり、家の入り口や玄関に表札を掛ける人が少なくなったようです。

しかし、すり込まれたDNAなのでしょう、玄関先に何か掛けないと落ち着かないのか、最近は「Welcome」と書かれたプレートやボードを掛けた家をよく見かけます。

 

 店なら「招き猫」や「福たぬき」の伝統もありますから「Welcome」も頷けますが、民家の「Welcome」は「ホントに誰でもウエルカムなの?」とか「常時ウエルカム体制にあるこの家主は大丈夫?」と気をモマせますから、矢張り日本の家屋には、主の名前をしっかり刻んだ表札が似合うように思うのですが・・・・



 さて、当館は多くの方々をウエルカムして見学していただく施設ですから、ウエルカムボードがあってもいいのでしょうが、日本庭園や建造物の雰囲気に合いませんし、前述のように個人的にも好みませんからありません。



 杉浦醫院のウエルカムは、木々が織りなす四季折々の庭園の風情ですが、今夏は入り口右手に4本の白いキノコが生えてきましたので、「ウエルカム・キノコ」として残しています。



 如何にも「毒キノコ」と云った肉厚で笠も大きく真っ白なキノコですからよく目立ちます。

正式名を調べて見ると「オオシロカラカサタケ」というキノコのようでが、キノコ図鑑では、白色から色を変えていくようですし、大きさももっと大きくなるようですから、しばらく観察するためにも残しておきたいと思います。

 そうは云っても毒キノコとしても有名なようですし、放課後子どもたちが出入りする庭園ですから、[オオシロカラカサタケ]という名前と素手で触れると皮膚にもピリピリくる猛毒キノコであることを表示して、注意を促したいと思いますが、毒キノコでウエルカムは悪趣味でしょうか。



 まあ、「毒を以て毒を制す」の諺は、毒に当たった病人を別の毒を使って解毒したことに由来しますから、漢方医として江戸時代から続く杉浦醫院でもこの治療法で患者を救った可能性も無きにしも非ずでしょう。

また、施錠門を設けず昼夜出入り自由な開かれた杉浦醫院でしたから、悪人除けに毒キノコが入り口に生えて、毒を以て制してきた可能性もあるとして、今しばらく「ウエルカム・キノコ」としてご活躍願いたいものです。

2015年8月24日月曜日

杉浦醫院四方山話―438 『座学スペース研修会』

 17日(月)の午後、峡南地区社会科部会の研修会が当館で行われました。7日(金)には、中巨摩地区社会科部会の研修会もありましたから、夏休み中の先生方の研修場所として、当館を選定いただきありがとうございました。



 社会科部会の先生方には、「山梨県の学校教育で、地方病についての学習がいつから消えたのか?」「山梨県の「終息宣言」にはなぜ終息の前に「流行」の二文字が入っているのか?」「国がこの病気の終息になぜ力を入れたのか?」等々、地方病流行終息までの変遷について話しましたが、当館は社会科に限らず全科の先生方の研修に対応できますので、是非ご検討いただきたいと思います。

 

 例えば、国語部会でしたら、当ブログのラベルに「文芸」のジャンルがあるように杉浦家や昭和町、山梨県と作家、文芸との係りや地方病とレイテ戦記、大岡昇平氏と林正高医師など甲府在住の医師とのかかわりなど県立文学館でも取り上げていない興味深い話もあります。



 また、地方病に限らず回虫など寄生虫が及ぼす子どもへの様々な障害などは、体育や養護の先生方の研修にもふさわしい内容かと思います。



 今回は、40人近い先生方が1時間30分としっかり時間を確保しての研修会でしたが、あいにくの雨でしたから、急遽、2階座学スペースのテーブル類を片づけ大人40人に入っていただきました。

 

 ご覧のように文字どおり座学ですが、DVD観賞も含め1時間弱、先生方は熱心に研修され、その後、病院棟と裏の土蔵、納屋の見学の為2班に分かれ見学会に移りましたが、見学中も質問や確認が絶えませんでした。



 現在の学校教育では、県内でも「地方病」は全く採り上げる機会が無いのが実態ですが、先の中巨摩地区社会科部会の常永小学校T先生は、9月に4年生を対象に「昭和町と地方病」についての研究授業を行うそうですから、当館での研修を機にそれぞれの学校、学級で「一つの国から一つの病気を終息させた日本と云う国」について、採り上げていただけたらと思います。

2015年8月20日木曜日

杉浦醫院四方山話―437 『ああ ヨットのようだ』

 甲府盆地の暑さも峠を越えた感じの今日、夏草刈りをしましたが、誰が名づけたのか「雑草」は、その対抗性の強さに教えられますが、「除草剤」と「雑草」については、改めて書きたいと思います。



 野坂昭如の言葉かどうか定かではありませんが「煙草は人生の句読点」は言い得て妙なフレーズで、何かにつけて「生活の句読点」だとか「仕事の句読点」などと言いつつ一服してきました。

そんな訳で、草刈り後、ベンチで一服しながら下を見ると何やら動くものがいるので、のぞき込むと「蟻と蝶」でした。

「花と蝶」は森進一ですが、「蟻と蝶」は三好達治ですから・・・・急いで撮影しました。

右上の白い石の上に茶褐色の蝶とそれを引く蟻が観えますか?クリックして大きな画像でご確認ください。


 

 小学校の教科書で「詩」と云えば、必ず出てきた三好達治の4行詩「土」は、詩集『南窗集』の中の一作です。

 「土」

蟻が
蝶の羽をひいて行く
ああ
ヨットのやうだ



 この詩の蝶は、多分「紋白蝶」でしょう。黒い蟻と白い蝶の「対比」の手法だとか「蟻」「蝶」の多画数の漢字の組み合わせの面白さなど、この詩の解釈はいろいろありますが、「ああ 〇〇のようだ」と結べば「詩」になるんだと云う程度にしか私には記憶がありませんでした。


 もう30年以上前ですが、必要から「西郷竹彦文芸教育集」を読んで、この詩の深さを教えられました。それは、確かこんな記述でした。

 「  」

蟻が
蝶の羽をひいて行く
ああ
ヨットのやうだ



 西郷氏は、有名なこの4行詩だけを示し、この詩の「題」を考えることで、詩人・三好達治の詩人たる力量を教えてくれました。



 先に紹介しましたようにこの詩の題は「土」ですが、いくら考えても「蟻が 蝶の羽をひいて行く  ああ  ヨットのやうだ」を読んで、凡人には「土」は出て来ませんでしたし、この詩の題名が「土」だったことも知りませんでした。

 西郷氏は、正確ではありませんが「この詩の凄いところは、たった4行でイメージを「土」から「海」へ転換出来る所にあり、そういう意味でも詩の第一行は題である」と、説きました。


 今日、杉浦醫院庭園で思いがけず三好達治の詩の世界を目の当たりにして、凡人が気付いたことは、蟻が蝶の羽を引いて行く「動き」方です。

 敷き詰められた川上石は、蟻にとっては大海の波のようにデコボコしていますから、引かれていく蝶の羽は上下に動き、さながら波にもまれて進むヨットの動きにそっくりでした。

 「しっかり観る」ことは、詩人や俳人の習慣のようですが、凡人には一服の効用でした。

杉浦醫院四方山話―436 『求む!帽章付き学帽』

 私が小学生だった昭和30代にはありましたが、小学生の学帽が無くなったのは何時からなのでしょうか?

 

 日本では、歩道や信号整備が追い付かない状況で、急速なモーター社会に入りましたから交通事故が多発し、子どもを守る為に集団登校が始まったり、交通安全協会が新入生に黄色い帽子をプレゼントし出したのが学帽消滅につながったのでしょうか?

 

 夏の暑い時は、黒の学帽に白いキャップをかぶせて暑さ対策も講じていましたが、蒸れて健康管理上学帽は不潔とみなされての事かもしれません。

しかし、学習院だとか慶應と云ったお受験小学生は、未だ学帽を被っているようですから確かなことは分かりません。

 

 現在、昭和町内の町立学校は4校ですが、学帽が存在した時代からあるのは押原小学校と押原中学校でしょうから、ホタルの帽章が付いた学帽は、今となっては貴重です。

 
 

 今年の「ホタル夜会」では、浅川武男愛護会会長が押原小学校の学帽を被って主催者挨拶をしました。押小に一つだけ保存されている学帽だそうですが、卒業生だけあってお似合いですね。

  町内4校の徽章は全て町のシンボル源氏ホタルがモチーフですが、学帽が消え、学校のシンボル・徽章も子どもたちにはあまり愛着が無くなったようにも感じます。

 
 

 押原小学校、押原中学校をご卒業された方で、この「ホタルの帽章学帽」をお持ちの方がいましたら、ぜひ当館に展示させてください。

また、「学帽」そのものも貴重になりましたから、ホタルの帽章に限らず、高校、大学のものまで家に眠っている「学帽」がありましたらご協力ください。

2015年8月10日月曜日

杉浦醫院四方山話―435 『井内正彦論文集』

 この度、東京医科歯科大学寄生虫病学の太田伸生教授から当館に「井内正彦論文集」全3冊はじめ井内先生の文献資料が寄贈されました。

 この資料は、井内先生が甲府市立病院を退任される折に当時の山梨医大寄生虫教室の中島康彦教授に寄贈した資料ですが、中島教授から医科歯科大学の太田教授に引き継がれ、太田研究室に保管されていました。

 

 

 信州大学医学部の前身、松本医学専門学校を卒業した井内先生は、甲府市立病院の内科医として赴任したことから、日本住血吸虫症=地方病の患者を診る中で、この病気が肝臓や脾臓に与える医学的研究を始められたそうです。

 

 後輩の林正高先生は、「張満とか腹っぱりと呼ばれたようにこの病気の患者はお腹が膨らむのが特徴ですが、虫卵は腸から門脈を通って肝臓にも流入し、その虫卵が血管を詰まらせて炎症を起こし、最終的に肝硬変になると腹水がたまり、おなかがパンパンにはれた訳ですが、井内先生のこの膨大な研究論文は、一貫してこの肝臓や脾臓の研究成果ですから、地方病が及ぼす肝臓、脾臓の障害は、この論文集に集約されています」と、井内論文の地方病資料としての貴重性を挙げています。

 

 製本された3冊の「井内正彦論文集」は、1965年(昭和40年)から1989年(平成元年)までの約四半世紀分ですが、林先生は、「井内先生は、この後もかなりの論文を書きましたから、製本されてないファイル綴じ状態の論文集の行方を探していたのですが・・・それはありませんね」と、残念そうでした。

 
 

 太田先生が保管していた「井内先生の資料」には、論文の他にも貴重な資料がいくつもあります。

その一つ「山梨県における農村保健衛生調査報告書」は、大正7年4月に「内務省衛生局」が山梨県の保健衛生の実態調査をした報告書で、「秘」の取り扱いになっています。

 

 巻頭文は、大正6年に内務省にて開かれたる警察部長会議に於いて宮入慶之助博士が講演した「如何なる調査にも必ず相当の方法を要す」です。

 
 

「大正6年」「内務省」で、ピンと来るのは「俺は地方病博士だ」です。

 

「こんな病気が広がってくると、国が貧乏になって弱くなって、ドイツどころ支那と戦争も出来なくなるかも知れない。だからこんな病気の虫は早く退治してしまわねばならぬ」と博士が説くように地方病患者の多かった山梨県の青年は、身長140センチ前後で、他県の小学校5、6年生並みだったことから、富国強兵施策上も「ほっとけない」病気だった為、内務省が直接調査の乗り出したのでしょう。

 

 この調査報告書の内容も精査して報告していきたいと思いますが、その他の資料についても随時ご紹介していきます。 

2015年8月5日水曜日

杉浦醫院四方山話―434 『ラージA・スモールa』

 前話「広報しょうわ」の中で、「ラージA」「スモールa」という表記をしましたが、早速Sさんが「俺には分かるけど意味不明な人もいるんじゃない」と、感想を寄せてくれました。



 確かに「ひとりよがり」という言葉があるように自分だけ納得していても伝わらないのであれば失礼でもありますから、Sさんのクレームには素直に感謝しましたが、どうもブログと云うジャンルそのものが、最終的には「究極のひとりよがり」でなければ、存続しないジャンルなのではないかと思う今日この頃でもあります。



 そんな訳で、「ラージA」「スモールa」について、これも「ひとりよがり」になるかも知れませんが補足説明させていただきます。



 その昔、京都大学農学部を卒業して故郷・信州に戻ったマルクス青年は、農民の生活向上のため電柱や板塀に「労働者・農民は団結して闘おう!」とか「今こそ、農民は起ちあがれ!」と云ったアジビラを貼って歩きました。

そんな息子に父親は「いくら農民に起て!起て!貼ったところで、誰も起つわけねー」と、言い放ったそうです。

 

 結果は、父親の云うとおりで、「農民が貧しいのは、政治が悪い、社会が悪いからで、貧しき者は団結して起たなければ何も変わらないのに頭デッカチの青二才がいくら決起をうながしても貧しい農民諸君はついてこない」という現実を知らされ、自分が信じていた考え方に問題があることに気付いたそうです。

 

 「政治が悪い、社会が悪いは、ラージAの問題で、貧しい農民にいきなりラージAの問題に起てと云っても通用しない現実から、私はスモールaを考えなければならなくなりました」と、マルクスボーイ・玉井青年はぶち当たった壁からスモールaを考察するようになりました。


 

 「つくったカキが売れないから貧しい」、「一斉に実る野菜や果物は、売れても安い」「歳だから難しい講習会に出て、新しい農業ももう無理だ」・・・・こういう現実の問題に一つ一つ対処していくことしか貧しさからの脱却は不可能だ。こういう日常的な課題をスモールaとして、これに取り組めば農民もついてくる。「そうだスモールaを農民から教えてもらう」と、思い立ったのが玉井袈裟男氏の原点だったそうです。


 そこから玉井氏は、各地の公民館に出向き、農民が抱える悩み=暗い感情を共に考え、明るい感情に変える学習会を積み重ねました。

 

 玉井理論では、天下国家を論じるラージAを得意とするのが学識経験者である大学教授だとか評論家と云った人たちで、この種の人を「風の人」と規定して、農民はじめ額に汗して働く人や地域に生きる人を「土の人」として、スモールaの思考をする人々としました。



 そして、風の人と土の人の協働が、日本社会に欠けた一番の弱点で、地域おこしにこそ必要な課題であることを次のような「詩」で、やさしく教えてくれました。

 
 
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   風の人、土の人  玉井袈裟男 詩集「風のノート」

 

   風は
   遠くから理想を含んでやってくるもの

   

   土は
   そこにあって生命を生み出し育むもの

 

   君 風性の人ならば土を求めて吹く風になれ
   君が土性の人ならば風を呼びこむ土になれ

 

   土は風の軽さを嗤(わら)い
   風は土の重さをさげすむ
   愚かなことだ

 

   風は軽く涼やかに
   土は重く温かく
   和して文化を生むものを

 
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尚、玉井袈裟男先生については、当ブログのラベル「玉井袈裟男」もご参照ください。

2015年8月3日月曜日

杉浦醫院四方山話―433『広報しょうわ 8月号』

 甲府盆地は「夏暑く冬寒い・内陸性気候」の代表的な地域ですから、連日猛暑が続いています。前話のセミの声も夏の風物詩でしょうが、人によって「高校野球」とか「ビヤガーデン」、「花火」だったりと夏を感じる風物詩も違うのでしょう。


 まあ、ガキの頃は「蚊帳(かや)」とか「アイスキャンディー」「虫捕り」が、私の夏でしたが、蚊帳は使わなくなり、アイスキャンディーは「ビール」に変わり、虫捕りより「そうめん」の方が・・・と、齢と共に変換してきていることが自覚できますから、「風物詩」になったらお終いと云う一面も感じます。



 こんなことを書き出したのは、昭和町の「広報しょうわ」8月号に誘発されたからです。

表紙写真のように今号は、担当者が取材した特集記事が中心です。

通り一遍のお知らせ記事で埋め尽くされた広報からは、読者を突き動かしたり、考えさせられたりと云った刺激は期待できませんが、特集を企画した担当者の意図や思いなども伝わる記事は、自然にアレコレ感想めいた読後感を読み手にも誘発しますから、広報の官報からの脱皮は、この辺にかかっているように思います。


 今号の「この町の戦争を伝える」特集は、「この町」に限定した企画で、話題も登場者も全て町民であることが、光っていました。「町の広報だから当たり前」のようですが、どっこいイワユル「学識経験者」などを引っ張り出してまとめるラージA手法の広報もよく見かけます。



 身近な町民が、実はこんな体験をして、現在あるのを知ることで、今度会ったら、これも聞いてみようと云う具体的な感想が出てきます。これこそがスモールaの良さで、「風化」を食い止める有効な手段は、ラージAではなくスモールaの積み重ねにこそあると考えるからです。



 例えば、これから8月の「風物詩」にもなっている「原水爆禁止世界大会」や「終戦記念行事」等、70年前の敗戦にまつわるニュースがテレビや新聞などマスコミでも目白押しになるのでしょう。

 これは、広島や長崎からの70年前と同じ暑い夏の生中継や総理大臣の形式的な追悼演説などのラージAの報道ですから、心に響かなくなって久しいのは、私一人ではないでしょう。

 

 このように風化して「風物詩」となってしまった報道は、語り伝えたい子どもや若者にも届かない現実が顕著になってきている中で、「広報しょうわ」の特集も戦後70年特集で、同じ年中行事としての「大戦の記憶」に成りかねない危惧があったのですが、今号の内容は見事にその辺の危惧を覆してくれる内容になっていました。

それは、学識経験者や政治家をバランスよく配した記事ではなく、あの大戦を潜り抜けて現在の昭和町で生活している方々の生の声で構成されているからこそ素直に耳を傾けたくなるのでしょう。

 

 広報に限らず、形式的な言葉や構成を排していかなければ無意味な時代が、双コミュニケーションの発達で益々進んでいることを実感しました。