2012年12月28日金曜日

杉浦醫院四方山話―207 『改修工事の「土蔵」完成』

今年最後の四方山話は、杉浦家の土蔵改修工事が完成し、来春早々から活用可能になると云う嬉しい報告です。写真のように大変手間のかかった漆喰の白壁も輝き、屋根も瓦と土を全てはがして野地板を張替え、又土を盛り瓦を葺いて蘇りました。並行して進められた室内外の木工事も耐震基準に合うよう補強され、左の扉の1、2階は、土蔵ギャラリーとして、ご覧のようにフローリングの床に補強壁が入り、掛け軸など長さのある作品を展示するときには外せる着脱可能な2段の展示台が設けられました。
 また、右の扉の1、2階は、8畳の和室でしたが、当四方山話―203『床框(とこかまち)』 でも紹介しましたが、下記写真のように新たに床の間付きの和室になりました。   
 こんな雰囲気の中で、お茶会や読み聞かせ会、語り部による昔話会、朗読会などから歌留多、百人一首などの伝統遊び等の催し物や和服や茶道具などの展示に活用予定です。また、厚い土壁は、琴や尺八、三味線と云った邦楽の練習会場としても最適な防音環境です。照明器具の変更等若干の手直しがありますが、来春には土蔵のお披露目と共にこれまで当ブログでもご紹介してきました書画骨董をはじめとする「杉浦コレクション」の第一弾を先ずは展示公開していく予定です。
 同時に町民の皆様からご寄贈いただいた農具や民具も季節に合わせて随時、展示公開できるよう図っていきます。最後になりましたが、この一年、当館および当四方山話にお寄せいただいたご支援ご協力に深謝いたし、来年も引き続きよろしくお願いいたします。

2012年12月22日土曜日

杉浦醫院四方山話―206 『フットパス昭和楽校だより-1』

 来年度、山梨県内の市町村を会場に「国民文化祭」が開催されることから、流行りの何でも「ゆるキャラ」はどうかと思いますが、「カルチャー君」なるかぶり物も見かける機会が多くなりました。昭和町では、「子ども太鼓フェスティバル」が予定され、その準備も進んでいるようです。
 通年開催を謳う「山梨国民文化祭」ですから、一年中どこかで関連行事が組まれ開催する訳ですが、その一つの柱になるのが「やまなしフットパス」で、県下全市町村にまち歩き案内人を置いて、毎月1回定期的に「フットパス」を開催していこうと云うものです。
 昭和町のまち歩き案内人も主宰するNPOつなぐが公募してきましたが、なかなか手を挙げてくれる町民がいなかったのですが、「私も越して来て町のことをよく知らないから、この際、案内人をして町のことを勉強してみようと思って」と云う若い女性が現れ、一気に計画が進み出しました。上記写真のように「やまなしフットパスだより」も発刊されますので、昭和町版の「フットパス昭和楽校だより」も随時、四方山話の中でお知らせしていきます。
 この昭和の女性グループ「森さんチーム」は、自分たちが楽しめる企画を出し合って、先ず自分たちが楽しめなければ・・と云った愉快なやる気に満ちているのが売りであり特徴です。既に、「hako テキスタイル」プロジェクトなる企画も具体化して、富士吉田の地場産業の甲斐絹を使ってカラフルで高貴な手作り箱も試作したとか・・・写真のように思わず欲しくなるhakoですが、これも参加者は手にとって見ることもできる特典付きですが、下記ご検討のうえお申し込み下さい。

「フットパス昭和楽校」入校案内
 一年間、昭和町内をくまなく歩いて、昭和町の新たな発見と昭和の歴史を学びながら健康増進を図ろうと云う楽しい学校です。講師の説明を聴きながらと云うより、参加者が知っていることを出し合ったり、出くわした疑問には詳しい参加者が講師になって…と云った感じのみんなで創り上げていく学校です。スタートの1月は、14日(月)の成人の日に開催します。「今日は皆、20歳気分で、正月太り解消!」と、昭和町の象徴「源氏ホタル」コースを歩きます。参加申し込みは、町内外問いませんので、詳細等フットパス昭和楽校275-0151(森)または当館275-1400までどうぞ。

2012年12月15日土曜日

杉浦醫院四方山話―205 『十一屋コレクションの名品』

 今日から来春にかけて、山梨県立美術館で「十一屋コレクションの名品」特別展が開催されます。当四方山話―60『十一屋酒造・野口忠蔵』でも紹介しましたが、十一屋は、野口忠蔵氏が、江戸中期に志のある同士11人と故郷・近江(滋賀県)と風土が似ていて江戸にも近く交通の便の良い甲州街道柳町宿に造り酒屋を興し、11人の志を記念して「十一屋酒造」と命名した甲府の地酒「君が代」の蔵元でした。代々の当主が文人であったことも著名ですが、幕末から明治期の当主、正忠(号柿邨)は、滋賀県議会議長も勤めた名士で、漢学者の頼山陽や画家の日根対山、富岡鉄斎ら多くの文人たちと交流した文化人で、江戸絵画の収集にも努め、十一屋コレクションを形成していったそうです。その子・正章は、国産のビール醸造を手掛けた人物としても知られた文人で、妻は、女性南画家の野口小蘋(しょうひん)です。
 山梨県立美術館は、開館以来、十一屋・野口家から鉄斎や小蘋など多数の作品寄託を受け、今回、それら以外の絵画や書蹟の一括寄託を受けるにあたり「特別展」を開催することになったそうですから、十一屋・野口家のコレクションの大部分は、山梨県立美術館に収蔵されることになった記念展でもあるようです。
 当館土蔵改修工事の年内終了も見えてきましたので、耐震構造も備わった建物の披露と合わせて「杉浦コレクション展―1」を来春開催いたします。杉浦純子さんから町に寄託されている杉浦コレクションを展示公開していけるよう土蔵のギャラリー化を図って、活用していく計画です。これまで当ブログで、写真で紹介してきた杉浦家の書画骨董や着物等々から風呂敷や手ぬぐい、履物などの生活品までをご覧いただけるよう図っていきます。
 県立美術館に一括寄託される「十一屋コレクション」もそうですが、個人コレクションが、最終的に美術館や資料館に寄託され、公開しながら永久保存されるケースは、洋の東西を問わず大きな流れとして定着しています。県内の事例では、所有権を争って四散してしまった丸畑四国堂の木喰上人微笑仏とその教訓が活かされない木喰仏の現状は、研究家・丸山太一氏が、最も胸を痛めているコトでもあります。
 杉浦家が、お譲りしてきた杉浦コレクションも多く、純子さんの明晰な記憶で、行き先もほぼ県内に集中しているようです。充実した杉浦コレクション展には、期間中の里帰り展示のご協力も欠かせません。現所有者に依頼して、杉浦コレクションのより正確なリスト作成と合わせた展示公開で、十一屋と杉浦家、両コレクションを楽しめるよう努めます。

2012年12月10日月曜日

杉浦醫院四方山話―204 『増穂町の歴史風土と日本酒』

 前話の「冨水」秋山酒造について、正確を期す為、笹本社長に尋ねると「それなら、俺よりオカッサンの方が詳しいから会社に電話して」と云うので、オカッサンの笹本夫人は、事務局をしていた婦人会の役員としてご活躍いただいた方なので、早速電話してみました。
「秋山酒造とウチは親類なので、あのオッサンと結婚するまで、私は冨水を造っていたの」と・・・「冨水の杜氏も新潟からでしたか?」「違う。信州長野から。眞澄って酒知ってる?」「はい。諏訪の宮坂醸造の」「そう。あの頃、眞澄は、冨水を桶買いしていたんだよ。三増酒だよね」と、専門用語で内部情報まで。「青柳には、目と鼻の先に冨水と春鶯囀があった訳ですね?」「そう、ウチは両方とも親戚だけど・・他にも不知火(しらぬい)を造っていた土屋酒造もあった」「確か大久保酒造っていうのもありましたよね」「あそこは、梅が枝ね。まだ在るんじゃない」と、急な電話にもかかわらず、私が知っていた情報も正確にポンポン出てくる気風の良さに「流石、青柳小町と云われただけのことはありますね」と余計な個人情報まで口にしてしまいましたが、お陰で、増穂町には、かつて少なくとも4軒の造り酒屋があったことが分かりました。
 現在は、合併して富士川町になりましたが、旧鰍沢町と増穂町は、甲府盆地の南端で、富士川流域にあたる河内地方への入口の町でもあり、100隻の舟を有した鰍沢河岸と84隻の舟を有していた青柳河岸は、甲州と信州から集められた年貢米や廻米を富士川で下り駿河から海運で江戸に運び、帰りの舟で、駿河から塩や海産物を積んで川を上り、甲府や信州へ運んだ富士川舟運の港町でした。さらに増穂町青柳は、甲府城下へ至る駿州往還=甲府路と信州方面へ至る駿信往還=信州路の追分け宿として発展した陸路でも要の地だったことから、後に、ボロ電と呼ばれた路面電車も青柳と甲府を結んでいたのでしょう。米が集まり、南アルプスの伏流水が湧き、人が往来する風土に酒が生まれたのでしょう。
 旧秋山銀行の秋山家住宅は、築120年の古民家として、現在、商店街コミュニティ施設として活用され、裏にはギャラリー「蔵」もあります。(写真上)その裏にある「あおやぎ宿活性館」は、往時の富士川舟運の荷積み倉庫として使われていた建物です。(写真下)
 山梨の地酒を代表する増穂町青柳・萬屋酒造店の「春鶯囀」(しゅんのうてん)は、与謝野晶子が泊まりに来た折詠んだ歌、「法隆寺などゆく如し甲斐の御酒(みき)春鶯囀のかもさるゝ蔵」からだそうですから、日本民族の酒・日本酒は、地理や風土から日本史や日本文化も一体で味わえる奥深さがありますから、もっともっと見直され愛飲されて然るべきでしょうが、「桶買い」「三増酒」の暗い過去が、同病相哀れむの暗い人間にしか向かないのでしょうか。

2012年12月9日日曜日

杉浦醫院四方山話―203 『床框(とこかまち)』

 土蔵の改修工事が進み、全体の概容が見えてくると完成後の活用方法も具体的になってきます。すると当初の図面での設計計画に変更や追加をお願いしたくなり、毎週水曜日に行われる工程会議で、毎回のように薬袋建築士と笹本社長に無理をお願いしてきました。
 その一つが、一階和室への床の間設置です。改修前の状態に復元するのが基本設計ですが、耐震基準をクリアする為の改修でもありますから、北側から南に向けて新たに補強壁が入りました。畳八枚のシンプルな和室でしたが、補強壁が入ったことで二畳分が分かれた構造になりました。「清韻亭茶会」の計画中でもあったことから、折角の和室復元なので、お茶会にも使えると…と云った話もあり、補強壁を活かして「床の間を」と提案しました。
 限られた予算の工事ですから、新たな追加は厳しいことは承知していますが、薬袋建築士も笹本社長も真摯に聞いて、対応してくれるので助かります。
 結果、ご覧のような床の間が付くことになりました。床の間にわたす化粧横木を「床かまち」と云うそうですが、この床かまちは、欅の無垢材で、現在は、傷つけないようにシートで保護されていますが、完成した暁には詳細写真で報告いたします。
「床柱やまく板も見劣りしない木でないと」と、木への笹本社長のこだわりは高く、立派な床の間になりそうです。この欅の床かまちには、私には面白い「物語」が内包されていましたので、ご紹介します。
 
 笹本社長夫妻は増穂町青柳の出身で、増穂の地酒「春鶯囀」の萬屋酒造店とも親戚だそうですが、青柳には、知る人ぞ知る日本の名酒『冨水』がありました。醸造元の秋山酒造は、秋山銀行を開いた秋山源兵衛の分家で、創業は大正3年(1914)です。創業以来、防腐剤を使用しない日本酒造りの技術を開発し、現在では当たり前になった防腐剤・サリチル酸無使用日本酒の元祖でもあります。この蔵元の長男は、岩波新書『日本酒』の著書でも著名な前国税庁醸造試験所長の秋山裕一農学博士です。博士は、泡無し酵母の実用化など画期的な醸造技術を開発した醸造業界のカリスマ的存在で、泡無し酵母の『富水』を10年の歳月を要して商品化しました。この『富水制天下』(冨水天下を制す)と命名された純米酒は、1979年6月に開催された「東京サミット」で、乾杯に使われた日本酒としてあまりにも有名ですが、残念なことに現在は酒造業は廃業し、当時の工場や家屋も取り壊されています。秋山家とも親戚だった縁で笹本社長に引き取られた秋山家の「床かまち」が、今回、杉浦家土蔵に新設された床の間に鎮座したと云う訳です。これは、笹本社長が温めてきた特別な銘木が「所」を得て、材木的価値のみならず、富水や秋山博士と共に「甲州日本酒物語」としても語り継いでいける資料的、歴史的価値もある床框ということで、うれしい限りです。

2012年12月8日土曜日

杉浦醫院四方山話―202 『一升瓶』

 土蔵の改修工事も順調に進んでいますが、階段下にあった隠し倉庫?の床下から一升瓶等のビン類が出てきました。現在よく目にする瓶とは若干違った形で、全て青系の半透明な瓶です。「もう珍しいこんな色の瓶は、捨てるには惜しいと思うから、お茶会の参加者で欲しい人がいたら持って行ってもらったら」と工事関係者も気を使ってくれましたが・・・ご覧のとおり全て残っています。

 土蔵の和室は、住み込みで働いていた男性の住居だったそうですから、瓶の形やキャップから一升瓶とワインボトルだったのではないでしょうか。勝手に推測すれば、部屋に戻った彼の一日の閉めはアルコールだったのでしょう。しっかり飲んでぐっすり眠る生活習慣が彼を支え、明日への活力となっていたのでしょう。しかし、飲酒の常習に後ろめたさを感じていた彼は、空瓶の処置に一計を案じ、倉庫の床下に詰め込む策を重ねてきたのでしょう。今回の耐震化工事で、床下全面に鉄筋コンクリートを打つことから、発見されてしまった訳で、何だか申し訳ない気もしますが・・・

 ガラス瓶は、日本では明治19年頃から、人が瓶を吹いて作る一升入りの瓶が日本酒向けに製造されはじめ、明治32年に卜部兵吉が江井ヶ嶋酒造に併設したガラス工場で一升瓶を生産し、ビン入りの清酒を業界に先駆けて発売したそうです。ガラスは通気性がないので賞味期限を長く保つ保存性や密封性に優れており、空き瓶は洗浄して再利用できることから、大きさや形を規格化することで酒の銘柄が違ってもラベルの交換だけで対処できるよう図って今日まで汎用してきています。こうしてみるとガラス瓶は、日本酒と共に発達し、しょうゆ、酢など多くの食品容器として使用されてきた百年を超える歴史があることが分かります。
瓶の色も用途によって変遷し、日本酒や薬など日光などにより変質し易いものは濃い茶色、食用油などには淡い青の透明瓶が一般的に用いられてきたそうですから、杉浦家の食用油瓶だった可能性もあり、私の推測で、彼を勝手に酒飲みに仕立て上げたのは、酒飲みの邪推で、彼にはおおいに迷惑だったかも知れません。そんな訳で、ご覧のように栓を被せて封をする青い瓶、必要な方は引き取りにどうぞ。

2012年12月1日土曜日

杉浦醫院四方山話―201 『清韻亭茶会』

 11月25日(日)に杉浦家母屋清韻亭と病院棟二階和室の二か所に釜を設け、茶道正傳有楽流山梨県支部の秋の茶会が開催されました。県内各地から着物姿の有楽流社中の方々が、紅葉真っ盛りの庭園を望みながら座敷で、お手前を流儀に則って愉しみました。
 不調法な私も二席を廻りレクチャーを受けましたが、洗練された手順や形式に存在する美しさを目の当たりにして、「様式美」とか「型」と云うことについて再考してみる必要を痛感しました。
有楽流茶道の定まった形式=「型」を身につけることで、日常生活の何気ない動作や口調にも品格のあるふるまいが可能になるのではないか?
蓮っ葉な娘が急増している現代にあって、日本文化の根底にはある「型」の思想は、やはり捨てがたく継承すべき文化であるように感じました。

 また、午前10時から午後3時までの本格的な茶会を観察して感じたのは、参加者には、共通して時間の流れをゆったり楽しむ知恵があることでした。茶席の合間には庭に出て紅葉を愉しみ、樹木を見上げ、石碑を読んだりと、思い思いにゆっくり過ごして、次の席でまた茶を楽しんでいました。茶道の究極は、「落ち着いた心でお茶を楽しむ」ことでしょうから、あくせくした時間からは落ち着いた心も生まれないと云う事でしょう。
 そう云えば、お昼にご馳走になったお弁当が洒落ていたので「これは特注でしょうね。どちらから?」と聞くと「杉浦先生が粋さんに頼んだようです」と・・・「私はお部屋を貸すだけで何も出来ませんから」と云っていた純子さんですが、お釜や屏風から茶碗まで純子さんのお道具が光っていましたし、やはりお弁当の手配までも・・・身に付いた振る舞いなのでしょう。
 勘や動きが鈍く、人の気持ちをうまく読み取れない私のような人間を「野暮」と云い、反対に、気が利いて、活き活きと意気が感じられる純子さんのような人を「粋」と云うのでしょう。今回、茶道は、何だか人間のありようにまで影響する奥の深いものなんだなあ・・と云った程度のことは野暮な私でも分かりましたが、努力もせず、「少しでも粋な人間になってみたいなあ」と思った助平根性も野暮の典型なのでしょうね。