2011年6月25日土曜日

杉浦醫院四方山話―57 『俺(わし)は地方病博士だ』

 昭和町をはじめ山梨県内旧25市町村において、長く人々を苦しめた日本住血吸虫病は、日本全体の患者数の八割が山梨県内に集中していたことから、甲府盆地南部特有の病として、「地方病」と呼ばれてきました。水路や河川、田んぼで手足がかぶれたようになるとやがて体が痩せ衰え、進行すると腹部が太鼓のように腫れ、人間だけでなく牛や馬、犬も罹った病気でした。昔から「腹っぱり」とか「腸満」と呼ばれて、原因不明の奇病と恐れられてきました。
 杉浦健造博士をはじめとする先駆者の研究で、明治37年に寄生虫・日本住血吸虫が確認され、大正2年の感染経路や中間宿主の発見で、地方病の原因や予防法が明らかになると行政と住民が一体になって、地方病に罹らない為の普及、啓蒙活動と終息に向けての多角的な施策が実施されました。
 その普及、啓蒙活動の象徴的な一つに、山梨県医師会付属・山梨地方病研究部が大正6年5月に発行した「俺は地方病博士だ」の冊子があります。子どもを対象に作られた啓蒙冊子なので、興味をひくよう絵本にし、川遊びに興じている凸坊(でこぼう)と茶目(ちゃめ)吉(きち)を「洋服を着てひげをはやしたおじさんが来て、いきなり襟をつかんで川から引き上げました」と物語り風に始まるなど、随所に工夫が見られます。富国強兵の時代を反映して、博士は、「地方病が広がると、国が貧乏になって弱くなり、ドイツどころか支那と戦争も出来ない様になる。地方病は貧国弱兵病だ」と少年に説くなど、説教内容も面白く一気に読めます。何より、むき出しの上から目線で「俺(わし)は地方病博士だ」というタイトルも「末は博士か大臣か」の身を立て、名を上げが共通価値観だったこの時代を象徴しています。この「俺は地方病博士だ」は、表紙右上段に「第65号塩崎図書館」と記名された実物が、県立博物館に残っていました。既に著作権も消滅していることから、県立博物館からデータを借り、NPOつなぐの山本代表が、この本の復刻版を試作してくれました。オンデマンド印刷機という文明の利器を使うと再生復刻が出来る現代ですが、大正6年の発行には、「東京市神田区鍛冶町 精美堂」に印刷を出していますから、経費の関係上、15,000部しか作れなかったそうです。絵と文章も楽しめますが、色づかいや装丁も大正という時代を実感できる実物の復刻ですので、来館記念にご購入いただけるよう図ります。

杉浦醫院四方山話―56 『風呂敷』

現代では風呂敷を使っている人を見かけることは皆無と云っていいほどですが、「2階の整理を始めたら、風呂敷が出てきましたから・・・」と純子さんから声がかかり、杉浦家の風呂敷コレクションを拝見しました。「風呂敷」は、古くは衣包(ころもつつみ)、平包(ひらつつみ)と呼ばれていましたが、室町時代に大名が風呂に入る際に平包を広げ、その上で脱衣などして服を包んだ、あるいは足拭きにしたなどの説が「風呂敷」の語源のようです。杉浦家の風呂敷は、絹製だけでもざっと40枚ほど。日用に使った木綿を含めると7,80枚になろうかという数です。絹の風呂敷も加工方法によって、それぞれ独特の肌触りと質感があることを知りました。心地よくしっくり馴染む「ちりめん」、杉浦家の家紋入りは「紬(つむぎ)」、着物にも多いという「絽(ろ)」など、それぞれの目的によって織り方を変え風合いを醸すよう工夫されています。その上、色と文様にも懲り、そのまま額装して展示したくなるようなものばかりです。色は、現在では多様化して、特に拘らないようですが、伝統的には、慶事に先方へ祝いの気持ちを伝える色として朱色、敬意を表すとされる紫色、弔事には藍色、慶弔両方に用いることができる山葵色、えんじなど利用目的によって基本的な色あいは決まっていたようです。   
 風呂敷の文様で一般的なのは、泥棒の必需品のように描かれてきた唐草模様ですが、この唐草文様は古代エジプトで生まれ、シルクロードを渡って日本に入り、江戸時代に風呂敷文様として定着した歴史ある伝統文様です。それは、唐草が四方八方に勢いよく伸びることから、限り無い延命や長寿、子孫繁栄の象徴として大変縁起が良い柄とされ、婚礼道具や布団を大きな唐草の風呂敷で包んだそうです。唐草模様の風呂敷で盗品を持ち出した泥棒も四方八方に逃げて捕まらないよう縁起を担いだとしても不思議ではありませんね。杉浦家の風呂敷の文様は、デザインされた家紋だったり、花鳥風月を題材にした日本独特の吉祥文様が中心ですが、当時としては斬新な無地、小紋や染め糸を用いた織による縞や格子文様など意匠化された文様もあり、デザイン的にも古さを感じさせません。同時に「甲府岡島呉服店」「松坂屋呉服店」「東京三越」など製造元や販売店の箱や包装紙と一緒に残されているのが杉浦家の全てに共通する保存方法で、一層の興味と価値を高めてくれます。「杉浦家風呂敷コレクション展」を企画しますので、乞うご期待!

2011年6月22日水曜日

杉浦醫院四方山話―55 『患者会』

 甲府市のみぞべこどもクリニック院長の溝部達子氏が、通院してない子どもに薬を処方したとして、保険医療機関指定取消と保険医登録取消の処分を受けたことに対し、国を提訴していた裁判で、6月15日、甲府地裁と東京高裁は、「社会通念上著しく妥当性を欠くことは明らかであり、裁量権の範囲を逸脱したものとして違法」と原告の訴えを認める判決を下しました。溝部氏は「患者と医療者の正義が認められたことに心から安堵する。」と談話を発表しています。この勝訴の背景には、みぞべこどもクリニックの存続を求める患者が中心になって「山梨の小児医療を考える会」が発足し、2万8千人以上の署名を集め、溝部氏復権を働きかけた支援活動も大きかったとあります。 
このニュースを聞いて、「杉浦医院患者会」が重なりました。昭和52年10月の三郎先生の逝去に際し、山梨日日新聞紙上にも「杉浦医院患者会」の名前で、先生の死亡を「おしらせ」する黒枠が残っています。純子さんも「患者会から死亡通知まで出していただいて、父は本当に医者冥利だったと思います」とその新聞を三郎先生の遺影の裏に納めています。また、昭和49年に三郎先生に日本医師会から最高優功賞が贈られましたが、198名の患者会の方々から、一人500円のお祝いが先生に届けられました。その寄贈者名簿の住所を見ると県下一円に患者会会員がいたことが分かります。「いい時代でした。患者会でバスを仕立てて身延山に行ったり、花見に行ったりと定期的にお楽しみ会があり、父は、お金だけ出して送り出していましたが、看護婦さんやお手伝いさんも楽しみにしていました」「晩年は、腰痛で、どっちが患者か分からないと逆に患者さんに揉んでもらっていました」と先生と患者さんの関係を懐かしそうに語ってくれました。 
 先日、「親父を連れて、よく通ったから・・」と旧甲西町から来館いただいたSさんは、応接室を見て「そうそう、俺たちは入口の待合室で待っていたけど患者会の幹部は、このソファーで待っていたなあー」と会員特典のあったことも話してくれました。「でも順番はちゃんと受付順だったから文句も出なかったなー」とも。  
溝部氏の無診察投薬も患者優先の医療からであることは、その金額や頻度からも察しがつきます。大人である私も、どうしても都合がつかず、薬だけ代理人にお願いすることがありましたから、その辺の事情を鑑みて、対処するのは社会通念上違法とは言え無いとする判決は、生身の人間である医者と患者の相互信頼は、人間が作った法律や規則だけに縛られないという、時代が変わっても不変の原則を全うした、真っ当なものと云えましょう。

2011年6月15日水曜日

杉浦醫院四方山話―54 『詩人・中川和江』

 「サンニチ」と云えば「山梨日日新聞」の代名詞として、県内では定着している唯一の日刊紙です。山梨県での購読率約70%を「サンニチ」1紙が独占していることを考えると県民の価値観、民度、世論形成等に大きく影響することから、その報道内容や紙面には人それぞれに不満や評価もあり、その辺の議論を耳にすることも多くなるのは当然でしょう。個人的には、「山日文芸」を始め小説・童話・詩・俳句・短歌・川柳等々の全文芸ジャンルに門戸を開いて公募し、しかるべき選者の「評」による作品掲載は、「田も作り、詩も創ろう」の文化活動を支える発表機会としても貴重だと愛読してきました。その点、児童、生徒の作文コンクール的な作品掲載は、最後に指導者の名前まであり、何か不純なものも感じ素直に読む気になれません。公器でもある新聞が、学校教育の一教科の一分野をなぜこういう扱いで取り上げているのか?歴史的経過も含めその意図を公にして欲しいものです。
 さて、この文芸欄「詩」のコーナー「山日詩壇」には、「昭和町・中川和江」作品が定期的に掲載されてきました。僭越ですが、時として「これが詩か?」と云うレベルの作品もある中、中川作品は毎回高い完成度と内容が際立っていました。同僚はじめ「この人ならば」と元婦人会会長Oさんにも「詩人・中川和江」を尋ねてきましたが、特定できずに10年近い年月が過ぎました。
 「サンニチ」5月23日(月)の「戦地の恋人からの手紙語る 平和ミュージアム講演会 91歳中川さん 詩で平和訴え」に続き、6月14日(火)の「顔」欄に探していたその人が写真入りで紹介されました。詳細は、「サンニチ」をご覧いただくとして、昨年12月に第2詩集「夕焼け」が出版されていることも知り、その自著プロフィールをご紹介します。
 中川 和江 本名・伊藤春江。1920年昭和町上河東に生まれる。昭和40年頃より俳句をはじめる(故加賀美子麓先生師事)。平成15年頃より短歌をはじめる(故上野久雄先生師事)。平成15年頃より山日詩壇に投稿をはじめる。
山日文芸短歌欄の河野小百合選の常連として、俳句欄では井上康明選で「昭和町・伊藤春江」名の作品を拝読してきた私の記憶でも伊藤春江さんと中川和江さんの作品は共通します。石垣りん作品を彷彿させる「生活詩」と茨木のり子と重なる感受性豊かな「叙情詩」の中川和江さんが、両氏とほぼ同世代の91歳であること、両氏亡き後の今日も健筆で、作品を通しての社会発言も・・・柳沢八十一氏に連なる「文芸・昭和」の隠れ実力マドンナ!満を持しての登場といった梅雨の涼風です。

杉浦醫院四方山話―53 『下宿』

 「これは、父が静岡の病院に勤めていた時の下宿屋さんからの手紙です」と純子さんが昭和10年9月11日消印の手紙を持参してくれました。杉浦三郎先生は、現在の新潟大学医学部を大正9年に卒業、同時に陸軍医学生で入隊し、大正11年4月から静岡市立静岡病院で内科医として勤務しましたから、学生時代は新潟市内に、勤務医時代は静岡市内に下宿していたそうです。雪の多い新潟医学専門学校時代は「正月も山梨には帰らなかった」そうです。「勉強が忙しかったというより、下宿の正月料理がおいしかったのが一番の理由だったようです。父は、おいしい魚が毎日食べられるからと新潟でも静岡でも下宿は、魚屋さんでした」と純子さんが笑いながらエピソードを語ってくれました。
三郎先生は、大正13年4月には杉浦医院9代目として帰郷していますから、「静岡市一番町土手通169 鮮魚・鶏卵・このわた 魚進商店 電話2091番」の店印が押されている手紙は、先生が2年間下宿していた静岡市の魚屋さんからのものです。下宿を出て、帰郷した三郎先生に約12年を経た後、店主から「あはれなる一家をお救いくださる思いで、一時の用立て」と「就職先紹介の依頼」が便箋3枚に綴られていました。
 昭和10年と云う時代は、帰らぬ主人を待ち続け、渋谷の駅前で冷たくなったハチ公が話題になり、渋谷駅前では盛大なお葬式が行われたという、まだ敗戦前後のような不景気や混乱の時代ではなかったようですが、「父が本当によくしていただいた魚屋さん」にとって、三郎先生は頼れるやさしい先生で、断腸の思いでの無心だったことが、文面と丁寧な文字に溢れています。
 昭和43年に東京に出た私も杉並の外れのサラリーマンの奥さんが、朝夕2食付きを売りに自宅の2階3室を貸して、ローンの足しにしていた下宿に入った経験があります。他の2室は予備校生で、おとなしく食べていましたが、夕食に即席ラーメンと肉饅とか朝食はアンパンとコップ一杯の牛乳といった階下へ食べに降りるのも億劫になる食事で「下宿はコリゴリ」と当時は学生の自治で入退も自由、学生運動のセクトの巣と化していた大学の寮に逃げ込みました。「魚屋へ下宿」という知恵と選択「流石!三郎先生」と感心しましたが、「魚は肴」ですから毎夕、一升瓶を持って嬉々として降りて行きかねない自分を想像し、「あれで良かったのだ」と妙な納得をしました。日本海と太平洋の魚を日々食した三郎先生の舌は、昭和に戻っても「煮貝のみな與」から魚を取り寄せなければ、お口に合わず…だったのでしょう、「甲府市魚町みな與」の領収書もたくさん残っています。

2011年6月10日金曜日

杉浦醫院四方山話―52 『杉浦家6月のお軸』

 48話「杉浦家5月のお軸2」で書きましたが、5月は後半から「藤の軸」に掛け替え、藤の花が散りかけた頃合いを見計らって、6月の掛け軸に交換するのが杉浦家の慣習です。純子さんが、有楽流の師匠をしていたこともあり、「茶掛け」と呼ばれる茶席用の掛け軸が続きましたが、6月のお軸は、高さ、幅とも堂々とした水墨画に詩文が添えられた杉聴雨(すぎちょうう)作の「竹石園」と命名された掛け軸です。
大分県立芸術会館所蔵の杉聴雨作「墨竹図」
 杉聴雨は、天保6年(1835)1月生れの山口藩士で、吉田松陰に学び、26才で藩命により英仏に留学し、帰国後は高杉晋作、井上聞多、山県有朋、伊藤博文達と共に活躍し、明治維新後は秋田県令や、宮内省の官吏をつとめました。詩を能くし、書画に秀でた能筆家として、作品は京都国際美術館等にも収蔵され、大正9年(1920)5月86歳で歿していますので、この作品は、健造先生が購入したものだと思われます。
水墨による竹の造形は、中国において「墨竹画」として確立され、「墨菊」「墨梅」「墨蘭」など対象植物を広げて今日につながっています。「墨竹画」は、竹を単に外部の一自然物ととらえて描くことより描き手の「胸中」を表象する心象風景として、独自のジャンルを確立したことから、墨竹を描く画家は、いわゆる専門的絵師ではなく、文人が自作の詩文と共に墨竹を描いたのが中国における「墨竹画」の歴史的特徴だそうです。
 杉浦家の「竹石園」の作者杉聴雨の略歴は、この墨竹画の正統な歴史を日本に定着させた一人であったことを物語っています。杉浦家の庭園には、池を囲み竹林が配されていますが、その池の石積みが見事だと昨年、造園師が語っていたことを思い出しました。座敷に掛けられた6月のお軸「竹石園」は、岩にも池にも見える中央の石に竹がかかり、ふと庭園の池と竹を連想しました。この「竹石園」をヒントに健造先生は、石積みの池と竹を配したのか、はたまた、この作品が我が家の池と竹を連想させたことから購入したのかは分かりませんが、杉聴雨の「胸中」を通過した竹と石の関係は、図らずも杉浦家の庭に具象されているように思いました。
5月後半の「藤の軸」を外す前後には、庭でカッコウが夏の到来を告げ、6月の「竹石園の軸」と共に池にはホタルが舞う・・・「四季のある日本で、自然を取りこんで心豊かに過ごす人智=文化を育んできた日本人の民度は高かったのだ」と過去形になるのが現実かと。

2011年6月9日木曜日

杉浦醫院四方山話―51 『山本 節-2』

 杉浦健造先生頌徳碑の碑文の撰者である山本節氏の名前が、丸山太一氏の著書「木喰賛歌」のなかにありました。丸山太一氏は、杉浦医院の診察室に残っている医療機器を納めた「甲府市三日町マルヤマ器械店」の代表だった方で、家業の傍ら「明治40年大水害実記」「木喰仏のふるさと」等の著作もある在野の郷土史家、民俗学者です。先日、丸山太一氏の長男公男氏が帰甲した折、杉浦医院に来館し純子さんを交えて、丸山家と杉浦家の親交について語り合いました。90歳を過ぎてご健在の太一氏からと「木喰賛歌」を贈られ、純子さんは「マルヤマ器械店」と染められた当時の手ぬぐいを「記念にとってあったもので恐縮ですが・・」と渡すと公男氏も「なつかしいモノをありがとうございます。多分家にも一枚も残っていないと思います」と喜びました。
 中沢新一氏の父中沢厚氏が、山梨市で農業や議員活動の傍ら、県内の石仏や丸石信仰の研究を重ね、法政大学出版局から名著「つぶて」を出版しているように、ライフワークとして、地道な研究を自分の眼と足で重ね、高い水準の論考にまでまとたこの世代の方々の力量と持続力には、素直に敬服します。このような民間研究者の草分け的存在が、山本節氏で、木喰行道を研究対象に選択したことが、私利、私欲と無縁の達観した人生を物語っているように思えてならないのですが・・・丸山太一氏の「木喰賛歌」の中に、≪大正13年11月には、早くも「木喰研究会」を山本節、若尾金造・・・村松志孝らの文化人が常任世話人となり立ち上げ、「木喰上人の研究」誌の隔月発行を決める≫とあり、続くページには、≪当時、山梨県内の個人が所有していた木喰仏として、山本節の地蔵菩薩≫が他の13名の所有者と共に紹介されています。
神官の家に生れ、クリスチャンとなった山本節氏は「木喰戒」の仏教にも精通し、微笑仏と云われた地蔵菩薩を保有していたことが分かりました。さっそく、三井氏に「節さんは、木喰上人の地蔵菩薩を持っていたようですが、その行方も不明ですか?」と連絡しましたが「蔵書も含めどこかへ一括寄贈したのか、全く分からない」とのことでした。91歳まで、全国を行脚しながらその地で仏像を彫り続けた甲州丸畑生まれの木喰行道にいち早く着目して、その研究会の中心的役割を果たした山本節氏。その研究を引き継ぎ、全国の木喰仏を訪ね、新たな視点で木喰行道と微笑仏を考察した丸山太一氏。ご子息公男氏によると太一氏は「70代が一番充実していた」と述懐しているそうです。「木喰戒」は、私たちに多くの示唆をほほ笑みながら示しているようです。

杉浦醫院四方山話―50 『山本 節-1』

昭和町の指定文化財「山本忠告の墓」は、現在どこにあるかご存じでしょうか?イトーヨーカドーの前を昭和水源に向かって南下すると右側に竹や欅、銀杏の大木が囲む中に、四季折々の花が咲く手入れの行き届いた庭が見えます。このちょっと異空間な木立の中に山本忠告の墓はあり、直系にあたる三井夫妻が、現在お住まいです。
 山本忠告は、甲府市に生まれ、昭和町西条の若宮八幡神社宮司山本家へ養子として入りました。若くして京都に上り、漢学を学び、帰郷後は皇道を説き、広く峡中地区一帯の庶民を薫化育成し、竜王篠原の山県大弐と並び称される学問に精通した神官でした。山県大弐が「学問の神様」として、山県神社に祀られていることとの比較で言えば、山本忠告の業績顕彰は、地味過ぎる感も否めません。「昭和町まち歩きマップ」作成を機に三井夫妻からご協力いただくなかで、山本家と杉浦家は、縁戚関係であることや山本家が保有する西条一区の絵地図や古文書等々も拝見させていただきました。
 同時に、三井氏から「山本忠告もさることながら、山本節さんを何とかしたい」というお話を伺いました。杉浦健造先生頌徳碑の碑文にも「昭和9年孟夏 山本節撰 成島治平書」とある山本節氏ですが、早くから自由民権論を唱え、明治19年の 『甲陽日報』創刊に参与し、『山梨日日新聞』主筆をはじめ新聞界で活躍、のちに甲府商業学校教諭として国学や漢文を教えながら「峡雨」と号して詩文を書き、昭和13年に73歳で没しました。
山本家(三井家)の敷地内には、忠告の墓や坐像と共に山本節氏を顕彰する石碑がそびえています。この石碑には、根津嘉一郎、小林中、河西豊太郎、野口二郎等々の県内外の著名人の寄金によって昭和14年に建立されたことが刻まれています。死後、これだけの頌徳碑が建てられ、『山本峡雨遺稿』も編まれた山本節氏は、その人徳のみならず、山梨の文化、芸術、教育等々で顕著な業績を残し、多くの方に惜しまれた結果でしょう。三井夫妻も山本節氏の消息や資料収集に甲府市役所はじめ関係機関への問い合わせなどしているものの多くの蔵書に「峡雨文庫」と記していたことや義清神社神官山本高城の二男にもかかわらず、キリスト教徒となり自由民権活動にも参加し、甲府市百石町に奥さんと住み、子どもはいなかったことなど限られた情報、資料しかないのが実態だそうです。昭和町生まれの山梨の文化人・山本節氏の消息情報や峡雨文庫の蔵書など手掛かりとなる資料がありましたら、当館まで、ご一報くださいますようお願いいたします。
℡:055-275-1400

2011年6月8日水曜日

杉浦醫院四方山話―49 『エミール・ガレ』

今朝、「ガレが一つあるので、A先生が今度のお茶会で使いたいからと日曜日に借りに来ました。八百竹さんからのものでなく、祖母の代からあったものなので、ガレ、ガレと云ってもよく分からないので、時間のある時で結構ですが、ガレについて調べてくれませんか?」と純子さんから声をかけられました。「ガラス器のガレですか?」「水差しかと思うのですが、A先生は、花器に使うそうです」と云うことで、詳細はエミール・ガレ(Wikipedia)をご参照いただくとして、ガラス作品にまつわる雑感を記し、杉浦家のガレ作品公開も検討していきたいと思います。
 県内では、清里にある「北沢美術館」が、ガラス美術館として、充実したコレクションを誇っていますが、昨年の暮れから今年の3月まで、「咲き誇るアール・ヌーヴォーの名品 ガレ、ドームの3大傑作展」を開催していました。また、幻の技法「ピクウェ」を現代に再現し、近年パート・ド・ヴェールの宝飾品も手掛ける塩島敏彦氏は、昭和町押越在住の象嵌とガラスの技法を駆使する宝飾作家です。その塩島氏が、3、4年前「アール・ヌーヴォーの作家たちが、当時は消滅していたパート・ド・ヴェールの技法を再現して、ガラスをただの工芸品から美術品の領域にまで引き上げたけど、技術的限界から花瓶など大きなモノまでだった。それを、俺の象嵌技術を応用して宝飾品という小さな世界にパート・ド・ヴェールを再現し、アール・ヌーヴォーの植物をはじめとする自然をモチーフにしたジャポニズム要素のある叙情豊かな型と文様を引き継いだのが、この新作だ」と熱く語って、「このシリーズのブランド名の考案と商品説明を書いてくれ」と依頼されたのを思い出しました。ブランド名を「プチ・モンド(小さな世界)」として、塩島氏を「どっこいしょ」しつつガラス作品の歴史を追いながら書いた文章が比較的まとまっているので、「アンリ・クロ」や「エミール・ガレ」といったフランスのアール・ヌーヴォー作家たちの紹介の一助にと余録としてお付けします。特に、ガレは「ナンシー生まれの日本人」とまで評論された程、花鳥風月を造形に取り入れ人気となり、当時、花瓶は1点400フラン前後の値段(中産階級の一家の1ヶ月の生活費に相当)がつけられた高価な商品でした。ガレのショールームは故郷ナンシーの他、パリ、ロンドン、フランクフルトに設置されるなどアール・ヌーヴォーの代表的作家として、現在もアンティーク市場では、取引が活発な人気作家です。そのガレのサインが刻まれた花器が、遠い昭和町で、杉浦家のコレクションとして代々引き継がれて現存し、日本の茶会などで活用されていることは、作者ガレにとってもこの上なくうれしく名誉なことでしょう。

「プチ・モンド(小さな世界)」について