「これは、父が静岡の病院に勤めていた時の下宿屋さんからの手紙です」と純子さんが昭和10年9月11日消印の手紙を持参してくれました。杉浦三郎先生は、現在の新潟大学医学部を大正9年に卒業、同時に陸軍医学生で入隊し、大正11年4月から静岡市立静岡病院で内科医として勤務しましたから、学生時代は新潟市内に、勤務医時代は静岡市内に下宿していたそうです。雪の多い新潟医学専門学校時代は「正月も山梨には帰らなかった」そうです。「勉強が忙しかったというより、下宿の正月料理がおいしかったのが一番の理由だったようです。父は、おいしい魚が毎日食べられるからと新潟でも静岡でも下宿は、魚屋さんでした」と純子さんが笑いながらエピソードを語ってくれました。
三郎先生は、大正13年4月には杉浦医院9代目として帰郷していますから、「静岡市一番町土手通169 鮮魚・鶏卵・このわた 魚進商店 電話2091番」の店印が押されている手紙は、先生が2年間下宿していた静岡市の魚屋さんからのものです。下宿を出て、帰郷した三郎先生に約12年を経た後、店主から「あはれなる一家をお救いくださる思いで、一時の用立て」と「就職先紹介の依頼」が便箋3枚に綴られていました。
昭和10年と云う時代は、帰らぬ主人を待ち続け、渋谷の駅前で冷たくなったハチ公が話題になり、渋谷駅前では盛大なお葬式が行われたという、まだ敗戦前後のような不景気や混乱の時代ではなかったようですが、「父が本当によくしていただいた魚屋さん」にとって、三郎先生は頼れるやさしい先生で、断腸の思いでの無心だったことが、文面と丁寧な文字に溢れています。
昭和43年に東京に出た私も杉並の外れのサラリーマンの奥さんが、朝夕2食付きを売りに自宅の2階3室を貸して、ローンの足しにしていた下宿に入った経験があります。他の2室は予備校生で、おとなしく食べていましたが、夕食に即席ラーメンと肉饅とか朝食はアンパンとコップ一杯の牛乳といった階下へ食べに降りるのも億劫になる食事で「下宿はコリゴリ」と当時は学生の自治で入退も自由、学生運動のセクトの巣と化していた大学の寮に逃げ込みました。「魚屋へ下宿」という知恵と選択「流石!三郎先生」と感心しましたが、「魚は肴」ですから毎夕、一升瓶を持って嬉々として降りて行きかねない自分を想像し、「あれで良かったのだ」と妙な納得をしました。日本海と太平洋の魚を日々食した三郎先生の舌は、昭和に戻っても「煮貝のみな與」から魚を取り寄せなければ、お口に合わず…だったのでしょう、「甲府市魚町みな與」の領収書もたくさん残っています。