2011年6月10日金曜日

杉浦醫院四方山話―52 『杉浦家6月のお軸』

 48話「杉浦家5月のお軸2」で書きましたが、5月は後半から「藤の軸」に掛け替え、藤の花が散りかけた頃合いを見計らって、6月の掛け軸に交換するのが杉浦家の慣習です。純子さんが、有楽流の師匠をしていたこともあり、「茶掛け」と呼ばれる茶席用の掛け軸が続きましたが、6月のお軸は、高さ、幅とも堂々とした水墨画に詩文が添えられた杉聴雨(すぎちょうう)作の「竹石園」と命名された掛け軸です。
大分県立芸術会館所蔵の杉聴雨作「墨竹図」
 杉聴雨は、天保6年(1835)1月生れの山口藩士で、吉田松陰に学び、26才で藩命により英仏に留学し、帰国後は高杉晋作、井上聞多、山県有朋、伊藤博文達と共に活躍し、明治維新後は秋田県令や、宮内省の官吏をつとめました。詩を能くし、書画に秀でた能筆家として、作品は京都国際美術館等にも収蔵され、大正9年(1920)5月86歳で歿していますので、この作品は、健造先生が購入したものだと思われます。
水墨による竹の造形は、中国において「墨竹画」として確立され、「墨菊」「墨梅」「墨蘭」など対象植物を広げて今日につながっています。「墨竹画」は、竹を単に外部の一自然物ととらえて描くことより描き手の「胸中」を表象する心象風景として、独自のジャンルを確立したことから、墨竹を描く画家は、いわゆる専門的絵師ではなく、文人が自作の詩文と共に墨竹を描いたのが中国における「墨竹画」の歴史的特徴だそうです。
 杉浦家の「竹石園」の作者杉聴雨の略歴は、この墨竹画の正統な歴史を日本に定着させた一人であったことを物語っています。杉浦家の庭園には、池を囲み竹林が配されていますが、その池の石積みが見事だと昨年、造園師が語っていたことを思い出しました。座敷に掛けられた6月のお軸「竹石園」は、岩にも池にも見える中央の石に竹がかかり、ふと庭園の池と竹を連想しました。この「竹石園」をヒントに健造先生は、石積みの池と竹を配したのか、はたまた、この作品が我が家の池と竹を連想させたことから購入したのかは分かりませんが、杉聴雨の「胸中」を通過した竹と石の関係は、図らずも杉浦家の庭に具象されているように思いました。
5月後半の「藤の軸」を外す前後には、庭でカッコウが夏の到来を告げ、6月の「竹石園の軸」と共に池にはホタルが舞う・・・「四季のある日本で、自然を取りこんで心豊かに過ごす人智=文化を育んできた日本人の民度は高かったのだ」と過去形になるのが現実かと。