2011年6月9日木曜日

杉浦醫院四方山話―51 『山本 節-2』

 杉浦健造先生頌徳碑の碑文の撰者である山本節氏の名前が、丸山太一氏の著書「木喰賛歌」のなかにありました。丸山太一氏は、杉浦医院の診察室に残っている医療機器を納めた「甲府市三日町マルヤマ器械店」の代表だった方で、家業の傍ら「明治40年大水害実記」「木喰仏のふるさと」等の著作もある在野の郷土史家、民俗学者です。先日、丸山太一氏の長男公男氏が帰甲した折、杉浦医院に来館し純子さんを交えて、丸山家と杉浦家の親交について語り合いました。90歳を過ぎてご健在の太一氏からと「木喰賛歌」を贈られ、純子さんは「マルヤマ器械店」と染められた当時の手ぬぐいを「記念にとってあったもので恐縮ですが・・」と渡すと公男氏も「なつかしいモノをありがとうございます。多分家にも一枚も残っていないと思います」と喜びました。
 中沢新一氏の父中沢厚氏が、山梨市で農業や議員活動の傍ら、県内の石仏や丸石信仰の研究を重ね、法政大学出版局から名著「つぶて」を出版しているように、ライフワークとして、地道な研究を自分の眼と足で重ね、高い水準の論考にまでまとたこの世代の方々の力量と持続力には、素直に敬服します。このような民間研究者の草分け的存在が、山本節氏で、木喰行道を研究対象に選択したことが、私利、私欲と無縁の達観した人生を物語っているように思えてならないのですが・・・丸山太一氏の「木喰賛歌」の中に、≪大正13年11月には、早くも「木喰研究会」を山本節、若尾金造・・・村松志孝らの文化人が常任世話人となり立ち上げ、「木喰上人の研究」誌の隔月発行を決める≫とあり、続くページには、≪当時、山梨県内の個人が所有していた木喰仏として、山本節の地蔵菩薩≫が他の13名の所有者と共に紹介されています。
神官の家に生れ、クリスチャンとなった山本節氏は「木喰戒」の仏教にも精通し、微笑仏と云われた地蔵菩薩を保有していたことが分かりました。さっそく、三井氏に「節さんは、木喰上人の地蔵菩薩を持っていたようですが、その行方も不明ですか?」と連絡しましたが「蔵書も含めどこかへ一括寄贈したのか、全く分からない」とのことでした。91歳まで、全国を行脚しながらその地で仏像を彫り続けた甲州丸畑生まれの木喰行道にいち早く着目して、その研究会の中心的役割を果たした山本節氏。その研究を引き継ぎ、全国の木喰仏を訪ね、新たな視点で木喰行道と微笑仏を考察した丸山太一氏。ご子息公男氏によると太一氏は「70代が一番充実していた」と述懐しているそうです。「木喰戒」は、私たちに多くの示唆をほほ笑みながら示しているようです。