昭和町の指定文化財「山本忠告の墓」は、現在どこにあるかご存じでしょうか?イトーヨーカドーの前を昭和水源に向かって南下すると右側に竹や欅、銀杏の大木が囲む中に、四季折々の花が咲く手入れの行き届いた庭が見えます。このちょっと異空間な木立の中に山本忠告の墓はあり、直系にあたる三井夫妻が、現在お住まいです。
山本忠告は、甲府市に生まれ、昭和町西条の若宮八幡神社宮司山本家へ養子として入りました。若くして京都に上り、漢学を学び、帰郷後は皇道を説き、広く峡中地区一帯の庶民を薫化育成し、竜王篠原の山県大弐と並び称される学問に精通した神官でした。山県大弐が「学問の神様」として、山県神社に祀られていることとの比較で言えば、山本忠告の業績顕彰は、地味過ぎる感も否めません。「昭和町まち歩きマップ」作成を機に三井夫妻からご協力いただくなかで、山本家と杉浦家は、縁戚関係であることや山本家が保有する西条一区の絵地図や古文書等々も拝見させていただきました。
同時に、三井氏から「山本忠告もさることながら、山本節さんを何とかしたい」というお話を伺いました。杉浦健造先生頌徳碑の碑文にも「昭和9年孟夏 山本節撰 成島治平書」とある山本節氏ですが、早くから自由民権論を唱え、明治19年の 『甲陽日報』創刊に参与し、『山梨日日新聞』主筆をはじめ新聞界で活躍、のちに甲府商業学校教諭として国学や漢文を教えながら「峡雨」と号して詩文を書き、昭和13年に73歳で没しました。
山本家(三井家)の敷地内には、忠告の墓や坐像と共に山本節氏を顕彰する石碑がそびえています。この石碑には、根津嘉一郎、小林中、河西豊太郎、野口二郎等々の県内外の著名人の寄金によって昭和14年に建立されたことが刻まれています。死後、これだけの頌徳碑が建てられ、『山本峡雨遺稿』も編まれた山本節氏は、その人徳のみならず、山梨の文化、芸術、教育等々で顕著な業績を残し、多くの方に惜しまれた結果でしょう。三井夫妻も山本節氏の消息や資料収集に甲府市役所はじめ関係機関への問い合わせなどしているものの多くの蔵書に「峡雨文庫」と記していたことや義清神社神官山本高城の二男にもかかわらず、キリスト教徒となり自由民権活動にも参加し、甲府市百石町に奥さんと住み、子どもはいなかったことなど限られた情報、資料しかないのが実態だそうです。昭和町生まれの山梨の文化人・山本節氏の消息情報や峡雨文庫の蔵書など手掛かりとなる資料がありましたら、当館まで、ご一報くださいますようお願いいたします。℡:055-275-1400