2011年7月29日金曜日

杉浦醫院四方山話―65 『石筆またはろう石』

 江戸時代、庶民の子弟も寺小屋で「読み・書き・算盤」を習った日本人は、当時、世界でもトップクラスの識字率を誇っていたといいます。「読み」は、暗記するまで読み込ませる<素読>で鍛え、なんて書いてあるかわからなくても、読める?ようになったということで、近年「声に出して読みたい○○」と云った本が、ベストセラーになるなど<素読>が再評価されています。「書き」は、もっぱら「筆」と「墨」ですから、硯や筆を納める硯箱も普及していたようです。
「文明開化」の明治に入り、学校制度が導入されましたが、鉛筆やノートが普及していなかった為、ノートの代わりに「石板」、鉛筆の代わりに「石筆=ろう石」が使われました。石板に書いた文字や絵は、布でふけば消せることから何度でも書くことができ、黒板とチョークの個人版と云った感じで、エコグッズでもありました。江戸時代を一掃したい「文明開化」の政策でしょうか、「筆」と「墨」が継続されなかったのは「文明後退」の感もしますし、石板は、大木金太郎のゲタのようにケンカの凶器に最適だったろう・・と、余計なことに興味が飛びます。
昭和に入り、安価なノートと鉛筆が普及し、学校からは消えて行きましたが、昭和30年代でもろう石を地面や塀などの落書きに使ったのを覚えています。特に地面のコンクリート化が進むと書きやすく、簡単に消せることから遊び道具として、ポケットに1本忍ばせておきたくて、ばら売りしている駄菓子屋で、買った記憶があります。現在では、建設現場や鉄工所・造船所などで、コンクリートや鉄板などに記入するために使われている程度ですが、上の写真のような棒状のろう石が、私が知っている石筆でした。

純子さんが「こんなモノもありました」と持ってきてくれた杉浦家の石筆は、下の写真のような専用木箱入りで、スマートな鉛筆型のろう石でした。「こんな上品なろう石は、駄菓子屋には売っていませんでしたよ」と驚くと「確か祖父(健造先生)が、東京のお土産に三越で買ってきたと記憶しています」と純子さん。先が鉛筆のようにきれいに尖っていますから、専用の「ろう石削り器」でもあったのでしょうか?まあ、スマートすぎて、地面や石垣の落書き用にはポキポキ折れそうで、悪ガキの実用には向きませんので、売っていても見向きもしなかったでしょうが、「箱入り娘には、箱入り石筆ですね」と笑いましたが、ひょっとして歪んだ生育歴の私だけが、生まれて初めて見るペンシル型石筆でしょうか?

2011年7月27日水曜日

杉浦醫院四方山話―64 『判子・判子入れ』

 銀行などで「印鑑お持ちですか?」と聞かれても特に違和感もない現代ですが、正確には「判子お持ちですか?」が正しいようで、一般的な棒状の印を「判子」、その判子で紙におした文字を「印鑑」または「印影」と分けているそうです。また、「~印章店」と云う看板の判子屋さんがありますが、「印章」は、判子に彫られた反転文字を指しますから、綺麗な印鑑・印影になるよう彫る技術が問われる訳で、彫りに自信のある専門店が「印章店」とするのも頷けます。
 杉浦家は、江戸時代からこの地で医業を営んできましたから、「判子」の数も半端ではありません。歴代の先生と家族の実印や銀行印、認印に加え、「杉浦醫院」の角印や丸印まで、用途によって材質も様々な判子が残っています。健造先生や三郎先生の男性用は「象牙」か「水牛」、奥方始め女性用は無色透明の「本水晶」で統一されているようです。また、医院の院判は「木」ですが、これは本柘植(ほんつげ)と呼ばれる判子専用の木のようで、コンピューターと機械で自動的に彫りあがる現代の判子と違って、一本一本手彫りで彫られた時代の判子は、その印鑑・印影を見たくなる印章です。丸印の印章は、この大きさで反転して彫ってありますから、印章を読み取るのは難しいのですが、朱肉を付けて印鑑をみるとはっきり読み取れます。
同時に、代々引き継がれてきた院判は、千両箱のようにそれぞれの角や要所を鉄で補強した頑丈なうえに緻密な造りの立方体の判子入れに納まっています。現在も前面の丸いノブを押すと上に開き、しまう時は「カチッ」と締まります。また上部のとっ手を持つとピタッと水平になり、カバンのように持ち歩けます。左上の丸印は、「山梨県 中巨摩郡 西条新田 杉浦健造」と縦4列、左下の黒い角印は「杉浦 醫院」が縦2列に彫られています。あとの細い棒印は、それぞれの目的で押し分けた「杉浦」の大中小の認印です。

2011年7月22日金曜日

杉浦醫院四方山話―63 『ガラス医療機器』

 「甲府市三日町マルヤマ器械店」の金属製ステッカーが貼ってある医療器具が診察室に2台残っていることを四方山話16「私の城下町」で紹介しましたが、それを機に杉浦家と丸山家は、商売に関係なく親戚以上の親交が続いていたことを知りました。
 「マルヤマ器械店」の店主・丸山太一氏は甲府の文化人としても著名で、特に木喰上人の研究家として県内外での講演や著書も多数残されています。94歳の現在も自らの資料を後進に託したり、蓄積してある貴重な話を語り部として話してくれます。先日お邪魔した折、「私は、現在の山梨大学の工学部で電気を学び、照明関係の開発に携わっていましたが、家業を継ぐよう言われ、しかたなく継いだんです。その家業が嫌で満たされなくて、写真や木喰の研究もその反動で励んだ感じです」と率直に語り、「健造先生は、人力車で往診に来てくれましたが、車夫が二人で引いて来ました」「若松町の芸者をあげての杉浦家のホタル見会を父は毎年楽しみにしていました」「三郎先生に診てもらうとすぐ直ると母は杉浦先生にしか掛かりませんでした」と。
純子さんも「太一さんの妹のちとせさんが、昭和14年の3月に三日町見付の映画館に私を連れて行ってくれました。〈オーケストラの少女〉というミュージカルで、初めて観た洋画なので忘れません」「甲府高女に入った時もちとせさんが高女の先生の所に私を連れて紹介してくれました」「父も甲府に行くと三日町に寄るのを楽しみにしていました」「私たち姉妹の高女の保証人は、みんな丸山さんになっていただきました」「ちとせさんも妹さんもそりゃ美人で頭がよくって、父が仲人をして東芝の副社長さんになったちとせさん夫妻は、父も自慢でした」と。
「嫌だった家業を息子にやらせるのもと、私の代で廃業しました」と云うとおり太一氏の長男丸山公男君は、横浜在住です。高校の同級生でもある公男君から「親父はガラス以外の医療機器は全てベトナムの国立病院に寄贈したけど、倉庫にはまだ医療棚やガラス器具が残っているので、よかったら杉浦醫院に寄贈するから見に来ないか」と連絡をもらいました。公男君の帰甲に合わせ、三日町に伺い倉庫に入ると天井から吊るされている様々なガラス機器は見たことのないものばかりで、箱や棚には大小の薬瓶やフラスコ等々が溢れていました。「丸山君、これでマルヤマ器械店医療ガラス器具展示室が出来るね」と思わず、いただいたような気分で話すと「この倉庫も近く取り壊す予定なので、このガラス機器が杉浦さんの所で活きるなら、祖父や親父も喜ぶと思ってね」と。

2011年7月21日木曜日

杉浦醫院四方山話―62 『紙芝居』

今月の社会教育委員の会議は、杉浦醫院2階の座学スペースで行われました。町の新たな社会教育施設ですので、社会教育委員のみなさんのご意見やご指摘をたくさんいただきたく、地区や団体のみなさんを杉浦医院にお連れ下さいとお願いしました。思えば、10年前、社会教育委員の県外研修会で、長野市の宮入慶之助記念館に行き、昭和の旧杉浦医院の保存を文化財審議会共々社会教育委員の会議で、当時の教育長に要請したことも思い出されました。
 社会教育委員のみなさんが、当館紹介DVDを鑑賞中に坂本泉さんが、造形教室の生徒さん2人と「消えたホタル」の手づくり紙芝居を持参して来館しました。
 坂本さんは、海外の作家を山梨に招聘し、滞在中制作した作品を山梨で発表するという「アーティスト・イン・レシデンス」活動の代表として、アトリエとアパートとギャラリーを兼ねた≪ギャラリー・エアリー≫を実家の病院を改装して運営しています。こういう国際的な活動を人知れず続けながら、自らも現代美術作家として作品を発表し、押越で造形教室を主宰しています。中央公民館の階段ギャラリーに教室の子どもたちの絵画を定期的に展示してくれたり、町在住外国籍住民の日本語教室のボランティア講師を務めるなど多才な行動する作家です。その坂本さんが「行動する絵画」として「紙芝居」を取り上げたのは必然でしょう。少年時代観た紙芝居は、おじさんが一人で大勢のガキと向き合い、ガキの反応を見ながら、絵を徐々に引き抜いたり、声色を変えたり、鳴りモノを入れたりの演出力で集客していました。その点テレビは一方通行で、紙芝居の持つ双方向性と一体感に欠けますから、時代は変わっても「面白い」はずです。紙芝居の素材は、「絵」と「物語」だけでなく「演者」と「客」も重要な要素であることをあらためて実感しました。
 5時ちょっと前に終わった会議の参加者に「入口の旧待合室で子どもが紙芝居を用意してくれていますので、お急ぎでない方は是非見てやってください」と案内しただけで、全員の方が所狭しと座り、二人の女の子は大人を客に一生懸命演じました。今日が初舞台という二人ですが、自分の書いた絵に合わせ堂々の演出力、それを引き出す観客の社会教育委員の観賞力も流石で、昭和4年築の建物も紙芝居にマッチし、紙芝居の本質を楽しめた飛び込み「紙芝居会」で散会となりました。

2011年7月15日金曜日

杉浦醫院四方山話―61 『二葉屋酒造・奥野肇』

 甲府の十一屋酒造と野口忠蔵氏について丸山太一氏に伺った話を書きましたので、同じ造り酒屋の市川大門「二葉屋酒造」と「奥野肇」について紹介します。           東京都知事の石原慎太郎のエッセイ「私の好きな日本人」には、織田信長から岡本太郎や小林秀雄まで、日本人10人を取り上げています。 その最後10人目を「私の人生のなかで師と仰ぐ人は後にも先にも一人しかいない」と奥野肇という湘南高校の美術教師で閉めています。
「これまで僕はいろんな人に会ってきたけれども、教育の場で、その人の持つ学識に傾倒し、弟子を以って任じたような人はいないし、文学で師と仰いだ存在もいない。ほんとに大事なものを教わったなあ、自分を刺激して育ててくれたなあ、と感じられるのは、奥野肇先生しかいない」と書いて、高校生石原慎太郎が、いかに青年教師奥野肇に傾倒したかが縷々語られています。「新しくやってきた奥野先生は、山梨の市川大門の造り酒屋の息子で、家は裕福だった。」とあるように奥野肇の生家は、市川大門の二葉屋酒造店で、肇氏の兄親氏が家業を引き継いでいました。県の教育委員長も務めた兄の親氏も生前「ここには石原慎太郎や佐々木信也など湘南高校の生徒がよく泊まりに来ては、四尾連湖に行ったり、絵を描いたりしていた」と話してくれました。現在も石原慎太郎の自宅玄関や知事室には、奥野肇の絵が飾られ、慎太郎の処女作「狂った果実」の装丁も奥野肇の手によるなど慎太郎の敬愛ぶりが伺えます。不慮の事故で早逝した肇氏ですが、甲州が生んだ異才であることは間違いありません。
 この二葉屋酒造店には夏目漱石の挿絵でも有名な書画家・中村不折が長く食客として滞在し、清酒「栴檀」のラベルをはじめ多くの書を残しています。私見をはさめば、私の日本酒ラベルベスト1は、高知の「土佐鶴」か「栴檀」かで悩みます。写真のように不折の書体とデザインが見事で、このラベルを愉しみながら飲むのも一興でした。親氏の後を長男の奥野崇君が引き継ぎ、賢妻と悪戦苦闘の経営を強いられるなかで「栴檀」の醸造を続けてきましたが、2年前ギブアップしました。石原慎太郎が何度か訪れた二葉屋酒造店の建物も明治の代表的な建造物で、取り壊しの話も聞きましたが、市川大門には「市川マップの会」という消えゆく建造物の保存や活用を続けてきた町民サークルがあり、中心メンバーの一瀬明氏のご尽力で、二葉屋酒造店は保存され、修復と活用が図られています。中村不折書の「二葉屋」の大きな額も修復され見学できますが、店先の栴檀の木の下で、銘酒・栴檀は二度と飲めないのが残念です。

杉浦醫院四方山話―60 『十一屋酒造・野口忠蔵』

 平成の大合併前、「町のレベルを計る目安は、その町に高校、町立病院、警察署があるかの3点に加え、造り酒屋があるかがポイントだ」と当時、市川大門町で地酒「栴檀」を造っていた二葉屋酒造店のO君が話していたのを思い出しました。たしかに市川高校・市川町立病院・市川警察署・二葉屋酒造店と市川大門町には、彼の言う三拍子プラス造り酒屋は揃っていました。焼酎やワインに押され、日本人の日本酒離れが加速したことに加え、市街地でこれまでどおり醸造業が営めなくなった法的規制や醸造業者数抑制の国の方針などで、造り酒屋の廃業は全国的に進みました。山都の酒「太冠」の「大沢酒造」も南アルプス市に移転しましたから、現在は甲府市にも造り酒屋は皆無のようです。
 相川沿いにあった「君が代」の「十一屋酒造」と湯村の境にあった「金渓桜」の「根津酒造」は、私が通った小中の学区域にあった造り酒屋でした。その「十一屋酒造」の創始者野口忠蔵氏について、丸山太一氏から貴重なお話を伺いました。
写真左手前から二番目の建物が柳町の「十一屋」
 野口忠蔵氏は、幕末から明治の初期にかけて活躍した滋賀県生まれの文化人で、富岡鉄斎らと親交をもち、当時、交通不便な故郷に見切りをつけ、甲州の街道筋に進出してきた近江商人でもあったそうです。「甲州商人」同様「近江商人」も、天秤棒による行商で、特産品を地方へ売り歩き、帰りにはその地の産品を仕入れて売る「のこぎり商法」で有名です。
野口忠蔵氏は、志のある同士11人と近江と風土が似通った甲州に目を付け、甲州街道柳町宿として繁栄していた柳町に造り酒屋を興しました。同郷の11人の志を記念して「十一屋酒造」と命名し、清酒名も全国区の「君が代」としたそうです。大正12年に相川沿いの横沢町に移転しましたが、柳町の十一屋跡には現在、甲府ワシントンホテルが入っていますから、当時から甲府の中心地でした。忠蔵氏の孫にあたる野口謙蔵氏は前田夕暮等に師事した画家ですが、忠蔵氏の故郷、滋賀県蒲生野(がもうの)には「飛行場程の広大な土地に、樫の大木が茂る山林もあることから、UTYが木喰上人の映画を企画した折、実際に微笑仏を彫る場面に樫の木が必要になり、私が間に入って、野口家の山林から樫を調達しました」と木喰行道の研究家である丸山太一氏94歳の記憶は鮮明です。「野口家には、北斎の浮世絵はじめ絵画など文化財収蔵品もたくさんある旧家です」「山梨に来た11人は、野口さんだけでなく皆、成功して故郷に錦を飾りました」と。

写真は山梨県に関わる歴史のあれこれ「峡陽文庫」より

2011年7月13日水曜日

杉浦醫院四方山話―59 『杉浦家7月のお軸』

 7月3日(日)に県立文学館を囲む芸術の森公園内にある素心庵で、有楽流のお茶会が開催されました。この茶会の主宰者Aさんは、純子さんとは親の代から懇意にしていたことから、この日に使う花器や掛け軸、器などの相談に何度か純子さんを訪ねていました。Aさんに限らず、こう云う相談が多く持ち込まれのが、純子さんの師匠としての実力を物語っています。その都度「会場が素心庵ならガレの花器もいいし、7月なら岡山高蔭の掛け軸ね」と云った「的確なアドバイスがうれしい」とAさん。そして、保有する掛け軸や茶道具などを純子さんが気前よく貸し出すのも先輩師匠として慕われる所以でしょう。また、杉浦さんから借りることによって、「わたしはもう引退した身ですから」と茶会への参加を拒み続けている純子さんに何とか参加して、欲しいということもあるようです。
 その岡山高蔭書の軸が戻ってきましたので、6月の軸を外して掛け替えました。岡山高蔭は、1866年愛知県熱田市に生まれ、昭和20年に没した書家であり歌人でした。本名は芳太郎、高蔭の号をのちに本名に改名したそうです。幼時より書を好み、仮名を研究し、晋唐の書を和様体に加えた独創的なかな書道を創始し、國學院大学の講師、泰東書道院の学術顧問、特別会員として、80歳で亡くなるまで書道界で活躍しました。同時に、和歌にも長け、小出粲に学び、御歌所にも出仕した歌人でもありました。独創的なかな書の創始者の書ですから、書かれている歌の判読は一筋縄ではいきませんが、幅広の軸に流れるような文字と金色の本紙の間が、床の間の空間に調和して、歌詞やその意味はともかく「絵」になっていることは分かります。純子さんも「7月は月の涼しさの軸」と呼んでいますから、八百竹美術店にお願いして、判読していただきました。    
と読む書で、短歌にも長けていた岡山高蔭ですから、おそらく本人の歌だろうと思います。この歌の詳細を調べるのには、堀江知彦編・著の「日本書道大鑑」第三巻が必要のようですが、県内では都留文科大学の図書館にしか蔵書されていないようです。

2011年7月1日金曜日

杉浦醫院四方山話―58 『我が糞闘記の高橋積氏』

 「もう、梅雨も明けてるんじゃない?」と云いたくなるような夏空のもと、異常な暑さが続く甲府盆地です。暑い時に熱い人から久しぶりに篤い電話がありましたので・・
熱い人は、当年80歳を迎える田富町在住の高橋積氏です。昨年2月に山日新聞紙上に「杉浦邸を町が保存へ」と云う記事が載ったその日、高橋氏の初訪問を受けました。    資料が入った袋を前に「これを俺が寄付するから、地方病の資料館にするじゃん」「県の博物館には裏切られたけど昭和町はたいしたもんだ」「俺は、地方病を語れるただ一人の語り部だから、協力するから・・」と初対面から熱かったのを思い出します。「杉浦医院は医学で地方病撲滅に貢献した先生だ。俺は保健所で検便一筋40年、行政の立場から撲滅にかかわった生き証人だから」と著書「我が糞闘記」を取り出し「これも寄贈する」と・・・それ以降、高橋氏の訪問は「新しい資料が出てきたから」「これはまだ渡してなかったら?」「県立博物館に俺が寄贈した資料を昭和町で使ったらどうだ」から「県の臨時職員で採用され、これでもかと頑張って最後は管理職になった」自分史まで、話題は尽きません。
糞便検査の卵
「普通塗抹法は、一般的だから知ってると思うけど・・・」「エオジン染色集卵法は、遠心分離機を使って・・」「エライサ法は比内反応をみるやつで・・・」とやはり「検便」については、その方法から当時の実態まで、一層熱い語りになりました。そんな積もる話の高橋さんですから、いつからか「ツモルさん」と私は気安く呼ぶようになりましたが、本名でもあるので、嫌な顔一つせず気軽に貴重な話をしてくれました。ここにきて、しばらく音沙汰がないなと思っていた矢先「中学生用の資料を作ったから、ウチに取りに来てくれ」「その為に新しいワープロも買ったから見せてやる」「車を買い替えたら、震災の影響で2カ月待ってもまだ来ないから、俺が行けない」と一気です。「ツモルさん、一般的には免許返上のお歳ですよね」「まだ、やることがいっぱいだから、車がねーと動けんじゃん。今日待ってる」で、切れてしまいました。いつもこんな感じですので驚きませんが、ホント篤いツモルさんに暑さ寒さは関係ありません。地元区民が生涯学習で来館した折、持ち時間30分で高橋さんに「語り部」をお願いしました。予想通り、45分経っても未だ話半分といった熱演!語っておきたいことが掛け値なしに詰まっているツモルさんに30分は、酷だったな~と反省しましたが、語り手の真剣さと情熱は、聞く方にも伝わり「長いゾー」の声もなくツモル講演会は無事終了しました。「ツモルさん、次からは、語り部と云うより、俺は地方病博士だ!実演会でどうでしょう」にも「お―それもいいな」とやる気満々の糞闘家の奮闘は永遠です。