7月3日(日)に県立文学館を囲む芸術の森公園内にある素心庵で、有楽流のお茶会が開催されました。この茶会の主宰者Aさんは、純子さんとは親の代から懇意にしていたことから、この日に使う花器や掛け軸、器などの相談に何度か純子さんを訪ねていました。Aさんに限らず、こう云う相談が多く持ち込まれのが、純子さんの師匠としての実力を物語っています。その都度「会場が素心庵ならガレの花器もいいし、7月なら岡山高蔭の掛け軸ね」と云った「的確なアドバイスがうれしい」とAさん。そして、保有する掛け軸や茶道具などを純子さんが気前よく貸し出すのも先輩師匠として慕われる所以でしょう。また、杉浦さんから借りることによって、「わたしはもう引退した身ですから」と茶会への参加を拒み続けている純子さんに何とか参加して、欲しいということもあるようです。
その岡山高蔭書の軸が戻ってきましたので、6月の軸を外して掛け替えました。岡山高蔭は、1866年愛知県熱田市に生まれ、昭和20年に没した書家であり歌人でした。本名は芳太郎、高蔭の号をのちに本名に改名したそうです。幼時より書を好み、仮名を研究し、晋唐の書を和様体に加えた独創的なかな書道を創始し、國學院大学の講師、泰東書道院の学術顧問、特別会員として、80歳で亡くなるまで書道界で活躍しました。同時に、和歌にも長け、小出粲に学び、御歌所にも出仕した歌人でもありました。独創的なかな書の創始者の書ですから、書かれている歌の判読は一筋縄ではいきませんが、幅広の軸に流れるような文字と金色の本紙の間が、床の間の空間に調和して、歌詞やその意味はともかく「絵」になっていることは分かります。純子さんも「7月は月の涼しさの軸」と呼んでいますから、八百竹美術店にお願いして、判読していただきました。
その岡山高蔭書の軸が戻ってきましたので、6月の軸を外して掛け替えました。岡山高蔭は、1866年愛知県熱田市に生まれ、昭和20年に没した書家であり歌人でした。本名は芳太郎、高蔭の号をのちに本名に改名したそうです。幼時より書を好み、仮名を研究し、晋唐の書を和様体に加えた独創的なかな書道を創始し、國學院大学の講師、泰東書道院の学術顧問、特別会員として、80歳で亡くなるまで書道界で活躍しました。同時に、和歌にも長け、小出粲に学び、御歌所にも出仕した歌人でもありました。独創的なかな書の創始者の書ですから、書かれている歌の判読は一筋縄ではいきませんが、幅広の軸に流れるような文字と金色の本紙の間が、床の間の空間に調和して、歌詞やその意味はともかく「絵」になっていることは分かります。純子さんも「7月は月の涼しさの軸」と呼んでいますから、八百竹美術店にお願いして、判読していただきました。
と読む書で、短歌にも長けていた岡山高蔭ですから、おそらく本人の歌だろうと思います。この歌の詳細を調べるのには、堀江知彦編・著の「日本書道大鑑」第三巻が必要のようですが、県内では都留文科大学の図書館にしか蔵書されていないようです。