2011年12月28日水曜日

杉浦醫院四方山話―103 『地方病流行終息の碑』

 昨年度、昭和町押越から移設した「地方病流行終息の碑」は、旧杉浦医院を見守るかのようにすっかり庭園の一構成石碑として定着しました。先の地震で説明碑が若干傾きましたが、過日の造園整備で修復され新年を迎えます。  
 1881年の旧春日居村の嘆願に始まった地方病終息に向けての山梨県旧25市町村の取り組みは、平成8年の終息宣言まで実に115年目の歳月を要した訳ですが、本年は、終息活動開始からちょうど130年を迎えたことになります。
 長く県民を苦しめてきた「地方病」だからでしょうか、恩賜林下賜100周年を盛大な記念行事で祝したのとは対照的に山梨県と地方病の歴史について、振り返る行事も報道もここ数年皆無に等しく、この「碑」の建立で、忘れ去りたいかのような印象もぬぐえません。
しかし、「山梨ブランドの確立」と喧伝されるブドウやワインをはじめとする果樹王国・山梨は、ミヤイリガイの棲息場所を無くす地方病克服の一環として、先祖代々の水田を果樹園に変え、稲作から果樹へと転換をしてきた結果でもあり、住血吸虫症対策が、今日の山梨の風土形成の一側面でもあり、山梨の近現代史は「地方病」を抜きに語れません。
 地方病=日本住血吸虫症は、「日本」という名前がついているために、日本固有の病気だと思われているのも特徴ですが、杉浦父子をはじめ多くの日本の研究者により、この病気の原因や感染経路と治療法の確立が日本で解明されたことから、「日本住血吸虫症」という学名になったものです。日本住血吸虫症は、マラリア、フィラリアと共に現在も患者数では世界の三大病として、世界全体、特に中国、フィリピンなど東南アジアに広く存在する国際的な病気で、終息宣言に至ったのも日本だけと云う事実も周知していく必要を感じます。そんな「地方病」の背景や風土に思いを馳せながら、この「終息の碑」の前に立つと、この地で地方病と向き合い格闘してきた杉浦父子の実存と日本の飛躍的に改善された公衆衛生など時々の先駆者が、その限られた時間と条件の中で果たしてきた仕事の積み重ねに思い至り、素直にコウベが垂れます。

2011年12月21日水曜日

杉浦醫院四方山話―102 『保健文化賞』

 純子さんから「父は、叙勲には全く興味がなく、勲章はいらんとよく言っていましたが、この賞は嬉しかったのか、大切にしていた賞状がありましたから・・・」と、筒に「保健文化賞  厚生省」と書かれた大きな賞状を持参してくれました。健造先生、三郎先生は、数多くの表彰を受けてきましたが、病院にも母屋にも一枚として表彰状が掛けられていなかったのも杉浦家の奥ゆかしさあるいは医者の矜持と云ったものを感じました。客観的な資料ですから、展示コーナーには掲示しましたが・・
 この「保健文化賞」は、衛生環境が悪化していた戦後まもなく、日本の保健衛生の向上に取り組んで顕著な業績を残した人々に感謝と敬意を捧げる賞として、第一生命と厚生省がタイアップして1950年に創設された賞です。その後も毎年実施され、2011年で63回目を迎え、受賞者は天皇・皇后両陛下に拝謁を賜っているという賞です。
 1950年( 昭和25年)創設と云う事は、敗戦の5年後になりますが、三郎先生の表彰状は、昭和26年12月2日付けで、厚生大臣 橋本龍伍とありますから、第二回保健文化賞の受賞だったことが分かります。
「団体や研究機関に贈られる賞なので、田舎の一開業医で、この賞をもらったのは光栄だ」と三郎先生も素直に喜んだそうですが、表彰状の文面も三郎先生の業績を的確にまとめ、その業績に対する評価であるという内容で、「できあいの通り一遍」の文面でないのも好感が持てたのでしょう。
 20年後の昭和46年に勲五等 双光旭日章を授与されましたが、文面はご覧のとおり「上から目線」で・・・作家の故城山三郎さんのエッセイ「勲章について」という名文を思い出します。
 ≪「勲章を授けたい」と役所が言ってくる。受けたくない。断るつもりだ。妻に理由を説明すると、「あなたの言い分だと、もらった方に失礼じゃないの?」と妻が言い、あわてて言いなおす。「読者とおまえと子供たち、それこそおれの勲章だ。それ以上のもの、おれには要らんのだ」 と≫  
75歳だった三郎先生が、勲章に興味がなかったのは、城山三郎氏と同様の思いだったのでしょうか。期せずして同名の「三郎」ですが、「気骨」の医者と作家という共通点も。

2011年12月17日土曜日

杉浦醫院四方山話―101 『地域ボランティア』

 「都合のつく方で、という自主参加なので、何人になるか分からないけど・・」と区長さんからは聞いていましたが、先週の土曜日の朝、親子での参加も含めて20人以上の西条新田地区の方々が、落ち葉の清掃ボランティアに参集くださいました。
 杉浦医院の庭園は、代々「もみじ」「椿」「竹」などの落葉樹の庭園を造園してきましたので、この季節、落ち葉は絶えません。毎朝、8時過ぎには近所のSさんが池や庭園の清掃に来て、地域の話など聞かせていただきながら作業するのが日課になっていますが、日ごろ手が回らない植え込みの中や裏まで皆さんの手慣れた作業で、あっという間にきれいにしていただきました。作業中「これから年3回くらい季節ごと来るようにするといいね」とか「日曜日だともっと集まるよ」「みんなでやれば、速くていいじゃん」「こういう無理のないやりかたで続けていくのが一番」とありがたい提案や感想もいただきました。

 今日は、中国安徽省から「日本住血吸虫症撲滅研修団」22名が、東京医科歯科大学の太田先生の案内で来館されました。事前の連絡では中国語の通訳も同行すると云うことでしたが、都合で同行が無く太田先生も県のMさんも「困った」感じでした。純子さんを日常的に支えてきたマヨさんは中国が母国ですから、中国からの来館者が今日あることを事前に話しておいたので、時間に合わせて来てくれました。急きょ、通訳をお願いすると「日本語より中国語なら大丈夫」と、とっさのお願いにも快く応じていただき、ジョークも入れながらの説明と何より中国美人の登場にみなさんとても楽しそうでした。太田先生からも「まさか、通訳がいるとは・・」と・・本当に地域の方々の助けに感謝する日々です。

2011年12月10日土曜日

杉浦醫院四方山話―100 『岩手は半歩歩き出す』

 当四方山話も今回で、100話になりました。鈍感なせいか、20歳の成人を迎えた時も何の感慨や決意もなく、大人としての自覚を高めたという記憶もありません。環暦を迎えた2年前も同様で、この先の生活設計だの年金だのにも真剣に向き合うこともなく、ただただ流れに身を任せてきただけでした。まあ、非力で無能な男があくせく足掻いてみたところで、大した成果や違いもないだろうと云う思いは、高校時代に自覚したのは確かです。結果、大学や職業選びも「自己実現」などと云う観念はさらさら働かず、「とりあえず」の連続で今日に至っています。それでも死語と化した70年安保だの高度成長だのバブル経済だの・・・と、今となっては結構面白い時代の波や友人の死から3・11まで避けたくも否応なく押し寄せてきた時々の波にもただただ身を任せ、何かあっても「山羊にひかれて」など愛唱し、「吹く風まかせ」を座右の銘のように思ってきました。
寝ぼけたような戯言を書いてきたのは、「四方山話、次は100回ですね」と同僚Wさんから言われ、「そうか、100回か」なんて話していたら、科学映像館の久米川先生から、永久保存版DVD「岩手は半歩歩き出す」のメール便が届きました。「100話は、何にしようか」なんて力まなくてもちゃんとしかるべき「波」が・・・と云う実感から、つい前置きが長くなり失礼いたしました。
 この「岩手は半歩歩き出す」は、衝撃の津波映像のみならず困難に立ち向い、立ち上がろうとする岩手人をおさめた「DVD」と「震災解説書」と「岩手のうまいもの・逸品お取り寄せカタログ」の3点セットです。
 90分のDVDは、震災の実態を伝える歴史的映像としても貴重ですが、加えて「負けないで立ち上がる人間の強さ」とも言うべき復活にかける岩手県人が登場するヒューマン・ドキュメンタリー構成になっていて、観た者に岩手産の商品を一品でも購入して、困難に立ち向かう岩手人を応援しようと云う気持ちにさせる「映像の力」があります。久米川先生が、当館にこのセットを送ってくれたのも「より多くの方にこの映像を観てもらって下さい」と云うメッセージでしょう。     この大震災で、杉浦醫院と同じように三陸海岸沿いで、その地の歴史を刻んできた貴重な文化財や建造物も多数消失しました。津波にのまれた陸前高田市の「酔仙酒造」は国の登録有形文化財でしたが、近く登録を抹消されると聞きました。「有形」文化財の健造物が消失して「無形」になってしまったから抹消すると云う事でしょうが、桜の名所でもあった酔仙酒造の「映像」は、多数残っているでしょうから、消失した酔仙酒造の「映像」は、そのまま大震災の有形でもある訳ですから、「抹消」する事なく、大震災を語り継ぐ一つとして、活かせないものでしょうか。

2011年12月8日木曜日

杉浦醫院四方山話―99 『アサヒ・ペンタックスK』

 純子さんから「こんなカメラが出てきました。確か父が昭和28年にマニラの太平洋学術会議に行く時、購入したものだと思いますが」と箱に入った一眼レフカメラを持参下さいました。
 本当かどうか定かではありませんが、「カメラは、暗い箱という意味だ」と中学生の時に聞きました。当時からむやみに明るいのが苦手だった私は、「暗い箱」や「暗室」に親しみを覚え、写真部に入りました。そんな訳で、カメラについては、ちょっと思い入れもあり、うん蓄も・・・・で、中学生だった昭和30年代の末は、「キヤノネット」と云う35ミリカメラが発売され、当時としては明るいF1,9のレンズが付いて、2万円を切った価格だったことから爆発的に売れた時代でした。間もなく「オリンパスペン」や「キャノンデミ」と云った、ハーフサイズカメラが登場した時代でもありました。当時はフィルムが高く、このハーフサイズカメラは、36枚撮りのフィルムで72枚撮れるということで、中高校生には人気でした。しかし、現象や焼付け、引き伸ばしなどのプリント代も高かった訳ですから、たいしたメリットがないことが分かり、人気も失速していったように思います。この後、「ペンEE」など、完全自動露出のシャッタースピード優先式EE機構が開発され、更にピント合わせの焦点まで何もかも全てカメラにお任せの「バカチョンカメラ」とも呼ばれたオートフォーカスカメラが誕生し、「ピンボケ写真」はぐっと減りました。この「バカチョン」については、差別用語だと社会問題にもなりましたが、「バカみたいにシャッターをチョンと押せば撮影できるカメラ」という意味で、特に問題ないと云ったいい加減な形で落ち着いたように覚えています。要は「バカチョンカメラ」以前のカメラでは、 露出(シャッター速度と絞り)、焦点(ピント=フォーカス)の各要素を適切に操作する必要があり、カメラに関して専門知識や研究心のない人にはハードルが高く、まともな写真は「写真館」で撮る時代が長く続きました。「父は新しい物好きで、すぐ飛び付きましたが、フィリピンで撮った写真もピンボケが多く、興味をなくしたようで、そのまま箱にしまってしまいました」と云うアサヒペンタックスKは、キングのKを冠にした1眼レフの王様でもありました。人間の目の明るさと同じF1,8のレンズにオート絞り機構がつき、レンズ交換も可能な当時4、50万の大変高価なカメラで、箱にはボデイー番号、レンズ番号まで記載されています。
 三郎先生が「日本住血吸虫症」について発表した太平洋学術会議は昭和28年、ペンタックスKは昭和33年発売で間違いありませんから、三郎先生の名誉の為にも「フィリッピンのピンボケ写真は、ペンタックスK以前のオート絞りのないカメラだった」ことになります。正確無比な純子さんの記憶ですから、その辺の行き違いを想像すると「思い出のマニラの写真が思いのほか出来が悪かった為、三郎先生は、最新式のオート絞り機構の付いたペンタックスKの発売を知り、即購入したカメラ」が真相ではないでしょうか。あっという間に「デジタルカメラ」が席巻し、ついこの間まで重宝していた「写るんです」の使い捨てカメラさえ忘れ去られそうですが、ニコンFの兄貴格である「アサヒペンタックスK」、シンプルなデザインながらどっしり重く風格あるボディーには、惚れ惚れします。

2011年12月4日日曜日

杉浦醫院四方山話―98 『水腫脹満病薬』

先週の土曜日、東京葛飾区にお住まいの男性から電話があり、これから甲府に向かい訪問したいが、甲府駅からのバス便は?と問われました。公共交通機関の整っている東京では、日常の足として自動車も必要ないので「甲府駅からのバスは?」は、もっともな問い合わせでした。結局、身延線国母駅からタクシーで見えましたが、お一人で、ここだけを目的に訪れるには、それなりの理由と情熱があってのことでした。館内を見学しDVDも鑑賞した後、「いくつかお尋ねしたいことがある」というので、唯一暖房可能な旧看護婦室の事務室に案内しました。
 自己紹介から東洋医学の研究に携わっているというW氏は、日本住血吸虫症が、武田家の滅亡を伝える『甲陽軍鑑』にも記載されていたことから興味を持って調べ出したそうです。W氏は、「戦国時代からこの地方には、患者がいたようなので江戸時代の漢方薬の開発からすれば、近代医学以前の地方病患者にも治療や投薬が施されてきたはずなので、それを調べているんですが・・・目黒寄生虫館にも行きましたが、その辺の資料はないと云うことで、学芸員から甲府盆地の杉浦医院に行けば、何かあるかもしれない」とアドバイスされての来訪でした。
 「杉浦家は、江戸初期から医業を営んできましたから、当然、漢方医で漢方薬を扱ってきたものと思いますが、その具体的な資料やモノは見つかっていません。ご指摘のとおり、患者がいた以上何らかの治療や投薬はしていたはずですから、西洋医学での原因究明と治療法の確立だけでは、片手落ちですね」と応え、「これを機に県の機関等にもあたり、資料等あったら連絡します」とこの件は「宿題」とさせていただきました。

当館所蔵のスチブナールパッケージ
 寄生虫の大御所、カイチュウ博士の藤田紘一郎氏には、昭和町の文化講演会でも講演いただきましたが、医学博士・永倉 貢一氏=「むし」が書いているブログ「むしの無視出来ない虫の話」も大変面白く、分かりやすい「寄生虫」の話が満載です。その中で、長倉氏は「江戸時代初期にも、中巨摩郡竜王村(甲斐市竜王町)付近で、水腫脹満病薬というものが盛んに販売されていたとされるので、古くからこの病気が甲府一帯に蔓延していたことは確かです」と書いています。展示資料収集過程でも「盛んに販売されていた」と云う「水腫脹満病薬」の実物を入手して、展示出来たらと県立博物館等にも問い合わせて探しましたが、近代医学の「スチブナール」以前のものはありませんでした。
杉浦家土蔵には江戸時代のモノや資料類も残っていましたから、もう一度、探してみようと思いますが、当ブログを読まれた方で、奇病とされていた時代の地方病とその治療や薬についてご存知の方は、「加持祈祷」も含め、ご教示くださいますようお願いいたします。

2011年12月1日木曜日

杉浦醫院四方山話―97 『杉浦家12月のお軸』

 「12月のお軸は難しいですね」と声をかけられ、「そうか、今日から12月だ」と気がつくお粗末ぶりですが、10月から11月にかけ、杉浦家の床の間は、週単位、日単位で掛け軸が交換され、紹介が追い付きませんでした。「12月は、やはりこれでしょうか」と用意されたお軸は、高浜虚子の俳句です。虚子は、85年の生涯で20万句近い句を残したといわれていますが、その代表作の一つがこの「遠山に日の当たりたる枯野かな」です。明治33年作ですから、虚子26歳の時の作品であることに驚きます。
 正岡子規に師事し、若くして台頭した虚子は、子規が提唱した「写生」を発展させるべく、主観句の流行に対して、小主観を超える「客観写生」を主張しました。これは、写生の対象を客観である花鳥に限定して詠むことの必要性を説いたもので、「客観写生」という言葉も虚子自らが造りました。
 「客観写生が俳句修業の第一歩である。それは花なり鳥を向こうにおいて、それを写し取るというだけのことである。しかし、それを繰り返しているうちに、その花や鳥が心の中に溶け込んできて、心の動き、感じのままに花や鳥も動き、感じられるようになる。花や鳥が濃くなったり、薄くなったり、また確かに写ったり、滲んで写ったり、濃淡陰影すべて自由になってくる。そうなってくるとその色や形を写すのではあるけれども、同時にその作者の心持を写すことになる」として、「客観写生」による発句を生涯実践しました。
 虚子作品でも客観写生の傑作と言われている「遠山に日の当たりたる枯野かな」。寒々とした枯野、その向こう側には冬の弱い日を浴びた遠山。枯野と遠山以外には何も詠み込まれていない写生句ですが、読む人には静寂枯淡の境地を味あわせ、どこか象徴的な感じを与え、結果として、虚子の心境も吐露しているものと言われています。
虚子は、「心を空にしてどんな観念の介入も許さず、どんな句を詠もうかも考えず、ただ素直に自然に立ち向かえば、自然は必ず何か強烈な感動を与えてくれる。そうした自然の断片だけを正確に写生すればよいのである。」と繰り返し、「これを花鳥諷詠といい、俳句は、花鳥諷詠以外に目的を持たない」とまで断言しました。
 「家の周りは全て田畑でしたから、南には身延線も見えましたし、北はずっと南アルプスまで平坦な感じで、四方の山がよく見えました」という杉浦家にとって、12月は田畑も枯れ、時間ごと日の射す山も変わり、「遠山に日の当たりたる枯野かな」は、冬を実感でき、ここで詠んだようにも思える句だったことから代々引き継がれてきたのでしょう。