2013年10月31日木曜日

 杉浦醫院四方山話―286 『トモエソース-3』

 主に野菜や穀類などで、「地産地消」と云う言葉を近年よく耳にしますが、流通が現在のように発達する前は、豆腐や酒、味噌、醤油、ソースも「地産地消」が当たり前だったことを「トモエソース」の空き瓶が、あらためて教えてくれました。

 現存するトモエソースを購入すべく、青沼通りの「清水酒販」に行ってきました。写真右のウスターソースと左の中濃ソースが市販されていて、一般的な中濃ソースが人気で、現在も固定客が求めに来るそうです。

 電話に出てくださった店主と奥さんに持参した杉浦醫院納屋にあったトモエソースの空瓶を見せると「懐かしいねー。こんな税金まで表示していたんだ。でもこの瓶は、私の記憶にもないラベルだからかなり古いモノですよ」と、トモエソースの歴史や全盛時代の話をしてくださいました。
「おじいさんは、イカリソースで修業して深町で創業しました。当時は、県内にもソースを製造していた会社が7社ありましたから激戦で、うちは、大きなソース瓶の模型を載せた宣伝カーで県内を回りました」                 「私も助手席でウグイス嬢のようにトモエソース、トモエソースと連呼しました。車に子どもが集まるようにアメを用意しておいて、集まった子どもに配ったりもしましたね」
「ホーローの看板も作って、板塀などのお宅にお願いして釘で打って回りました」
「そのホーローの看板が、東京の古物商で1万円以上で売っていますよ」
「へぇー。まだ倉庫にあるかもしれないので、今度探してあったらお持ちしましょう」
「全盛期には県内だけでなく長野県も奥の大町や飯田まで、静岡の清水あたりまで卸していました。だんだん地ソースを扱っていた食料品店や酒屋さん、肉屋さんがなくなって、最後はトモエソースだけになりました。深町で昭和50年代まで造っていましたが、環境問題で工場をつぶして、兄がガソリンスタンドを始め、ウチがトモエソースを引き継いだ訳ですが、指名して買いに来てくれるお客さんがいるので続けてきました」と・・・・
昭和町に「イオンモール甲府昭和」が計画された時、イオンはこのモール店の商圏を山梨県内のみならず長野や静岡も視野に入れていると云った報道を目にした記憶がありますが、トモエソースの商圏は、イオンモールの想定商圏を席巻していた大先輩であることも知りました。

 清水ご夫妻は、既に当館にも来館いただいていて、「素晴らしい庭と建物を見せていただいて良かったので、先日は市川大門の栴檀の酒蔵の跡も見てきました」と云う「温故知新」のご夫妻で、お忙しい中でも歓迎していただき、大変お世話になりました。
「清水酒販」は、酒屋さんですから、店内のメイン商品は酒で、壁一面の大型冷蔵ケースには日本酒の一升瓶、それも全国の名酒がずっらと並んでいて、思わず「いい酒を揃えていますねー」と横道にそれ出しましたが、すぐ目に入った「雪中梅」をソースと共に購入して、ご機嫌で店を後にしました。 

2013年10月29日火曜日

杉浦醫院四方山話―285 『トモエソース-2』

 かつて甲府盆地一帯の地ソースとして存在した「トモエソース」を検索していく過程で、東京・上北沢のツナ商店にヒットしました。
このツナ商店は、「古い懐かしいもの」を専門に扱っていますが、ホーロー看板の一つに「トモエソース」の看板が、11,800円で販売されていました。この看板が甲府のトモエソースのモノかどうかは分かりませんが、三つ巴の商標は、大変酷似していて可能性大だと勝手にコピーさせていただきました。同時に、「トモエソース」の空き瓶3本も含め納屋に眠っていた杉浦家の古いモノもこういう世界では十分値段の付く「骨董品」であることが分かりました。

更に検索していくとトモエソース-食品工業(山梨県甲府市) - [電話帳ナビ]地図情報が出てきました。ここにある情報は、電話番号と所在地だけでしたが,早速、記載されている番号に電話して問い合わせました。その結果、甲府のトモエソースは、現在も健在であることが分かりました。

 近年、町や村の昔からのガソリンスタンドが次々消えていったように、法治国家の日本では一度法律で決まると個人の思いや願いに関係なく物理的にも経済的にも廃業や転業を余儀なくされてしまうケースが後を絶ちません。かつて土地々にあった地酒が「排水や排煙」の規制で製造できなくったように「うちのトモエソースも街中では造れなくなりました」と・・・・
 「関東ソース工業組合員だったので、近県の会社と共同で、現在は茨城県の工場で製造しています。スーパーなどには大手のモノが入っていますから、県内で、トモエソースを売っているのはウチだけでしょう。店は里吉4丁目で、青沼通りにありますから 」
 「私の先々代が、創業者の塩沢節逢です。トンボソースとか幾つか案があったようですが、トモエに落ち着いたようです。現在は酒屋ですが、トモエソースもありますよ」と、現社主が教えてくれました。
 
 急な問い合わせにも丁寧に応じていただいた社主は、青沼通りに「清水酒販」と云う店を構えています。茨城の共同工場で甲府の地ソース「トモエソース」が現在も製造され、清水酒販に出向いて購入し、愛用している県民がいることを知ると、それだけでもうれしくなってきました。

 甲府には、江戸時代創業の「富士こうじ」の冨士井屋糀店や明治時代からの「おかめ麹」、五味醤油の「やまご味噌」など甲州味噌や醤油が根強い人気、需要に支えられて現在も営業していますが、「トモエソース」も販売されていることは知りませんでした。空き瓶のラベルには「規格比重17度以上」と銘打ってある「トモエソース」をこれを機に賞味してみようと思います。

2013年10月26日土曜日

 杉浦醫院四方山話―284 『トモエソース-1』

 昨年の土蔵改修工事に続き、納屋の工事が始まりました。それに合わせて、納屋にあった杉浦家の書籍や瀬戸物、農具、家電製品、ビンなど多種多様なむやみに処分できない歴史的な収蔵物を移動して保管しました。

 これらについても整理しながら随時ご紹介していきますが、先ずは「トモエソース」の空き瓶が3本ありましたので、「トモエソースは杉浦家御用達のソースだったと思うのですが」と純子さんに聞いてみました。
 「トモエソース?初めて聞く名前ですね。ソースでは、ブルドッグソース位しか記憶にありません」
「生産者が甲府市深町二の一五四 塩沢節逢とありますが、深町ってどの辺でしたか?」
「女学校の時、深町から来ていた頭が良くってきれいな同級生がいましたから三日町の先だったか?確かではありません。そうそう、昔はソースより醤油でしたから、敷島醤油は覚えています。敷島で作っているから敷島醤油だと思っていましたが、女学校に行くようになって荒川橋の先、上石田に敷島醤油の大きな工場があって、甲府で作っているのを初めて知りました」と・・・

 純子さんには記憶のない「トモエソース」ですが、居合わせた昭和18年生まれの永関さんが、「生まれが穴切だったので、物心ついた5,6歳の頃、歩いて行った城東の親戚の辺で、トモエソースと書いてあった煙突を見た記憶がある」とのことで、 調べてみると、甲府市深町は「現在の甲府市城東1,2丁目で、旧桶屋町と工町から三ノ堀を隔てて東に接する郭外の武家地で、城下の南東端に位置する」とあり、永関さんの記憶どおりでした。
更に「甲府深町の歴史」と云う書籍も出版されていることも分かり、町立図書館レファレンスで、近々借りられることになりましたから、武家地・深町の歴史についても紹介できたらと思います。

 インターネットで「トモエソース」を検索すると全国には同じ名前のソースが幾つかあり、岡山県倉敷の「トモエソース」は、現在も県内ではメジャーなソースとして人気があるようです。また「トモエ〇〇」と云った製品や会社名もたくさんありました。

 これは、商標トモエが「巴(ともえ)」に由来しているからでしょう。「巴」は、「市松」や「唐草」「花菱」などと同じ日本の伝統的な文様で、 勾玉(まがたま)又はコンマをデザインしたような巴紋(ともえもん)という家紋もありますから、「トモエ〇〇」名が多いのも製造者や起業者の家の紋が巴紋だったことから命名されたのでしょう。また、寺社の神紋・寺紋にも巴紋は多く、太鼓などにも描かれる縁起の良い文様だったことも関係しているように思います。               巴を円形に配し、それぞれ一つ巴(ひとつどもえ)、二つ巴(ふたつどもえ)、三つ巴(みつどもえ)と言いますが、右写真のように甲府市深町の「トモエソース」は、三つ巴(みつどもえ)の代表的な巴紋のデザインです。

 大相撲の千秋楽でも優勝決定戦で「巴戦(ともえせん)」になることがあります。これは、相星の力士3人による優勝者決定のための戦いで、3人がそれぞれ2 人の力士と取組を行い、2連勝した力士が優勝となりますから、巴は、三つ巴が一般的でもあるのでしょう。

2013年10月17日木曜日

杉浦醫院四方山話―283 『史蹟名勝天然紀念物-2』

 大正8年6月に施行された「史名勝天然念物保存法」で、鎌田川の源氏ホタルは国の指定を受けた訳ですが、白鷺城や会津城なども同じ「史名勝天然念物・白鷺城」で、こちらは、「史蹟」としての指定理由だったのでしょう。城や古墳、寺社から源氏ホタルまで一括りにした「史蹟名勝天然紀念物保存法」は、時代推移の中で不備が目立つようになり、特に1949年(昭和24年)の法隆寺金堂の炎上による壁画焼失を契機に、文化財保護行政の充実強化が求められ、1950年(昭和25年)に「文化財保護法」が成立し、「史蹟名勝天然紀念物保存法」は廃止されたました。 鎌田川の源氏ホタルが、天然念物の指定解除になったのは昭和51年ですから、昭和25年の文化財保護法成立後も旧法の指定は、継続されていたことが分かります。
文部大臣・鳩山一郎殿に申請した「源氏蛍発生地」の整備計画図
   この新しい法律では、「史蹟名勝天然紀念物」を「文化財」と云う用語にし、新たに埋蔵文化財も含めるなど保護の対象を広げると共に保存や公開、それに対する補助金なども定め、その都度見直しを図り、現代に至っています。
  この「文化財保護法」への改変過程で、鎌田川の源氏ホタルなど「天然(自然)記念物」を文化財に含めることについても検討され、諸外国では少ないことから、1971年(昭和46年)に環境庁(現・環境省)が発足した際、環境行政の一環として天然記念物保護を行おうという動きもありましたが、結局、文部科学省の外局である文化庁が、登録文化財の一環として担当しています。
 
 昨年8月に当館内の建造物5件が、国の「登録有形文化財」に指定されましたが、この登録有形文化財制度も当初は「建造物」だけに限られていました。2004年の法改正で、建造物以外の有形文化財についても登録対象となり、有形民俗文化財や記念物についても「登録制度」が導入されましたから、昭和町の源氏ホタルが至る所で自生し、復活すれば、「登録記念物・昭和町源氏ホタル」として、再度、国指定も可能になります。「史蹟名勝天然紀念物保存法」の制定、「文化財保護法」への改定に共通する背景は、経済発展を最優先し、それを阻害するものは古くさいものとして失ってきたと云う深い反省によるものですから、都市化の進む昭和町の源氏ホタルは、二重の意味で価値もあります。
                                      現在では、棚田をはじめとする「景観」も文化財として位置付けるなど、自然とそこで生活した人間の文化は密接な関係があり、ともに守るべきものであるという考え方が世界標準にもなっています。1972年には「世界遺産条約」が結ばれ、日本も20年後の1992年にこの条約を批准した結果、今年、富士山が世界文化遺産に登録されました。
これは、景観に加え環境や信仰、芸術など自然と人間が創造した文化も保護の対象になっていますから、あらためて、昭和初頭の国の天然記念物指定から今日まで、昭和町の源氏ホタルは、町のシンボル、象徴として町民に周知され、引き継がれてきていると云う足元の風土に眼を向けてみる必要性を再認識しました。    

2013年10月12日土曜日

 杉浦醫院四方山話―282 『史蹟名勝天然紀念物-1』

 昭和町を流れる鎌田川の源氏ボタルは、虫体と光源が大きく、数も多く、発生地域も広いことで、日本を代表する源氏ホタルとして知られていました。                      昭和3年には、この源氏ホタルが、押原連合青年団の手で多摩御陵に献納され、大正天皇のみ霊を慰め、昭和5年には、文部省(当時)から史名勝天然念物の指定を受けました。しかし、地方病終息に向けた水路のコンクリート化や駆除薬などによるミヤイリガイ殺貝活動で餌になるカワニナも死滅し、ホタルも姿を消して、昭和51年史名勝天然念物の指定も解除されました。                                                   純子さんは、母屋座敷蔵の収蔵品の整理を「目が衰えてからで遅すぎますね」と云いながらも旧知の永関さんや橋戸棟梁夫妻が見えると手伝ってもらいながら進めています。       昨日も、「こんなモノが出てきましたが・・」と昭和8年5月19日付けで、西条村外一箇村組合長杉浦健造が、文部大臣鳩山一郎殿に提出した「史名勝天然念物鎌田川源氏蛍発生地保存施設費追加補助申請」書を持参くださいました。
 
 鎌田川の源氏ホタルが「史名勝天然念物」に指定されたのは、「史名勝天然念物保存法」と云う法律が大正8年6月に施行された結果です。この法律が制定された背景も前々話の内田樹氏の指摘とも重なります。
 日清・日露戦争に勝利した日本は、急速に近代化、資本主義化がすすみ、各地で工場や鉄道建設の土地開発がおこなわれ、それにともない、その土地にあった文化財の多くが破壊されました。その反省と列強5カ国に並ぶ日本文化の独自性を発揮していく意味でも、欧米にならって、各地の文化財を保存していく法整備が必要になり、イギリスに留学経験のある黒坂勝美東京帝大教授が、保存すべき対象として国史学で用いられることの多かった「史」の語を、ドイツに留学した東京帝大三好学教授は、「天然念物」の語をそれぞれ提案した結果、法律の名称は、両論併記に「名勝」も加え、「史名勝天然念物保存法」と長いものになったそうです。
現代表記では、史は「史跡」、念物は「記念物」ですが、当時の法律は赤字のとおりです。
 
 ですから、「史名勝天然念物鎌田川源氏蛍」は、「史蹟」と「名勝」は付属で、「天然紀念物」としての意味合いで指定を受けたのでしょうが、法律の正式名称から「史名勝天然念物」となりましたから、鎌田川のホタル祭り会場付近を史跡名勝にふさわしく整備していこうと発生地保存施設費用の追加補助を文部大臣鳩山一郎宛に申請したのが今回の書類でしょう。                                                                  
 

2013年10月9日水曜日

 杉浦醫院四方山話―281『内田樹甲府講演会ー3』

 内田樹氏を招いたJCは、疲弊著しい甲府の街を「希望あふれる街」へと活性化させていくために、JCメンバーが「希望を力に」「希望に挑み」をスローガンに内田氏を講師に「街場のリーダー論」を拝聴して、知力向上を図ろうという企画だったようです。郎月堂にあったポスターにもその辺の意気込みは表象されていました。

 先ず、内田氏は甲府市に限らず日本の地方都市は全て弱体化して、どこでも再生を願って「町おこし」を図っているが、自分たち一人ひとりの消費行動の見直しと日本人の消費価値観そのものを問わなければ、地方都市の再生は無いとスイスを例に語りだしました。

 ユーロに加盟しないスイス国民は、ドイツ等から入ってくる安い商品より割高でもスイス製のものを買うことが定着しているそうです。 それは、安い外国製品に飛びつけば、スイスの産業は衰え、結果として自分たちの雇用もなくなって、国も国民も貧困化していくと云う「経済」活動の原則を知っているからで、高くてもスイス製を買う国民の消費価値観が、スイスを豊かな国にしているのだと・・・
 「安いことは良いこと」と云う短期的判断が長期的には自分たちの首を縛るという経済原理と高くても近隣の商店街で買い物をすることで、共同体を維持していこうという経済活動を国も行政も個人もしてこなかったのが、現在の日本の地方都市の衰退であると・・・・  甲府市の再生は、甲府市民に同胞と云った共同体意識があるか否かにかかっていて、JCがいくら旗を振っても市民に呼応する意識がなけば再生復活は困難であろうと悲観的でした。

 その上で、JCが求めるリーダー論でも時間を区切ったプランやマニュアルでリーダーが育つことはないとして、もともと「リーダー」の思想は、右に行くか左に行くかリーダーの決断・指示が、民族の生存につながった遊牧民族の思想で、日本のような農耕民族は、みんなで知恵を出し合い相談して決めるまとめ役がリーダーでしたから、「かつぐ神輿は軽い方がいい」と云うリーダー論が、現代でも通用していると明解に指摘しました。

 日本は、「和をもって貴しとなす」と最初の憲法で定めたてきた国です。それは、アラビアのロレンスやアラファト議長のような強いリーダーをむしろ排するように造ってきた国でもある訳です。だから、歴史上少なくとも3回大きな外的民族が日本に流入して来ましたが、一神教の国のようにこの流入民族を強いリーダーのもと国内に入れない戦いをしてきたかと云うと八百万の神を崇めてきた日本では族外婚(ぞくがいこん)と云う雑婚によって宥和、定着させ血の刷新も図ってきたと云う特殊な民族ですから、「強いリーダーシップ必要論」も効率優先の成果主義が叫ばれだしたほんの最近の現象であることを示唆してくれました。

 ちなみに、日清・日露の戦いで陸軍大将として、日本の勝利に大きく貢献した「陸の大山、海の東郷」と言われた大山巌大将は、「自分は何も決めず、指示せず。部下に好きなようにやらせて、責任は自分がとる」リーダーだったそうです。歴代最強の陸軍を作り上げたのは、大山大将の部下を信頼することで部下の能力とやる気を最大限引き出し、隊をまとめるという調整力こそが、一番必要とされたリーダーの資質だったことも検証されているといいますから、成果主義や効率主義の現代社会が求めるリーダーは、本質的に日本人のDNAと違う価値観が強要されているようです。

 今日の新聞広告で、内田樹氏の最新刊「街場の憂国論」の発刊を知りました。「脱グローバリズム」と云った文字も散見され、今回の甲府講演では、その辺のエキスを語ってくれたのかなと思いましたが、無料だった今講演の礼の意味でもアマゾンではなく街の本屋で購入しようと思います。

2013年10月8日火曜日

 杉浦醫院四方山話―280 『内田樹甲府講演会2』

 内田樹講演会に先立ち、甲府青年会議所について、会員以外の一般参加者に案内があり、「JCへは20歳以上40歳未満の男女に入会資格がある」旨の説明を「そうかJCは、年齢で青年を規定しているのか」と「子どもの誕生」を思い起こしながら聞きました。
 
 「子どもの誕生」は、フランスの歴史学者フィリップ・アリエスが1960年に出した著書です。子どもと大人の一線を当然視し、子どもへの学校教育を当たり前とする制度や現代の子ども観に対し、中世ヨーロッパでは教育という概念も、子ども時代という概念もなく、7歳位で言葉によるコミニュケーションが可能になれば、徒弟修業に出て大人と同等に扱われ、飲酒も恋愛も自由だったとし、子どもは、近代が誕生させた概念だと看破しました。
当然、半ズボンに代表される子ども服もなく大人と同じようなものを着ていたに過ぎないと云った指摘など当時の私には目から鱗の連続で、組合の青年部長を任じられた折「青年と云う概念も曖昧で、組合に青年部や婦人部と云った専門部は不要」と抵抗したことも思い出しました。
  
 甲府青年会議所に招へいされた内田氏は、サービス精神にも富み、「教育」から説明のあった「青年」へと話を進め、日本で「青年」が誕生したのは、日清、日露の大戦に勝って、日本が国際社会の列強5カ国入りした1905年(明治38年)以降からだと指摘しました。
 明治末から大正にかけては、国連で日本語が公用語に採用されるなど、戦勝気分が高揚し、日本人が自信に満ち溢れていた時代で、敗戦国になった戦後の日本人には想像もつかない程、国威が発揚されたそうです。確かに南下政策で負け知らずの帝政ロシアにイギリス、フランスなどにそそのかされて、日露戦争を始めた日本ですが、日本が勝てる訳ないと高みの見物を決め込むアメリカの予想に反して勝利した訳ですから、内田氏を含めて、戦後生まれの私たちには想像もつかない時代だったのでしょう。
ー有名な日露戦争の風刺画ー左から露・日・英・米
と同時に明治開国以来の「文明開化」や「富国強兵」「殖産興業」といった欧米に追い付き追い越せの近代化路線だけでは立ち行かない新たな日本国創造も迫られ、列強5カ国の中で日本の独自性を発揮するには、それまで切り捨ててきた日本の前近代も動員した「オール日本」が必要になり、そのけん引役として「青年」が登場したのだと・・・・
 
 前近代の江戸文化や儒教の精神などは、高齢者には定着していましたが、明治以降生まれた若年層には見向きもされないで来ましたから、この両者の橋渡し役をするのに編み出されたのが「青年」で、国はこの青年を市町村単位、府県単位で組織化し、国の統一した組織「大日本青年団」が出来上がり、太平洋戦争敗戦まで大政翼賛会の中核を担う組織となりました。

 昭和村青年団について「昭和村誌」には、「江戸時代から祭典など賑わいの世話役として「若衆組」「若連中」と云った統一なき自然発生グループが部落にあったが、これを母体に大正5年頃初代団長保坂国造氏を選出して、本格的「青年団」としてスタートした」旨ありますから、内田氏の指摘する「青年」誕生時期と符合します。

ここから、内田氏は、青年に課せられた近代と前近代の橋渡し役や近代と前近代の相克をテーマに次々名作を発表したのが夏目漱石の文学だと論を進め、日本人はこれ以降この近代と前近代の狭間で行ったり来たりの葛藤や苦悩を長く背負うことになったと話し、最後に演題である「街場のリーダー論」の「リーダー」についての話に移りました。
 

 杉浦醫院四方山話―279 『内田樹甲府講演会1』

 過日、甲府市総合市民会館でJC甲府(甲府青年会議所)主催で、内田樹氏の講演会が開催されました。現代日本の第一級オピニオンリーダーとして活躍の内田氏は、以前にも紹介した「日本辺境論」はじめ多数の著書や対談集がありますが、2002年に「講演お断り宣言」を出していましたから、その内田氏が神戸から講演に来るというので、聴きに行ってきました。

 冒頭、今回の講演依頼も再三断ったそうですが、JCのメンバー3人が神戸の道場まで来ての懇願に断りきれず応じたとのことでした。そういう意味では、甲府青年会議所には感謝しなければ申し訳ありませんが、講演に先立って行われたJCの研修報告が、内田氏が最も否定してきたパターン化された研修内容で、内田氏も「なぜ僕が呼ばれたのか分からくなってきた」と苦笑してのスタートでした。



前表紙
 演題は「街場のリーダー論」でしたが、上記のような状況から内田氏は臨機応変に神戸女学院大学での30数年の教員生活と合気道師範の武道家として行き着いた「教育」の話で始まりました。
 詳細は著書「街場の教育論」や「街場の大学論」に譲るとして、死後となって久しい「大器晩成」が教育の本質だと語り、2年とか4年と云った短いスパンで結果を出す、出させる教育なんてあり得ない。ましてや、数か月に何回か行った座禅研修で「集中力」を高めたと云うJCの研修会も・・・と、苦言を呈しました。

 「教育は、色々な教師が、多様な価値観で、様々な方法でかかわる中でブレークし、当人が学びの必要性を自覚し、学ぶ意欲を呼び覚ましたとき開花するものなので、少なくとも10年から50年と云った長いスパンで待たなければならないと云うことだけが分かった」と語りました。

 学校では「教育技術法則化」運動などに若い教師が飛びついたり、社会でも「自衛隊体験入隊」研修がもてはやされましたが、マニュアル化した教材や方法論で、生身の人間がコロッと変わるほど単純ではないということを先ず認識することが必要だということでしょう。「よい教師が正しい教育方法で教育すれば、子どもたちはどんどん成長するといった公式的な教育論は、人間理解が浅すぎる」という内田氏の自論は、もっと浸透して然るべきと私は思っていますが・・・・

 最終的には、自学自習する人間になることが飛躍的な伸びの源泉ですから、教育の現場では現在の生徒・学生がどうであれ、教えることや知ることが後の学びに役たち繋がることを教師はしっかり自覚して、自信を持って教壇に立ちつくす姿勢が、やる気のない生徒・学生にも葛藤を生じさせ、気づきにもつながるのだと質問者の高校教師に諭しました。
おっしゃる通り内田氏の壇上での語りと姿勢は、「夜9時を回っているから飲んで帰ろうか?いや帰って今日の話をメモってから飲もうか?」と不肖な受講者にも葛藤を生じさせ、結果、メモってから飲もうと喚起してくれました。
 

2013年10月3日木曜日

 杉浦醫院四方山話―278 『医業・医者ー4』

  有吉佐和子の原作を大映の黄金期を築いた甲府市出身の映画監督・増村保造が描いた「華岡青洲の妻」は、江戸時代の和歌山県に実在した医者・華岡青洲の「家」をモデルにした作品でした。
 
  日本映画の絶頂期でもあった1960年前後は、今思い返しても素晴らしい作品が多く、映画が輝いていた時代でした。特に若尾文子の妖しげな魅力を開花させた増村保造監督の作品は楽しみでした。「妻は告白する」とか「夫が見た」「清作の妻」や「卍」「刺青」など胸躍らせて見入ったのを懐かしく思い出します。甲府市では、以前、黒沢監督の脚本で著名な甲府市出身の菊島隆三展など開催した記憶がありますが、増村保造作品の連続上映会などで、鬼才・増村保造をもっともっと周知、顕彰すべきと思うのですが・・・
  
 余談はさておき、華岡青洲の家は、当時としては最先端の医院仕様だったことが、発掘調査で分かったそうです。
江戸時代の外科医として、世界で 初めて全身麻酔を使っての乳癌手術を成功させたと云う青洲の嫁姑問題に麻酔の人体実験を絡めた作品でしたから、普通の家のでは不可能で、手術室やそれに伴う排水路なども整備されていた本格的な医院の家だったそうです。往診が主だった江戸時代の医者の家は、普通の家と変わらないのが一般的だった中で、青洲の家は突出していたようです。
 

 明治中頃に造られた杉浦醫院母屋も国の登録文化財指定を申請した際、調査に来た文化庁の調査官も「明治期に真ん中に廊下と階段を配して、南北に部屋を分けたこの造りは大変珍しく貴重です」と指摘するほど代々医業を営んできた特徴を色濃く残しています。
 
 この時代の日本家屋は「田の字型」の間取りが大部分でした。
この間取りは結婚や葬儀など人が集まることを前提に、用途に合わせてふすまを開け閉めしたり、取り払って使えるようにした日本の風土、習慣に合った合理的な間取りで、普遍性があったのでしょう昭和の時代まで続きました。
 
 昭和4年に現在の醫院棟を新築するまで、健造先生は、写真の廊下左手前の板戸の部屋で患者を診ていたそうです。この部屋は玄関から向かって右奥にあり、外からも直接入れるようになっていましたが、玄関を上がった座敷が、待合室にもなっていたそうですから、真ん中の廊下で、公私を分けていたようです。

 純子さんの現在の生活スペースも全て廊下右側の部屋にあり、左側の座敷はもっぱら応接用として使われています。健造先生も三郎先生も私的な生活は、廊下右側を生活スペースとしてきましたから、明治中期に母屋新築の際、これまでの経験から、医者を開業していく上で、この廊下は必要だったのでしょう。