2013年10月8日火曜日

 杉浦醫院四方山話―280 『内田樹甲府講演会2』

 内田樹講演会に先立ち、甲府青年会議所について、会員以外の一般参加者に案内があり、「JCへは20歳以上40歳未満の男女に入会資格がある」旨の説明を「そうかJCは、年齢で青年を規定しているのか」と「子どもの誕生」を思い起こしながら聞きました。
 
 「子どもの誕生」は、フランスの歴史学者フィリップ・アリエスが1960年に出した著書です。子どもと大人の一線を当然視し、子どもへの学校教育を当たり前とする制度や現代の子ども観に対し、中世ヨーロッパでは教育という概念も、子ども時代という概念もなく、7歳位で言葉によるコミニュケーションが可能になれば、徒弟修業に出て大人と同等に扱われ、飲酒も恋愛も自由だったとし、子どもは、近代が誕生させた概念だと看破しました。
当然、半ズボンに代表される子ども服もなく大人と同じようなものを着ていたに過ぎないと云った指摘など当時の私には目から鱗の連続で、組合の青年部長を任じられた折「青年と云う概念も曖昧で、組合に青年部や婦人部と云った専門部は不要」と抵抗したことも思い出しました。
  
 甲府青年会議所に招へいされた内田氏は、サービス精神にも富み、「教育」から説明のあった「青年」へと話を進め、日本で「青年」が誕生したのは、日清、日露の大戦に勝って、日本が国際社会の列強5カ国入りした1905年(明治38年)以降からだと指摘しました。
 明治末から大正にかけては、国連で日本語が公用語に採用されるなど、戦勝気分が高揚し、日本人が自信に満ち溢れていた時代で、敗戦国になった戦後の日本人には想像もつかない程、国威が発揚されたそうです。確かに南下政策で負け知らずの帝政ロシアにイギリス、フランスなどにそそのかされて、日露戦争を始めた日本ですが、日本が勝てる訳ないと高みの見物を決め込むアメリカの予想に反して勝利した訳ですから、内田氏を含めて、戦後生まれの私たちには想像もつかない時代だったのでしょう。
ー有名な日露戦争の風刺画ー左から露・日・英・米
と同時に明治開国以来の「文明開化」や「富国強兵」「殖産興業」といった欧米に追い付き追い越せの近代化路線だけでは立ち行かない新たな日本国創造も迫られ、列強5カ国の中で日本の独自性を発揮するには、それまで切り捨ててきた日本の前近代も動員した「オール日本」が必要になり、そのけん引役として「青年」が登場したのだと・・・・
 
 前近代の江戸文化や儒教の精神などは、高齢者には定着していましたが、明治以降生まれた若年層には見向きもされないで来ましたから、この両者の橋渡し役をするのに編み出されたのが「青年」で、国はこの青年を市町村単位、府県単位で組織化し、国の統一した組織「大日本青年団」が出来上がり、太平洋戦争敗戦まで大政翼賛会の中核を担う組織となりました。

 昭和村青年団について「昭和村誌」には、「江戸時代から祭典など賑わいの世話役として「若衆組」「若連中」と云った統一なき自然発生グループが部落にあったが、これを母体に大正5年頃初代団長保坂国造氏を選出して、本格的「青年団」としてスタートした」旨ありますから、内田氏の指摘する「青年」誕生時期と符合します。

ここから、内田氏は、青年に課せられた近代と前近代の橋渡し役や近代と前近代の相克をテーマに次々名作を発表したのが夏目漱石の文学だと論を進め、日本人はこれ以降この近代と前近代の狭間で行ったり来たりの葛藤や苦悩を長く背負うことになったと話し、最後に演題である「街場のリーダー論」の「リーダー」についての話に移りました。