2012年9月27日木曜日

杉浦醫院四方山話―181 『丸菊』

 当四方山話89話「菊と土」159話「堀之内さんのサフィニア」でご紹介した西条一区の堀之内一郎さんが、丸菊4鉢を持参下さいました。いつも綺麗に花が咲き揃った状態でしたが、今回は未だ蕾も出ない状態ですから、「花が咲くまで自分たちで育ててみなさい」と学習の機会を与えてくれたものと思います。まあ、基本の土づくりは終わり、丸型に形も出来上がっていますから、「あとは水やり位で大丈夫」状態にまで仕上げていただいた訳で、美味しい所だけいただいたようで、誠にありがたく恐縮至極です。
 7月17日にサフィニアを届けていただき、2カ月以上次から次に咲き、今日現在もまだ十分観賞に耐える紅白のサフィニアが咲き続けています。今年の猛暑にも力尽きず、厳しい残暑も乗り切って咲くサフィニアを見るにつけプランタでも中に入っている土でこうも花持ちが違うことを実感できました。菊の育て方指南書には「鉢の置き場所は、半日陰で、やや湿り気のある場所」とありますが、医院玄関先は東南西全ての日が当たり、よく乾く場所です。
「水やりは、土の表面が乾き始めたら、鉢底から水がしみだすまで、たっぷりと」OKです。「用土は、水もちのよい肥沃な土に。赤玉土小粒7、腐葉土3の混合土に、緩効性肥料を適量、混ぜて」は、堀之内さんが長い経験からこんなマニュアル以上の用土に仕立てあるので大きなお世話です。
「植え替えは、花後の10月~11月に、植え替えと株分けを一緒に」とありますから、水をあげて花を咲かせるだけではなく、花後の植え替えと株分けまでやって初めて菊づくりの4分の1位をしたこ とになることを知りました。
 ちなみに菊の花言葉は、「高貴」「高潔」と云った高尚なイメージですが、黄色は「わずかな愛」、赤色は「あなたを愛します」、秋明菊は「うすれゆく愛」だとか。秋花故に「女心と秋の空」の影響でしょうか、何だか身につまされますが、「薄れゆく僅かな愛でもあなたを愛します」となるよう赤色中心に咲かせてみたいものです。

2012年9月26日水曜日

杉浦醫院四方山話―180 『ウィキペディア ライター』

 元アスキー社長の西和彦氏は「ウィキペディアはネットの肥溜」と酷評していますが、「ウィキペディア」は非営利団体ウィキメディア財団が主催している、利用者が自由に執筆できるインターネットフリー百科事典として定着しています。広告など一切無く、運営に必要な資金は寄付によってまかない、執筆や編集は世界中の無償のボランティアの手によって行われています。ウィキペディアの掲載内容は、オープンで誰でも無償で自由に利用することができます。インターネットの発達と共に著作権問題がクローズアップされ厳しくなる中、ウィキペディア掲載記事は複製や改変だけでなく頒布や販売も自由という、ネット社会にふさわしい風通しの良さです。当然「安かろう悪かろう」とか「タダより高いもの・・・」と云った類の記載もあるでしょうが、これは利用者の学習能力や知力も問われている訳で、何事も「鵜呑み」にすることの危険性は、これまでの「百科辞典」やマスコミ報道も同様でしょう。
 超が付くアナログ人間の私ですからウィキペディアの詳細や全体も見ていませんが、こと「地方病(日本住血吸虫症)」のウィキペディアは、凄い濃さで医学史関係者もしくは寄生虫学者の執筆かと思う性格さと小林照幸著「死の貝」をも凌ぐ見事な構成です。
この記事を書いているOさんは、当館にも何度か足を運んで取材や写真撮影をしてきましたが、今日もカメラ片手に「国の登録有形文化財になったので、写真を撮らせて下さい」と来館されました。撮影後の事務所での話しで「甲府で生まれ育ちましたが、私の世代は地方病については全く知らない世代なのか、何にも知らなかったので、知らないことを調べていくのが面白くって・・」あの記事になったそうです。
「あれだけ正確に全てを網羅したウィキペディアもそんなに無いと思いますし、評価も高いですよ」「そう云っていただけるとうれしいですね」と。「ところで、あれだけの記事を書いても全くのボランティアでしょう。生活の方はどうされているんですか」と立ち入ると「私は、旅行会社をしています」と名刺を頂戴しました。Oさん、小野渉氏は、(有)日観トラベルサービスのイッツモア山梨営業所の所長さんで、普段はカウンターで旅行手続きや相談業務にあたっている事を知りました。「他にも県内のことを調べて書いていますが、自分でも地方病の記事が一番かな・・」と控えめですが、巻末に明示してある引用した注釈と出典が、小野氏の地方病についての学習量とウィキペディアに書くことの姿勢を物語っています。

2012年9月20日木曜日

杉浦醫院四方山話―179 『カブトムシの幼虫100匹』

 当四方山話126話『坂下嘉和氏』でご紹介した坂下さんは、自宅の庭でありとあらゆる野菜や果樹、花をつくっていますが、落ち葉や樹木のチップでたい肥をつくり、土づくりにも励んでいます。そのたい肥の中に今年は、カブトムシの幼虫が大量発生したので、「昆虫にも環境の良い杉浦醫院にどうか」と幼虫約100匹を持参下さいました。
 庭園東側の樫の木3本には、今年もクワガタやカナブンが樹液を吸っていましたから、さっそく樫の木の根元を掘って放虫しました。
写真のように白く大きな幼虫は、みるみる土の中に潜って行きましたから、杉浦醫院の土や環境が気に入ったのでしょう。
 坂下さんの生き方やありよう(実存)は、その土産に集約されています。外で飲んで深夜に坂下邸にお邪魔した帰り際、スコップ片手に真っ暗な庭のあちこちに行って、「これは落花生」「こっちはニンニク」と根こそぎ掘っては、ゴミ袋に入れて「はい、お土産」とさりげなく渡されました。前にも「庭があるならモロヘイヤを植えておくといいよ」とたくさんのモロヘイヤをいただき植えましたが、案の定・・・です。
 今回の幼虫も庭の産物ですから、坂下さんのプレゼントは本当の意味の「土産」で、そこらの銘菓や銘酒を「つまらないものですが」と差し出すことしかできない自分を「本当につまらん人間だな~」と劣等感を抱きます。
地中活動に入った幼虫に枯れ葉を掛けて「6月のホタルの後、夏休みにカブトが出ると面白いね」と云って「これから7時間程運転して、七が浜で今週いっぱい復興作業だから」と愛車のピックアップトラックで東北に向かいました。「風の又三郎のようだな~」と見送りましたが、確かな実存が醸すオーラは爽やかです。

2012年9月15日土曜日

杉浦醫院四方山話―178 『落葉をまく庭―庭園清掃雑感1―』

 自分は全くしないのですが、散歩や山登りをする人の話で興味深かったのは、歩きながら昇り降りしながら「考え事をしながらが多い」という話でした。「考え事」は、傍からは分かりませんから自由に勝手な自分の世界で遊べる想像遊戯でもあり、それを聞いてから歩いている人を見ると「今、新たな恋愛についてどうしようか考えているんだな」「今の男からどうしたら自由になれるか考察中だな」と、こちらも勝手に「考える」ことが出来て、人生が少し面白くなりました。(大袈裟か?)             
 同じように私も能動的な訳ではありませんが「考え事」をしている自分に気付くことがあります。それは、毎朝の庭掃除の時、箒を動かしながら、雑草を抜きながら、水撒きをしながらふと思い出したり、急に詳細を調べたくなったり、会ってみたくなったり・・・様々な「思い」程度の「考え事」が彷彿します。
今週は、やはり秋なのか落葉が多くなってきて、落葉掃きに励みましたが、ふと「落葉をまく庭」を思い出し、「そうだ満遍無く掃く必要もないな」の結論に達しました。「落葉をまく庭」は、日本のプロレタリア小説の最高峰と私が勝手に評価している手塚英孝の小説です。「落葉をまく庭」は、皇居の落葉清掃に全国から動員された愛国婦人会(勤労奉仕団だったか)の方々が一枚残らずきれいに清掃し終わると宮内庁職員が出て来て、その中から綺麗な落葉を選ぶよう命じ、天皇の好みに合うように綺麗な葉っぱをもう一度「自然な感じ」に庭にまき直すという話です。まあ、天皇に限らず、ハラハラと好い感じに落葉が散在しているのも秋の庭の風情ですから、最初から「綺麗な落葉は残して掃いて下さい」が真っ当だと、比較的汚い葉っぱを掃く省エネ清掃に思い至った訳です。
 手塚英孝は山口県の代々続く医師の長男として生まれましたが作家となり、日本のプロレタリア文学の興隆活動に専念しました。特に小林多喜二研究に打ち込むとともに、宮本顕治・百合子夫妻に全面協力し、自分たちの運動の仲間や家族を蔭から支える活動を続けた寡作の作家でしたが、この『落葉をまく庭』で第5回多喜二・百合子賞を受賞しました。
山口県文化振興課のホームページ上に「ふるさとの文学者63人のプロフィール」があり、顔写真と生家を初めて知りました。「仲間や家族を蔭から支える活動を続けた」というプロフィールにふさわしい顔つきと杉浦医院と重なる生家に未読の「父の上京」を今晩読んでみたくなりました。要するに、散歩とか山登りとか清掃作業は、単純動作の繰り返しですから、私のような小さな脳でもそれに耐えきれず、自然にその人なりの「考え事」を脳が始めるのか?と・・・

2012年9月14日金曜日

杉浦醫院四方山話―177 『イワイ トホル ノートブック』

 純子さんからお預かりした数多くの段ボール箱を順次整理していますが、今回の段ボールは岩井徹氏関係の学会誌や研究資料、手紙等で、純子さんが「横浜を引き上げた時まとめたもの」だそうです。岩井氏は、当ブロク36話『純子さんの被爆追体験』の中でもご紹介しましたが、純子さんのご主人だった方で、東京大学医学部の産婦人科の医局に籍を置く研究者であり医師でした。戦争中の情報管理下で、放射能の危険性や放射線についての知識は医者や大学にも知らされず、二次被爆者を多数出しましたが、救援医師として広島に入った岩井氏も3年後に発病し、35歳の若さで他界されました。
 5年間だったと云う純子さんの結婚生活は、横浜の六角橋で始まり、岩井氏は本郷まで通っていたそうです。六角橋で借りた家の大家さん一家と純子さんは現在もお付き合いが継続されていて、先日子どもだったお嬢さんが純子さんを訪ねてみえて「純子おばさん、私も60過ぎたんですよと云われ、目が不自由になったりする訳だとつくづく思いました」と懐かしそうに話してくれました。
 段ボールの中に「ノートブック№1」と上段に、下段に岩井と記載されたノートが6冊ありました。№2から№6までは、「岩井」が「イワイトホル」で統一されています。
 「日本の産科医学をしょって立つ男だった」と評されていた方のノートを目の当たりにして驚きました。内容は分かりませんが、その約7割は英語で書かれ、几帳面な文字でびっしり医学専門用語や実験結果等が書き込まれています。方眼紙を必要な大きさに切りグラフにして貼ってあったり、割り算等の計算も全て自分で計算した跡が残り、エクセルだの電卓などない時代に「学問する」ことの緻密さと姿勢が充満していて、広島日赤病院での長期の献身的な救援医療に奔走したことを物語るに十分なイワイトホル氏のノートブック6冊です。

2012年9月12日水曜日

杉浦醫院四方山話―176 『義清神社と長田鉄男氏』

 西条二区の住民有志で組織されている「義清神社を守る会」は、清掃活動から研究、交流活動まで幅広い地道な活動を継続しています。義清神社の見学者や参拝者に、守る会で「パンフレット」を作成して配布しようと計画し、より正確な記載内容をと数か所について、教育委員会や当館に照会がありました。
 そこで、義清神社の神主は、代々山本家が世襲で努めてきたことを聞いていましたので、町指定文化財山本忠告の墓のある三井さん宅に確認に伺いました。
 三井さんは、東京武蔵野市の杉浦三郎先生名義の家を購入したと云う杉浦家の縁者でもあり、山本忠告や山本節など山本家の人々の資料の整理もしようと、最近、武蔵野市から昭和町に転入されました。山本家の資料がたくさん残る和室で、「守る会」からの質問事項を告げ、その関係書類や掛け軸等をお借りしましたが、「これ持ってる?」と三冊の手書き冊子も見せてくれました。「長田鉄男さんは、亡くなりましたが、よく母を訪ねてきては、義清神社や山本家のことを調べていたそうです」と教えてくれました。長田さんは公民館で開催した歴史関係の教室やフィールドワークにも参加していましたので、私も面識はありましたが、この冊子のある事は知りませんでした。
 写真左の「源義清公」は、昭和60年1月発行で、「盆地を守り住民を救うため、洪水による危険地帯である西条に館を移してまで洪水防止に尽くされた義清は、本当に偉大な人であった」とあとがきに記しているように義清と釜無川築堤工事にスポットを当てた内容です。
 写真右の「西条館と義清神社」は、翌年の12月発行ですから、昭和60年61年は、長田氏が義清研究に一番熱が入った時期だったのでしょう。この冊子は義清遺跡地の発掘調査に「義清公に強い関心をもつ私もこの嬉しい調査に襟を正して参加しました」とまえがきにあるように発掘調査の私的報告書と云った形で、長田氏の推論も入り、身近な義清神社を興味深く読みやすい内容で伝えています。
 写真中央の「義清神社」は、長田氏が郷土研究部の講師をしていた平成元年に広報しょうわ誌上で、6回シリーズで掲載されたものを一冊にまとめたものです。 
 地元西条二区の義清神社と義清公の研究に退職後の時間を注ぎ込んだ長田氏の情熱が伝わる手書き冊子は、三井家で大切に保存されていましたので、お借りして必要な方にはコピー頒布が可能になりました。問い合わせ、申し込みは当館(275-1400)までどうぞ。

2012年9月7日金曜日

杉浦醫院四方山話―175 『落款』

 書は、最後に書いた人の名前や画号を署名して、捺印するのが一般的で、この署名・捺印のことを「落款」と呼んでいますが、正式には「落成款識(らくせい-かんし)」という言葉を略したものだそうで、「落成」は 書画の完成を意味し、「款識」の「款」は陰刻(写真左)、「識」は陽刻(写真右)の銘を示しているそうです。
 書画が完成した時、筆者が「落款」するのは、自己が真実を尽くした書いた責任の証明だと云われていますが、落款印の朱が入ることで、作品を引き立たせる役割も大きいことから一般化したようです。中国でも日本でも、古くは落款を入れる習慣はなかったそうですが、江戸中期の良寛の書にも捺印や署名が見られるように江戸時代に活躍した能書家の作品には、だいたい落款が入っていますから、落款が定着した歴史は意外と浅く、日本では江戸時代からのようです。
 前話で紹介した杉浦家の秋の軸・新渡戸稲造の書にも新渡戸学園に残っている書にも一切、落款印は入っていません。最近では、所属する書道会派からの師範免許が授与されると画号まで「いただく」習慣まであるやに聞いていますが、新渡戸稲造は「稲造」と本名で署名しています。
 「日本の書道団体は、所属するそれぞれの書道教室に任せて、弟子集め、金集めのために段位や師範免状を乱発している」と云った批判はよく聞きますが、書道に限らず華道、茶道、舞踊、着付け、囲碁など習い事の世界はみな似たりよったりで、この世界は、ピラミッド構造の集金システムと客観性・統一性のある公正な認定制度がないことが共通しています。これは、「金で学位を売るような制度」と批判されても少子化で受験生や入学希望者が激減している大学で「社会人大学院」制度を発足させ、一般社会人も取り込んで何とか経営を維持していこうとした高等教育機関も同様で、厳しい経営事情もあるのでしょう。
 「一億総中流社会」と云われ、時間的、経済的に余裕が見えてきた日本で、一時期、国が音頭を取って、国民は生涯学ぶことで自己実現と充実した人生が送れると「生涯学習」が喧伝されました。二極化現象が指摘される昨今、「生涯学習」も影をひそめた感もしますが、「級」「段」や「師範」といった証書やお墨付きは、学歴同様紙切れになる時代にこそ、本当の実力が評価されることを新渡戸稲造の書は物語っているように思います。

2012年9月6日木曜日

杉浦醫院四方山話―174 『新渡戸稲造の書』

 残暑が厳しい今年の夏、純子さんから「涼しくしようと秋のお軸に掛け替えます」と声がかかりました。用意されていた秋の軸は初めて観るお軸なので「去年の9月のお軸とは違いますね」と聞くと「あら、そうでしたか。去年、何を出したのかすっかり忘れてしまいました。本当に頭もおかしくなってきていますね」と謙遜するので「数えきれないお軸ですから、覚えきれませんよ」
と云うと「ガラクタばっかり貯め込んでお恥ずかしいですが、昔アピオにお貨ししたモノが返ってくるそうで、そちらは少しはマシでしょうから、また見てください」と、アピオには棕呂竹(しゅろちく)と金屏風が行っていることは聞いていましたが、軸も貸していたことを知りました。
 今年の9月のお軸は、写真の「書」です。最後に「稲造」とありますから、新渡戸稲造の書で、純子さんは「これは、祖父健造が新渡戸先生に書いてもらったものだと聞いています。父もこの字が好きで、秋には毎年出していました」「確か、クリスチャンで東京女子大の初代学長でしたか?北大にもいましたね」と純子さんの正確な記憶はスラスラ蘇ります。
5000円札の人で話題になった新渡戸稲造は、武士道とキリスト教徒に共通点を見出し、名著「武士道」を英語で書いた教育者です。「武士道」は、日本の侍の生き様と考え方を世界に発信し多くの国の言語に翻訳され、特に欧米ではベストセラーになったそうです。 この「武士道」で世界各国に認識された「サムライ」「武士」の姿と日本人の魂や道徳観は、現在も「サムライジャパン」「サムライブルー」と云った日本チームの代名詞となって使われていますから、5000円札に肖像が残るのも分かります。
 クラーク博士の札幌農学校(北海道大学の前身)で学んだ影響で、教育者となった新渡戸は、書家ではありませんが多くの書作品を残しています。幼稚園から大学まである新渡戸文化学園資料室には、その作品が展示してありますが、札幌農学校から進んだ東大の研究レベルの低さに失望し、「太平洋の架け橋」になりたいとアメリカに私費留学したと云う新渡戸は、書も形式にとらわれず、ご覧のような英語の教育的な書も残しています。
Haste not, Rest not.
I.Nitobe
急ぐな、休むな。
または
焦るな、怠けるな。