2011年4月30日土曜日

杉浦醫院四方山話―42 『信州「風の人」の系譜展』

 ベストセラー「がんばらない」の著者鎌田實氏、映画化された「阿弥陀堂だより」の原作者南木佳士氏、「大往生の条件」の色平哲郎氏の三人は、作家であり現役の医者として共に信州在住、在勤です。なぜ、こういう発信力のある医者が信州に多いのか?これは、若月俊一医師による佐久総合病院の存在と地域医療への取り組みが、心ある青年を信州に向かわせたのだと、南木氏の「信州に上医ありー若月俊一と佐久病院ー」(岩波新書)に詳しいです。
 また、東大工学部を中退して世界放浪の旅に出た色平氏は、帰国後、京大医学部へ再入学し、佐久総合病院に入った異色の経歴もさることながら、地域医療の原点を長野で培われた「風」と「土」の風土論を座右に実践しています。≪農家は「土のひと」。村の医者は「風のひと」。山村の本当の暮らしを知らなければ患者に的確な処方はできない。草刈りなど共同作業に加わり、酒を酌み交わし、深夜でも往診した。やがて人々は診察室で自分史の断面を語るようになる≫と。
 この信州独特の「風土論」を昭和22年に著書「風土産業」で公にしたのが、三沢勝衛氏です。「人間が立ち働いている大地と大気の接触面、ここを風土と名付け、この風土を活かす適地適作・適地適業」を提唱したのが「風土産業」論です。戦後の公民館活動興隆期に三沢勝衛氏の風土産業論に立脚した玉井袈裟男氏の地域づくり論によって一層広がり、その活動に社会教育の原点を認めた東大の宮坂廣作氏と宮坂理論の継承者でもある学芸大の黒澤惟昭氏は、共に招聘された山梨学院生涯学習センター長職を早々と見切り、故郷信州に戻って、「風の人」を実践しています。
 隣県である信州信濃の国の際立った「風土」について、自覚した「風の人」の著書から系譜をたどり、概要と共に内容を知る機会となれば・・・という趣旨で、この展示会を計画しました。特に、現在では入手不可能な三沢勝衛氏の貴重な著作物も展示しますので、じっくり時間をとって、お読み頂けたらとおもいます。鎌田氏、南木氏、色平氏の著書は、全て町立図書館の蔵書を展示しますので、この系譜展終了後は、図書館で借りることもできます。会場は、旧医院建物裏に完成した「もみじ館」です。館内で資料を読むこともできます。5月7日(土)から5月いっぱい日曜日を除く午前10時から午後4時まで自由観覧ですので、お気軽にお越し下さい。

2011年4月22日金曜日

杉浦醫院四方山話―41 『玉井袈裟男氏の人生論』

 国語辞典の最後の言葉は、「ん・と・す=しようとする」です。日本語の面白いところでも難しいところでもありますが「〇〇しようとする→〇〇せんとす→〇〇せむとす」と活用しますが、最終『むとす』で『〇〇しようとする意志を表す言葉』です。この「むとす」が、玉井袈裟男先生のキーワードであり、人生論の象徴です。
壇上からの講義より、学習は同じ目線で・・の玉井先生
 「青空と緑の町」「小さくても豊かな町」が、昭和町のキャッチフレーズで、スローガンですが、玉井先生のフランチャイズ長野県飯田市のフレーズは、「ムトス・飯田」です。「やろうとする飯田」「やる気の飯田」と云ったところでしょうか。飯田市の公民館活動は、全国的に有名ですが、それぞれの地区公民館が、競って「むとす活動」をしていることから、市全体のキャッチフレーズも「ムトス飯田」となったそうです。この公民館活動の生みの親が玉井先生で、先生の生き方=人生論が、そのまま反映され共感を得て広がっています。永遠の真理でもあるゲーテ名言「人間は、生きている以上、活き活き生きよ」を実行するには、活き活き出来ない=障害をなくすことが必要になります。その障害を先生は、「暗い感情」と表現し、暗い感情を明るい感情に変えることが、「人生の課題」であり「生涯学習のテーマ」であると説き、その為の具体的な手立て、方法をみんなで学び考える学習活動を立ち挙げました。例えば、結婚できない農家の長男の暗い感情は「嫁が来ない現実」にあります。これを社会問題、農業問題としていくら議論しても「嫁の来ない現実」は変わらない。どうしたら彼に嫁が来るか?その為に本人は何をなすべきか?仲間はどうしたらいいのか?家族は?地域は?・・と具体的に考え合い「嫁が来た」までやるのが学習だというのです。「売れない柿が暗い感情だ」という地域には「柿酢」の開発から販売ルートまでを共に作り上げるなど、徹底した「問題解決学習」であり、「現代的課題学習」でした。玉井先生は、「大学で、単位の為の講義(教育)より、暗い感情を何とかしたいと参加する公民館での講義(学習)の方が、自分を活性化でき、活き活き出来るから・・」と淡々としていました。
 地域交流や休憩施設にと改修工事が終わった旧温室建物の「もみじ館」に「活き活き生きるために何をやるか、やるのは自分」という人生哲学を率先垂範した玉井袈裟男先生の著書や資料をご自由にご覧いただけるよう置きますので、「暗い感情」の有無にかかわらず、新緑の庭園散策を兼ねて、杉浦醫院にお越し下さい。

2011年4月20日水曜日

杉浦醫院四方山話―40 『玉井袈裟男氏の教育論・学習論』

「昭和町風土伝承館・杉浦醫院」は、昭和町の社会教育施設の一つとして、教育委員会生涯学習課が担当部署になっています。社会教育施設とは、公民館や図書館、資料館などの文化施設と温水プールや体育館、テニスコート等のスポーツ施設の総称で、住民の生涯学習には欠かせない公共施設です。「社会教育」とか「生涯学習」とか行政が使う用語は、どう違うのかも含め堅苦しく馴染めないと言った批判をよく耳にします。土の人に吹く「風」の玉井袈裟男先生は、土の人からのそういう批判も熟知して、分かりやすく的確に自分の言葉で話すことに徹底していた学者でした。そういう意味で「土」の学者でもありました。「教育」と「学習」についても次のように説明し、だから「学習」の方に価値があるのだと結論も出し惜しみしません。       

≪税金など払う気にならない人に、払わせるようにするのが教育。どうやってその税金の重さから逃れるかを学ぶのが学習≫と切り出し、≪教育とは、先生がいて、決められた予算と時間で、カリキュラムに従ってやるもの≫≪学習は、やるのは自分で、自分の金で、時間無制限でやるもの≫と具体的に、≪究極の成果は、教育は体制維持に働き、学習は体制批判に働く≫と見事なトドメを刺し、≪だから、国は教育には少し金を出し、たくさん口を出すのです。教育委員会は学校教育のことしか頭にありません。生涯学習は箱モノつくってやれば十分と・・・これが日本中の実態です≫と本当のことを静かに語るのが魅力でした。玉井先生は、地域に根を張り、ものを産み出す「土の人」に向かって、自らを「口だけのやらない風の人」と言いつつ、軽い風だからと率先してさまざまな学習グループをつくりました。定期的な学習活動を通して、その学習グループを地域づくりの実践部隊へとつなげていくある意味一番難しいモノをつくる「土」の人でした。信州各地にある「風土舎」というグループがその代表的な学習グループです。

下段左から2人目の玉井先生と学習グループ
 「東北学」とか「信州学」という地域学が誕生した背景には、必ず先人となる「風の人」がいます。信州の冬の厳寒と乾燥を逆手にとって「凍み豆腐」や「寒天」などの産業を起こした地理学者・三沢勝衛氏は、玉井先生が師と仰いでいた「風の人」でした。三沢氏の風土論を基に継承発展させた積み重ねが、「風」と「土」の学習活動の定着を産み、「地域学」を形成する一因にもなっているようです。「山梨学」や「甲州学」が成立しない背景の一つには、「学習より教育」といった県民性や風土もあるのかな・・・と

2011年4月16日土曜日

杉浦醫院四方山話―39 『玉井袈裟男氏の風土論』

 「風土」論では、和辻哲郎氏が著名ですが、「風土とは単なる自然環境ではなく、人間の精神構造の中に刻みこまれた自己了解の仕方に他ならない」と云った具合で、アカデミックな考察は楽しめますがやや肩がコリます。その点、より具体的かつ実践的「風土論」で、知る人ぞ知る大御所・玉井袈裟男氏の風土論こそ、「昭和町風土伝承館」がイメージする「風土」です。信州大名誉教授の玉井袈裟男先生は、平成9年に84歳で亡くなられましたが、「長」と名のつくものを嫌い、「野の人」の生き方を貫いた信念の知識人でした。
昭和町にも社会教育委員の研修会やカルチャーデザイン倶楽部の学習会の講師として、何回か来ていただきました。甲府駅に迎えに行って、昭和町に入ると「うーん、この町は私を必要としていないな」との即断も的確でした。玉井氏の町おこし論や生涯学習論の原点は、「暗い感情を明るい感情に変えること」です。「町が暗くない」ということは「人もソコソコ明るく生きているのでしょう」と云いながらも「明るい町に限って、姑とうまくいかないとか近所トラブルなど個々の暗い感情は根深いのも常です…」と不敵な笑いも。先生の風土論は、「人間には、風の人と土の人がいる。この両者がしっかりそれぞれの特性を発揮し合うことが良い風土をつくる基本だ」と明快です。風の人とは、甲州弁では「言いぽうけっ」の人でしょうか?教授とかの職業分野の人に代表されるいわゆる口達者よく言えば理論家の人たちや「理想を抱いた来たりモノ」たちです。土の人は、農民や職人に代表される黙々と実務をこなす人や「おいっつき」の人たちです。とかく、この両者は、お互いを「けなす」ことはあっても良さを認め一緒に力を出し合うことが無かったのが、実態だった・・・と。玉井先生は、自らを風の人と自己規定し(実際は土の人でもありましたが)、「風は土に向かってびゅんびゅん吹かなければ、土も鍛えられない」と全国至るところで、大風を起こして立ち去って行きました。土は風に吹き飛ばされずに風を呼び込んでより高い実務に取り組み、その上で、風の言うことに間違いがあれば「空理空論だ!」と風を追い返す力量を付けることが、風を鍛え、相互に明るい感情になれるのだ!と。近年、多用される「協働」の根本理念でもありますが「風の人と土の人の共同は、生き生きとした明るい地域を形成し、お互いが小馬鹿にし合っている地域は、デコレーションにいくら凝っても暗い地域でした」と看破しました。土に鍛えられた風である玉井先生の理論と実践は、信州飯田をはじめ長野県各地の村や町おこしの支柱となり、大分県での「一村一品運動」などユニークな取組みの源泉となって、分野を問わず全国に広がっています。

2011年4月13日水曜日

杉浦醫院四方山話―38 『風土伝承館 杉浦醫院』

旧杉浦邸が、町の施設になって2年目を迎えました。1年目の昨年度、整備活用検討委員10名の活発なご協議をいただき、病院建物と庭園等の敷地内の整備に引き続き、旧温室建物の改築と参観者用トイレの新築が完了しました。「昭和町風土伝承館・杉浦醫院」という名称もプレオープンに合わせ決定しましたが、決まるまでの経緯を報告し、その趣旨をご理解いただければと思います。
旧杉浦邸には、母屋や病院、土蔵、納屋、車庫、温室等の建物が現存しており、それぞれが歴史的な建造物であることから、これらの建物を最大限生かして整備を図り、活用しながら保存ししていくことを基本方針に個別の建物の具体的な活用法についても協議、決定していきました。その上で、この全体を総合する施設名称をどうするか?についての協議に進み、「杉浦医院」と共に「杉浦邸」「杉浦健造・三郎記念館」「地方病資料館」「杉浦記念館」等々が候補にあがりました。「杉浦邸では、内容が伝わらない」「健造・三郎の父子名を付けると長すぎて電話対応等に支障がある」「記念館では、根津記念館の二番煎じにも・・」等で、全体名称は「杉浦医院」とすることになりました。合わせて、開業中の病院、医院と区別する意味でも医院の医の字を旧字の「醫」にすることと「地方病資料館」を頭に付けることが決まりました。更に「情報化の時代、昭和町または中巨摩郡等の地名は発信上も必要」との指摘も受け、「昭和町地方病資料館 杉浦醫院」で大筋まとまり、最終判断を教育長・町長に一任することとしました。しかし、委員会終了翌日から「心配」「危惧」を申し出てくれる委員各位の熱心な検討が続きました。それは、「地方病と醫院」が重なることに対する心配でした。「土蔵や納屋の部分は、ギャラリー案が承認され、郷土資料館としての活用も図れるし、母屋部分も町の文化資料館となった時、全体名称としては…」とか「地域交流にも使うには、ちょっと重すぎる感じで…」という危惧で、「事務局でもうひと工夫出来ないか」という提案でもありました。地方病の専門家として委員をお願いしている梶原徳昭氏から「日本住血吸虫症は、山梨では地方病ですが、全国的には風土病が一般的です」という指摘があったのを思い出し、「地方病」を「風土」の一つとしてとらえ、風化させないための施設という意味合いならば、検討委員会の趣旨にも合致し、郷土資料、民俗資料、文化資料は、風土を伝承していく為には必要不可欠ですから、全てを包括出来ると「昭和町風土伝承館 杉浦醫院」案を加えて、教育長に提出した結果、委員各位の総意で熟慮した末の名称が採用されました。これをデザイナー甘利弘樹氏が、ロゴマークと共に図案化し、サイン等に使用しています。


2011年4月8日金曜日

杉浦醫院四方山話―37 『4月の杉浦家「お軸」』

今年度、月初めの「四方山話」は、以前この四方山話でも触れた純子さんが、毎月々に交換している床の間の「お軸」について紹介していこうと思います。杉浦家の4月の軸は、伝称筆者・覚家の書による紀貫之・在原行平・源宗干の「春」を詠んだ古筆です。「八百竹さんは、こういう細い軸をよく持って来ました」と云うとおり、細身の高貴な掛け軸です。

茶室の内部

「古筆」とは、平安時代から鎌倉時代にかけて書かれた「かな書」の名筆です。室町時代、茶道千家流の始祖“茶聖”千利休が、茶室における掛軸の重要性を説いてから、茶を愛する人達の間で掛軸が爆発的に流行し、来客者、季節、昼夜を考慮して、掛軸を取り替える習慣が生まれました。それに伴い古筆は茶人達に珍重されるようになり、本来、冊子や巻物という完全な形で大切に保存、鑑賞されていた古筆が、一部の歌を切断して、茶席の床を飾る掛け軸として用いられるようになりました。この切断された断簡は「」と呼ばれ、古筆切(こひつぎれ)歌切(うたぎれ)という名詞となり、筆者が誰であるのかや古筆の真贋を鑑定する古筆見(こひつみ)という古筆鑑定の専門職業も誕生しました。古筆見は、書かれた時代と書いた人を特定して鑑定書を付けましたが、この鑑定書を極(きわめ)といい、極の付いたものを極付(きわめつき)といって特別に重んじました。書いたものに署名をするという習慣がない時代でしたので、古筆の実際の筆者はわかっていませんが、極付けの古筆はすぐれたものばかりで、古筆見の鑑定もほぼ合っているそうです。この古筆見が、極付で特定した筆者を伝称筆者(でんしょうひっしゃ)と言いますから、杉浦家の4月掛け軸は、伝承筆者・覚家による古筆切の極付の作品ということになります。純子さんは、母屋の座敷でお茶会を定期的に開いていましたので、それぞれの季節に合わせた風炉や風炉先屏風と共に掛け軸や花器等も取り換える必要から、茶道具と共に掛け軸や花器から着物、帯・・といろいろ持ち込まれたようです。茶道に付随して、茶室が生まれ、茶室に掛け軸は定番となり、現在も和室には床の間を設ける様式が引き継がれています。日本の定着した文化や様式に茶道が深くかかわっていることが分かりますが、“茶聖”千利休は死ぬ2年前に「十年過ぎずして、茶の本道すたるべし。ことごとく俗世の遊事になりて、あさましきなりはて、今見るがごとし。茶室の二畳敷もやがて二十畳敷の茶堂になるべし」と嘆いていた事実をしっかり肝に銘じることが、大震災後を生きていく私たちには必要でしょう。尚、4・5・6月の「お軸」は、7月に「夏の特別展」で公開予定です。