2015年12月28日月曜日

杉浦醫院四方山話―462 『結び教室』

 開館以来、当館を会場に伝統文化について学ぶ教室を順次開催してきましたが、今年最後の教室は、「結び教室」でした。

 

 王朝貴族達の硯箱や鏡などの調度品は、美しい房と花結びで彩られていましたから「結び」は、日本古来の宝飾品として、さまざまな結びを編み出し、所有者の表示や目印として使われてきた伝統文化です。

 

 家族から部族、集落、むら、国等が形成される過程で、長や王が誕生し、その墓である古墳等の埋葬品からは、多くの宝飾品が出土していることは、洋の東西を問いません。これは、宝飾品の起源は人を「守る」という自然との共存生活の中から誕生したことを物語っています。

 

 古くから「聖なるものは美しいものに近づく」とされ、狩猟に赴く男性もお守りとして身に付ける中で、一層強く守る力として宝飾品は美しさを競い、現代では、女性をより美しく輝かせるものとして定着しているのが宝飾品なのでしょう。

 

 また、信長、秀吉に代表される武士の権力者たちは、茶室に招いて政治をしましたから、茶人は、権力者たちの意向に応じて暗殺者にもなり、利休も信長・秀吉 といった武将に取り入り、絶大な権力を保持したことも知られていますが、お茶の道具を入れる袋・「仕服」も毒物の混入を防ぐために生まれました。

これは、自分だけが知る秘密の「封じ結び」を編み出し、「結び」が鍵の役割をして、自分の身を守ったことから発展し、茶道の装飾品としての「仕服」に引き継がれているそうです。


 今回は、「結び」で、正月飾りを創りました。「門松」や「しめ縄」から「鏡餅」まで、日本の伝統的な正月飾りは多彩ですが、神を招き入れ良い一年になりますようにと云う願いは共通で、家内安全云う「身を守る」起源ですから、正月飾りも宝飾品に分類されるように思います。

あまりポピュラーではない結びの正月飾りは、逆に神様の好奇心にも触れ、月並みな飾りよりご利益はあるかも知れませんが、参加者はそんな俗な事には無関係に2時間超、好みの二色の「結び」に集中して取り組みました。

 

詳細は、今週の甲府CATV「街かどトピックス」の中で繰り返し放映されますので、ご覧ください。縁起物でもある「結び飾り教室」についてご紹介し、当ブログも本年の「結び」と致します。

2015年12月24日木曜日

杉浦醫院四方山話―461 『アジアの獣医学生』

 麻布獣医大学と科学技術振興機構が毎年行っている研究交流事業「さくらサイエンスプラン」は、アジア各国の獣医師と獣医学生が、麻布大学を拠点に研修を積む事業ですが、見学研修会も組み込まれていて、昨年に続き今年も杉浦醫院が見学場所に選定されました。

 日本では終息した日本住血吸虫症ですが、中国からフィリッピンまでアジア各国では、未だ蔓延していて、人間から哺乳動物まで罹患していますから、日本住血吸虫症を克服した日本の取り組みについての研修は、参加者には大きな興味とテーマだと教授から説明がありました。



 そうは云っても、大学でみっちり講義を受けての見学会ですから、この機会に日本の家屋や民具・農具を観ていただくのも意味あるように思い、提案しましたら「いいですね。日本文化と日本住血吸虫症の二つで」と教授は予定時間も気にせず「両方お願いします」となり、先ずは母屋、納屋、土蔵等の「日本文化」の案内からスタートしました。

 

矢張り、明治25年建築の母屋は見応えがあるようでした。

 

専門が獣医ですから、マルヤマ器械店から寄贈された一昔前の日本の医療器具は、母国ではまだ使われているそうです。マルヤマ器械店が閉店する際、「ベトナムの国立病院に一括して寄贈した」と話してくれた丸山太一氏を思い出しました。

2階座学スペースに移ってからは、「日本住血吸虫」終息と動物の係りについて、「罹患した動物はどうなったのか?」「人間と同じスチブナールを投与して治療した」「治らなかった動物は?」「残念ですが処分されたようです」と云った具合に質疑応答による研修会をしました。

予定時間をはるかに超えても質問が次々で、真剣に学ぶ意欲が熱になり寒さも吹き飛びました。

 

 今回の見学会で、 一番予想外だったのは、井戸端の柿の木に多くの留学生が興味深々で、写真を撮りに集まったことでした。中国以外の南アジアの方々でしたが、カキがいい色に実っていたタイミングも良かったのでしょう。

 

 中国か日本が原産と言われている柿は、二日酔いにも効くと云うので好物ですが、日本で多くの品種が生まれ、ヨーロッパやアメリカには日本から伝わり、学名も「Diospyros kaki(ディオスピーロス カキ)」と、「Kaki」がそのまま使われていますから日本を代表する果物であることは確かですが、初めて柿を見た留学生には思いがけない収穫だったのでしょう。

 
 

 「どんな味なのか?」食べてみたくなるのは万国共通でしょう、皮をむいて切ってあげるとうれしそうに食べながら感想を言い合っていましたから、今日の見学会の一番の思い出であり成果は初体験の「柿」だったかもしれません。

2015年12月16日水曜日

杉浦醫院四方山話―460 『水の上にできた町の出土品』


 現在、中央公民館で「昭和町歴史講座」が進行中ですが、前回の教室「かすみ堤」の中で、講師から河西地区のかすみ堤での発掘調査で出土した「うし」は、現在、杉浦醫院に展示してある旨紹介されました。



うしは牛ですから「川に牛?」と疑問符が付きますが、「うし」は川の流れから、堤防を守るために丸太の杭を三角錐や方錐状に組んで作られた水除(みずよけ)です。

コンクリート製の聖牛
笛吹市川中島の笛吹川河川敷に設置されている「聖牛」

現在でも、笛吹川の石和流域で、コンクリート製の「うし」が連続して建っているのを見ることができますが、信玄堤からの「かすみ堤」の「うし」は、「聖牛(せいぎゅう)」と呼ばれ、武田信玄が考え出したものとされ、写真のように1本の長い杭を斜めに支えるような独特な形に組み上げてあります。

まあ、山梨では信玄堤に始まって信玄餅まで、さかのぼると全て武田信玄に結びつく感もしますから「聖牛」も信玄が編み出したのかどうか?どなたかその根拠をお知りの方はご教示ください。

 

当館の土蔵横にある旧自動車車庫の建物は、「水の町・昭和」を観ていただく展示会場です。

文化財出土品と云えば「縄文土器」とか「弥生式土器」が一般的ですが、『水の上にできた町・昭和町』ならではの出土品が「うし」ですから、ご覧のように展示してあります。

 
 

 町内4校の校章には、全てかつて国の天然記念物に指定されていた「ホタル」が描かれているのも「水の上の町」の特徴でしょう。

そのパネルの下と横に展示してあるのが「うし」の杭と解説です。「何だ、ただの丸太棒じゃねーの」と云った声が聞こえて来そうですが、その通り丸太ですが、水に浸かっていた部分は腐食したりしている古丸太です。

 

この丸太が、何時頃のモノか?考古学の専門機関で精密検査を受ければ確定できるようですが、経費もかかることから、ソコまで特定はしてないのが実態ですが、かすみ堤の発掘調査により、土の中から出てきた遺物ですから、水の町・昭和の貴重な文化財です。

 

また、豊富な井戸水も昭和の誇りですが、「釣瓶(つるべ)」など井戸に必要な様々な付属品も現代では、文化財です。

 それは、「秋の日は急速に日が暮れる」ことを形容して「秋の日は釣瓶落とし」と云った諺にもなっていますが、「釣瓶」がどんなモノか分からなければ、諺も理解できないのが現代でしょう。

「釣瓶」は、元々は井戸水をくみ上げる綱や棒の先に付いていた「桶(おけ)」の事でしたから、井戸の中におろす釣瓶は、井戸を滑り落ちるようにあっという間ですから、秋の日は井戸の釣瓶のように一気暮れるという意味合いでしょう。

 
 

しかし、釣瓶は落とすのは簡単ですが、水が入った釣瓶を引き上げるのは大変でしたから、井戸の上に滑車を取り付け、綱には2個の釣瓶が付き、引き上げる動作から引き下げて水が汲めるようになり、「釣瓶」と云えば「滑車」の部分を思い浮かべる人も多くなりました。

そんな訳で、杉浦家の井戸で使っていた「滑車」も展示してありますが、この「滑車」も時代や金額でいろいろな種類があったようですが、手押しポンプからモーターへと井戸水がより便利に汲み上げられるようになって、多くの釣瓶や滑車が廃棄されてしまいました。

「未だ倉庫にある」と云う方は、手押しポンプも含めて当館にご寄贈いただけると「文化財」として後世に残りますので、ご協力ください。


2015年12月14日月曜日

杉浦醫院四方山話―459 『水の上にできたまち【昭和町】』

 郷土学習教材「ふるさと山梨」は、 山梨県教育委員会義務教育課が刊行していますが、児童生徒の郷土研究を奨励し、毎年「ふるさと山梨郷土学習コンクール」も開催しています。

 当館にも取材に来て表題の「水の上にできたまち【昭和町】」にまとめた西条小学校3年の尾上遥さんが、「第8回ふるさと山梨郷土学習コンクール」小学校の部で優秀賞に輝きました。



 受賞した研究発表文を当館にも持参くださいましたが、「昭和町誌」や「昭和町の民話」から昭和47年と平成26年の「住宅地図」などの文献資料と町内在住の何人もの方々に取材して、まとめてあり「優秀賞」にふさわしい内容と構成に、小学3年生当時の我が身を「雲泥の差」という言葉と共に思い起こしてしまいました。


 

 当、「杉浦醫院」は日本住血吸虫症の原因究明と治療法確立に貢献して、多くの患者を救ってきた杉浦健造・三郎父子を昭和町の郷土の偉人として顕彰していく資料館ですが、合わせて町の「郷土資料館」として機能させていこうと「昭和町風土伝承館」と云う接頭語が付いています。



 今回の尾上さんの郷土研究「水の上にできたまち【昭和町】」は、ズバリ当館のコンセプトです。

「釜無川の氾濫の歴史」「信玄堤からのかすみ堤」「ミヤイリガイが好んだ湿地帯【よしま】」「天然記念物の源氏ホタル」「ぶっこみ井戸」「甲府市民の水道源・昭和浄水場」「地方病」等々、昭和町の歴史や風土形成は「水の町・昭和」に集約されます。これを調べて、もっとファンタスティックに「水の上に出来た町・昭和町」と表現した尾上さんの感受性には脱帽です。


 当館のある西条新田地区の「人口の変化」も200年前・30年前・現在の三段階で調べ、それぞれ129人・548人・1443人と飛躍的に増えたことと新旧の住宅地図で「土地利用の変化」も調べ、「昔はカイコを飼っていたから、桑畑()が多かったけど、今の地図には1つもない」と指摘して、下記の桑畑地図記号を( )内に正確に表示してあります。

このように学習していく中で尾上さんは、田んぼや畑の地図記号と共に新たな記号の解読も必要になり、この記号は桑畑であることを新たな知識として獲得したのでしょう。小学3年生にして「知のヨロビ」を体験することで、研究内容もより正確で、より深くなって行ったのでしょう。

国土地理院は一般の畑と区別して桑畑は桑の木を横から見た形を記号表示しています。

 最後の「まとめとかんそう」では、

「今の昭和町は、昔の釜無川の氾濫で、大きな木が少ないそうです。昭和町は地下に水が豊富な「水の上の町」なので、木を植えれば木も育ちやすくて、緑豊かな町になるから、そうしたらいいと思いました。」と、議員顔負けの提言もより具体的です。

2階座学スペースのテーブル机上に展示してありますので、手に取って詳細をご覧ください。

2015年12月11日金曜日

杉浦醫院四方山話―458 『盲学校の小学生』

 過日、県立盲学校小学部の4年生が担任の先生と来館されました。事前にN先生が数回打ち合わせに見えましたが、「バリアフリー」と云った言葉も概念も無かった昭和4年の建築ですから、玄関の段差をはじめ館内はある意味二人には「危険がいっぱい」で、さっそくR君からも「バリアフリーじゃないですね」と指摘されてしまいました。

 
 

 N先生から「県立博物館や美術館などは、展示品がガラスケースに納まっていて、この子たちには向かないんです。その点ここは、触ったり使ったりが出来るので・・・」と当館を見学場所に設定した理由は聞いていましたので、出来るだけ時間をとって心行くまで体感してもらう様案内しました。

 

 

 2枚目の写真のようにR君は、「この高さなら踏み台なしで僕は上がれるよ」とベッドにも自力で上がりましたから、「地方病の患者さんはここに寝て、三郎先生が静脈注射を打って、お腹の門脈に住んでいた虫を退治してもらいました」と、具体的に話すことも出来ました。

 
 

 農具や石碑からピアノまで杉浦醫院内にある全てを2時間かけて体感しましたが、DVDも観賞して「健造先生と三郎先生の声を聴きたかった」と開口一番の感想に映像を音声で想像する二人には、健造先生と三郎先生の声が頼りだったことを教えられました。

一つ一つ自分の手や体で確認して、見学した物の形や名前を覚えていく好奇心と意欲に案内し甲斐がありました