2017年5月31日水曜日

杉浦醫院四方山話―507『山梨の同人誌「中央線」雑感』

 木喰上人と微笑仏の自称「在野研究者」であった故・丸山太一氏の蔵書が当館に寄贈され、その中には山梨の同人雑誌「中央線」のバックナンバーもあることは499話で紹介しました。

そんなことから、現編集長の蔦木雅清氏が来館くださったり、この度は同人のIさんが、バックナンバーで欠けていた十数冊の中央線を持参下さいました。この場で恐縮ですが御礼申し上げます。


 山梨県には「中央線」と云う文芸誌が、古くから有ることは知っていましたが、どのような方々のどんな内容の雑誌なのかは丸山さんからご寄贈いただくまで知りませんでした。

雑誌の巻末には、同人や誌友になっているメンバーの氏名・住所・電話番号が名簿として付いていますから、じっくり確かめてみました。


 毎号作品を寄せている方と名簿に名前はあるけど作品には、お目にかかれない方に大きく二分される感じで、こういう方々が定期読者として発刊を支えているのだろうと推測しました。

 

 同人・誌友名簿約70名の中に高校時代の同級生1名、同級生の父親2名、社会教育に携わった中での知り合い4名、山日新聞文芸欄や単行本等の作品を通して名前を知っている方4名の計11名の方々を認識することが出来、あらためて山梨県という風土ーたとえば人間関係の密度ーなどについて考えさせられました。


 さっそく、同級生K君の作品が掲載されている号を探し拝読しました。「恥ずかしの青春期」と題した小品でしたが、一気に読ませる楽しい内容で、時代と場所の違いこそあれ北杜夫の「ドクトルまんぼう青春記」を彷彿させる池袋要町の木賃下宿屋での学生生活と階下に住む大家さん家族との現在に至る交友記で、「文は人なり」を表象しているK君ならではの作品でした。

 

 直ぐ名簿にある電話番号に電話して、K君と「中央線」の由来を尋ねました。「韮崎高校の校長になって、韮崎市の山寺仁太郎さんが大学の先輩だから挨拶に行ったら、山寺さんが編集長と発行人になっているということで誘われたのが始まりでね」と教えてくれました。大村智氏も山寺氏と旧知であったことから、大村哲史のペンネームで「中央線」に寄稿して、山寺氏亡き後の中央線の代表も引き受けられているそうですから、山寺仁太郎と云う個に連なる方々も多いのでしょう。これを一般的には人脈などとも形容しますが、この手の同人誌は人脈を生かして云々とは別世界ですから、山寺氏の個人的魅力が成せる同人と云う一面がうかがえます。同時に同人誌は離合集散が常ですから、中央線の継続発行の歴史には、山寺氏のようなキーパーソンとなる個人の存在が多きかったことを物語っています。

2017年5月24日水曜日

杉浦醫院四方山話―506『地方病認知度調査』

 昨年、一般社団法人「比較統合医療学会」が、山梨県民を対象に行った日本住血吸虫症についての認知度調査の結果が、過日の山日新聞で報じられました。


 この調査によりますと南アルプス市の中学生で、地方病と呼ばれた日本住血吸虫症について「知っている」と回答した中学生は、何と1パーセントだったそうです。


 その報を受けて、山日新聞の論説委員が一面下段のコラム「風林火山」で、この実態についての感想を記していました。

2年生の地域探検に続き、今日は西条小学校の4年生が「総合の学習」で地方病を学習に来館しました。


 この一連の報道に接し、あらためて「山梨県の郷土史」についての問題を提起せざるをえません。

 

 明治14年から平成8年まで、1世紀以上に及んだ地方病との闘いの歴史は、山梨県の近現代史で最大かつ貴重な歴史物語を内包しているにもかかわらず、山梨県内の社会教育や生涯学習機関では、郷土史と云えば相変わらず「武田信玄」関係が八割以上を占めているのが実態です。

昨年、県外の放送局が「何だこれ!ミステリー」と、地方病と終息に至る過程をミステリーな病と歴史として全国放映しました。この番組を観て、来館された方の多くは県外からの方々でしたから、奇病とされていた時代「死に至る病」だった歴史が、「地方病は山梨の恥部」と云った固定観念となり県民にも定着しているのが原因なのでしょうか?


 物事や歴史には必ず二面性があるのは常識ですが、「死に至る病」と云う側面だけでなく、行政のみならず住民も一体になって「協働」で終息させた山梨の地方病終息史にもっともっと光をあてるべき時代ではないでしょうか?

どこの自治体でも「協働のまちづくり」をキャッチ・フレーズに掲げているのが現代です。行政が音頭を取らなくても住民が区長を代表に「御指揮願い」を県令に訴えて始まった地方病対策は、終始「協働」の「まちづくり」の歴史でもあります。その側面から、それぞれの市町村の取り組みを掘り起こし、現代に繋げていくのが真っ当な郷土史の学習ではないでしょうか?


 山梨近代人物館では、地方病の先駆者として当館の杉浦健造氏が唯一取り上げられています。県内初の人体解剖を申し出て、新たな虫卵の発見に結びついた明治時代の杉山なか女や虫体を発見した三神三朗氏。治療と予防に生涯をささげた杉浦三郎氏から林正高氏まで日本の医学史上も欠かせない多くの先駆者がこの病と格闘してきました。

また、県内保健所の検便師から薬袋氏始めとする県衛生公害研究所の方々の奮闘など決して杉浦健造氏ひとりが武田信玄よろしく引っ張った歴史でないことに地方病の歴史伝承の価値もあるように思います。


 「もはや、地方病は終わった」として、昭和40年代後半には、山梨の学校教育からも地方病は消えました。現在の父親・母親の世代も学校では地方病を学んでいませんから、上記の認知度も「さもありなん」と云う数字です。新聞記事には、当館の存在が昭和町の中学生の認知度には反映されている旨の指摘もありましたが、県内の資料館としては、最後発の当館が地方病伝承を掲げた唯一の資料館です。「その存在意義を発揮して、山梨の地方病の歴史を地道に伝承していこう」と励みにもなった認知度調査の結果でもありました。

2017年5月18日木曜日

杉浦醫院四方山話―505『衛生車 TROY - スミ331』-3

 「衛生車」と云う名称は、タンクを備えたバキュームカーを連想するのが一般的ですが、GHQが接収して改造した客車を「衛生車 TROY - スミ331」と「研究車」ではなく敢えて「衛生車」と命名したのには何か理由があったのでしょうか?

 広島の被爆調査目的に造られた衛生車であったことは、前話で触れましたが、何故?甲府駅に常駐して地方病についての調査研究に向けられたのかもミステリーです。

  その辺を調べていくと「406総合医学研究所」の光だけでなく影について、あるいはGHQを実質支配した米軍と占領下の日本に行きつきます。

 

 記録によると1947年5月21日に米軍の命令で、東大の伝染病研究所の半分を厚生省に移管して、厚生省所管国立「予防衛生研究所」=「予研」が設置されました。その予研には、戦争中731細菌戦部隊に協力した日本人医学者が、戦犯の免責と引き換えに多数集められ、米軍の406部隊の下請け研究機関としての役割を担い、米軍が大規模な細菌戦を展開した1950年からの朝鮮戦争や1960年からのベトナム戦争へと繋がりました。特にベトナム戦争では、猛毒ダイオキシンを含む枯れ葉剤の大量散布など近代化学兵器が使われ、その被害は二世や三世にまで数百万人にのぼると云われています。

 

 このように米軍の406部隊は、日本の旧731部隊同様アメリカの細菌戦部隊で、アジアでの生物戦争部隊として細菌学から寄生虫学、病理学、血清学、化学などの専門部門に米軍将校の教授9人、助教授2人、技術研究者25人に加え、上記の予研に集められた日本人研究者100人以上で構成されていたそうです。

 

 この米軍の細菌戦部隊406部隊が「406総合医学研究所」になりましたから、日本に設立させた予研を監督し、生物・化学戦の為の研究が主眼であったことからすると寄生虫学の研究班が広島の被爆調査目的に造られた車両「スミ331」を使って、日本住血吸虫症の研究に甲府に来たのも必然だったことが分かります。

 

 後に、アメリカの科学史専門家も、当時の予研は「熱心な占領軍機関で植民地科学の典型だった」と評しましたが、このような米軍との人的協力関係は、公的には1980年代まで続き、今もってその影響下にあると指摘されることもあります。

 

 406総合医学研究所は、甲府駅構内の研究施設でミヤイリガイ殺貝剤の開発研究や患者の検便なども行い、住民からは「寄生虫列車」と呼ばれ、山梨県民にも親しまれたと云う光の部分は、映画「人類の名のもとに」でも明るく紹介されています。この日米共同研究はその後9年間続き、主に殺貝に使用するための薬品テストを行ったと云われています。米軍が持ち込んださまざまな薬品の中から有機塩素化合物のサントブライトに有効な殺貝効果があったことから、同一成分で日本国内で精製することが可能な、殺傷効果の高い殺貝剤、ペンタクロロフェノールナトリウム(略称Na-PCP)の開発に成功し、山梨県内のミヤイリガイ殺貝に威力を発揮しました。

 

 しかし、406総合医学研究所と山梨県が共同制作した幻の映画「人類の名のもとに」を当館と科学映像館が協働して発掘し、科学映像館のサイトで放映されると現代の科学者から「河川や湖沼、地下水といった環境水の化学物質による汚染は、現代では、世界的な大問題ですから、ペンタクロロフェノールを使った甲府盆地の映像は、今ではとても考えられないことです。殺貝作業に従事した住民には、この薬の中毒で苦しんだ人がいたかも知れませんね」と、ご教示をいただきました。

 

 朝鮮戦争での細菌兵器やベトナム戦争での枯れ葉剤が、この延長線上でないこと願うばかりですが、「日本の黒い霧」の松本清張亡き後ですから、「地方病終息」の名のもとに有病地帯での新化学兵器開発やその人体への影響実験であったのか否かは、深い深い霧の中としか言えません。

2017年5月11日木曜日

杉浦醫院四方山話―504『衛生車 TROY - スミ331』-2

  GHQ専用車両は、国鉄の優良車両を接収した当時の日本では最新鋭の客車だったことは、前話のとおりですが、GHQはその客車を目的に応じて改造を命じたそうです。

「衛生車 TROY - スミ331」は、医療検査と研究が目的でしたから、長野工機部が1946年(昭和21年)に車種スハ32642を改造して製作したものです。

 下の写真のように客車であった車種スハ32642の座席はすべて撤去され、両サイドの窓際に並行して机や消毒器、その上には収納棚などが設置され、客車の面影はありません。

「放射能影響研究所所蔵写真」から
 

 甲府駅に置かれた「寄生虫列車」と呼ばれたGHQ専用車両は、「寝台車」「食堂車」「研究車」の3両編成だったと聞いておりましたが、正確には4両編成だった可能性もあることが分かりました。


 早坂元興氏が「鉄道ジャーナル」に2回に分けて連載した記事によると≪スミ331は付随車とペアを組んで運用されていた≫そうです。

ペアの付随車には、発電機や空気圧縮機、ボイラーなどが設置されていて、屋根には水タンク2基があり、スミ331の研究車両に電気や水を供給していました。更に、ジープ一台も積載されていたそうですから現地視察用のジープの運搬車も兼ねていたのでしょう。

 

 1945年8月15日の敗戦のわずか12日後には、GHQ406医薬補給部の軍医が杉浦醫院にジープで乗り付け、三郎先生に日本住血吸虫症の治療方法の伝授を依頼に来ていますが、この付随車が完成したのは1946年8月31日だそうですから、GHQ406医薬補給部のあった神奈川県相模原市からジープを運転しての来訪だったことも分かります。その後もジープに乗ったアメリカ人が杉浦醫院によく来ていたそうですから、甲府駅の付随車に積載されていたジープが機動力を発揮していたのでしょう。


 この付随車両は、「ホミ801」と呼ばれ、改造前の車種は「ワキ700」と云う海軍専用車両だったことから、もともと窓のない車両を生かして改造されたようです。車両の長さも他の車両より短く窓もなかったことから、スミ331と一体で合わせて一両とカウントされていたのかもしれません。

また、スミ331とホミ801のペア車両改造製作の目的は、地方病の研究にではなく、米軍が広島に投下した原子爆弾の被爆調査だったというのが真相のようですが、どのような経緯で甲府駅に常駐して、地方病の調査・研究に使われたのか?その辺の詳細を伝える資料には未だ行きつきません。