2011年9月29日木曜日

杉浦醫院四方山話―81 『槐(えんじゅ)ベンチ』

  台風15号で倒れた「えんじゅ」の木が、昨日、ベンチ三台になって新たな役割を担うことになりました。鈴木造園の親方の指示のもと若いタンちゃんとアンちゃんが、終日二台のチェンソーをフル回転して加工し、設置されました。
*根本から切断された約10mの幹の部分から3台のベンチを作る計画で、根本に近い太い方からベンチ部分3本を取り、細くなる上の部分から台座になる6本を切り分けました。
太さに合わせてベンチ部分または台座部分にホゾを切って、設置後の安定化も図られています。

*旧病院建物横に設置したベンチは長さ2,2mで、5,6人掛けです。来館者が病院と母屋、清韻先生寿碑をバックに記念写真撮影用にも使えることを想定しました。直ぐ後ろに立つと12,3人前後が、丘状に起伏がある3列目に立つと20人前後の集合写真がこのベンチで撮影できます。高さも48センチと座りやすいベンチです。

*東の正覚寺側板塀に沿って設置されたベンチは、長さ1,8mで、ご覧ように大人3,4人が掛けられます。このベンチからは、東西に長い庭園の全体が楽しめます。午前中は木蔭で涼しく、午後は西陽があたりますから「日向ぼっこベンチ」です。写真にはなかなか応じてくれない純子さんですが、「えんじゅ」の再スタートを祝しての貴重な2枚です。
 *このベンチの真下にえんじゅ切り株がありましたので、根本に一番近い部分で作ったベンチは、えんじゅの木がそびえていた定位置に納めました。病院から母屋までを正面から見渡せます。芯の部分がえんじ色のえんじゅの特徴も写真でもお分かりかと思いますが、実物でお確かめ下さい。

2011年9月28日水曜日

杉浦醫院四方山話―80 『槐(えんじゅ)』

 台風15号の風で倒された杉浦醫院庭園の「大木」については、当H・Pの「ニュース&お知らせ」コーナーで報告したとおりですが、翌朝、純子さんから、淡々と、かつ含蓄のある言葉をかけられました。「昨日はご苦労様でした。私も夜しみじみ思いましたが、たくさんの方々の手で、多くの人に見守られ、最後には町長さんにまで見届けていただいた訳ですから、あの木の最後は本当に幸せでした。これまでも沢山の木を切りましたが、こんな幸せな最後を迎えた木は初めてです。」と。「池の横にあった大きな欅を切ったのは、もう30年位前になりますが、名古屋の材木屋さんが来て200万円で買っていきました。お金になったのはそれが最後で、その後は、いくら大きな欅でも伐採費用を払うようになりました」「欅は、冬の裸木も見事で、春の芽吹きは目映いばかりにきれいで大好きでした。周りが田畑だったころは、落ち葉の苦情もなく季節ごと表情を変える欅を楽しめました」と杉浦家の大木伐採の歴史も話していただきました。

 暗い中での伐採作業で、高さが同じくらいの樫の木が、東側に何本かあったことから、消防や建設関係者も一様に「樫の木」という共通認識で作業を進めました。「樫は堅いから大変だ・・」と。朝、葉っぱや幹が、樫の木と明らかに違うことに気付き、純子さんに「石碑の横にあったあの木は、樫ではないようですが」と聞くと「あの辺には、えんじゅとかエンジとか言っていた木がありましたから、樫でなければ、えんじゅだと思います」とのこと。えんじゅについて調べていると、杉浦医院を建設した橋戸棟梁が見え、「あの木は栴檀(せんだん)だよ」と教えてくれました。材木を扱う棟梁が云うんだから間違いないか?と思いましたが、純子さんに聞いてみると「栴檀は、以前裏の柿の木の横に1本ありましたが、大きくなると言うので切りました。表にはなかったと思います」「樹齢が6~70年の木ですから、純子さんが知らない訳ありませんよね」で、栴檀説もあやしくなると造園科卒のI君は「葉や幹からすると小楢ならではないか?」と・・結局、土曜日にこの庭の剪定等に入っている鈴木緑化土木の親方が来て、開口一番「えんじゅが倒れたのか。建築材料にもなるいい木だよ」で、純子さんの記憶通り「えんじゅ」でした。
 えんじゅは漢字で「槐」と書き、中国原産の落葉高木で、7月ごろに開花する白い花は、蜂などが蜜を集める重要な蜜源植物だそうです。開花直前のえんじゅのつぼみを採取して日干したものが生薬の槐花(かいか)で、止血作用がある漢方薬だそうです。屋敷の北東に植えると厄除けになると言われたり、仏像にも使われる由緒正しい木のようです。確かに、伐採された後も「樫の木」「栴檀」「コナラ」等々の話題を集めた「槐」ですから、親方の手でベンチに加工され、この先も存在感を放ってくれることでしょう。

2011年9月24日土曜日

杉浦醫院四方山話―79 『ケビント』

 先日、甲府の「マルヤマ器械店」の丸山太一氏から、「医療棚」三台と「医療機器類」を杉浦醫院にご寄贈いただきました。
写真の医療棚は、杉浦医院の診察にあるものですが、医療カタログでは「器械棚」と命名されているそうです。近年、歴史を刻んだ古い器械棚がアンティーク家具として人気で、ネットオークションなどの相場では、安い物でも数万円、質の良い物だと十数万円もするそうです。
 この棚のファンには、女性が多いことも特徴で、旅行に行った際に購入した置物を並べたりするコレクションケースに使ったり、お気に入りの香水や化粧品を並べたり、食器棚として愛用したりと、個性的に使うのがオシャレだとか。
帰り際、丸山太一氏から「私たちは、ケビント、ケビントと呼んでいましたが、一つ一つ注文のサイズに合わせて、家具職人に造ってもらって納入しました。何度か色を塗り直して使ってきたものですが、杉浦さんの所でお役に立てれば、うれし限りです」と言葉をかけていただきました。三台を休憩室に並べてみると横幅や高さ、棚の材質などみんな微妙に違っていて、お話の通りそれぞれが一点物であることが分かりました。
 今朝、丸山さんから、「先日のケビントは、業界用語でしたので、お医者さんはケビントとは言わなかったと思います。全国の医療機器関係者の共通語でしたから、ケビントの語源を調べてみました」と電話をいただきました。木喰上人と微笑仏の代表的な研究者でもある丸山氏は、九三歳になられても明確でない言葉やモノについて曖昧にせず、直ぐ調べる探究心と情熱が習慣になっているようで、頭が下がると同時に若さの秘訣と感じました。
 「医療棚は、英語ではドクター・キャビネットと言います。キャビネットはドイツ語ではケビントですから、多分業界用語のケビントもキャビネットのドイツ語からだと思います」と教えてくれました。なるほど、カルテもドイツ語で書かれていたように日本の医療技術や医学は、ドイツからの西洋医学ともいえますから、丸山氏のご指摘どおりでしょう。
 早速、パソコンで「ケビント」を入力すると「アンティークケビント」の情報やブログがいっぱいで、その人気の高さを知りました。
ちなみに診察にある四面ガラスのケビントが最も高価で、背面が木製の三面ガラス、前面だけがガラス扉の一面ケビントと価値も違ってくることや同じ三面ガラスでも棚がガラスか木製かでまた違い、ガラスの質によっても・・・と、マニアックな世界は微細な差異を競うようです。更に「納入業者のステッカー付きかどうかも大きい」と・・戴いた三台には全て「マルヤマ器械店」の金属ステッカーがきっちりですから、「お宝を三台も!」と本当に無知を恥じました。

2011年9月21日水曜日

杉浦醫院四方山話―78 『十五夜』

 8月末から、つなぎのお軸として、清韻先生の墨絵が掛けられましたが、先の台風が過ぎ去ったと同時に松本楓湖の「養老の瀧」の軸になり、純子さんから「今年の十五夜はいつでしょうか」と聞かれ、「はて?」と困りました。花鳥風月を愛でる素養もない私は、毎年の十五夜を事前にチェックする習慣はありませんでした。
 ここ数年、甲府の印伝屋が「きょうは、十五夜です。」の全面広告をシリーズ化して、全国紙にも載せていましたので、その年の写真やコピーの出来栄えを楽しみながら「今日が十五夜か」と知る程度の習慣でした。そういう意味では、私の十五夜は、印伝屋のPR紙面を肴に、月を覗きながら酒を楽しむ位で、月見だんごにもお目にかかっていないことに気が付きました。
 十五夜とは本来は満月のことですから、年に12、13回めぐってきますが、旧暦の8月(新暦ではほぼ9月)の満月が、1年の中で空が最も澄みわたり、月が明るく美しくみえることから、この月の満月が「十五夜」と呼ばれ、年に一度の「仲秋の名月」となりました。しかし、十五夜に月見を楽しむ風習は、日本古来のものではなく、中国の唐から遣唐使によって日本に持ち込まれ、日本の風土に合わせて定着してきました。中国では、月餅(げっぺい)を作ってお供えしたのに対し日本では団子や里芋をお供えして、五穀豊穣を神に感謝する日へと発展したようです。要は、「満月を鑑賞するだけでなく、美味しい農作物に感謝して、満月の夜を過ごしなさい」という日ですから、今年の酒米の出来に思いを馳せ、おいしく酒を飲むのも十五夜の過ごし方として十分理に適っていることも分かり、安心しました。
 「芋名月」とも云われる十五夜に対して、約一カ月後の十三夜は、「豆名月」「栗名月」と呼ばれ、収穫物の時期に合わせた名前があるのも日本独自ですが、この十三夜は、日本で生まれた風習で、起源は江戸の遊郭文化だそうです。
 十五夜に有力な客を誘い酒宴をあげることで、一カ月後の十三夜にも足を運ばせる「営業」として、「十五夜と十三夜の両方を共に祝うのが出来る男の嗜み」とし、どちらか片方の月見しかしない客は「片月見客」「片見月客」と呼んで、縁起が悪い客だと遊女らに嫌われたそうです。確実な二度通いを定着させる有効な「風習」まで創造した訳で、いつの時代もこの世界が産みだすアイディアと知恵には敬服します。また、文芸の世界、俳諧では、旧暦の8月14日を「待宵(まつよい)」、16日の夜を「十六夜(いざよい)」と称して、15日の名月の前後の月を愛でることも「風習」としていますから、全ての「風習」にお付き合いするのも大変ですが、今年の月は本当に綺麗でしたね。

2011年9月9日金曜日

杉浦醫院四方山話―77 『清韻亭(せいいんてい)』

杉浦家母屋の座敷南側の障子の上の壁には写真の額が、純子さんが物心ついた時からあったそうです。 文豪谷崎潤一郎が、代表作「細雪」を執筆したのは神戸の「倚松庵」、その後湯河原に新築した住まいを「湘碧山房」と名付けたり、永井荷風の日記文学「断腸亭日乗」は、文字通り「断腸亭」での日常が書かれています。このように文人や茶人は、自分の住まいや別荘、茶室に「○○亭」「××房」「△△庵」等の名前を付けていました。
現代では、小ジャレタ飲み屋や料理屋が、こぞって付けている感もしますが、特別小ジャレテいなくても長坂町大八田には、うどん屋「長八房」もありますが・・・
この額が杉浦家の母屋座敷に昔からあったのは、この住まい、もしくは座敷を「清韻亭」と命名していたからでしょう。この「清韻」は、8代目健造先生の祖父、6代目杉浦大輔氏の「号」でもあります。昭和4年に杉浦医院を新築された健造先生は、同時に医院正面の庭に「清韻先生寿碑」も建立しました。
「杉浦健造先生頌徳誌」によると、大輔氏は、「5代目道輔氏の生存中に医業を継ぎたるも早世し、慶応3年正月父に先んして没す」とあり、7代目は、大輔氏の末弟嘉七郎氏が継ぎました。8代目の健造先生は、大輔氏の二男ですから、正確には大輔氏は健造氏の父でありますが、7代目がいることから、「祖父」としているようです。 
    
早世した大輔氏は、医業と共に書画にも秀で、歌を詠む文人で、清韻という号で、作品を残しています。健造先生は、早世した父大輔氏の文人としての業績を後世に伝えるべく、明治中頃に建てた母屋を「清韻亭」と命名し、「清韻先生寿碑」も建立したのでしょう。杉浦家には、清韻先生の書画も掛け軸で保存され、季節の合間のお軸として床の間に飾られます。台風で雨続きの先週、「清韻のお軸をつなぎにお願いします」と替えましたが、秋風が爽やかな今朝、「今日、清韻から養老の滝のお軸に変えたいのですが・・」と、純子さんのお軸の交換は、機会的に月ごとではなく、湿度や陽射しなど純子さんの感性がとらえた「季節」を基本にしています。

2011年9月7日水曜日

杉浦醫院四方山話―76 『郡中十錦・余話』

  還暦を過ぎて、初めて知った言葉「郡中十錦(ぐんちゅうじっきん)」。調べながら、ふと中島みゆきの歌が頭をよぎりました。いつ、どこで、誰と聴いたのかもはっきり覚えていて、有線放送で流れてきた曲に思わず「これ誰の作詞?」とマスターに聞いたことまで覚えています。芸能ウオッチャーのマスターの言を信用すれば、「中島みゆきの作詞、作曲だ」ですが、「曲名は分からん」でしたので、正確でない場合はお許し願うとして、こんなフレーズで始まった曲でした。 『知らない言葉を 覚えるたびに 僕らは大人になっていく けれど最後まで 知らない言葉も きっとある・・』



 医者をしている友人と飲んでいて、彼が「医者なんて病名を告げるのが仕事。たとえ、誤診でも自信を持ってはっきり病名を告げる医者が名医。でも良く分からないことの方が多いんだから、断定できないで誠実に対応しようものならヤブだと・・」という話をきっかけに、「名前がないと存在もない」という抽象的な話に進み、「要は名前を付けて、分類することが文化、文明だという刷り込みが、文化国家の日本人には常識となり、病名を知って、どのランクの病気か推測して安心する為に医者に行く。病名もあいまい、分からないでは不安が増すということだね」「だから、あやふやな時は、風邪です!が無難になる。結果、あんなにたくさんの風邪薬が市販されているんだ」と云った話の時に『知らない言葉を 覚えるたびに 僕らは大人になっていく ・・』と流れてきたのでした。
しばし休憩と云った感じで聴き入って、「そうだよな。病名も言葉だから、その病名を知らない時は、そんな病気も存在しなのに、医者に診てもらって、知ることは不幸でもあるね」「そう、俺が言うのもおかしいけど、自覚症状もないのに健康診断まで受けて病気探しをしているのは、個人の幸、不幸とは別な意図の結果だよな」「知らない言葉をたくさん知っている大人が、知識人には相違ないけど知らないままの少年オヤジの方がいいかもな」「まあ、どんなに博学といっても俺の名前まで知っている訳ではないから、最後まで知らない言葉って、ホントたくさんあるんだろうなー」・・・と。中島みゆきに素直に従えば、この歳で「郡中十錦」の言葉と存在を知ったのは、僕は未だ大人になっていく途中であると・・・でも、知っていた言葉が出なくなった健忘症も顕著なので、僕は大人になる前に老人になっているということだろうか・・結論は、中島みゆきは哲学的で困るなーですかね?

2011年9月6日火曜日

杉浦醫院四方山話―75 『郡中十錦(ぐんちゅうじっきん)』

 純子さんから「お暇な時で結構ですから、(ぐんちゅうじっきん)について、調べていただけますか」と丁寧な声掛けをいただきました。「陶器」を持参いただきながらですから、焼き物に関する言葉だろうと予想はつきましたが、(ぐんちゅうじっきん)は初耳で、どんな漢字表記なのかも分かりませんでした。
 「八百竹さんに視ていただいた時、これは、(ぐんちゅうじっきん)だとおっしゃって、こう書いてくれました」と陶器の中から「郡中十錦」と書かれた紙片を見せてくれました。「十錦でじっきんと読むんですね」「その時、八百竹さんが詳しく説明してくださったと思うのですが、忘れてしまい申し訳ありません」「これは、鉢ですか?これが郡中十錦というお宝なんですね」「こんな田舎家にあるものですからたいしたものじゃないと思いますが・・・箱に揃いで五つありますから、どう云うモノなのか?」ということで、さっそく「郡中十錦」について調べ学習しました。
 関西より西の萩焼や備前焼は、比較的知られていますが、四国愛媛県には、砥部(とべ)焼があります。この砥部焼きはその名の通り、愛媛県伊予郡砥部町で、200年以上もの歴史をもつ伝統陶芸です。白磁に透き通った藍で絵付けされ、厚く頑固な実用的作品が一般によく見る砥部焼きで、讃岐うどんの器としてもこの砥部焼はよく用いられています。
 「伊予鉄道郡中線」という鉄道マニアでなければ知らない鉄道路線が、愛媛県には現在もあり、郡中港という港もありますから、「郡中十錦」の「郡中」は、砥部焼の地元伊予郡にある郡中という地名です。幕末から明治初年にかけて、伊予市郡中の小谷屋友九郎という作陶家が、清朝磁器を模して、砥部焼の素地に上絵付けを施したやきものを作り始めたそうです。友九郎が模したという中国清朝のやきものは、赤、緑、黄色などの釉薬を掛けた「十錦手」と呼ばれる焼き物で、「十錦手」とは中国清時代に流行した「多くの色を使用し塗り埋め方式で装飾」した焼き物の総称だそうです。
「九谷焼」に代表されるカラフルな磁器がもてはやされ江戸時代、この「十錦手」を日本で最初に模したのは、伊万里焼きで、江戸の富裕層に流行したことから、砥部焼にも友九郎がとり入れ、砥部焼と一線を画して「郡中十錦」と命名し、伊豫稲荷神社に奉納したことから「郡中十錦」は、砥部焼との差別化に成功し、現在では、美術館や博物館でしか観ることが出来ない貴重な陶芸作品となっています。確かに、砥部焼とは、まったく違う色鮮やかな「郡中十錦」は、模した中国の十錦手を上回る出来ばえと云われ、濃青、エメラルド、黄緑、赤など鮮やかな色彩が高い評価となっています。「横浜から嫁いだ祖母が持ってきたものだと思います」

2011年9月1日木曜日

杉浦醫院四方山話―74 『べっ甲』

 甲府市は、水晶細工の技術を伝統的に蓄積し、「水晶の町・甲府」として、駅前ロータリーにも水晶の噴水をシンボル的に設置していました。昭和61年の駅前整備でこの噴水は姿を消し、現在ある信玄の座像に変わり、「水晶の町・甲府」より「信玄のお膝元・甲府」といった感じで、水晶の影が薄くなったように思いますが、如何でしょう。甲府の水晶細工のようにべっ甲細工を伝統工芸、地場産業としてきた都市は、九州の長崎市です。
 「べっ甲」と聞いてもピンとこない若い世代も多くなりましたが、べっ甲は、玳瑁(タイマイ)と言う、南方の海やカリブ海、インド洋などに生息している海亀の一種で、そのタイマイの甲羅や爪、腹甲を加工して作ったものを「べっ甲細工」と呼び、古くから長崎で生産されていました。平成5年のワシントン条約でタイマイの輸入が禁止され、べっ甲産業も衰退の道をたどっているという現状は、甲府の水晶と重なります。そんなことからべっ甲細工は、年寄り趣味と言うイメージが強く、若者にはギターなど楽器のピックとしてのべっ甲といった程度の認識が一般的だそうです。材料が貴重で、限られている上に今も職人の技に頼る量産できないべっ甲製品は、高価なことから、若者には手が出せないという現実もあるようです。
 健造先生が愛用していたべっ甲のステッキも展示コーナーにありますが、純子さんが、「祖母や母が使っていたものですが・・・」と和紙で包まれたべっ甲細工の数々を持参してくれました。この全てが、べっ甲の「髪留め」「くし」「かんざし」で、日本髪に欠かせない実用の具ですが、職人の手で1本1本たくさんの工程を経て作られた製品は、色褪せするどころか、素材の色合いを活かしたシンプルなデザインに細工が施された見事な工芸品、美術品としての気品を醸しています。