2010年12月25日土曜日

杉浦醫院四方山話―16 『私の城下町』

 杉浦醫院には、健造、三郎父子が購入した医療機器が当時のまま残されています。消毒、殺菌用の機器は2台あり、両方ともトレードマークと共に「マルヤマ器械店 甲府市三日町」と印字された金属製のステッカー貼られています。また、純子さんの話には「八日町にあった」「錦町の」という甲府市内の旧町名がよく出てきます。消えていく「郡名」にこだわるのは、甲府市の消えた「町名」が、今日の甲府市を象徴しているように思えるからでもあります。

昭和初期の甲府市鳥瞰図
 武田信虎・信玄がつつじが埼の館を中心に甲斐の府中「甲府」の城下町建設を始め、江戸時代、城主柳沢吉保父子が現在の舞鶴城を中心とした城下町整備を行った結果、「城下町甲府は、関東では、徳川御三家の水戸に次ぐ城下町として繁栄したのだ」という歴史を朝日小学校で、私は叩き込まれました。朝日小学区は、武田氏全盛期には「三日市場」という“市”が開かれていて、江戸時代の舞鶴城南下に伴い、「三日町」も南に移り、「元三日町」となったという歴史を「元紺屋町」「新紺屋町」等と一緒に学び、加えて「歴史と伝統のある地域である」と「郷土を愛しむ」教育を受けました。

 私事で恐縮ですが、18歳から山梨を離れ、42歳で帰郷するまでの間に甲府の町名は一変してしまい、昔の何町と何町が「丸の内」なのかも分からなくなり、太宰が新婚時代を過ごした「御崎町」が「美咲」だなんて・・・純子さんの「百石町の知事公舎の隣に」の方が、ピンとくるということは、ジジイである証しでもありますが、「歳を重ねて分かる事もある!」に意を強くして・・「代官町」「桶屋町」「魚町」「鍛冶町」「袋町」「白木町」「柳町」「城屋町」・・なつかしい「私の城下町」の町名と共にそこに住んでいた友人や親せきの顔も一緒に蘇ります。これらの歴史的遺産としての旧町名を郵便配達などの効率を優先させ消滅させた甲府市の町名変更は、私に限らず市民、県民の「私の城下町」を博物館に追いやっただけと思うのは私一人ではないでしょう。朝日新聞山梨版に女性記者の「中心街「ココリ」開業2カ月 裏切られた活性化の夢」と題する歯切れ良い厳しい総括がありました。
 ノスタルジーからだけではなく、甲府の再建には、集客施設建設問題より「城下町・甲府」を再構築していく、町名再考を含めた基本計画が聞こえてこないのが、私には残念です。

杉浦醫院四方山話―15 『中巨摩郡』

 甲府駅で電車を降り、運転手に「杉浦医院へ」といえば、当時のタクシーは、確認することなく、当地まで直行したと訪問者の著書に記されていますが、「ミヤイリ貝」の発見者・宮入慶之助博士からの手紙も含め、健造先生宛ては、「山梨県中巨摩郡」か「中巨摩郡西条村」までです。三郎先生の時代でも「山梨県中巨摩郡昭和村」か「中巨摩郡西条新田」が多く、「中巨摩郡」は常に表記されています。この「中巨摩郡」という郡名も昭和町が、平成の大合併で単独を選択した結果、残った郡名です。「西山梨郡」に続き「東山梨郡」も消え、小渕沢町の北杜市編入で「北巨摩郡」も消滅しました。「中巨摩郡」という郡名とその歴史・風土を伝えていくのも風土伝承館杉浦醫院の使命かと・・

 甲斐の国と呼ばれた戦国時代から、甲府盆地周辺一帯を「国中(くになか)」、富士五湖方面を「郡内(ぐんない)」と呼ぶ地域区分は、現在も続いています。律令制下で、甲斐の国は、甲斐四郡に区分され、「国中」地方を「山梨郡」「巨摩郡」「八代郡」に区分し、「郡内」地方を「都留郡」としました。明治4 年(1871年)の廃藩置県で、甲斐国は、「甲府県」となり、後に現在の「山梨県」に改称されましたが、甲府県から山梨県への改称理由は不明です。一説には、「ヤマナシ」の木(写真)が多かったからとも言われていますが、県庁所在地・甲府の郡域が「西山梨郡」だったからとの説が一般的でしょう。その「山梨郡」も平成の大合併で消えてしまい、県名の話も「山があっても山梨県」程度になってしまいそうで・・・
 ちなみに、現在も耳にする県内の地域区分「山梨県中西部」「東部富士五湖」は気象情報で用いる地域区分だとか。さらに、県の出先機関、地域振興局で区分した、峡中・峡北・峡東・峡南などの行政区分による地域名もあります。しかし、歴史的にも、地理的、風土的にも「山梨郡」「巨摩郡」「八代郡」「都留郡」の甲斐四郡は、そこに暮らす人々が、それぞれの風土を形成してきた郡名なので、消えたものを伝承していくのではなく、残していくことの必要性を強く感じます。杉浦医院に下宿していた保坂忠信氏の著書にも「西八代の人々から感じる一種の物柔かさ、東山梨で感じる剛気不周、北巨摩の人々は、千古の人間経験を蓄積した地殻のような皮膚の厚さを感じる・・(省略)」(『中央線7号』三人の北巨摩人)とあります。「巨麻郡」から「巨摩郡」への変遷も含め、朝廷に貢進していたという「甲斐の黒駒」説や渡来人や高麗とのつながり説など歴史ある郡名をどう残していくのか、これは県内全ての関係機関が協議していく課題だと思うのですが・・・。

*昭和町なら、母屋部分をゆくゆく「中巨摩文化資料館」の名称で・・も可能ですね。

2010年12月18日土曜日

杉浦醫院四方山話―14 『電話』

 杉浦醫院調剤室の机には、医院で使用していた封筒類が2種類残っています。古い茶封筒には、「杉浦院」「電話(甲府)3071」と印刷されています。もう一つの「内用薬」と書かれた薬袋には、「杉浦院」で、電話も055275-3〇〇〇と現在も杉浦家が使用中の番号が記されています。これを基に純子さんに「電話」の話を伺うと、「祖父健造は、初孫でうれしかったのでしょう、親戚の錦町の市川歯科に行くとそこから必ず私に電話をしてきました。私が4、5歳だったとおもいますから、昭和5年頃には、家に電話があったことになります」 「そうそう、家に電話を引くためには、電柱を寄付しないと引けないということで、何本寄付したのかは知りませんが、電柱を寄付したと言っていました」「今は、部屋にはなっていませんが、テーブルのある部屋から屋敷蔵に行く廊下の角が、電話室でした。部屋に入って、電話機の横をぐるぐる回して、電話機に向かって話したんですよね」と(甲府)3071の思い出を話してくれました。

 取材によく来る山日新聞Y記者の実家が郵便局だと聞いていたので、「昔の郵便局は、電話局も兼ねていたようだけど」と尋ねると「いやぁー、それはないと思いますよ・・」と若い彼は知らないようなので、「お父さんに聞いて確かめておいてくれ」と頼むと、折り返し「やっていたそうです。櫛形に小笠原局があったそうです」と。中巨摩郡西条村の杉浦家が(甲府)局で(小笠原)局でないのも釜無川を越えての電話線引き込みより、甲府の方が近く、寄付する電柱も少なく済んだ為でしょうか。

 「その後、(甲府)2474に変わって、病院と母屋で切り替えが出来るようになりました」「夜、看護婦室に住み込んでいた運転手さんが、勝手に病院に切り替えて、彼女と長電話していた時、県の医学研究所でボヤがあって、職員が父に何度電話しても繋がらなかったということもありました」「昭和局30番という電話が入った時もありました。有線電話だったのか、その頃、この辺でも一斉に電話を引く家が増えました。」と、杉浦家の電話番号の遍歴とエピソードを聞くことができました。
旧甲府郵便局で、後の甲府市庁舎4号館
昭和4年7月着工 (山田守建築作品集より)
  写真の旧甲府郵便局は、日本の近代を代表する建築家山田守氏の作品です。等間隔に窓を連続させたシンプルかつ機能性重視のデザインとして建築史上に残る作品ですが、解体が決まりました。昭和4年着工ですから、杉浦医院と同じ時期の建造物で、もったいない!

2010年12月16日木曜日

杉浦醫院四方山話―13 『人間力』

 12月11日(土)に<NPOつなぐ>主催の「まちミューウォーキング」で「昭和町風土伝承館杉浦醫院見学会」が開催されました。定員30名がいっぱいになり、21日(火)にも追加回催する盛況ぶりだとか・・・ありがたい限りです。この「まちミューウォーキング」は、県内にとどまらず、上野や日の出町など東京へも広がり、<NPOつなぐ>では、その為の「ガイド・ブック」も並行して作成しています。平成25年度に山梨県で開催する文化の国体「国民文化祭」にも県内各地をくまなく歩く「やまなしフットパス構想」を提唱し、参加型の斬新なイベントとして、県との協働も進んでいるようです。
 この<つなぐ>を主宰しているのが、山本育夫さんです。山本さんは、山梨県立美術館の学芸員として、開館から関わってきた前公務員ですが、詩人としても著名ですし、現代美術の評論から美術誌の発行等多彩な活動をこなすマルチ人間です。武蔵野美術大学で、学芸員養成講座の講義も担当しながらのNPO活動です。
 県内の市町村の見どころを紹介した、山本育夫事務所発行の「やまなし再発見誌・ランデブー」は、良質な雑誌だったので、ご記憶にある方も多いことでしょう。その13号は「昭和町特集」で、山本さんの取材力と文章力がいかんなく発揮されていて、何度読み返しても感心します。この取材で、杉浦純子さんにもインタビューをしている山本さんを純子さんもよく覚えていて「あんな素敵な記事にしていただいて、恥ずかしいくらい」「ランデブーの山本さんからでは、出ない訳にいきませんね」と参加者との座談会にも応じていただきました。結城紬の着物にさっと着替えて、質問にも的確に応える純子さんを山本さんは、「杉浦医院ツアー、無事終了。改めて杉浦医院の魅力の奥深さを知りました。純子さんの語りもなかなかいい味わいを。80歳過ぎた人とは思えない凛としたたたずまいは素敵でした。」と<つなぐ>のホームページ上で報告しています。
 「杉浦醫院整備検討委員会」の副委員長もお願いしている山本さんの原点は、「新しい公共づくり」だと私は解釈しています。ヤメ公(前公務員)では、グラウンドワーク三島を牽引した都留文科大の渡辺豊博氏も同様ですが、自ら先頭で汗を流して活動の輪を広げ、「新しい公共」による地域づくりを<楽しむ>姿勢が、共通しています。柔軟かつ論理的思考で、門戸はあくまで広く・・という「人間力」に、多彩な人材や協力者が自然に集まって・・これは、科学映像館の久米川理事長にも杉浦純子さんにも共通しているなぁーと。

2010年12月12日日曜日

杉浦醫院四方山話―12 『新潟大学医学部』

 杉浦三郎先生は、甲府中学(現・甲府一高)卒業後、新潟医学専門学校医科(現・新潟大学医学部)を大正9年に卒業しました。更に、大正15年に新潟医科大学(現・新潟大学医学部)病理学教室に入り、昭和8年、博士号を取得しました。三郎先生からちょうど50年後、全く同じコース、甲府一高から新潟大学医学部へと進んだ甲州人がいました。小渕沢生まれの清水誠一氏です。
三郎先生は、医学の道を全うしましたが、清水氏は、1967年に医学部を2年で中退し、独学で美術を学び、画家になることを決意しました。10年後の1977年、「第10回パリ・ビエンナーレ」(パリ市立美術館)に「マークペインティング」を出品し、一躍、世界の注目を浴び、日本からの国費留学生としてパリに招聘されました。
 「二度と日本には戻らない」と妻と旅だったものの翌年「パリに絶望した」と帰国。同時に小渕沢へ帰郷し、「クランクペインティング」シリーズなど新たな創作を始めました。清水氏は、「芸術とは何か」という崇高な命題に真っ向取り組くむ為、己の精神の純粋さを常に保とうと孤高を自らに課す生きざまが魅力でした。当然、現実生活では大きなギャップを生じ、生まれ故郷や画壇、画廊との格闘も余儀なくされました。しかし、圧倒的な情熱で「現代の画家」たらんとする清水氏は、「何でもアリが現代美術だ」と自身を自虐的に絵画に引き摺り出したり、あらぬ物を描き込むなど、「敢えて売れない作品」を描き、近年、具象絵画を描き始めたのでした。上の作品「カッコウの巣の下で」が、私の確信では、遺作となる具象画です。「庭先でカッコウと出くわしたばっかりについにカッコウを描いちまった。」「カッコウは託卵だから、縁起も悪いし嫌われモンだ。お前のとこも娘二人だから、ウチみたいに玄関に託卵禁止の家って大きく張り出しておけ」・・・・自らに課した永遠の命題≪芸術とは何か≫への解答なのか、清水誠一氏は、突如12月5日、65歳で自死しました。昨年の昭和町タイムリー講座で、「ピカソが全てやってしまったのか」の演題で講師をお願いした折、「演題が気に入った」と応じてくれたり、フィールドワーク教室のアトリエ訪問では、「今まで、誰にも見せてなぇーけど」と母屋の和室を改造した展示室まで案内してくれたセイイッちゃん。「血液や筋肉など捨てた医学が絵に出てきて困っちもーさ」「俺の服は、全部弟のオアガリだ」「花に入れ歯を描き込んで<入れ歯な>どうだピカソ」「この絵?下ネタ半島冬景色」・・・ギャグ入り丸出し甲州弁で、口角泡飛ばしの「誠一機関銃語り」が次々蘇ります。ピカソにタイマン張った画狂・清水誠一氏の生を讃え、この場を借りて、「セイイッちゃん大往生しろ!」

2010年12月10日金曜日

杉浦醫院四方山話―11 『避雷針』

 プレ・オープン後、町外からの参観者が口々に語るのは、「ここは、森の病院だった」という記憶です。南アルプス市から弟を連れて通ったというDさんは、「ボロ電の榎で降りると向こうに森が見えて、あそこまで歩くんだよ」と弟に教えたと言います。身延線で通ったというKさんは、「常永駅で降りるとずっと先に森が見えるので、森を目指して歩きました」と。甲府から自転車で通ったというHさんも「西条の森って呼んでいました」と。杉浦醫院の屋敷一帯が森のように大きな木で囲まれていたという名残りは、現在では母屋の屋根中央にそびえ立っている避雷針でしょうか。
木造教会の避雷針

 純子さんの話では「私が物心ついた時からありました」という避雷針は、家屋や大木への落電を案じてのことでしょうが、明治中頃の建設である母屋には、最初から避雷針が付いていたのでしょうか? ウィキペディア フリー百科事典には「日本では1875年(明治8年)、金沢市にある尾山神社の楼門建設の際に設置されたものが最初である」と記載されていますから、森の中に大屋根の2階建て家屋を新築するにあたって、杉浦家が、いち早く避雷針を取り付けたとしても不思議ではありません。この「避雷針」、文字通りでは、雷を遠くに追いやって建物や樹木を守るという感じですが、実際は、雷をこの針に誘導して、落雷が起こったら避雷針から接地線を通して電流を地面に抜けさせて被害を防ぐ訳ですから、「迎雷針」が妥当のようにも思いますが・・。
 整備が始まった4月段階では、森を形成していた大きな切株が至る所にありました。一番大きな母屋西側の欅の切り株は、「15年くらい前に名古屋の材木屋さんが丸ごと買い取ってくれましたが、あの後からは、お金を出さないと切ってもらえなくなりました」「欅の芽吹きもきれいですが、私は裸木が一番好きでした」「落ち葉の苦情もあり、次々切りましたが、池の欅を切る時は、ほんとうにつらい思いをしました」と純子さん。区画整理の進む常永地区もそうですが、きれいに整備が終わると元の面影はすっかり消えてしまいます。確かに消してしまいたい過去もありますが、「杉浦醫院は森だった」という土地の記憶が、「行ってみよう」という現在につながっていることを思えば、著書『アースダイバー』で中沢新一氏が、東京の現在を洪積層、沖積層といった「地下」から考察することで、消え去った土地の記憶を蘇らせた視点は、見事というほかありません。

*杉浦醫院2階西側の窓から見る母屋の高い屋根と避雷針は壮観です

2010年12月8日水曜日

杉浦醫院四方山話―10 『モミジ』

 洋の東西を問わず、人間は庭を造り、散策やコミュニケーションの場にとどまらず、音楽や美術と同様に、そこで思索したり観想したり、時には緊張感や安らぎを得る場所として、庭を楽しんできました。この庭が持つ芸術性と社会性は、それぞれの文化が育んだ多彩な庭園として残されています。「西洋の庭園が多くは均整に造られるのにくらべて、日本の庭園はたいてい不均整に造られますが、不均整は均整よりも、多くのもの、広いものを象徴できるからでありませう。勿論その不均整は、日本人の繊細微妙な感性によって釣り合ひが保たれての上であります。日本の造園ほど複雑、多趣、綿密、したがってむずかしい造園法はありません。その凝縮を極めると、日本の盆栽になり、盆石となります。」と川端康成は「美しい日本の私」のなかで述べています。
 
 先日の雨と風で、すっかり葉を落とした杉浦醫院のモミジですが、杉浦家が育んだ庭園は、このモミジを主体に造形された日本庭園で、杉浦家の文化を表象している庭でもあります。小宇宙の主役をモミジとしたことで、秋には、素晴らしい紅葉絵を見ることが出来ます。赤く染まったもみじの奥には竹林の緑を、敷き詰めたような赤い落ち葉の中には椿の緑が・・といった「繊細微妙な感性によって釣り合いが保たれ」るよう造られています。同時に、何気なく置かれたようにも見える石燈や飛び石も苔の緑を想定した「綿密」なものですし、趣がある湧水池も竹やモミジを映しています。今年、町がこの庭の剪定、移植から敷き石までトータルで整備を委託した日本庭園を専門に手がけるS氏は、「全て手彫りの石燈や池の石積み、建物と庭木の高さなどこの庭の素材と造り、趣味の高さは、個人庭園では、京都の庭にも負けない水準です」と評していました。母屋の座敷を囲む庭は、「水位が高かった頃は、苔庭で、一面緑でしたが、昭和水源が出来てから水位が下がり苔も枯れました」と残念そうに話す純子さん。「水の問題なら井戸水は十分出ているので、こまめな水やりで蘇るはずです」とS氏。今年の杉浦醫院の紅葉絵は、終わりかけていますが、四季折々の庭園が楽しめるよう、日々の手入れを重ねていきますので、乞うご期待!

*うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ(良寛)