2010年12月25日土曜日

杉浦醫院四方山話―15 『中巨摩郡』

 甲府駅で電車を降り、運転手に「杉浦医院へ」といえば、当時のタクシーは、確認することなく、当地まで直行したと訪問者の著書に記されていますが、「ミヤイリ貝」の発見者・宮入慶之助博士からの手紙も含め、健造先生宛ては、「山梨県中巨摩郡」か「中巨摩郡西条村」までです。三郎先生の時代でも「山梨県中巨摩郡昭和村」か「中巨摩郡西条新田」が多く、「中巨摩郡」は常に表記されています。この「中巨摩郡」という郡名も昭和町が、平成の大合併で単独を選択した結果、残った郡名です。「西山梨郡」に続き「東山梨郡」も消え、小渕沢町の北杜市編入で「北巨摩郡」も消滅しました。「中巨摩郡」という郡名とその歴史・風土を伝えていくのも風土伝承館杉浦醫院の使命かと・・

 甲斐の国と呼ばれた戦国時代から、甲府盆地周辺一帯を「国中(くになか)」、富士五湖方面を「郡内(ぐんない)」と呼ぶ地域区分は、現在も続いています。律令制下で、甲斐の国は、甲斐四郡に区分され、「国中」地方を「山梨郡」「巨摩郡」「八代郡」に区分し、「郡内」地方を「都留郡」としました。明治4 年(1871年)の廃藩置県で、甲斐国は、「甲府県」となり、後に現在の「山梨県」に改称されましたが、甲府県から山梨県への改称理由は不明です。一説には、「ヤマナシ」の木(写真)が多かったからとも言われていますが、県庁所在地・甲府の郡域が「西山梨郡」だったからとの説が一般的でしょう。その「山梨郡」も平成の大合併で消えてしまい、県名の話も「山があっても山梨県」程度になってしまいそうで・・・
 ちなみに、現在も耳にする県内の地域区分「山梨県中西部」「東部富士五湖」は気象情報で用いる地域区分だとか。さらに、県の出先機関、地域振興局で区分した、峡中・峡北・峡東・峡南などの行政区分による地域名もあります。しかし、歴史的にも、地理的、風土的にも「山梨郡」「巨摩郡」「八代郡」「都留郡」の甲斐四郡は、そこに暮らす人々が、それぞれの風土を形成してきた郡名なので、消えたものを伝承していくのではなく、残していくことの必要性を強く感じます。杉浦医院に下宿していた保坂忠信氏の著書にも「西八代の人々から感じる一種の物柔かさ、東山梨で感じる剛気不周、北巨摩の人々は、千古の人間経験を蓄積した地殻のような皮膚の厚さを感じる・・(省略)」(『中央線7号』三人の北巨摩人)とあります。「巨麻郡」から「巨摩郡」への変遷も含め、朝廷に貢進していたという「甲斐の黒駒」説や渡来人や高麗とのつながり説など歴史ある郡名をどう残していくのか、これは県内全ての関係機関が協議していく課題だと思うのですが・・・。

*昭和町なら、母屋部分をゆくゆく「中巨摩文化資料館」の名称で・・も可能ですね。