2010年12月12日日曜日

杉浦醫院四方山話―12 『新潟大学医学部』

 杉浦三郎先生は、甲府中学(現・甲府一高)卒業後、新潟医学専門学校医科(現・新潟大学医学部)を大正9年に卒業しました。更に、大正15年に新潟医科大学(現・新潟大学医学部)病理学教室に入り、昭和8年、博士号を取得しました。三郎先生からちょうど50年後、全く同じコース、甲府一高から新潟大学医学部へと進んだ甲州人がいました。小渕沢生まれの清水誠一氏です。
三郎先生は、医学の道を全うしましたが、清水氏は、1967年に医学部を2年で中退し、独学で美術を学び、画家になることを決意しました。10年後の1977年、「第10回パリ・ビエンナーレ」(パリ市立美術館)に「マークペインティング」を出品し、一躍、世界の注目を浴び、日本からの国費留学生としてパリに招聘されました。
 「二度と日本には戻らない」と妻と旅だったものの翌年「パリに絶望した」と帰国。同時に小渕沢へ帰郷し、「クランクペインティング」シリーズなど新たな創作を始めました。清水氏は、「芸術とは何か」という崇高な命題に真っ向取り組くむ為、己の精神の純粋さを常に保とうと孤高を自らに課す生きざまが魅力でした。当然、現実生活では大きなギャップを生じ、生まれ故郷や画壇、画廊との格闘も余儀なくされました。しかし、圧倒的な情熱で「現代の画家」たらんとする清水氏は、「何でもアリが現代美術だ」と自身を自虐的に絵画に引き摺り出したり、あらぬ物を描き込むなど、「敢えて売れない作品」を描き、近年、具象絵画を描き始めたのでした。上の作品「カッコウの巣の下で」が、私の確信では、遺作となる具象画です。「庭先でカッコウと出くわしたばっかりについにカッコウを描いちまった。」「カッコウは託卵だから、縁起も悪いし嫌われモンだ。お前のとこも娘二人だから、ウチみたいに玄関に託卵禁止の家って大きく張り出しておけ」・・・・自らに課した永遠の命題≪芸術とは何か≫への解答なのか、清水誠一氏は、突如12月5日、65歳で自死しました。昨年の昭和町タイムリー講座で、「ピカソが全てやってしまったのか」の演題で講師をお願いした折、「演題が気に入った」と応じてくれたり、フィールドワーク教室のアトリエ訪問では、「今まで、誰にも見せてなぇーけど」と母屋の和室を改造した展示室まで案内してくれたセイイッちゃん。「血液や筋肉など捨てた医学が絵に出てきて困っちもーさ」「俺の服は、全部弟のオアガリだ」「花に入れ歯を描き込んで<入れ歯な>どうだピカソ」「この絵?下ネタ半島冬景色」・・・ギャグ入り丸出し甲州弁で、口角泡飛ばしの「誠一機関銃語り」が次々蘇ります。ピカソにタイマン張った画狂・清水誠一氏の生を讃え、この場を借りて、「セイイッちゃん大往生しろ!」