2015年5月28日木曜日

杉浦醫院四方山話―422『大岡昇平「レイテ戦記」と補遺ー1』

 当408話の「地方病研究者・林正高先生」でもご紹介させていただいた林先生から、その後も貴重な文献を複数冊送付いただきました。

その中には、私のみならず国民にもあまり知られていない(と思われる)歴史的事実もありましたので、報告させていただきます。



 作家・大岡昇平の三部作「俘虜記」「野火」「レイテ戦記」は、日本の代表的な戦記文学ですが、特に「レイテ戦記」は、20年と云う長期にわたる取材活動で、徹底した事実確認を基に大岡昇平の裁断も明確に記されて、「戦争の実態」を知る上でも貴重な証言文学でもあります。

 これは、自身も召集され、1945年(昭和20年)フィリピンでアメリカ軍の捕虜となり、レイテ島の俘虜病院に収容された体験を基に太平洋戦争末期の日本軍の悲惨な状況とマッカーサー将軍の素顔をあぶり出しているのも特徴です。


 この「レイテ戦記」が中央公論社から刊行されたのが、1971年(昭和46年)9月で、その年に大岡氏は「芸術院会員」に推挙されましたが「私は捕虜でしたから」と、会員になることを辞退したのを覚えています。

 多くの読者を得たが故でしょうが、刊行後、大岡氏のもとには「レイテ戦自体にも多くの補記すべき新事実が、著者のもとに届いている」として、17年後の昭和63年1月号の「中央公論」誌に『日本住血吸虫ー「レイテ戦記」補遺Ⅱ』(以下「補遺」と表記)を発表しました。

林先生からご寄贈いただいた文献・中央公論に発表された大岡昇平の「日本住血吸虫」コピー

 大岡氏のもとに寄せられた多くの新事実の中で、大岡氏が補記しておかなければと再取材して書いた一つが上記の「補遺」でしょう。

 

 この「補遺」に繋がった大岡氏の「レイテ戦記」に地方病についての記載が欠落しているのを指摘したのが林先生です。

当時、市立甲府病院神経内科の林正高博士は、懇意にしていた幸町・古守医院の古守豊甫氏が作家・井伏鱒二氏の甲府でのかかりつけ医であったことから、古守氏から井伏氏を通して大岡氏のもとにレイテ戦記に地方病についての記載が欠落している旨を届けたそうです。              

この補遺の中にもその辺のいきさつも細かく記されていて、大岡氏が甲府に林先生を訪ね、取材して書いたのがこの補遺であることが分かります。

2015年5月21日木曜日

杉浦醫院四方山話―421『ー国史大辞典ー物語4』

 純子さんは「買っても読んだのかどうか」と謙遜していましたが、杉浦家の国史大辞典を紐解くと検索して読んだ形跡が随所にありました。それは、付箋だったり紙片がはさまれていたりですから、「この項目を調べたのかな?」と想像するのも一興です。

 

 例えば、紙片が入っていた222ページと223ページには、「イハツキジョウ(岩槻城)」から「イハヒべ(祝部)」まで約15項目についての辞典になっていますが、これは多分「イハヒべ(祝部)」を調べたのでしょう。

 純子さんにその辺を聞くと「そうですね。父や祖父より母がよく調べ物をしていましたから、一番使ったのは母かも知れません」との話で、多種多様な器などが残る杉浦家ですから「イハヒべ(祝部)」が、「古代日用または祭事等に食料もしくは飲料等を入るるに用ひたる土器の一種」と、挿絵と共に解説されていて、現存する杉浦家の器とよく類似した挿絵の祝部土器が幾つかありますから、ほぼ間違いないでしょう。

 

 上の写真は、「挿絵及び年表」が納められた別冊の2ページ分です。明治40年の日本のカラー印刷技術の高さに驚きますが、このページに限らず豊富なカラー挿絵そのものが写真とは違った精密さと色合いで楽しめます。

 ご注目いただきたいのは、そのページに挟まれていた葉脈の手づくり栞(しおり)です。葉と重曹さえあれば比較的簡単にできる栞ですが「この本にこの栞あり」と云った感じです.

杉浦家の庭園には「葉」は幾らでもありましたから、こうして手間をかけて栞も創り、さりげなく使っていた様は、矢張り本の楽しみ方にも造詣があった証左のように思います。

 

 厚く重い本編には、下の写真のように庭のモミジを「押し葉」していたページが幾つかあります。

 

 押し花ですと花の色が本に沁みますが、紅葉した葉なら本を汚すこともなかったのでしょう、本の重さを利用して「押し葉」も愉しむ、ここにも何げない杉浦家の風情と云った文化教養が滲み出ているように思います。まあ、「ローマは一日して成らず」は、この辺についてこそ言えるようにも思います。

杉浦醫院四方山話―420『ー国史大辞典ー物語3』

 杉浦家の蔵書印を確認する過程で、控えめに押された「柳正堂」の丸印が二冊の奥付にあることが分かりました。

 この丸印は、なぜか朱印ではなく紫がかった青印ですが、予約出版だった「国史大辞典」を健造先生は、甲府の柳正堂書店を通して予約し、柳正堂が杉浦家に納品したことが分かります。


国史大辞典を予約した人々: 百年の星霜を経た本をめぐる物語


 

 また、佐滝氏が所蔵の「予約芳名録」には、地方の書店の名前も多く登場するのが特徴のようですから、甲府の柳正堂も出てくるのか?佐滝氏の著書「国史大辞典を予約した人々」を早く読んでみたいものです。

 

 

 高校を卒業するまで甲府で生活した私にとって、本屋と云えば「柳正堂」でしたが、現在の甲府の本屋は「朗月堂」がメインになっているようで、「柳正堂はどうなったのか、影が薄いなー」と、急に気になりましたから、ちょっと調べてみました。

 

 

 柳町にあった柳正堂は、「1783年(天明3年) 柳町四丁目に大塚儀助により、江戸時代中期から小間物と書物の販売、木版による出版を創めた」と会社案内にあり、明治になると「県庁と取引契約締結」、「教科書取扱代表者」、大正時代は「山梨県官報販売指定」と順調に業績を伸ばしていった様子が記されていますが、なぜか長い昭和時代については記載が無く、一気に「2009年(平成21年)オギノ湯村ショッピングセンター店オープン」、「2010年(平成22年)オギノリバーシティショッピングセンター店オープン」「本社(中央4丁目2-18)より下石田2丁目20-10に移転」とあります。

 

 

 「柳町で正しく定価販売する店」が柳正堂の名前の由来だそうですが、既に本社は柳町に無いことも分かりました。確かに昭和30年から40年前半に通った柳町の店の前には自転車が林立していたのも思い出しますから、車社会になって甲府の繁華街で駐車場を確保するのも難しく、撤退を余儀なくされたのでしょう。

 上記のように現在の柳正堂は、いわゆるショッピングセンター内に3店舗を開いているようですから、販売している書籍も雑誌やハウツー本、売れ筋本が主であることは容易に想像が付きます。

 

 このように柳正堂に限らず、地方の老舗書店が廃業に追い込まれたと云うニュースは何度か耳にしていますので、アマゾンに代表されるネット社会で、朗月堂も厳しい経営かと思います。

 街から書店と酒屋が次々消えていくのは何とも寂しい昔人間ですから、「酒は酒屋で、本は本屋で」と言い聞かせ、未だアマゾンで購入したことは一度もないのがポリシーだと自負しているのですが、まあ無駄な抵抗で、時代錯誤だとお笑い者でしょうね。 

杉浦醫院四方山話―419『ー国史大辞典ー物語2』

 佐滝氏からの電話は、杉浦家に残っている「国史大辞典」が、明治41年7月発行の初版本か否か?本に蔵書印があるかどうか?と国史大辞典の本編は確認できたけど、もう一冊セットで販売された「挿絵及び年表」が見当たらなかったので、その一冊も残っているかどうかの確認をお願いしたいとのことでした。



 純子さんにその辺の経緯を話すと「国史大辞典は昔からありましたね。祖父が購入したモノでしょうが、使ったのかどうか?怪しいですね。新しいモノ好きで買ったんでしょうけど・・・」と謙譲の美徳と「そんなに大切に思って下さる方がいるモノだったら、ここに置くより、そちらへお持ちください。使ってもらえれば本も喜ぶと思いますよ」と、モノ離れの良さは、いつも感心する純子さんの人徳の一つです。


 

 杉浦家の国史大辞典本編と挿絵及び年表の2冊組は、前話の写真のとおり書棚に揃ってありましたが、挿絵及び年表は、ちょうど硝子戸の枠の裏にありましたから、佐滝氏には見えなかったのでしょう。

 

 また、上記写真のように右の「挿絵及び年表」の奥付には「明治41年3月5日印刷」「明治41年3月15日発行」とあり、左の本編奥付には「明治41年7月11日印刷」「明治41年7月19日発行」とありますから、「初版本」であることに間違いありません。

   

 杉浦家には、多くの判子が残っていて現在、土蔵二階に展示してありますが、佐滝氏から依頼された「蔵書印」は、国史大辞典2冊組の何処にも押印されていませんし、展示中の判子を確認しても「杉浦蔵書」の判子はありませんでした。杉浦家の蔵書は医学書に限らず多いのですが、云われてみれば蔵書印は今まで一度も目にしていませんので、購入した本に「自分のモノです」とばかり蔵書印を付くことをヨシとしなかったのかも知れません。

 

  明治41年発行のこの辞典の定価は20円でしたから、佐滝氏の換算では現在の20~25万円に当たるそうです。ちなみに現在も同じ吉川弘文堂が発行している「国史大辞典」は、全17冊組で、定価は29万7千円ですから、図書館や大学、研究機関には揃っていますが、個人で持っているという人は、歴史家位ではないのでしょうか?

 

 医者と云う理系の健造先生が、高価な歴史辞典「国史大辞典」を購入したのは、漢方医だった家系で、敢えて西洋医学を志した健造先生の並々ならぬ探求心が、医学知識のみならず人間としてより深い教養を得ようと云う明治文化人に共通する気骨のようなものだったのでしょう。

 全国で8800人が予約購入した事が分かる『国史大辞典予約者芳名録』には、山梨県では健造先生以外どなたの氏名が残っているのか、佐滝氏に情報提供をお願いしてみたくなりました。 

2015年5月17日日曜日

杉浦醫院四方山話―418『ー国史大辞典ー物語1』

 「歳ですかねー」などと照れながら自分の興味や趣味として、休日にさまざまな寺社仏閣や資料館、美術館などを計画的に見て回るのを楽しんでいる友人がいますが、最近では、「歴女」とか「鉄女」と言われる歴史マニアや鉄道オタクの若い女性も多いと聞きますから、年齢や性別に関係なく楽しみ方も多様化しているのは「日本も成熟社会に入った」証なのでしょう。

 

 当館にもそう云った方々が「お一人」で訪れる事も珍しくありませんが、過日電話をいただいた佐滝剛弘氏は、現在「全国の登録有形文化財」を回っていると云うお話から始まりました。

 佐竹氏は、埼玉県から「閉館日の土曜日に来てしまった」そうですが、ご存知のように当館母屋には三郎先生の長女・純子さんが生活していて、気持ち良い天気の日には、母屋玄関の障子も開け放すのが純子さんの生活習慣ですから、佐滝氏は母屋が開いていたので声をかけたそうです。

 これもいつものことですが、視力が衰えたとは云え純子さんは「おもてなしの心」を体現していますから、佐滝氏に母屋座敷等の見学対応をしてくださったようです。


 

 母屋座敷の東一面は、造り付けの書棚になっていて、医学書に限らず多種多様な書籍で埋まっていますが、中央下段に納まっていた「国史大辞典」を佐滝氏は見逃さなかったのが、今回の電話の用件でした



 佐滝氏は、NHKディレクターの仕事と並行して、下記のように多くの著書を持つ作家でもあります。(「佐滝剛弘とは・はてなキーワード」から転載)


・ 「旅する前の「世界遺産」」2006.5.文春新書
・ 「日本のシルクロード 富岡製糸場と絹産業遺産群」2007.10.中公新書ラクレ
・ 「郵便局を訪ねて1万局 東へ西へ「郵ちゃん」が行く」2007.6.光文社新書・ 「世界遺産」の真実 過剰な期待、大いなる誤解」2009.12.祥伝社新書
・ 「それでも、自転車に乗りますか?」2011.12.祥伝社新書
・ 「観光地「お宝遺産」散歩 上級者のための穴場ガイド」2012.5.中公新書ラクレ
・ 「切手と旅する世界遺産 = traveling world heritage sites with stamps」日本郵趣出版 2012.9.
・ 「国史大辞典を予約した人々 百年の星霜を経た本をめぐる物語」勁草書房, 2013.6.

 最新刊は、2013年6月発刊の「国史大辞典を予約した人々」であるように佐滝氏は、この辞典の予約購入者約8,800人に配布された『国史大辞典予約者芳名録』を入手したことから、「百年の星霜を経た本をめぐる物語」として、この「国史大辞典を予約した人々」を著したそうです。


  『国史大辞典予約者芳名録』には、予約者の氏名が都道府県別に並べられているようですが、その中には、与謝野晶子、折口信夫、佐々木信綱などの文学者を始め、当時の文化人から商人まで分野にとらわれない多ジャンルの知識人の名前があるそうで、当時はまだ子どもだった太宰治や芥川龍之介らの実家や親が予約をしたことなどを解き明かしたのが「国史大辞典を予約した人々」の内容でもあるようです。



 当館から戻った佐滝氏は、この『国史大辞典予約者芳名録』で「山梨県中巨摩郡 杉浦健造」の名前が予約者として残っていることを確認しての問い合わせ電話でした。

佐滝氏に習って、杉浦家に残る 「国史大辞典」について、佐滝氏の依頼内容や純子さんの話などを基に当話で、数回に分けて物語っていきたいと思います。

2015年5月13日水曜日

杉浦醫院四方山話―407 『地方病研究者・加茂悦爾先生』

 純子さんは「父は、共立病院に加茂先生がいるから、地方病の事は大丈夫だと、よく言っていました」とか「そうそう、加茂先生のお嬢さんは私と同じ純子さんだそうですが、私と違って優秀で、女医さんになっているそうです」と、加茂先生の事は良く話題にされていました。



 その加茂先生は、これまで何度か来館いただきましたが、まとまった話をする時間がありませんでした。今回、加茂先生と林正高先生、梶原徳昭先生の三人がお揃いで来館され、約2時間じっくり話す機会がもてましたので、現役地方病研究者の御三方を順次ご紹介いたします。

左から林正高先生・加茂悦爾先生・梶原徳昭先生

 加茂悦爾先生は、現在巨摩共立病院名誉院長ですが、現在も週一回は外来患者の診察に出ていらっしゃるという現役の内科医です。

 先生の話では「信州大学を卒業して山梨に戻って医者を始めましたが、杉浦三郎先生から働きながらでも研究を深めた方がいいと励まされ、信州大学の「第一病理学教室の研究生」になって、「日本住血吸虫性肝硬変の免疫病理学的研究」をしたそうです。
「櫛形から松本まで車で通いましたが、茅野の辺で渋滞に巻き込まれることが多く、スピード違反で何回か捕まりましたよ」と、気さくに話してくれましたが、医者をしながら週何度か信州大学まで通って、博士論文を書き上げたという探求心とバイタリティーが、現在の若さの秘訣かと思いました。


 今回、加茂先生が持参くださった「お土産」は、言葉や絵図ではなかなか理解しにくい日本住血吸虫の動画映像でした。

 これは、先生が研究の過程で撮影してきたもので、住血吸虫の虫卵が水中で孵化してミラシジウムとなり中間宿主のミヤイリガイに侵入していく様子から、ミラシジウムがミヤイリガイの中で成長してスポロシストへと変わっていく姿、更にミヤイリガイから再び水中に出て、泳ぐように動いて人間や哺乳動物の皮膚から終宿主の体内に入っていくセルカリアの映像まで、日本住血吸虫の成長過程が手に取るように分かる貴重な映像です。



 早速、二階の座学スペースで加茂先生の解説付きで映像を拝見した私は「先生この映像を科学映像館にも提供して・・・」と、お願いしましたら「いやぁ、映像だけじゃ何が何だか分からんでしょう。そういう意味では未完成です。娘の純子が4月に学会の発表があり多忙のようで、それが終わったら、私の解説やテロップを入れた音声入りの映像に仕上げてくれるそうですから、その映像を活用してもらった方がいいと思いますよ」と、お嬢さんとのコラボでDVD化した経緯についても話してくださいました。



 ご高齢の加茂先生ですが、映像を試験的にユーチューブに投稿したり、メールでの迅速な連絡など情報技術にも長けているのも現役研究者の証でしょう。

 既にご来館いただいた方々も含め、日本住血吸虫の生態理解にこの上ない貴重な映像資料が加茂先生父子のご尽力とご厚意で、当館で観賞することが出来るようになりますので、一斉に芽吹き出した庭園ともども見学にお越しください。

2015年5月11日月曜日

杉浦醫院四方山話―417『昭和町赤十字奉仕団の活動と研修会』

  昭和町の赤十字奉仕団の皆さんが、庭園の草取り奉仕に来てくださいました。       

この奉仕団のメンバーは、「住みよい地域社会をつくろう」と云う気持ちを持った人の集まりだそうで、昭和町赤十字奉仕団の会則でも【目的】に『 本団は、赤十字奉仕団規定に定めるところに基づき、すべての人々のしあわせを願い、明るい住みよい社会をきづきあげていくため、陰の力となって、身近な仕事に従事するものとする。』とあります。


 認識不足の私は「赤十字奉仕団」は「日赤奉仕団」であり、「日本赤十字社」の一組織だと思っていましたが、日本赤十字社=日赤は「奉仕団は任意組織なので一切関与していない」そうですから、日赤と云う接頭語を付けるのも間違いで「昭和町赤十字奉仕団」とあるように純粋に赤十字の精神に賛同する方々が赤十字の旗のもとに集い、ボランティア活動を黙々と行う組織だと云うことを始めて知りました。

 もっと恥ずかしい無知は、赤十字奉仕団は女性の集まりだと思っていましたから、当日男性のT氏が現れたのは、てっきり館内見学に来たのだと思ってしまったことです。

 生物学的な性に対して社会的・文化的に作られた性をジェンダーと呼びますが、「日赤の大釜で炊き出し」=女性など典型的なジェンダーで、ジェンダー・フリーにはまだまだその辺の意識改革が必要のようです。








  この日は、奉仕活動と研修会を合わせて行う予定であることを事務局から聞いていましたから、最初に館内見学の研修会をしてと思っていましたが、「陰の力となって、身近な仕事に従事するもの」の目的が浸透しているのでしょう「先に草取りさ」とか「みんなで並んで2m位取って行けば直ぐジャン」と、草取り作業が始まりました。



 草取り作業後、「草取り同様見学会をとおして杉浦醫院の良さを実感していただき、友人知人や他市町村の赤十字奉仕団の方々に広く周知してもらう宣伝部隊になっていただくのも私たちにとっては大きな奉仕活動だから」とお願いして、医院棟見学と土蔵・納屋見学の二班に分かれて研修会に入りました。限りある時間内でしたが、皆さん熱心に見学され、質問から体験談まで相互に有意義な研修会となりました。 


2015年5月7日木曜日

 杉浦醫院四方山話―416『なぜ出せない安全宣言~日本住血吸虫病はいま~』

  前話でご紹介した米山達雄氏の顔写真は、NHK甲府放送局が平成2年に制作したローカル番組『なぜ出せない安全宣言~日本住血吸虫病はいま~』から写したものですが、この映像は411話 『地方病研究者・梶原徳昭氏』 で触れましたが、梶原先生からのお土産のVHSテープをDVDにコピーした映像資料です。

 

 この番組は、国内の有病地の一つ佐賀県が平成2年に「安全宣言」を出したのを受けて、NHKアナウンサー末利光氏が鳥栖市内の筑後大堰などを取材して、山梨県での「安全宣言はどうして出せないのか」を専門家の林正高先生の解説と共に考えていくと云う内容です。

 
 

 山梨県の終息宣言は、平成8年ですからその6年前の番組ですが、佐賀県の安全宣言は、ミヤイリガイが全滅したことを確認したことによることから、当時の山梨県ではミヤイリガイがまだ至る所に生息している現状では「安全宣言はとても出せません」と米山氏も答えています。

 
 

 その後、平成7年に山梨県地方病撲滅対策促進委員会からの「本県における地方病は、現時点 では既に流行は終息しており安全と考えられる」との答申を受け、翌年の「終息宣言」になりましたが、佐賀県の場合は平成2年に「安全宣言」、10年後の平成12年に「終息宣言」が出ていますから、山梨県は終息と安全を一緒に宣言したことになります。同時に最大の有病地帯の山梨の方が佐賀県より「終息宣言」は早かったことも分かりました。

 

 解説の林先生にもこの映像の話をしました所「全く記憶にない」そうで、「NHKなら教育テレビが製作して全国放送した番組は手元にもありますから覚えていますが、末さんと一緒に出演した覚えもありませんけど、25年前の自分が残っているなら出演したのでしょうね」と多忙を極めていた林先生らしい感想でした。

 
 

 約20分の番組ですが、林先生の「この地方病の歴史を伝えていく資料館が県内には必要ですね」と云う閉めの言葉に杉浦醫院に資料提供を惜しまない林先生の現在が重なりました。

当館で、この番組の観賞が出来ますので、来館の折には指定下さい。

2015年5月1日金曜日

杉浦醫院四方山話―415 『米山達雄氏・地方病撲滅に賭けた30年』

 前話でご紹介した横山宏先生からご寄贈いただいた資料の中に横山先生が執筆した「地方病の撲滅に30年間一筋に生きた米山達雄氏の功績を讃える」がありました。

 米山氏については、先の加茂・林・梶原三先生方との懇談の中でも「衛公研には米山さんと云う万年係長を通して、献身的に働いた方がいたねえー」とか「地方病の生き字引だった」等々話題にもなりましたが、平成15年に亡くなったそうで、私が知る「衛公研」の研究者は、薬袋勝氏と梶原徳昭氏が筆頭でした。横山先生の文章から、後輩である薬袋氏や梶原氏を育てたのも米山氏であることも読み取れました。



 横山先生は『「喉元過ぎれば、熱さを忘れる」との警句があるが、地方病終息宣言が出されて約13年を経た現在、県民は地方病の恐ろしさはおろか、その病名まで忘れかけている。まして、地方病撲滅の大恩人である米山達雄氏のお名前を知る県民も少なくなっているのは誠に寂しい限りである』と記し『私は是非とも米山達雄氏の地方病に対する熱烈な使命感と業績を思い起こし、忘却の彼方に消え去っていく偉大な業績を改めて顕彰し、多くの人々の脳裏に何時までも留めて置いてもらいたいという強い願いに駆られているのである』と執筆動機を語っています。

 

 NHK甲府放送局が平成2年に制作した「なぜ出せない安全宣言~日本住血吸虫病はいま~」の映像に米山氏がインタビューを受けて「県内には、まだミヤイリガイの生息も多く、とても安全宣言を出せる段階ではない」旨、答えています。

 
 

 山梨県で「百年戦争」と言われた地方病終息の歴史をたどると、杉浦父子や三神三朗氏など医学関係者のみならず、行政の米山氏はじめ各保健所で検便検査等々に携わった方々、また杉山なかさんはじめとする患者の方々、地域住民から進駐軍まで多くの人々の総合力で、この国から一つの寄生虫病を終息させたことをあらためて実感しました。