2015年5月1日金曜日

杉浦醫院四方山話―415 『米山達雄氏・地方病撲滅に賭けた30年』

 前話でご紹介した横山宏先生からご寄贈いただいた資料の中に横山先生が執筆した「地方病の撲滅に30年間一筋に生きた米山達雄氏の功績を讃える」がありました。

 米山氏については、先の加茂・林・梶原三先生方との懇談の中でも「衛公研には米山さんと云う万年係長を通して、献身的に働いた方がいたねえー」とか「地方病の生き字引だった」等々話題にもなりましたが、平成15年に亡くなったそうで、私が知る「衛公研」の研究者は、薬袋勝氏と梶原徳昭氏が筆頭でした。横山先生の文章から、後輩である薬袋氏や梶原氏を育てたのも米山氏であることも読み取れました。



 横山先生は『「喉元過ぎれば、熱さを忘れる」との警句があるが、地方病終息宣言が出されて約13年を経た現在、県民は地方病の恐ろしさはおろか、その病名まで忘れかけている。まして、地方病撲滅の大恩人である米山達雄氏のお名前を知る県民も少なくなっているのは誠に寂しい限りである』と記し『私は是非とも米山達雄氏の地方病に対する熱烈な使命感と業績を思い起こし、忘却の彼方に消え去っていく偉大な業績を改めて顕彰し、多くの人々の脳裏に何時までも留めて置いてもらいたいという強い願いに駆られているのである』と執筆動機を語っています。

 

 NHK甲府放送局が平成2年に制作した「なぜ出せない安全宣言~日本住血吸虫病はいま~」の映像に米山氏がインタビューを受けて「県内には、まだミヤイリガイの生息も多く、とても安全宣言を出せる段階ではない」旨、答えています。

 
 

 山梨県で「百年戦争」と言われた地方病終息の歴史をたどると、杉浦父子や三神三朗氏など医学関係者のみならず、行政の米山氏はじめ各保健所で検便検査等々に携わった方々、また杉山なかさんはじめとする患者の方々、地域住民から進駐軍まで多くの人々の総合力で、この国から一つの寄生虫病を終息させたことをあらためて実感しました。