2017年3月25日土曜日

杉浦醫院四方山話―501『春を呼ぶ・ホタルの放流』

 山梨の「春を呼ぶ」行事では、南アルプス市で2月初旬に開催される「売っていないものは猫のたまごと馬の角」とも云われている「十日市」が有名ですが、その後大雪が降ったりで、春を呼びきれないこともありますね。

昭和町の「春を呼ぶ」は、この30年、この時期に行われてきた「ホタルの放流」でしょう。杉浦医院庭園では梅が咲き、桜の蕾も膨らみかけていますから、正真正銘、春を呼んでの放流です。


 今年は、20日と22日の両日にホタルの放流会を行いました。

20日は、当館と協働で源氏ホタル復活活動に取り組んでいるNPO法人「楽空(らく)」の放流会でした。毎年、新たな試みでホタルの増殖を図ってきましたが、今年は4月から楽空のメンバーは、休み返上で日曜日にホタル小屋を建設してきました。この小屋は、来年の幼虫を確保する為に種ホタルを採集して産卵させる施設でもあります。

 

 もう一つの目的は、5月下旬に開催される「ホタル観賞会」や「ホタル夜会」に多くのホタルが飛び交うのを観て欲しいという願いからです。楽空でホタル部長をしている古屋さんは、5月中旬から杉浦醫院の池を夜回りして、ホタルの発生数を確認してきましたが、前夜2,30匹確認しても直ぐ4,5匹に減少してしまうことに悔しい思いをしてきました。

夜回りの中で、虫かごと補虫網を持参してくる親子を何組か見かけていたこともあり、この時期、池のホタル採集を楽しみにしている家族の存在に、これでは、肝心の観賞会に寂しい数のホタルしか舞わないので、採集不可能な池以外の発生施設が必要と、「ホタル小屋」建設に踏み出しました。

10か月間飼育してきた水槽に何匹の幼虫が育っているか?メンバーは一匹一匹数えながら幼虫を取り出し、放流しました。1水槽に180匹を確認し、カウント漏れを20匹とし、3水槽分600匹をホタル小屋と池に2分して放流しました。

 22日は、昭和町源氏ホタル愛護会のホタル放流式が当館の庭園池でありました。愛護会メンバー始め、来賓と昭和保育園園児の手から、当館旧車庫の源氏館で、飼育してきた幼虫3水槽分が放流されました。ホタルの幼虫は自然界では、魚やザリガニの絶好の餌でもありますから、石や砂利と区別が使いないように丸まって身を守りますが、水だけになると伸び伸びと歩き回ります。

コップの中の幼虫を見た子どもたちは「これがホタル?」とか「気持ち悪いね」とそれぞれが感想を口にしていましたが、浅川愛護会長から「皆さんが放した幼虫が5月の終わりには元気なホタルになって舞うように気持ちを込めて放流してください」と呼びかけられると「はーい」と答えて池に向かいました。


 20日に放流した楽空分と合わせ約1000匹以上の幼虫が放流されたことになります。池とホタル小屋にほぼ同数の幼虫ですから、5月末の成虫発生数に差異が出るのかも楽しみです。

要は、試行錯誤を重ねて、最終的には庭園の池にホタルが自然発生するのが皆の願いですから、今後も愛護会と楽空の二団体が、お互い協力しあって目的が達成されるよう当館も図っていこうと思います。

先ず、ホタルの幼虫を初めて見た昭和保育園年長組さん28名が放流しました。
 

2017年3月13日月曜日

杉浦醫院四方山話―500『500話雑感又はチェ・ゲバラ』

 先月の山日新聞で、当四方山話が「間もなく500話」と、私の顔写真入りで紹介され、「源氏蛍」と云う源氏名で書いてきたブログですが、顔と名前が割れてしまいました。

チェ・ゲバラの教えに「革命家の条件は名前と顔が割れていないこと」がありますが、革命家に限らず市井を大過なく生きようと思っている凡人にも共通する名言だと「座右の銘」のようにしてきました。

まあ、60歳の定年までは、おおむねゲバラの教えに従ってきたように思うのですが、この仕事に就いてから露出度が多くなり、悩ましいところでもあります。


 杉浦醫院は、県内でも最後発の郷土資料館ですから、先ず、当館そのものの存在を知っていただく周知活動は、率先してやらなければなりません。ホームページもその一環ですから、観ていただく為には、「更新」が欠かせません。ホームページ更新の為のブログ導入もゲバラの「戦術」に学んだつもりです。

 

 また、新聞やテレビなどマスコミは、ホームページ以上の広報効果がありますから、取材には全て応じ、杉浦醫院の周知と来館につながるよう図ってきました。これもゲバラの教え「単発より繰り返し」に従い、その為に展示内容の更新やイベントの開催など取材価値と意欲を喚起するよう取り組み、いつの間にかカメラにも慣れ、カメラ写りまで意識する「堕落」ぶりです。「人間堕ちるのは速い」と言いますが「堕ちるとこまで堕ちれば這い上がるしかない」も真理でしょうから、自分のことはさておき、新たな戦術を編み出すまでは、当ブログも継続しかありません。

 

 振り返って、500話まで継続できたのは、来館者から「ブログを読んで来ました」とか「ブログで新たな資料が入ったようなので取材に行きます」と云った反応が少なからずあることです。

 

 もう6年以上前の4話「寄生虫列車」を読んで、東京から来館いただいた自称「鉄道オタク」さんは、ブログに記載してあった出典本を確認に来たと云う予想もしない目的での来館でした。

その数日後、鉄ちゃんから寄生虫列車の写真や詳細を伝える古い「鉄道ジャーナル」誌の存在を突き止めた旨の連絡をいただきました。それは、「GHQの落とし子 衛生車スミ331≪TORY≫の足跡を追って」と題する早坂元興氏の記事でした。この詳細については追って紹介しますが、寄生虫列車の内部写真もあり、そこには三郎先生も写っていますから、当館にとっても貴重な資料となりました。この場をお借りして、八王子の鉄ちゃん様に御礼申し上げます。


 前々話で『丸山蔵書・地平文庫誕生!』  をお知らせしましたが、さっそく山日新聞と朝日新聞から取材がありました。両記者は、プリントアウトした四方山話を持参してみえましたから、話もスムーズに進みましたが、質問に答えながら「そうか、その視点が必要だったな」と、ブログを書いていく上での基本についても教えられてきたのが取材でもあります。何よりも「次のブログでは何を紹介しようか」 という意識でいると、うっかり見過ごしてしまいそうなことにも眼が行ったり、きちんと調べたりする習慣が少しは身に付いたように思います。そう、ゲバラの「ある日の真実が、永遠の真実ではない」の意味も少し理解できるようになった感じもしますから、何のことはない「僕自身のためのブログ」というのが客観的なところでしょうか。  

 

 先日、ヴァンフォーレが大敗を喫した浦和レッズの応援には、チェ・ゲバラの肖像を掲げた旗が目立ちます。ゲバラは、その思想と行動力に加えカリスマ的な顔立ちも魅力ですが「不屈の精神の持ち主」であったことが人を惹きつけ、サポーターには、最後まで闘えと云う応援メッセージになるのでしょう。

J1で云えば、チェ・ゲバラは、浦和より甲府に必要かつ似合う存在だと思うのですが、やはりV・甲府には「風林火山」の信玄公様サマで十分なのでしょう。浦和には、その地の風土となっている人物が居ないから、アルゼンチン、キューバの英雄が必要なのでしょうか?はたまた、浦和は世界基準の応援ということでしょうか?

2017年3月8日水曜日

杉浦醫院四方山話―499『総合同人誌≪中央線≫』

 前話で紹介した「地平文庫」には、山梨県内の同人や誌友が文芸や評論、紀行文などを寄せて定期発刊されている総合同人誌「中央線」のバックナンバーが揃っています。


 
左側の紺色の6冊は、丸山さんが数冊ずつ合本して保存していた中央線です。
 

 これは、丸山太一氏が「中央線」の誌友として寄稿していたからでしょうが、多くの友人もこの同人誌に作品を発表していた関係で、定期購読して楽しんでいたものと思われます。

 

 総合同人誌「中央線」は、永く韮崎市の山寺仁太郎氏が発行人・編集長の任を務めていましたが昨年他界され、現在は北杜市の蔦木雅清氏が編集長、事務局は甲府の協和印刷社が引き継いでいるそうです。

 山寺氏は、韮崎の井筒屋醤油株式会社の経営者で、同郷の大村智博士と親しかったこともあり、ノーベル医学賞受賞以前から大村博士も12回寄稿しています。名前は本名の「智(さとし)」の音で「哲史(さとし)」とし、「大村哲史」のペンネームが使われています。

 

 大村哲史さんの作品は、ジャンルとしては随筆、随想ですが、全て故郷・山梨や身近な家族などが題材で、天下国家や先端科学を論じるラージAではなく、足元を論じるスモールaで共通しています。

「文は人なり」は、文章を読めば書き手の人となりが判断できると云うことでしょうから、大村博士を象徴するような文章でもあります。

 

 聞くところによりますと、山寺氏との友情から氏の亡き後、大村氏が「中央線」の代表を引き受けたそうですから、今後の「中央線」でも大村博士の文章を読むことが出来るものと思います。

 

 この「中央線」の歴史は古く、大正時代から活躍した熊王徳平、山田多賀一、佐藤森三、清水八束氏等々の県内の文学者・文化人が中心になって結成され、第一次・第二次「中央線」を経て、第三次「中央線」は、昭和43年3月から年一回発行で現在まで継続発行されています。

今回、丸山さんからご寄贈いただいた「中央線」は、上記の昭和43年3月の第三次「中央線」の10号からのバックナンバーです。

山寺氏、丸山氏をはじめ既に故人となられた方々も多いので、貴重な作品や思わぬ方の作品にも出合えますから、山梨の文芸に興味のある方にはもちろんですが、お知り合いや親族の作品もあろうかと思いますので、どうぞ時間を確保してお越しいただき、手に取ってじっくり検索や読書をお楽しみください。

 

 最後に同人「中央線」社の社規の発行趣旨を転載します。

 

 「我々は郷土の文化を愛しこれを広く紹介し、その発展につとめんとす。また文化一般について研究し、創作活動を通して、文化の向上に寄与せんとするものである。この趣旨目的の為に、研究会等を開催し、同人誌「中央線」を発行する。」
 

郷土の文化に対し「発展につとめんとす」「向上に寄与せんとす」と、はっきりした目的と意志を示す「何々せむとす」=「ムトス」が、「中央線」に参加した方々の共通したベクトルだったことを物語っています。

2017年3月1日水曜日

杉浦醫院四方山話―498『丸山蔵書・地平文庫誕生!』

  この度、故丸山太一氏のご遺族から、生前太一氏が収集し、研究してきた木喰上人、微笑仏関係の図書と研究資料の全てを当館にご寄贈いただきました。この中には、日本の仏像や歴史についての図書も多く、木喰上人を大きな歴史の中で捉えようとした丸山氏の思いが伝わります。


 生前からご寄贈いただいた分も含め、これだけまとまった木喰上人関係の資料がご覧いただけるのは、当館が初めてだろうと自負できる内容です。これは、散在させずに全てをまとめてご寄贈くださったご遺族の方々のご高配によりますから、あらためて敬意と感謝を申し上げます。 これも杉浦家と丸山家が「長年、親戚以上のおつきあいをしてきた(純子さんの言葉)」賜物ですから「ローマは一日にして成らず」の重みを感じます。

 

 丸山太一氏は、住いの甲府銀座の仲間たちと「ギンザフォトクラブ」を立ち上げてカメラに「入れあげ」たお話も伺いましたが、後に、総合同人誌「中央線」の誌友となり、「甲州風土記」のコーナーに「木喰仏私観」を連載するなど県内の文化活動には欠かせない存在でした。晩年は陶芸も始め木箱に入った幾つかの作品も見せていただきました。

 

 木喰の「微笑みて 微笑む人に 春の風」の句を好んだのでしょう、色紙や短冊に自ら筆をとり落款と共に「地平書」と記した短冊を頂戴しましたが、太一氏は自分の名前が「大地」の音と同じことから「地平」の名を号としていました。号も現代では、俳句や日本画などを除いては「ペンネーム」と呼ばれ、あまり使用されなくなりましたが、陶芸の木箱にも「地平作」とありますから、丸山さんは、木喰研究には本名の「丸山太一」を使い、趣味の書や陶芸には「地平」を使っていたことが分かります。


  一冊一冊に「丸山蔵書」の角印もありますし、新たな分野を切り拓いたり、先駆者となることを「地平を開く」と云いますから、この寄贈図書の総称を「地平文庫」と命名し、広く活用を図っていこうと思います。

 

 この「地平文庫」は、上記の木喰上人・微笑仏関係の図書と研究資料がメインですが、郷土作家の単行本と総合同人誌「中央線」のバックナンバーが揃っているのも貴重です。

順次、収蔵図書も紹介していきますが、閲覧のみならず貸し出しも可能ですから、ご利用ください。