2013年8月30日金曜日

杉浦醫院四方山話―268 『浮世絵師・中澤年章-3』

 南アルプス市の桃源美術館には、中澤年章画伯が描いた「若尾逸平一代記」と云う屏風絵が展示されています。山梨県立美術館にも中澤作品のコレクターだった旧武川村の故中山嘉明氏が寄贈した作品が多数収蔵されているそうです。

独立間もない頃の中澤年章浮世絵作品 「日清交戦寿語禄」 早稲田大学蔵
平成の大合併で、中澤年章の生まれた旧田富町は中央市になりましたが、中央市教育委員会と旧田富町文化協会郷土研究部の主催で、中央市生誕記念展として「郷土の浮世絵師・中澤年章展」が平成18年4月末から5月にかけ、田富図書館ギャラリーで開催されました。

 田富町文化協会郷土研究部の樋泉明氏は、その記念展に向けて中澤年章の資料を集め、上記のコレクター中山嘉明氏との作品貸し出しの交渉等にあたるなど中心になって企画した方です。
杉浦醫院版「俺は地方病博士だ」の新聞報道を機に中澤年章について、樋泉氏から多々ご教示をいただくとともに記念展開催時の資料が存在することも知り、中央市教育委員会のI氏から、そのコピーを頂戴することもできました。その資料等から中澤年章画伯の足跡をたどってみます。

  
 前話でも画号「年章」の由来等にも触れましたが、江戸末期の生まれの年章が、明治18年22歳で、実弟に家を任せ、妻とも離縁して上京し、歌川派の大家・月岡芳年に師事し、師亡き後、浮世絵師として独立したのが、明治20年代だったことが、年章のその後に決定的な影響を及ぼしたようです。

 浮世絵は、浮世絵師が描いて、彫り師が彫って、刷り師が刷るという分業によって出来上がる日本の伝統文化だった訳ですが、年章が浮世絵師として独立するや、西洋から「石版写真製版」と云う新しい印刷技術が入ってきたことで、浮世絵は旧来の印刷技術であることから、すっかり衰退しまい、絵師たちは活躍の場を失ったと云う不運な歴史と重なり、中澤年章は「最後の浮世絵師」とも呼ばれたようです。

 写真の早稲田大学に残る代表作「日清交戦寿語禄」のように浮世絵師としての才能を高く評価されていた年章は、「浮世絵の衰退」と云う時代の波で悲哀を味わい、明治31年失意のうちに帰郷しました。
中央画壇や浮世絵とも離れ、新たに肉筆画の画家として再スタートを余儀なくされた年章は、甲府市、韮崎市、豊富村、武川村などの知人を頼って、転々としながら筆を握り、当時の風俗や人物画、美人画などを描き続けたそうです。

 

2013年8月29日木曜日

杉浦醫院四方山話―267 『浮世絵師・中澤年章-2』

 右の写真が最終ページの初版と再版の挿絵です。川に入ってミヤイリガイを採集する青年と左手に松明(たいまつ)を持って採ったミヤイリガイを焼き殺す二人組のミヤイリガイ撲滅活動の挿絵が、再版では、下の絵のように変わっています。この差し替え理由は、ミヤイリガイ採集のリアリズムの問題かと思われます。                                          上の絵では、流れる川の中でミヤイリガイを採っていることになりますが、カワニナは水の中に居ましたが、ミヤイリガイは川辺や土手などの湿地帯に潜って生息していましたから、採集するには、川に入っても流れる水の中ではなく、川から土手に向かっていなければ、コイかフナでも採っているように見えるというものでしょう。
改訂された下の絵では、陸上で水辺の採集ですから、合格と云う訳でしょう。

 更に、燃え盛る松明片手に立つ青年は「防火上問題だ」とか、「舎弟を顎で使っている感じ」…と云ったクレームがついたのでしょう。
改訂版では、3人が座した同列の高さで、順番にミヤイリガイを採り、火の番も怠っていないと云った無難な構図に変わっています。

 この挿絵は、1864年中巨摩郡布施村(現中央市布施)に生まれた中澤年章と云う浮世絵師の作品です。江戸に出て歌川派の大家・月岡芳年に師事し、内弟子を経て独立する際、芳年の「年」を授けられ「年章」としたという正統派です。
 前話の改訂版で外された裸の男性の絵も浮世絵の役者絵の表現技術と雰囲気が色濃く残さていますし、今回の初版絵もどこか芝居絵風で楽しめますが、山梨県医師会付属山梨地方病研究部の発行ですから、挿絵にもより正確さを求めた結果でしょう。

 初版、改訂版とも奥付には、挿絵の作家名・中澤年章の記載はありません。絵本形式でこれだけの枚数の挿絵を描いた作家名を表示しないというのも不思議ですが、描き直しを命じられた中澤年章の矜持でしょうか、改訂版の最終ページ右下には、初版には無かった「年章描」のサインがしっかり読み取れます。       
 

2013年8月28日水曜日

杉浦醫院四方山話―266 『浮世絵師・中澤年章-1』

 杉浦醫院版「俺は地方病博士だ」の新聞記事を見て、中央市郷土研究部のT氏から送付依頼がありました。届いてからの電話で「この絵には、年章描くのサインが入った最後の一枚が抜けている」とのご指摘を受けました。

 私もこの「俺は地方病博士だ」は、大正6年5月17日印刷・同20日発行の初版のものと大正6年6月30日改訂再版のものがあることは知っていました。再版では「茶目子」が「茶目吉」に変わっていたり、表紙絵を含めた挿絵の差し替えや枚数も初版と再版では違っていました。
山梨地方病撲滅協力会が2003年に出した「地方病とのたたかい」誌には、再版の復刻資料が、山梨峡陽文庫には初版の資料が全ページ掲載されていますから、両方を比べた結果、初版の資料を基に文章部分を現代表記にしたのが今回の杉浦醫院版でした。

 
 
 この冊子が、面白くユニークなのは、文章の視点や記述のみならず対応する挿絵のインパクトにあると私は思いましたので、初版と再版を比べ、断然初版の方が良いと判断した結果でもありました。
 初版にあったのになぜか再版では外されたり、一部を描き換えた挿絵は、3枚です。
 特に全く違う絵になって、すっかり外されてしまったのが上の男性の裸の挿絵です。お腹に虫が寄生して虫卵の袋でお腹が張った地方病の患者の苦しみを形象した絵は、大変インパクトがありますが、「グロテスクだ」とか「裸は・・・」と云った「教育的配慮」から物議を醸した可能性は容易に察しがつきます。
 

 この絵にとってかわった挿絵が、私には面白くも何ともない下の風景画ですが、当たり障りのない絵を要求され、パッパと描いたのでしょうが、浮世絵師中澤年章の実力でしょう、ウマいなーと感心します。

 発行は、大正6年で、その年に生まれた方でも96歳ですから、その辺の差し替え理由が分かる方はいないでしょうが、この2枚を見比べるとこの国の児童文化のありようや価値基準が1世紀を経ても全く変わっていないことを思い知らされます。

 同じ中澤姓の作家が描いた「はだしのゲン」の描写をめぐるドタバタ劇は現在進行形ですが、作家亡き後のドタバタは、いかにその作品がインパクトがあるかの証明でもあり、作家にとっては逆に名誉でもあるように思いますが、大正6年5月20日に発行された初版が、翌月6月30日には改訂再版された訳ですから、発行して直ぐ挿絵に対するクレームがあったのでしょう。急遽、中澤年章画伯に差し替えの絵を依頼し「改訂」出来た裏では、最後の浮世絵師と称された中澤画伯の腸わたは、煮えくり返っていたことでしょう。
いや、人並み外れた酒豪で豪放磊落(ごうほうらいらく)だったと云う画伯は、「これでまた酒代になる」と応じたのかも知れませんが、何方かその辺の真相を知っている方はご教示ください。
 
 

2013年8月22日木曜日

杉浦醫院四方山話―265 『新聞報道・余話』

 当259話「杉浦醫院版・俺は地方病博士だ」で紹介した冊子について、山日新聞のS記者が取材に見え、過日、記事になり報道されました。
いつものことですが、山日新聞の報道は、直ぐの反響に繋がりますから朝日や読売より間違いなく県内ではメジャーであることを実感します。

 その日の朝「兄弟の分2冊いいですか?」と来館された方をはじめ、県立図書館など複数の図書館からも冊子やデータを送って欲しいと依頼があったり、問い合わせや送付希望が続きました。

その中で、こんな無記名メールも届きました。

本日(8/20)の新聞記事。
主語が杉浦医院で、作成者名が無いのですが ワザと? 記者の未熟さ?         iPhoneから送信・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私のメールアドレスを知っている方ですから、日頃から文章や表記に造詣の深いT先輩からだと決めつけ、次のように返信しました。

Re:本日(8/20)の新聞記事。
チェ・ゲバラ 35歳
山日新聞の若い記者が取材に来て「写真を」と云われた際、小生、記者に「君はチェ・ゲバラを知ってるか?」と尋ねると「はい、革命家ですね」とまともな返事が来たので、「ゲバラの教えに<革命家は無名であること、顔と名前が割れていないこと>があるよね。これ革命家に限らず大切だから写真は勘弁」と願ったところ「名前を出さないようにしますから」が、今日の記事です。S記者、有能だと思いました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

 山日新聞の行政関係の記事では、冊子やマップを持った女性職員の写真が一般的ですから、逃げれると思ったのですがS記者曰く「ワンパターンの写真はデスクにも叱られますから」と写真にこだわった分、意を受けて「主語がおかしな」文章になったようです。

 翌日、同級生で主治医のMドクターから「メールに名前を付けなかったけど届いてる?」と電話があり、T先輩でなくMドクターだったことが判明しました。iPhoneへ直接返信したつもりでいましたが、どうやらPCからの返信は届かなかったようで、上記の経緯を説明しましたが、チェ・ゲバラも医者だったことを思い出し、Mドクターも心臓外科医であり郷土研究家顔負けの文献資料の読み込みとフィールドワークを重ねていることに思い至り、新聞記事の主語の使い方にも疑問を感じる鋭さに脱帽です。

 県立図書館からは、「一冊は郷土資料として永久保存しますから、3冊お願いできますか」と丁重な電話をいただき恐縮しましたが、中央市郷土研究部のT氏からは、この絵を描いた画家「中澤年章」についての情報も寄せられましたので、次話でご紹介いたします。 

 

 

2013年8月19日月曜日

杉浦醫院四方山話―264 『新・蛍幼虫飼育室』

 屋根の吹き替え工事が終わった旧車庫の建物奥半分が、新たなホタルの幼虫飼育室になりました。西側の土蔵と東側の収蔵庫に挟まれ、窓や戸のない車庫ですが、奥の北側は比較的涼しいことから源氏蛍の飼育室に活用することが、整備保存活用委員会でも協議されてきました。
 ホタルの幼虫を飼育して池や河川に放流するまでには、6月の種ホタルの確保から採卵、孵化を経た幼虫に餌を与える作業が翌年の2月まで続きます。この間、餌のカワニナを採集することや水槽管理が必要で、特に暑い夏の水温管理がエアコンの無い部屋では厳しくなります。現在の2名体制で、幼虫飼育は無理だろうと役場幹部は心配してくれましたが、NPO楽空(らく)の鎌田川ホタル部会のメンバーが、今年から幼虫飼育を本格的に始めるにあたり、杉浦醫院と協働で飼育活動をしていくことになりました

 NPO楽空(らく)は、これまでも昭和町源氏ホタル愛護会と協働を進め、ゆくゆくはリニア甲府駅をホタル舞う駅にしようと云う夢構想で活動する昭和町、甲府市、中央市の若い経営者の集まりです。活動も会社が休日の日曜日に限られてくることから、旧車庫は、写真のとおりオープンな造りですから、日曜日にメンバーが集まり自由な作業空間として活用でき、平日は当館で管理し、見学にも応じていきたいと思います。
  愛護会は、これまで通り中央公民館裏のホタル飼育室で幼虫を育てていますから、これで町内二箇所での飼育になります。 また、西条小学校でも子どもたちが飼育活動を始めるそうですから、分散して飼育することで、より多くの幼虫が飼え、飼育失敗のリスクも回避でき、放流個所も増やせますから、来初夏の昭和の源氏ホタルに乞うご期待!

2013年8月17日土曜日

杉浦醫院四方山話―263 『亀谷 了「寄生虫館物語」4』

 亀谷了著「寄生虫館物語」に登場する寄生虫について、一つ一つ紹介していくと当分終わりませんので、興味のある方は、この機会に是非、著書をお読みいただくと、亀谷先生の情熱と寄生虫の本当の生態がお分かりいただけるかと思います。 
要は、寄生虫も宿主に世話になって生きている以上、宿主に害を及ぼして宿主を倒せば自分も生きていけないわけですから、寄生虫なりに「努力?」して、至っておだやかに生きている生物だということを亀谷先生は伝えたかったのでしょう。

 努力の仕方も様々ですが、宿主の体内に寄生する内部寄生虫では、寄生したとたんに「目玉などいらん」と自分の目玉を捨ててしまう寄生虫もいるそうです。どうせ真っ暗な臓器の中で静かに生涯を送るわけですから、キョロキョロする必要もないので、余計なものは捨てて、少しでも宿主の負担を軽減しようということでしょうか?究極の断捨離!元祖断捨離として、寄生虫の潔い身軽な生き方は亀谷先生の人生にも重なります
 

 宿主に実害をもたらす寄生虫は圧倒的に少ないものの存在しますが、その寄生虫も生き抜くために大変な努力をしているようで、日本住血吸虫を例に見てみましょう。日本住血吸虫は、甲府盆地一帯の湿地帯に生息するミヤイリガイを中間宿主に生育して、終宿主の哺乳類の体内に入ります。ミヤイリガイも日本住血吸虫の幼虫も流れが急な河川や水路には生息できませんから、有病地帯では、終息に向けての殺貝活動と共に河川、水路を勾配をとってコンクリート化することで水の流れをつくる溝渠改良工事が行われました。

 
 日本住血吸虫の幼虫は、中間宿主・ミヤイリガイの体内で2世代を過ごすとセルカリアになって、また水中に出てきます。セルカリアは、終宿主に行きつく為に水中を移動する必要から尻尾を持っていますが、人間などの終宿主にたどり着くと必要のない尻尾は捨て、血管の流れに身を任せるという矢張り断捨離派で、落ち着いた先で成虫になります。

 右の写真が、日本住血吸虫の成虫です。オスは1.2から2.0センチ、メスは 1.5から3.0センチとメスの方が大きく、その小さなオスが大きなメスを常に抱きかかえるように仲良くくっついているのが特徴です。
 この成虫は、人間など寄生する宿主の小腸から肝臓へ向かう門脈という血管の中に住み、そこで、宿主の赤血球を食べて生活するわけですが、血管の中は、血液が常時流れている水路と同じで、血液の流れは急流に相当しますから、終宿主に入るやオスはメスを抱き込み?いや、メスがオスに抱きつきか?どの道、流されてバラバラに離されてしまったら子孫が残せませんから雄雌一体となって寄生するという努力を一生涯しているのです。
ミヤイリガイの中での幼虫時は、オスとメスはくっついていないそうですから、血液の流れに抗するため合体して生きた結果、卵もポロポロ産み、宿主にも実害を及ぼすことになってしまったようです。

 まあ、寄生しやすく自在に変化する位の努力は、宿主のおこぼれで生活する以上当たり前かもしれませんが、日本住血吸虫のように生涯、オスメス合体の生活だけは勘弁ですね。

2013年8月13日火曜日

杉浦醫院四方山話―262 『亀谷 了「寄生虫館物語」3』

 目黒寄生虫館の入り口には、高さ2mのホルマリン水槽に全長8,8メートルのサナダムシが、来館者を迎えるように展示されています。このサナダムシも亀谷先生が男性患者から駆除したものだそうですが、これだけ大きなサナダムシが腸に住みついていたけど特に痩せるわけでもなく、苦痛などの自覚症状もなかったそうです。
 日本のサナダムシは、正式名称を日本海裂頭(れっとう)条虫と云い、体幅が1センチ前後で体長は2mから12mにもなる長いきし麺のような寄生虫です。たくさんの節と節で繋がっていて、その一つ一つが生殖機能を持っているので、一日に数センチ単位で大きくなりますから、長さ5~6メートルの成虫は一般的のようです。
体内に8匹のサナダムシが居て、さすがに8匹いると腹痛がしばしばあったことから来院した女子高校生は、全てを駆除したら合計45メートルにもなったそうです。
それでも腹痛以外は、丸々太って顔色もよく健康そうだったので、普通は一人の体内に一匹がサナダムシ寄生のオキテのようですから、一匹なら実害もなく共生できたのでしょうが、間違って八匹も・・・が、腹痛と云う実害にも繋がって、駆除の運命に合ってしまったのでしょう。

 藤田カイチュウ博士は、体内にサナダムシを飼いながらの人体実験を著書や講演で報告していますが、人間を終宿主とするサナダ虫は、栄養を横取りする以外は無害なので、栄養過多の人にとっては、栄養を横取りして、コレステロール値や中性脂肪を激減させるありがたいものでもあります。
この特徴を逆手にとってダイエットにという話にもなりますが、女子高校生のように45メートル飼育していても「丸々」と云った事例もありますから、日本のサナダムシ・日本海裂頭条虫には、効果てきめんのダイエット効果はなさそうです。
 

 サナダ虫でも、西洋のサナダムシ・広節裂頭条虫は、ダイエット効果はあるようですが、その反面副作用も強く、重度の貧血や下痢など生活にもかなりの支障を来すようですし、どちらのサナダムシにも寿命がありますから、思う存分食べながらもダイエット効果を出し続けるには、藤田カイチュウ博士のように「きよみちゃん」とか「ひろみちゃん」とか数代(確か5代目だったか?)に渡って飼い続け、かつサナダムシが嫌うキムチとかの刺激物やお腹を冷やすビールなどは控えてあげないといけないそうですから、生き物を育てる覚悟と愛情が必要で、「いくら食べても痩せられる」と云った虫のいい話は無いようです。

2013年8月10日土曜日

杉浦醫院四方山話―261 『亀谷 了「寄生虫館物語」2』

 左が、現在から14年前の19947月発行の単行本で、右が2001年2月発行の文庫版亀谷了著「寄生虫館物語」です。亀谷先生は明治42年生まれで、2002年に93歳で亡くなりましたから、冥土の旅に文庫本片手に出られた訳で、何だかそれだけで、救われた気分になってきます。
単行本の帯コピーは「迷惑かけない寄生虫生活」と亀谷先生のテーマが前面に出ていますが、文春文庫では「怖いもの見たさ!?」と、文庫戦争を勝ち抜く戦略的コピーが痛ましく、寄生虫を愛した亀谷先生ですから、さぞ苦笑されたことでしょう。
 
 私たち団塊世代では、子どもの頃「虫下し」と云う薬は日常的でした。それだけ当たり前のように回虫や蟯虫がお腹の中にいたのでしょう。その腹いせか「俺たちの世代にはアトピーや花粉症なんて云うヤワな病気はなかったよなー。今のガキにも回虫くらい飼わせればいいんだ」と迷言を吐く経験主義者もいます。その辺の信憑性は、カイチュウ博士として著名な藤田紘一郎先生の著書にありますが、亀谷先生も医者でしたが、寄生虫はダイエットに効くとか、花粉症によいとか云った効能には一切言及せず、せっせと収集した愛すべき寄生虫の生態について、詳細を記しているのが、カイチュウ博士と違う所でしょう。

 一般的には忌み嫌われる寄生虫ですから、亀谷先生も変人扱いされた時代が長く、著書もあまり知られていないのが実態ですが、設立した目黒寄生虫館は、現代ではユニークなデートスポットとしても人気ですし、藤田カイチュウ博士もTVなどでもご活躍ですから、先駆者・亀谷先生の情熱と研究成果は、語り継がなければなりません。

 亀谷先生は、寄生虫に魅了され寄生虫が可愛くてたまらず、この愛しい寄生虫の素顔や本当のことをより多くの人に知ってほしいと夫妻で着る物など一向に構わず、寄生虫館開設の夢に全てを投じた人生であったことが、この本からひしひしと伝わります。
 
  では、次回からの「怖いもの見たさ!?」は、先ず「サナダムシ」と云われている学名「日本海裂頭条虫」から始めましょう。

2013年8月8日木曜日

杉浦醫院四方山話―260 『亀谷 了「寄生虫館物語」1』

 当館には、科学映像館・久米川先生のご尽力もいただき、日本で制作された日本住血吸虫症関係の映像資料は、全てデジタル化され揃っていますので、時間さえ余裕をもって来館いただければ、手軽に観ることができます。映像資料に続き現在、図書資料の収集を始めましたが、購入に先立って内容を調べているとついつい引き込まれ、読み切らずにはいられなくなってしまいます。

 日本住血吸虫が寄生虫であることから、寄生虫関係の図書は、医師や生物学者のみならず農学、水産学の専門家にも研究者が多く、人間だけでなく家畜や昆虫、魚などに寄生する虫を扱っていますので、その活字資料も膨大です。しかし、大部分は「文献」の領域の専門家の研究資料で、不特定多数の来館者には、向きません。
 
  
 杉浦醫院の書架にも主に三郎先生が購入した文献資料が多数残され、書架に入りきらず棚にも溢れています。右の写真は、日本寄生虫学会発行の「寄生虫学雑誌」の束で、三郎先生も日本寄生虫学会の会員だったことも記されています。このような地道な研究成果の蓄積をライターの小林照幸氏が整理して、日本住血吸虫症に絞ってまとめた著書「死の貝」が、読み物として地方病について広く知らしめる効力があるように誰にでも読める図書資料を収集していこうと考えています。

  前にも書きましたが、昆虫や寄生虫の研究者は、総じて皆、面白い人が多く、面白い人が書く文章は、自ずと面白いので、引き込まれてしまうのでしょうが、矢張り、面白い人は、視点が面白いのだということを実感させてくれます。
 特に寄生虫については、その多種多様、多彩な虫に更にその虫が宿る宿主が絡んできますし、中間宿主となる一時の宿主まで登場する寄生虫もあり、より複雑で興味深い関係が一層知の喜びも刺激してくれ楽しめます。

 その代表格として、「寄生虫館物語」の亀谷了氏を先ずご紹介しましょう。亀谷氏は、目黒寄生虫館を独力で立ち上げた開業医であり、寄生虫研究の世界的先駆者、第一人者です。

 日本住血吸虫は、ヒトなど哺乳類を終宿主にする寄生虫で、宿られた人間には迷惑この上ない寄生虫でしたが、「宿主に決して迷惑をかけない寄生虫が、寄生虫の大多数である」ことを亀谷先生は何度も繰り返し、「今日でも人や動物に致命的な害をする寄生虫がいることも確かであるが、それは本来、寄生すべきでない動物に、寄生虫が行ってしまった場合がほとんどである」と、「私、寄生虫の味方です」で一貫しています。暑い夏にゾッとする?そのエキスをご紹介して、「炎天を槍のごとくに涼気すぐー蛇笏ー」といたしましょう。

2013年8月7日水曜日

 杉浦醫院四方山話―259 『杉浦醫院版・俺は地方病博士だ』

 明治37年に桂田富士郎博士と三神三朗氏が、寄生虫・日本住血吸虫を確認し、大正2年の宮入慶之助博士によるミヤイリガイ発見で、感染経路や中間宿主が解明され、杉浦健造、三郎父子をはじめとする先駆者の研究や治療で、地方病の原因や予防法が明らかになると行政と住民が一体になって、地方病に罹らない為の予防普及、啓蒙活動と終息に向けての多角的な施策が実施されました。 
その予防啓蒙活動の象徴的な一つが、山梨県医師会付属・山梨地方病研究部が大正6年5月に発行した「俺は地方病博士だ」です。
 
 
子どもを対象に作られた啓蒙冊子なので、興味をひくよう絵本にするなど、随所に工夫が見られます。
富国強兵の時代を反映して、博士は、「地方病が広がると、国が貧乏になって弱くなり、ドイツどころか支那と戦争も出来ない様になる。地方病は貧国弱兵病だ」と少年に説くなど、説教内容にも歴史性が漂い面白く読めます。

何より、むき出しの上から目線で「俺(わし)は地方病博士だ」というタイトルも「末は博士か大臣か」の「身を立て、名を上げ」が共通価値観だったこの時代を象徴しています。
 
既に著作権も消滅していることから、国民文化祭・昭和町事業「子ども太鼓フェスティバル」に参加された皆さんへの見学資料として、挿絵と内容は忠実に再録しつつ、文章を現代表記に書き換え、必要なルビも付け、現在の小学生にも読みやすくしたのが、この昭和町風土伝承館杉浦醫院版の「俺は地方病博士だ」です。

この冊子で、地方病と日本の歴史を合わせて学ぶことに役立てほしいものと作成しましたが、三神三朗氏のスチブナール研究、普及姿勢に学び、広く開示して、当館まで来れない方々にも一読願えたらと、当ブログ様式に合わせての公開を試みたのですが、私のPCスキルでは、無理でした。
読みたい方や授業等の資料として必要な方は、当館まで申し出ください。データーを添付ファイルにて送付いたします。コピーしたり更に読みやすく改訂していただいても一向に構いませんので、ご活用ください。