2018年6月20日水曜日

杉浦醫院四方山話―545『井伏鱒二と甲州ー2=螢合戦=』

 前話で、井伏の「旅好き」に?をつけ「酒好き」の方が・・・と勝手を書きましたが、確かに井伏作品には流行語にもなった「駅前旅館」や山陽路を舞台にした「集金旅行」など秀逸な紀行作品も著名ですから、「あながち旅好きも・・・」と揺れます。


 前述の「駅前旅館」や「集金旅行」ほど有名ではありませんが、同じく紀行文的短編で編んだ「螢合戦」と云う単行本が1939年(昭和14年)に刊行されています。ここに収められている紀行文も井伏の旅の産物ですが、表題の「螢合戦」始め山梨県内が舞台になっている作品が目立ちます。


 この「螢合戦」は、甲府の常盤ホテルの露天風呂に浸かっていたらホタルが舞い飛んできたことから始まり「甲府盆地の一ばんの低地では・・」と、昭和村一帯のホタルの話に進み、甲州弁の会話で螢合戦当日の村の若い男女の浮き浮き感も味わい深く活写しています。

ですから「螢合戦」は数多い井伏の甲州紀行文の中で、昭和町の前身昭和村が舞台になっている唯一の作品かと思います。



 「螢合戦」の由来は諸説あるようですが、「啼かぬ蛍は身を焦がす」と蛍を燃える恋の思いに喩えたり、蛍を亡くなった人の魂に見立てての和歌も多い中、宇治川の戦いで非業の死を遂げた源頼政の命日に彼の怨霊が蛍となって弔い合戦を挑むというのが京都の「蛍合戦」の伝説です。

 山梨県でもお盆になると「蛍提灯」が売られ、提灯の中には電球や蝋燭ではなく蛍を入れ、その光りを頼りにお墓参りをしたという話を聞いたことがあります。先祖の御霊が蛍になって帰って来ると云う言い伝えで、お墓参りが終われば、霊をあの世に帰すべく蛍も放ったと言います。


 井伏の「螢合戦」は、現在は入手も困難なようですが、井伏鱒二文集‐2「旅の出会い」(ちくま文庫)に収録されていますから、興味のある方はお読みいただくと井伏の甲州通が半端でないことや「旅」と云う概念でよいのかと云う私の?もご理解いただけるかと思います。


 甲府盆地の一ばんの低地・昭和村の蛍から入る「螢合戦」の後半は、確か富士五湖方面の高所の蛍に進む展開でしたから、矢張り井伏は、蛍一つとっても甲州・山梨を隈なく見聞していた訳で、旅の作品も甲州・山梨が多いという事実は揺るぎません。

2018年6月18日月曜日

杉浦醫院四方山話―544『井伏鱒二と甲州ー1=旅好き?=』

た 山梨県立文学館で開催されていた特設展「生誕120年 井伏鱒二展」は昨日が最終日でした。あらためて、井伏がいかに甲州・山梨を好んだかが分かる特設展でしたが、キャッチフレーズの「旅好き 釣り好き 温泉好き」にはちょっと首をかしげました。

 

 それは、「好き」で重ねるなら最初の「旅好き」を「酒好き」もしくは「煙草好き」にすべきだろうと云う私の違和感でした。

本名・井伏満寿二を鱒二とペンネームに魚を入れたほどの「釣り好き」と下部温泉を始めとする県内各所の温泉を作品に結実させた「温泉好き」故に、両方が楽しめる山梨を好んだのでしょう。

私には「釣り」と「温泉」を求めての甲府行=幸富講のように井伏が日本各地を旅することが「好き」だったという印象はありません。

 

 それよりも井伏と云えば「この杯を受けてくれ、どうぞなみなみと注がせておくれ、花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」と訳した「于武陵の勧酒」です。

人間は、くよくよ思い煩いながらより、友と楽しく酒を酌み交わす時間を大事にしなければダメだ。そう、人間はいつかは別れなければならないのだからと云う、井伏の人生哲学がこの名訳に集約されています。

 

 上等なユーモアに裏打ちされた何事にも動じないひょうひょうとした存在感は「体に良いとか悪いとかより好きなものをおいしく食べ」、「飲んで酔わないと体に悪いから飲んだら酔って」と好きなだけ飲み、二日酔いになったら、ぬるい風呂にゆっくり入り、それで酔いが冷めたら、また飲みはじめたと云う井伏の酒好きは、伝説的でもありました。 

 甲府での定宿「梅が枝」での昼からの酒盛りや、ジョニ黒が並ぶ自宅テーブルでの飲酒写真など矢張り、井伏の「酒」は「釣り」「温泉」と同列か上ですから、この3つを同時に楽しむ「旅」が幸富講と命名した甲府行きだった訳で、「旅好き」とは違うかな?と・・・

 

 まあ、今回の特設展では、なぜかジョニ黒をおいしそうに飲む家での写真も当116話「紫煙文化ー2」で紹介した「さあ、一服」の代表的な写真も展示されていませんでしたから、下種が勘繰ると「酒」や「煙草」を県立文学館が「教育的」配慮で自己規制した結果が、「旅好き」に落ち着いたようにも思えます。

 

もしそうであったなら、「余計な気遣い無用、いらぬお世話だ」と井伏もこぼしていることでしょう。

2018年6月11日月曜日

杉浦醫院四方山話―543『平成の日本住血吸虫症』

 山梨日日新聞がシリーズで「やまなしの平成30年」を定期で報じていますが、何回目かに「平成の地方病」を取り上げるそうで、このところ二人の若い記者が入れ替わりでよく取材にみえます。二人とも山梨育ちですが、昭和の末期か平成の始めの生まれと云った感じですから、学校でも「地方病」は教えられなくなった世代で「こんな病気があったことすら知らなかった」そうです。


 そう云えば、ウィキペディアで「地方病」を執筆、更新中の小野渉さんも地元・山梨の題材を執筆していく中で「地方病」を知り、「何も知らなかったことで調べてみようと思った」と執筆動機を語っていました。「知らなかった」故に「学習してみよう」は、「知」の基本ですから、仕事がらみでも次々に出てくる疑問に対処していく若い記者には、こちらも出来るだけの協力は惜しみませんが、逆に問われて確認が必要になることもあり、一緒に学ぶことも少なくありません。


 きっかけは「平成の地方病と云ったら矢張り平成8年に出された流行終息宣言だと思いますが、○○さんにとっては何でしょう?」と問われ「うーん、ちょっと手前味噌になるけど杉浦醫院の開館だね」と答えました。「それは?」「山梨の風土病だった地方病をきちんと伝承していく施設が一つもなかったことが地方病の風化にもつながり、君たちも知らなかったということになったと思うよ。杉浦醫院の開館で、微力ながらも風化の歯止めにはなっていると云う自負はありますよ」と、具体的に答えました。


 「そうですか、その辺の話をもっと聞かせてくれませんか?」となり、取材が続くようになりましたが、新聞社には新聞社の意向があり「こういう方を紹介して欲しい」とか確認内容などからして、杉浦醫院の開館がメインでないことが分かりました。

「まあ当たり前だよな」と応じつつどんな紙面構成になるのか、若い二人の記事を楽しみに待ちたいと思います。


 同時進行で、NHK甲府局の若手ディレクターからの取材と収録も続きましたから、若い記者やディレクターの眼が「地方病」に向き、彼らの問題意識や展開を構想する中で、当館を訪れ取材を重ねた結果が記事や番組となり「地方病」について周知、広報される訳ですから、そういう意味でも風土を伝承していこうと云う杉浦醫院開館の意味はあったのかなと思う今日この頃です。