2012年10月27日土曜日

杉浦醫院四方山話―191 『三木ピアノ』

 昭和8年に昭和天皇に皇太子が誕生した記念に発売され、山梨県では1台、三郎先生が購入したと云う「山葉ピアノ」の販売カタログについて、前話で紹介しましたが、同じ袋には「三木ピアノ」の販売カタログも保管されていました。
「皇太子殿下御降誕!国民歓喜の極み!」と謳い、5つの理由を箇条書きに示し、「三木ピアノが最適かつ理想的記念品となる」と記されています。
「1.子女の情操教育上是非備付の必要になること」「1.家庭にありては音楽は明朗と愉悦の源泉となること」あたりが、三郎先生が購入に至ったキャッチポイントだったのでしょうか? 何故か、山葉ピアノと同じくグランドピアノは「平台ピアノ記念型」とあり、価格も1200円で同じですが、この平台ピアノは学校用とし、竪型ピアノを家庭用と分けています。家庭用竪型ピアノ(アップライト型)は、予約特価520円(正価600円)と平台ピアノの半額ですから、三木ピアノは、家庭用竪型ピアノを販売しない山葉ピアノのスキマを狙ったのでしょうか?
三木ピアノのカタログには、甲府市橘町「功刀楽器運動具店」の印がありますから、三郎先生は、内藤楽器と功刀楽器から予約販売カタログを取り寄せ検討した結果、杉浦家には医院棟があり、その応接室には平台ピアノも置けるスペースがあったことで、敢えて学校用の高額な山葉平台ピアノ記念型が選ばれたのでしょう。
 三木ピアノは、大阪東区に本社があり、支店は神戸市本町通とありますから、主に関西以西エリアで、山葉は静岡県浜松市が本社ですから、東海以北と販売エリアも両社ですみ分けていたのでしょうか?そこで、「カワイピアノは?」と、調べてみると創業者河合小市が「河合楽器研究所」を創立したのが昭和2年、昭和4年に「河合楽器製作所」と改称し、主にハーモニカを製造していたようですから、昭和8年当時はピアノの本格製造には至っていなかったことが会社沿革で推測できます。その点、三木楽器は、明治21年に楽器部創設とあり、書籍業の創業は江戸時代ですから、私が知らなかっただけで、ヤマハと並ぶ老舗でした。
 杉浦家の物品購入は、ピアノに限らず「よいモノを長く大事に使う」姿勢で一貫していますが、今回のカタログも含め付随する木箱や説明書から包装紙まで、きちんと保管されていることにも驚きます。純子さんの話の中に「家訓」と云ったフレーズは、一度も出てきたことはありませんから、大層に家訓として保管されてきたことではなく、当たり前のこととして定着した生活習慣だったのでしょう。強いて言えば、英国人や白州正子に学ぶまでもなく、建物や調度品、収集品から日用品まで、ほんものの生活をきっちり楽しむことが「家風」となって、代々引き継がれてきた結果なのでしょう。ゴミの様なモノが溢れる現代にあって、杉浦家の家風は、大切な教訓を静かに語っているように思います。

2012年10月25日木曜日

杉浦醫院四方山話―190 『山葉ピアノ』

 2年前の今頃、当四方山7話『ピアノ』8話『ピアノ余話』で紹介した、杉浦醫院応接室にある今上天皇生誕記念のグランドピアノの予約販売用カタログが応接室書架の封筒に保管されていました。ハンドメイドの特注生産であることから予約販売先を募る文面には「今や国を挙げての慶賀記念すべき時に際会しピアノの備付が諸学校に於ける絶好の記念たるべき事を確信致します」とあり、主たる販売先は、諸学校に的を絞っていたようです。それは、このピアノの販売価格が、学校特価で1200円、正価は1450円とありますから、個人購入には無理のある高額商品だったからでしょう。そう云えば、昭和も30年代までは、学校は家庭には無いピアノ・オルガン・テレビ・ステレオ・楽器等々の最先端文化備品を誇っていた場所でもありました。
昭和8年当時の物価は、天丼40銭、封書3銭と円の下に「銭(せん)」の単位があった時代で、高級官僚の初任給が75円、小学校教諭初任給が50円だったそうですから、それで換算すると、当時の学校特価1200円は、現代の500万円前後、正価1450円は、600万円前後になります。杉浦家は、学校ではありませんから、正価の1450円で購入したと考えるべきでしょうか?・・・

 確かに、YAMAHAの創業者は山葉何某(失礼)でしたが、この時代には、既に社名は日本楽器製造株式会社で商標はYAMAHAになっていました。ピアノにもYAMAHAとしっかり入っていますが、「皇太子殿下御誕生記念」として売り出す関係上、ピアノは漢字に置き替えられないものの「YAMAHA」は「山葉」と漢字表記して、日本の国体に沿う表現が用いられたのでしょう。ピアノもアップライト型を「竪型ピアノ記念型」、グランド型を「平台ピアノ記念型」と苦心の漢字転換がうかがえます。カタログとは云え、文部省謹作「皇太子殿下御誕生 奉祝歌」の歌詞も3番まで載り、「予約限定台数 全国百台限り」と、あくまでも皇太子誕生を祝しての記念販売であることが強調されています。
「父が甲府の内藤楽器店に注文して購入しました」と云う純子さんのお話のとおり「甲府市富士川町12 内藤楽器店」と押印された専用封筒に納まっていましたから、山梨県の日本楽器代理店が当時も内藤楽器店であったことも分かります。

2012年10月22日月曜日

杉浦醫院四方山話―189 『科学映像館の久米川夫妻来館』

 先日、埼玉県川越市から科学映像館を主宰している久米川正好夫妻が来館されました。定期的にウエイトトレーニングで鍛えている久米川先生は、9月に78歳になられたそうですが、自ら運転して圏央道から中央道経由でお越しいただきました。メールと電話では、十分面識はあったのですが、実際お会いするのは、今回がお互い初めてでした。大学退官後、ライフワークとして消えゆく科学映像の保存に立ち上がり、デジタル保存した映像をインターネットで無料配信する必要からパソコンも70歳から始め、今では科学映像館のホームページの更新から久米さんの科学映像便りと云うブログまで全てをこなしています。ブログには「伝承館」というカテゴリーまで設けていただき、当館の詳細についても発信していただいてきました。現在も国立国会図書館での映像保存体制の確立に向け尽力するなど孤軍奮闘の日々で、「やることは次から次にある」と云う忙しい中を「秋の山梨へドライブがてら・・・」と、良い歳を重ねあったナイスな熟年夫妻は、写真の納まりにも「違い」が表出されています。
 館内見学中も展示の方法や改善策を具体的にご教示いただきましたが、翌日も電話で感想と共に幾つかの貴重な提言とご指導をいただきました。特に醫院の廊下と各部屋への段差については、「つまずいてケガ人が出てからでは遅いので、早急に手立てを打つように」と、口頭での注意は呼び掛けてきましたが「物理的改善が先だったなあ」と反省しました。
これまでも当館のことについて親身なアドバイスを惜しまなかった久米川先生ですから、実際に見学された上でのご指摘は「全てごもっとも」で、感謝感激です。「日記代わりに書いている」というブログにも早速、当館見学と山梨来訪報告が載るなど「迅速さ」も若さの秘訣でしょう。最新のブログ「You Tubeでは日本住血吸虫が・・・」の中でも、「この地方病の原因解明と治療に当たられた杉浦健造、三郎博士親子の診療室が山梨県昭和町の昭和町風土伝承館になっています。行楽のシーズン、ここを訪ねるプランはいかがでしょうか」と発信していただいております。久米川先生これからもどうぞよろしくお願いいたします。

2012年10月18日木曜日

杉浦醫院四方山話―188 『中村不折の軸』

 9月末に掛け替えられた母屋座敷のお軸は、将軍綱宗公御染筆の書画であることを『10月のお軸または遊興放蕩三昧』でお伝えしましたが、所用で母屋に行くと、軸が掛け替えてありました。初めて観る軸なので、カメラを持って再度お邪魔しました。
 見慣れた「不折」の文字が飛び込んできたので「中村不折の南画ですね。不折もあったんですか」と尋ねると「不折をご存知でしたか。祖父が買ったものだと思いますが、私にはよく分かりませんが・・・」と純子さん。中村不折については、当四方山話―61『二葉屋酒造・奥野肇』 でも触れましたが、市川大門にも滞在していましたから、健造先生と交流があった可能性も考えられます。何せ二人とも「慶応2年」の生まれでもありますから。
中村不折は、パリで学んだ洋画家ですが、中国文化にも造詣が深く書も多く残したことで知られています。 
 現在でも「月餅」の新宿中村屋のロゴマークは、不折書の文字ロゴですから、見覚えがあることでしょう。
信州諏訪の宮坂醸造の清酒「真澄」も不折書です。
「栴檀」同様主張しない味わい深い書体は飽きない名筆で、書家としての作品が著名ですが、画家としても夏目漱石の「吾輩は猫である」の挿絵は、不折の代表作品にもなっています。
 東京台東区にある区立書道博物館は、不折がその半生をかけて独力で蒐集した、中国および日本の書道コレクションを展示する専門博物館で、開館以来60年にわたって中村家により維持・保存されてきましたが、平成7年(1995)12月に台東区に寄贈され、本館と新たに建設された中村不折記念館で構成されています。ここでは、多くの不折の作品を鑑賞することが出来ますが、「書」と「洋画」が中心です。また、山梨県立美術館で、以前開催された玄遠書道会作品展でも県内にある不折の作品を一堂に集めた特別展を企画した折、見学しましたが、書作品だけでしたから、杉浦家の「南画」は非常に貴重な作品だと思います。その上、大変丁寧に細かく描きこまれた作品が、きれいに保存されていますから、書道博物館でも欲しい名品だと思いますが、これも健造先生の趣味の良さ、高さを物語る杉浦コレクションとして母屋に掛けられるのが一番なのでしょう。

2012年10月17日水曜日

杉浦醫院四方山話―187 『書架は語る』

 前話と前々話で、「東郷平八郎の書」は、8代目健造先生が求め、「朱呂竹(棕櫚竹)」は9代目三郎先生が育てていたことをご紹介しました。
健造先生が収集した数多くの書画骨董は、東郷平八郎に限らず「一家を成した」著名人や歴史上の人物になっている方の物が多いのも特徴です。だからといって健造先生が、時の有名人や成功者、権力者を好んだ事大主義的な人間だったのかと言うとむしろ「自分も同等な大きい人間だ」と思う自大野郎的発想とは無縁な趣味人だったと私は感じています。
 例えば、先生の書庫には「東郷平八郎全集全3巻」が医学書や文学書と一緒に納まっています。健造先生は、この全集で東郷平八郎の生い立ちから元帥海軍大将となった過程を学び、その職に対する責任や覚悟を読み、尊敬の念が高じての自筆書の購入であって、時の大将の書だから求めた訳でないことを裏付けています。      
 また、自分でも歌を詠み、書画を書いた健造先生だからこそ、その道の先人や大家の書画にも興味と審眼を備え、鑑賞することの愉しみも心得ていたのでしょう。山梨西条村の開業医が、医学研究と合わせてこのような高度な文化的趣味にお金を投じていた事実も思えば愉快で、誇りとして伝承していく必要があるように思います
 三郎先生も医院長室の机に「入門 観音竹と棕櫚竹」を置き、「品種・栽培・繁殖」について、研究しながら育てていたようです。純子さんは、「父は、俺は朴念仁だからと云って、祖父のように書画には興味を示しませんでした。開業医でも学会には毎年参加して、よく植物をお土産に買って来ました。朱呂竹は、確か横浜で買ってきたようですし、北海道に行った時はスズ蘭を買ってきて、池の周りに植え、たくさん増えましたが、除草剤をまいた時全滅してしまいました」と、三郎先生の趣味は煙草と園芸だったようです。
 「一般教養」と云った言葉も死語になりつつありますが、杉浦家の書架は、複数の美術全集や文学全集から歴史書、教育書、クラッシック音楽のレコード等々まで、「朴念仁」故に幅広い文化を愉しんだ「一般教養の深さ」を物語っています。

2012年10月14日日曜日

杉浦醫院四方山話―186 『朱呂竹』

 アピオのロビーで見かけた方もいらっしゃるかと思いますが、杉浦家の母家玄関先に並んでいた朱呂竹が、長い間アピオの館内を飾っていましたが、2鉢戻ってきました。アピオでは、常時室内の観葉植物でしたから、枯れてしまった鉢もあり大きな空鉢も同時に3鉢戻ってきました。
 三郎先生は、この朱呂竹の越冬用に裏に温室小屋を造り、冬の寒さで枯れないよう育て、株分けして多い時は10鉢位が、玄関先に一列に置かれていました。男4人でやっと持てる重さですから、三郎先生亡き後は、管理も大変になりアピオにお任せしたそうです。純子さんを訪ねてきた方も「懐かしい朱呂竹が戻って、昔の玄関を思い出しました」「やっぱり、この竹はここが一番ね」と喜んで話題にしてくれます。
昔のように母屋の玄関先に2鉢並べてと思いましたが、純子さんは「折角ですからお客さまも多い病院の方でお使い下さい」と譲りませんので、それぞれの玄関を一鉢ずつが飾るよう置きました。
「定期的に株分けしないと根の勢いで鉢が割れてしまうこともありました」
「父は、所詮竹だから水さえやっていれば枯れることはないと水をよく掛けていましたが、そのせいで、あの頃は玄関先には大きな蚊が多くてよく刺されましたから、いい思い出ではありませんので、どうぞそちらで」と、純子さんの気遣いは大変奥深いので額面通り受け取っては…と思いつつも自然な感じで落ち着くところに納まるのが常です。
 純子さんの広く温かい交流から杉浦家のコレクションは、アピオに限らず何箇所かに所蔵されていますので、これを機に行き先のリストづくりも必要かなと・・・

2012年10月12日金曜日

杉浦醫院四方山話―185 『東郷平八郎の書』

 三郎先生が懇意にしていたアピオの秋山社長(当時)からの要請で、杉浦家所蔵の朱呂竹や屏風などがアピオのオープンを飾りました。アピオの経営母体が代わったことから、この度、何点かの貸与品が純子さんのもとに20数年ぶりに戻ってきました。純子さんは「私はもうよく見えませんから、病院でお使い下さい」と、預かった額は、ご覧の東郷平八郎の書「心水の如し」です。純子さんは「父は、よくウチにあるものは偽物ばっかりだと言っていましたから、これも本当に東郷平八郎のものか?偽物でしょう」とおおらかな謙遜は、文字通り心水の如しです。
 東郷平八郎の書は、書家や収集家の間では高い評価と値段が付いていることでも有名ですが、「忠勇」とか「義烈」といった、元帥海軍大将にふさわしい文字の書が多い中、「心如水」と云った心境を記した書は貴重でしょう。この書は健造先生が求めたものだそうですが、医者の求めに応じて選ばれた「言葉」かも知れません。
 ネット上に、「明治40年5月、当時の皇太子殿下(のちの大正天皇)の山陰行啓のお供をされた東郷平八郎が、殿下のご宿舎となった建物を「仁風閣」と命名して書かれた直筆の書」が、ありました。鳥取市の「仁風閣」の額です。
ド素人の私でも書体や文字配置、東郷書サインと落款印代りのマーク?は同一で、「偽物」どころか、「仁風閣」より気合と心が感じられる「書」だと「鑑定」出来るのですが・・・これも然るべき鑑定を受けると、数百万の値が付く、杉浦コレクションの一つでしょう。純子さんから預かって、医院応接室に置いたところに書家でもある若尾敏夫先生が来館され、この額に目が留りました。「この字は凄い。特に水の字の勢いとバランスは見事だねー」と驚嘆され、「アピオにあった東郷平八郎の書だそうです」と伝えると「一家を成した人の書は迫力が違うから」と若尾先生も控え目ですが、今年の昭和町文化祭に出品されていた若尾先生の作品も「一家を成した人の書」だと私は感服しましたが・・・早速、直射日光が当たらない医院2階の座敷に掛けましたので、ご鑑賞下さい。

2012年10月6日土曜日

杉浦醫院四方山話―184 『10月のお軸または遊興放蕩三昧』

 昨年の9月末から10月にかけては「養老の滝」の軸が座敷に掛けられましたが、今年は「将軍綱宗公御染筆」と木箱に書かれた茶軸です。
 筆で書く書画を染筆(せんぴつ)と云いますから、それに「御」をつけて丁寧に持ち上げているのは、将軍綱宗の書いた書画だからでしょう。この将軍綱宗は、山本周五郎の歴史小説『樅ノ木は残った』にもなった江戸時代前期、仙台藩伊達家のお家騒動「伊達騒動」の中心人物で、歴史的評価は至って低い感もしますが、個人的には好きな歴史上の人物です。
仙台伊達家のお家騒動は、仙台藩3代藩主・伊達綱宗の遊興放蕩三昧を許せない叔父の伊達宗勝が策動して、幕府を動かし21歳の綱宗に隠居を命じ、2歳の息子を藩主にさせ、叔父宗勝が実質権限を握ったと云うのが大筋で、諸悪の根源は綱宗のご乱行だというのが定説になっているようです。
 前話で触れた天野祐吉のラジオ深夜便「隠居大学」は、毎回多彩なゲストを迎えての対談が人気で「隠居のススメ」を説いている現役老人ですが、21歳で隠居生活に入った綱宗の前では、ヒヨッコでしょう。『武士は食わねど高楊枝』に代表される精神論や正論は、いつの時代でも形や対象を変えてまかり通ってきましたが、江戸時代と言う封建の世にあって、オノレの道を通した綱宗と正論で綱宗排斥に暗躍した?宗勝では、綱宗に惹かれます。どうも「遊興放蕩三昧」という六文字熟語は、「アイツは遊んでばっかりでどうしようもねーじゃん」と否定的評価に使われるのが一般的ですが、京都祇園のお茶屋遊びを江戸の「粋(いき)な客」と上方の「粋(すい)な客」が支え、単に金持ちの遊興放蕩としてではなく、舞や芸を愛で、酒宴をたしなみ人間同士の繋がりを大切にする独自の「おもてなし文化」を形成してきたことは京都の雅として定着しています。娯楽時代劇で正義の黄門さまの敵役と言えば田沼意次か柳沢吉保が定番で、甲府藩主としての柳沢吉保の評価も「遊び人」で芳しくありませんが、吉保は和歌に親しみ数々の詩歌を甲府でも残し、名園・六義園は、吉保自らが設計したと云う和歌の趣味を基調とする「回遊式築山泉水」の大名庭園です。文化的素養は、遊び心や放蕩で一層磨きがかかるのも確かで、現象的なありようで裁断され、真実が歪められてしまうのも世の常でしょうか。21歳で隠居を余儀なくされた将軍綱宗の書画は、秋の月を奥深く詠み、見事な書体に一筆で滲ませた月の画も味わい深く、遊興放蕩三昧の授業料なくしては醸せないものでしょう。

2012年10月5日金曜日

杉浦醫院四方山話―183 『今年の十五夜シリーズ』

 今年の十五夜は、9月30日(日)で、台風の県内通過と重なりましたが、通過後急速に晴れた夜空の満月は見事でしたね。昨年も9月21日の四方山話―78話『十五夜』で、印傳屋の全面広告を話題にしましたが、著作権の関係でしょうか、今年の作品はネット上では見ることが出来ませんが、山梨広告協会 第40回山梨広告賞のサイトにモノクロ部門で優秀賞に輝いた昨年度の作品がありました。
 3・11から半年後の「15夜」に合わせ、大震災を忘れないメッセージコピーを付けた「15夜シリーズ・印傳屋」の全面広告は、甲府盆地の夜景と満月の合成写真を含め全国発信するにふさわしいセンスで、山梨広告賞も当然でしょう。山梨広告賞の作品は、県内の制作者によるものに限られているそうですから、甲府の夜景の良さも熟知しているから出来る合成写真のように思いました。
 今年の「15夜シリーズ」は、猛暑をやり過ごす日本人の知恵についてのコピーでしたが、合成写真にやや不満が残りました。それは、下駄が置かれた沓脱石の写真が、いま一つコピーの雰囲気を伝えきれていない、沓脱石の撮影場所が良くないのだと感じたからです。県内の制作者ならば、沓脱石の置かれた玄関や座敷の撮影場所として、杉浦医院主屋が浮かばなかったのか・・・こちらのPR不足もあるのでしょうが、杉浦醫院を知らないというカメラマンやプランナーは、是非見学して、活用を図っていただきたいものです。
また、沓脱石に置かれた下駄も写真用に用意した新品の2足で、リアリズムに欠けました。手前味噌になりますが、当ブログ154話『草履・下駄-2』でご紹介したように「もってこいの下駄」もありましたから残念です。
広告文化の批評家として『広告批評』を主宰する天野祐吉は、ウエットに富んだ含蓄あるコラムニストとしてご活躍ですが、最近の話題はテレビコマーシャルが中心で、ここにも紙媒体の衰退を感じていましたが、9月30日付けの新聞がありましたら、今年の15夜シリーズと昨年の作品を比較して紙媒体の良さもお楽しみください。

2012年10月1日月曜日

杉浦醫院四方山話―182 『西高放送部』

 現在の甲府西高は、私の高校時代には、甲府二高という女子高でした。二高の学園祭に水泳部仲間と行った記憶があるのは、そこで、当時3年生で巨人に入団が噂されていた甲府商業の堀内恒夫が、野球部仲間と連れ立って来ていて、「何だ堀内も人の子だなー」と皆で笑った思い出と詰襟の学生服でもトレードマークの首のホクロを拝観できたという収穫があったからでしょう。二高の前身は、甲府高女ですから、純子さんの母校で、「私は榎からボロ電で通いましたが、母も甲府高女でしたが、母はここから寿町(現文化ホール)まで歩いて通ったそうです」と話してくれました。
 甲府西高放送部のメンバーが今回は制服で、腕に放送部の青腕章を巻いて取材に来ました。 前回は、「高校生でこんなに熱心な子達も珍しいな」と思うほど興味を示しながら見学し、DVD鑑賞後も新聞資料に目を通しているので「何か質問は?」と聞くと「実は、西高の放送部で、地方病と杉浦医院をテーマに番組を作り、今年のコンクールに応募しようと思って来ました」と、「最初にそれを言えば、そう云う視点で案内したのに」と言うと「すいません」と素直な反応が新鮮で、資料の貸し出しや取材に協力する旨、話した結果の再訪でした。
 「今日もよろしくお願いします」と礼儀正しく「さすが純子さんの後輩だね」と褒めると「今日は、純子さんにもインタビューをお願いしたいんですが、大丈夫でしょうか?」と今回は一日の予定を最初に告げ、撮影や資料の確認などにとりかかりました。
 「子どもに誤魔化しはききませんから、子どもにこそ本物を見せたり、本当のことを教えないと」と常々云っている純子さんは、「こんな家でも若い方が入ると生き返ると父も若い方を歓迎していましたから、こちらへどうぞ」と母屋にテーブルやお茶まで用意して高校生のインタビューに応じてくれました。
高校生も最初のうちは正座していましたが「足がしびれたので」と・・・「足は伸ばしてください。しびれを我慢すると貧血を起こすこともありますから」と純子さんの話は、医学的説得力での優しさも特徴です。高校生のとっさの質問にも「流石純子さん」と言った応答の一時間でしたが、日本家屋の座敷で、きっちり正座して、きれいな言葉で丁寧に対応する大先輩を目の当たりにした事は、コンクールでの結果以上に貴重な体験となり、私のお粗末な堀内目撃記憶とは異次元な高校時代の良い思い出として残ることでしょう。