2018年7月23日月曜日
2018年7月11日水曜日
杉浦醫院四方山話―548『童連=山梨児童文化連盟-1』
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月6日の深夜から7日にかけて、アメリカ軍爆撃機B-29が焼夷弾等で甲府の市街地を焼き尽くした「甲府空襲」は、日付から「七夕空襲」とも呼ばれています。
甲府空襲の体験者も年々減っていく中「山梨平和ミュージアム」は定期的に企画展を組んだり、この時期にも講演会を開催するなど「風化」に抗した取り組みを継続しています。
山梨県内の新聞やテレビでも毎年七夕の前後に「甲府空襲」を語り継ぐ記事や番組が組まれ、報道されるのが恒例となっていますが、いささかマンネリ気味なのは、戦後も70年以上が過ぎると既に話題も掘り起こし出尽くした状態なのでしょう。
そんな中、今年は7月5日付け読売新聞山梨版に「へぇー」と云う記事が載りました。
中心になって取り組んでいる平原国男氏の承諾を得ましたので全文を転載させていただきます。
ー読売新聞山梨版からの貼り付けー
甲府空襲 希望の児童劇団「童連」
OBら記録残す取り組み
甲府空襲の焼け跡の中で、子どもに夢を持ってもらおうと設立された児童劇団「童連 」の記録を、劇団員だった東京都多摩市、平原国男さん(83)らOBが残そうと取り組んでいる。
空襲当時、平原さんは国民学校5年生。空襲は初めてで、「爆弾が落ちてくる『ヒュー』という音を聞くと、全部自分の家に落ちてくるように思えて怖かった」と振り返る。火の手から逃れるために、姉と一緒に真っ暗な荒川の土手を駆け降りていると「ばかやろう!」とどなられた。夜が明けると、土手に横たわっていたのは無数の遺体や重傷者。「気づかないうちに踏んでしまっていたのでしょう」
無事だった家族と市内の旅館に仮住まいし、2年ほど過ぎた。街では、空襲でがれきとなった砂糖問屋の倉庫に戦災孤児が群がり、焼け焦げた砂糖をなめていた。その姿を見た歯科医が「生きることや将来に夢を持ってもらおう」と考え、一緒に子ども向けの絵本や童話を作っていた小学校教諭らに相談し、賛同者が集まって「童連」を設立した。
平原さんは、通っていた小学校の教諭に「子どもの劇団ができるからやってみない?」と声をかけられた。児童約50人が集まり、「劇部」「音楽部」「舞踊部」に分かれて練習を始めた。歌や踊りが得意でなかった平原さんは劇部に入った。放課後に市内の小学校に集まり、教諭らの指導を受けながら「風の又三郎」やオリジナルの劇を練習した。「先生が裏方になって舞台装置を作り、衣装は親が作るなど全て手弁当だったが、とにかく楽しかった」。本番が近付くと週に2~3回練習した。
初演は1947年、県議会議事堂で行われた。その後、毎年春と秋には映画館で1~2日ずつ上演。ステージでは、明るいメロディーと「希望豊かに胸張って」「楽しい日本はもうすぐだ」という歌詞の「かおる花束」などのオリジナルの歌も歌った。入場は無料で、1回の公演に数百人の子どもが集まったこともあり、平原さんは「娯楽に飢えていた時代だったので、いつも超満員だった。延べ1万人は見てくれたと思います」と思い返す。
戦後の混乱が落ち着いた50年頃、童連の活動は終わった。劇団員として約100人の子どもが活躍したが、転居などで散り散りとなったまま時が流れた。
東京在住のOBが童連で指導してくれた人を訪ねた際に「みんなで集まろう」という話になり、90年に甲府市内のホテルでOB会を開くと「空襲後の甲府市に文化活動があったことを記録として残しておきたい」という話が持ち上がった。間もなく、平原さんらOB20人が発起人となって「童連のあゆみを記録する会」を作った。2~3年をかけて、市内に住んでいたり各地に引っ越したりしたOBに呼びかけて、当時のプログラムや新聞記事の切り抜き、写真などを段ボールひと箱分ほど集めた。
しかし、資料集めを担当したOBの死去や転居のために多くの資料は行方不明に。それでもコピーは手元に残されていたため、平原さんら発起人は「OBが元気なうちに何とか本にまとめたい」と、再び資料の整理を始めた。当時、童連の舞台を見た人の感想なども盛り込もうと、OBたちで話し合いを進めている。
平原さんは「甲府空襲は悲しい記憶だが、童連は人々の心をいやしたと思う。焼け野原に文化の花が咲いた歴史を次世代に残したい」と話している。(荒谷康平)
■甲府空襲 1945年7月6日深夜から7日未明に行われ、「七夕空襲」とも呼ばれる。米軍が大量の焼夷 弾と爆弾を市内全域に投下し、市内の全住戸約2万5000戸のうち6割以上が焼失、市民ら1127人が犠牲になるなど、戦時中の県内では最大の被害となった。
2018年07月05日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
ー貼り付け終わりー
6月30日(日)に山梨平和ミュージアム主催のシンポジュームに参加した平原氏は、終了後、取材に来ていた報道各社の記者を集めて「童連」の存在と活動を話し、資料収集についての協力を呼びかけたそうです。
その中にいた読売の荒谷記者が、すぐ反応して平原氏が住む多摩市まで取材に来て書いたのが上の署名記事です。
平原さんは「山日新聞が乗ってこなかったのはちょっと寂しいね」と吐露していましたが、「童連」の関連資料を集めていく上では、山日新聞は矢張り一番資料もあり、頼りがいがあると期待するのは自然でしょう。
2018年7月5日木曜日
杉浦醫院四方山話―547『NHK・ヤマナシ・クエスト』
NHK甲府放送局のH・Pからのコピーです。 |
NHK甲府放送局が県内各所で取材し、地域に根差した話題や課題を特集して月一回提供している番組が「ヤマナシ・クエスト」です。4月から何度か当館にも取材にみえたOディレクターは、甲府局に配属が決まってから温めていたのが「地方病」だったそうで、甲府局の資料室で「地方病」に関連する過去の番組やニュースも全て観た上での取材でした。
若いO氏が、敢えて今回「地方病」をQUEST(探索・探求)して、番組にしようとしたのは、山梨で風化の一途をたどっている「地方病」を新たな視点で見直し、多くの県民に知らせたいと云う情熱からのように感じました。
その新たな視点とは、山梨県外の視点の導入でしょうか?
当館が「地方病」を伝承していく視点は、一貫して「解明」と「終息」に果たした山梨県民の苦難の歴史とそれを乗り越えた業績と功績、そこに内包されている物語が主なテーマです。
それは、これだけ特有な「病」を有耶無耶にしてきた山梨県の地方病への歴史認識に対する杉浦醫院を有する昭和町の姿勢とも言えます。
「地方病は終わった」のは確かですが、一世紀以上にも及ぶ地方病との闘いの歴史は、終息宣言で終わっている訳ではありません。
今回のNHKの番組がどんなテーマでどういう構成になるのかは分かりませんが、Oディレクターの取材内容からすると、山梨特有の風土病だった「日本住血吸虫症」が、世界に眼を転ずれば、まだまだこの病で苦しむ多くの人たちがいて、山梨で終息させたその歴史や方法を学び、母国の患者救済と終息を願うアジアの研究者が、ヤマナシで地方病を学ぶ意味や姿も紹介されるのではないかと期待しています。
なにはともあれ、Oディレクターの熱意がどう番組に凝縮されるのか?楽しみに放映を待ちたいと思います。
放映日は、NHK総合 7月20日(金)午後7時30分からの「ヤマナシ・クエスト」です。
2018年7月1日日曜日
杉浦醫院四方山話―546『井伏鱒二と甲州ー3=幻の随筆=』
過日、山梨文芸協会総会が県立文学館で開催されました。
例年、総会に先立ち記念講演会を開いているそうで、事務局の蔦木さんから、この講演会の講師依頼を5月の始めにいただきました。
参加者が文芸協会の方々で文学館が会場なら「ちょうど井伏鱒二展を開催中なので、地方病と井伏鱒二についても触れた話をします」と応えました。
後日、持参くださいましたチラシを見ると演題は「井伏鱒二と日本住血吸虫症」となっていましたので、看板に偽りがあってはいけないと急きょ看板に合わせた内容の資料とレジュメを用意しました。メインは井伏の友人でもあった大岡昇平の「レイテ戦記」にまつわる後日談ですが、その辺については、当ブログでも何度か紹介してきましたので、詳細は下記をクリックしてお読みください。
杉浦醫院四方山話―422『大岡昇平「レイテ戦記」と補遺ー1』
杉浦醫院四方山話―423『大岡昇平「レイテ戦記」と補遺ー2』
杉浦醫院四方山話―424『大岡昇平「レイテ戦記」と補遺ー3』
要約するとは、甲州をこよなく愛した井伏が、山梨でのかかり付け医・古守豊甫医師を通して聞いた、レイテ戦記に欠落している地方病の記述について、林正高医師の指摘を大岡昇平に連絡したことに始まります。井伏からの連絡を受け、大岡も甲府を訪れて両医師から取材した内容を中央公論・昭和63年1月号に「日本住血吸虫症ー「レイテ戦記」補遺Ⅱ-」と題して発表しました。山梨の医師二人と井伏を介しての大岡の対応や経緯と補遺に対する林医師と大岡氏の見解の相違などについて話しました。
その補遺の中で、井伏は大岡宛に日本住血吸虫症について随筆5枚を書き送ったことも記されています。これが「井伏らしい大変な名文」だから、大岡は「自分が補遺を出す前にどこかに発表してくれ」と頼んだそうですが、井伏は「これは大岡にだけ記した文なので、どこにも発表しない」と云い、それを受けて大岡も「では、私も一切引用しない」と決めたというエピソードも披露されています。
大岡の補遺が、全体的に随筆風な記述になっているのは、引用はしなかったものの事前に受けた井伏の随筆5枚が影響したのかもしれません。大岡はこれを発表した年の12月に亡くなっていますから、前年8月の甲府での聞き取りも「耳が遠くなって」とか「私は歩行失調で・・・」と書いているように井伏からの連絡に応えるべく、老骨鞭打っての強行と云った感も行間に滲んでいます。
そんな文士らしい両作家の姿勢も紹介しながら、つい口が滑ったのでしょう「お二人も既に故人となられていますから、この幻ともいうべき井伏の地方病随筆を何とか杉浦医院で発掘してみたいと思っています」と当てもない大風呂敷を広げてしまいました。
まあ、是非読んでみたいと云う私の前々からの思いが言わせたのでしょうが「井伏鱒二展を企画出来る県立文学館に是非動いて欲しいところです」と辻褄を合わせましたが、有言実行で当館でも何らかの手立てを考えていこうと思います。
講演終了後、山日新聞文化部の女性記者から取材を受けましたから「そうだ、天下の山日新聞だったらルートもあるでしょう。是非、井伏の地方病エッセイですから山梨で発掘したいですね」と山日新聞にもお願いしておきました。
井伏鱒二には、生まれ育った広島県片山地方も上京後よく訪れた山梨も共通して日本住血吸虫症の有病地帯だったことが山梨に慣れ親しんで多くの作品を残した一因であったことも確かでしょう。
尚、大岡昇平の「日本住血吸虫症ー「レイテ戦記」補遺Ⅱ-」が載った「中央公論・昭和63年1月号」は、県立文学館1F資料室もしくは当館でコピー可能です。
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