2018年7月11日水曜日

杉浦醫院四方山話―548『童連=山梨児童文化連盟-1』

 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月6日の深夜から7日にかけて、アメリカ軍爆撃機B-29が焼夷弾等で甲府の市街地を焼き尽くした「甲府空襲」は、日付から「七夕空襲」とも呼ばれています。


 甲府空襲の体験者も年々減っていく中「山梨平和ミュージアム」は定期的に企画展を組んだり、この時期にも講演会を開催するなど「風化」に抗した取り組みを継続しています。

 

 山梨県内の新聞やテレビでも毎年七夕の前後に「甲府空襲」を語り継ぐ記事や番組が組まれ、報道されるのが恒例となっていますが、いささかマンネリ気味なのは、戦後も70年以上が過ぎると既に話題も掘り起こし出尽くした状態なのでしょう。

 

 そんな中、今年は7月5日付け読売新聞山梨版に「へぇー」と云う記事が載りました。

中心になって取り組んでいる平原国男氏の承諾を得ましたので全文を転載させていただきます。


ー読売新聞山梨版からの貼り付けー


甲府空襲 希望の児童劇団「童連」

OBら記録残す取り組み



踊りを披露する「童連」の子どもたち。客席は観客でいっぱいになっている(平原さん提供)
踊りを披露する「童連」の子どもたち。客席は観客でいっぱいになっている
(平原さん提供)
 

 甲府空襲の焼け跡の中で、子どもに夢を持ってもらおうと設立された児童劇団「童連どうれん」の記録を、劇団員だった東京都多摩市、平原国男さん(83)らOBが残そうと取り組んでいる。

 空襲当時、平原さんは国民学校5年生。空襲は初めてで、「爆弾が落ちてくる『ヒュー』という音を聞くと、全部自分の家に落ちてくるように思えて怖かった」と振り返る。火の手から逃れるために、姉と一緒に真っ暗な荒川の土手を駆け降りていると「ばかやろう!」とどなられた。夜が明けると、土手に横たわっていたのは無数の遺体や重傷者。「気づかないうちに踏んでしまっていたのでしょう」

 無事だった家族と市内の旅館に仮住まいし、2年ほど過ぎた。街では、空襲でがれきとなった砂糖問屋の倉庫に戦災孤児が群がり、焼け焦げた砂糖をなめていた。その姿を見た歯科医が「生きることや将来に夢を持ってもらおう」と考え、一緒に子ども向けの絵本や童話を作っていた小学校教諭らに相談し、賛同者が集まって「童連」を設立した。

 平原さんは、通っていた小学校の教諭に「子どもの劇団ができるからやってみない?」と声をかけられた。児童約50人が集まり、「劇部」「音楽部」「舞踊部」に分かれて練習を始めた。歌や踊りが得意でなかった平原さんは劇部に入った。放課後に市内の小学校に集まり、教諭らの指導を受けながら「風の又三郎」やオリジナルの劇を練習した。「先生が裏方になって舞台装置を作り、衣装は親が作るなど全て手弁当だったが、とにかく楽しかった」。本番が近付くと週に2~3回練習した。

 初演は1947年、県議会議事堂で行われた。その後、毎年春と秋には映画館で1~2日ずつ上演。ステージでは、明るいメロディーと「希望豊かに胸張って」「楽しい日本はもうすぐだ」という歌詞の「かおる花束」などのオリジナルの歌も歌った。入場は無料で、1回の公演に数百人の子どもが集まったこともあり、平原さんは「娯楽に飢えていた時代だったので、いつも超満員だった。延べ1万人は見てくれたと思います」と思い返す。

 戦後の混乱が落ち着いた50年頃、童連の活動は終わった。劇団員として約100人の子どもが活躍したが、転居などで散り散りとなったまま時が流れた。

 東京在住のOBが童連で指導してくれた人を訪ねた際に「みんなで集まろう」という話になり、90年に甲府市内のホテルでOB会を開くと「空襲後の甲府市に文化活動があったことを記録として残しておきたい」という話が持ち上がった。間もなく、平原さんらOB20人が発起人となって「童連のあゆみを記録する会」を作った。2~3年をかけて、市内に住んでいたり各地に引っ越したりしたOBに呼びかけて、当時のプログラムや新聞記事の切り抜き、写真などを段ボールひと箱分ほど集めた。

 しかし、資料集めを担当したOBの死去や転居のために多くの資料は行方不明に。それでもコピーは手元に残されていたため、平原さんら発起人は「OBが元気なうちに何とか本にまとめたい」と、再び資料の整理を始めた。当時、童連の舞台を見た人の感想なども盛り込もうと、OBたちで話し合いを進めている。

 平原さんは「甲府空襲は悲しい記憶だが、童連は人々の心をいやしたと思う。焼け野原に文化の花が咲いた歴史を次世代に残したい」と話している。(荒谷康平)

 

■甲府空襲 1945年7月6日深夜から7日未明に行われ、「七夕空襲」とも呼ばれる。米軍が大量の焼夷しょうい弾と爆弾を市内全域に投下し、市内の全住戸約2万5000戸のうち6割以上が焼失、市民ら1127人が犠牲になるなど、戦時中の県内では最大の被害となった。

2018年07月05日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

ー貼り付け終わりー

 

 6月30日(日)に山梨平和ミュージアム主催のシンポジュームに参加した平原氏は、終了後、取材に来ていた報道各社の記者を集めて「童連」の存在と活動を話し、資料収集についての協力を呼びかけたそうです。

その中にいた読売の荒谷記者が、すぐ反応して平原氏が住む多摩市まで取材に来て書いたのが上の署名記事です。

平原さんは「山日新聞が乗ってこなかったのはちょっと寂しいね」と吐露していましたが、「童連」の関連資料を集めていく上では、山日新聞は矢張り一番資料もあり、頼りがいがあると期待するのは自然でしょう。