2018年7月23日月曜日

杉浦醫院四方山話―549『童連=山梨児童文化連盟-2』

 平原さんが読売新聞の記者に提供した満席の観客を前に当時としてはとてもお洒落な少女たちが踊ってい写真は、終戦当時の日本の子ども達の置かれた状況を遺憾なく伝えています。

それは、この「童連」に入って踊ったり演じたりする子どもと「童連」の舞台を楽しみに観る子どもでは、圧倒的に後者の観る子どもが多かったことを写真が物語っているからです。


 平原さんは、学校で担任から声をかけられて「童連」に入ったそうですから、甲府市内各校のそれぞれの教師が「この子を・・」と選抜した、云わば先生のお目に適った小学生が童連入りしたことは想像に難くありません。私の小学生時代は昭和30年代でしたが、「学芸会」とか「鼓笛隊」等の役決めでもその筋の先生が仕切っていたことを覚えています。

まあ、それが問題という訳ではなく、校内行事でも当たり前だったから市内の学校からの児童を組織してと云うより大きな組織になれば、それなりの基準や厳しいチェックを経て選ばれたエリート集団だったのでしょう。


 食べることにも事欠く敗戦当時、食うや食わずの少年少女を集めての活動という訳にはいきませんから、当然基準の一つに親の経済力も問われたことでしょう。

平原さんのお父さんも甲府の中心街で大きな商店を経営していたそうですし、現在も交流のある「童連」のメンバーは、後に高等女学校や大学まで進んだようですから経済的にも恵まれていた方々だったのは確かでしょう。


 その辺についても平原さんに率直に聞いてみました。

「そうですね。指導者の方が時々、親の所に奉加帳みたいなものを持って来ていましたね」と話し「読売の記者には私が何度も強調して話した内容が記事に入っていないのが残念で・・・」と続き「童連がどう運営されていたのか小学生だった当時の私は全く知らなかったけど、甲府の経済界の方が資金援助も含めて協力してくれていた事を後になって知りました」と具体的な名前を挙げて教えてくれました。

 

 その代表が一代で常盤ホテルを興した笹本吾郎氏だったそうで、記者に「常盤ホテルの笹本さんは、童連の後援会長を引き受けてくれて、毎回舞台で挨拶もしてくれたのを覚えています」と話したのに記事に笹本さんの名前が無いのが不本意のようでした。

「現在の社長さんは息子さんだそうですから私は手紙でお詫びしようと思っています」と、お世話になった方々より自分の事の記事が多すぎると遠慮がちに話すのが平原さんでもあります。


 要は、童連のメンバーだった方々も高齢となり鬼籍に入っていく中、今のうちに童連についての資料を整理し、戦後の甲府盆地での文化活動が子ども達の劇団活動から始まったと云う歴史を伝えていきたいと云うのが平原さん達の思いです。

 

 それは、童連の舞台を楽しみに観た同級生達の声も含め、当時中心になって指導してくれた市内の教師たちの思いや何故10年で幕を閉じたのか等々、平原さん達の探求心は尽きません。

 

 山梨県の教員の諸活動については、山梨県教職員組合が資料を含め先輩たちの足跡も残していることと思います。童連に関するどんなことでも情報を平原さん(080-5171-1911)もしくは当館(055-275-1400)までお寄せいただけますようお願いいたします。