2018年10月29日月曜日

杉浦醫院四方山話―558『きんしゅとう・禁酒塔』

 当館に掲示してある身延線沿線活性化推進協議会が作成した大型ポスターには、常永駅で当館がイラスト入りで紹介されているなかなか楽しいポスターですが、その影響もあってか休日には身延線沿線を散策することが多くなった今日この頃です。

 

 中でも井伏鱒二がこよなく投宿したと云う下部温泉郷は、ぬる目の湯が売りの温泉とそれなりの食事処もあり風呂好き、酒好きには心地よい街ですが、温泉郷には往時の賑わいや活気は無く、井伏鱒二よりむしろつげ義春好みの「うら寂しさ」も漂い、落ち着きます。

 

 温泉郷の入り口近くに週末だけ開いている小さな酒場には、峡南地区一帯の物識りのマスターが居て、出し惜しみせず気軽に話してくれるので「行ってみよう」と自然に足が向きます。

 山梨県の旧下部町(現・身延町下部)は、信玄の隠し湯・下部温泉郷と湯之奥金山、木喰上人生誕の地として知られていますが、先日そのマスターが旧下部中学校近くの山には「禁酒塔」があることを教えてくれました。

 

 「この調子だとタバコも直ぐ千円になりそうだね。俺には酒よりタバコの方が必需品だから千円になっても女房に隠れて吸いそうだけど・・そうそうアメリカの禁酒法はマフィヤの親分・アルカポネを生んで有名だけど下部にも禁酒塔があるの知ってる?」と聞かれました。


「下部中学の体育の授業は、いつもきんしゅとうまで走ってこい!だったからきんしゅとうと云う言葉はこの辺の人はみんなは知っていたけど、それが禁酒の塔だと分かったのは大人になってからだったさ。さもねぇー小さい石の碑で今もあると思うけどあの禁酒塔がある大炊平(おいだいら)ちゅう村は禁酒村だったちゅうこんだと思うよ。禁酒村なんて普通の人は知らんさね」と。「禁酒村とか禁酒塔の話は全く知らなかったので、帰ったら調べてみたいけど禁酒村にも隠れて飲んだ人は絶対居たと思うよね」と笑い話にして帰りました。

 

 とり急ぎ、ネットで「禁酒村」を検索してみると朝日新聞デジタル版に「全国に広がった禁酒村」の記事がありました。

それによりますと大正から昭和の初めにかけて、財政難の自治体が「わが町の未来の為に晩酌の楽しみは我慢して」「飲んだつもりで貯金して」が、禁酒村誕生の背景だったようです。

写真・図版
村民挙げての禁酒で改築費を捻出した小学校が廃校になることを報じた記事=2007年3月14日付大阪本社版夕刊10面

 


 



      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このような「禁酒村」運動は、全国123の自治体に広がって、第1号の石川県河合谷村は注目の的で、「病人が5割減った」とか「ほとんどなかった貯金が、5年間で3万円もできた」「犯罪が絶無になった」などと、酒断ちの成果を村長が全国の禁酒村の村長たちに報告したとの記事もありました。

 すっかり、酔いもさめてしまう記事に出くわしましたが、要はこの禁酒村運動は「校舎改築」とか「風紀改善」とか「健康増進」の為と「反対しにくい目標」の元「隣人相互監視」の風土が一般的な小さな村に広がった運動だったのでしょう。近年の禁煙運動とも共通するある意味「タバコ・酒=悪」と云った嗜好品に対する統制運動で、ここから「欲しがりません勝つまでは」の精神や価値観への転換も容易にしたように思います。
 

 まあ、そんな勝手な教訓や山梨県下でも旧下部町大炊平(おいだいら)村は、この運動に参加した村であったこと、上記新聞記事の禁酒塔写真と同じような「さもない石塔」が今も残っていることなど教えてくれたマスターに感謝しつつも下部中学も現在は廃校になり、児童生徒はスクールバスで統合された身延の学校に通っていますから、全国で先人が酒断ちして維持した学校も同じ憂き目に合っている現実は、一層無常観を募らせます。

2018年10月24日水曜日

杉浦醫院四方山話―557『千歯こき』


  8月に昭和町築地新居のTさんからご寄贈いただいた軽トラック一台分の民具と農具について、大工道具「ちょんな」は紹介しましたが、引き続き今回は、農具「千歯こき」を紹介します。

 

 一昔前までは、秋になると田圃には稲刈りした稲穂が天日乾燥の為に干されていた風景が一般的でしたが、稲刈りと脱穀、選別、乾燥までを一台でこなす「コンバイン」の登場で天日乾燥風景もまばらになってきました。

 

 この天日で乾燥させた稲の穂先から籾(もみ)を落とす作業が「脱穀 (だっこく)」 ですが、「脱穀 (だっこく)」のことを古くは「稲扱き (いねこき) 」とも言いました。

 この「稲扱き (いねこき) 」作業には、「残さず丁寧に」と「能率良く速く」という相反する二つが求められたので、稲扱き (いねこき)用の農具「千歯こき」は、江戸時代からさまざまな工夫がこらされてきました。

 

 左下の写真のように 木の台から鉄製の歯がクシのように水平に突き出した形をしていたことから「千歯こき」と呼んだのでしょうが、千本の歯は誇大でしょう。

鉄の歯が時代や地方によっては竹製だったり木製だったりもしたようですが、鉄製が最も多く、当館にあるものは全て鉄製です。この歯の間隔の違いで稲こき用か麦こき用かが分かります。

 

 台に付属した足置に体重をかけて固定し、櫛状の歯の部分に乾燥した稲や麦の束を振りかざして叩きつけ、引き抜くと稲の場合はこれで穂から籾が落ちますが、籾が付いたままの小さな穂先も出るので、さらに右下の「唐棹 (からさお) 」と云う農具で叩いて籾を採りました。

特に麦では、穂が首から折れて穂のまま落ちるので、その穂を「唐棹 (からさお) 」で叩く作業は欠かせませんでした。

ですから、「千歯こき」と「唐棹 (からさお) 」は、脱穀には必須道具で、稲刈り後の大変手間のかかる仕事でしたから、その後は「足踏脱穀機」更に「動力脱穀機」へと発達しました。

 

 1時間当たりの作業能率は千歯扱きで約45把、足踏脱穀機で約270把、動力脱穀機では600把以上と伝えられていますが、コンバインの出現で「千歯扱き」同様「足踏脱穀機」も「動力脱穀機」さえも今では粗大ゴミ化し、資料館で保存、公開していかないと実物が観れない時代になりました。


 写真は、田んぼの総合情報サイト「くぼたのたんぼ」から転載させていただきました。

 

千歯扱き1

 



唐棹1  

2018年10月15日月曜日

杉浦醫院四方山話―556『情報今昔ーBQって?ー』

 1980年代のバブル期に東京で仕事をしていた私は、年下の女性から「清里のある山梨出身なんですか?」と聞かれたのを覚えています。

私が知っていた清里は、開拓団が入って開かれた高原地帯で、清泉寮をスポットに牧場を観光に結びつけようと図っていた時代でした。

その観光業振興が実ったのでしょうか?昭和も50年代に入ると首都圏から多くの観光客が訪れる「清里ブーム」が起こり、東京では「高原の原宿」とも呼ばれていました。

 当時の若い女性の好みだったのでしょう、観光客目当てのペンションやタレントショップ、土産物店は、それぞれが趣向を凝らしたショートケーキのような店舗を次々建てましたから、ブームに一層拍車を掛けました。

 

 空前の「清里ブーム」に火をつけたのは、当時よく売れた「ノンノ」とか「アンアン」に代表される女性誌で、夏に向けては清里特集を組む中でピーク時には250万人以上の観光客が、清里駅を中心にした一大メルヘンワールドに押し寄せたようです。


 しかし、この「おとぎの国」もバブルの崩壊と共に終わり、現在では、かつての栄光も無残に廃墟が広がり、思わず「よどみに浮かぶうたかたはかつ消え、かつ結びて・・・」と方丈記の一節が無常観と共によぎります。

 清里と同様に「アンノン族」生みの親「ノンノ」も「アンアン」も消えたのか?路線を変えて未だあるのか?どちらにせよ、すっかり影が薄くなったのは確かでしょう。

 

 当館も不特定多数の方々を対象に公開している郷土資料館ですから、千客万来を期してはいますが、溢れ返る来館者で悲鳴を上げると云う程ではありません。

それでも個人もしくは数人での来館者の7割近くは山梨県外からの方々ですから「東京から」とか「新潟から」と云う方々に「どこでここをお知りになりましたか?」と聞くと大部分の方が「ネットで」と返ってきます。

 8月に紹介した杉浦醫院四方山話―550『ブログ・知の冒険』 でも当館が紹介されていますが、先日みえたお二人は「BQってサイトでここが取り上げられていたから」と、具体的なサイト名も教えてくれました。

そこで、「BQ」を検索すると確かに当館は、4つ星の「かなりオススメ!」にランクされ、多くの写真と共に紹介されていました。発信者のプロフィールを観ると名古屋在住の女性が自分の足で取材したあらゆるジャンルのスポットを紹介しているブログであることが分かり、「知の冒険」サイトと重なる感じでした。

 

 同時に、このように個人の責任で「旅情報」を発信するサイトが幾つもあることを知り、この「BQ」サイトはその筋では老舗のサイトで利用者も多く、頼りにされていることも知りました。

 確かに猛暑の8月にお一人で「名古屋から来ました」と云う女性を案内した記憶はありますから、「あの熱心にご覧いただいた方」が発信者の「あさみん」さんだと云うことも分かりました。

 

 同じように取材にみえても「知の冒険」の男性は名刺も出して、事務室で四方山話までしましたが、女性の取材者は人知れず写真撮影をして「ブログBQ」の事も一切話しませんでしたから、男女の性差だけではなく取材の基本もそれぞれが確立しているのでしょう。

だからこそ、同じ杉浦醫院を取材しても紹介の仕方や内容も違って、「山梨に行ったら何処を観ようか」と云う利用者も自分の好みに合うサイトを頼りにすると云う情報の選択をしているのでしょう。

 

 当館は、新聞や雑誌、テレビなどのマスな情報にも取り上げられてきましたが、「ブログ・知の冒険」や「ブログ・BQ」などミニ情報、パーソナル情報を選ぶ時代に特に若い世代はなってきて、具体的な集客に繋がっている「ネット社会」を実感することも出来ましたから、当館の多大なPRもしていただいていることにこの場を借りて、発信者の方々には御礼申し上げます。 

2018年10月11日木曜日

杉浦醫院四方山話―555『第8回杉浦醫院院内コンサートの開催について』

 春と秋に開催してきた杉浦醫院「院内コンサート」も今秋で8回目を迎えます。

当館病院棟の応接室には三郎先生が山梨県では唯一昭和8年に購入したと云う、皇太子(現天皇)の生誕記念にヤマハが限定100台を受注生産したグランドピアノがあり、これを活用して始めたピアノを中心にしたコンサートです。

 

 企画した段階で杉浦家の縁者には、医師でテノール歌手の杉浦誠さんとピアニストの佐藤恵美さんがいたことで、スムーズにスタート出来ました。

杉浦誠さんの紹介で、富士市の調律師・辻村晴夫氏が眠っていたこのピアノを蘇らせていただき、佐藤さんも「このピアノの虜になりました」とすっかり気に入って、毎回のコンサートも嗜好を変えた内容を提案いただき、狭さ故のアットホームな雰囲気も固定ファンの増大に繋がりました。


 8回目となる今秋のコンサートについても「今年は童謡が誕生して100年目の記念すべき年ですから、友人で童謡歌手の塩野雅子さんが日程が合えば行けるので、童謡コンサートでどうでしょう」と具体案をいただきました。「塩野さんは著名な童謡歌手ですし、子ども達にも聴いて欲しいとなるといつものように40人前後の院内コンサートではもったいない気もします」とのお話もいただきました。


 そんな折「昭和町コミュニティー・スクール研修会」が開催され「これからの学校は地域と一体となって地域の人財やイベントを学校と一緒になって取り組んでいくことが一層問われる」旨、太田充デュレクターが熱く語りました。

それではと、杉浦醫院のイベント「院内コンサート」を杉浦醫院のある地域の学校・西条小学校で開催して、子ども達にも童謡を楽しんでもらうのはどうだろうかと校長に提案しましたところ、トントン拍子に話が進み、11月1日(木)に予定していた「学校開放日」の授業参観後、全児童、保護者、地域住民が「童謡のしらべ」を愉しむ「杉浦醫院出張院内コンサート」を開催することとなりました。

 

 当初11月18日(日)を予定していた佐藤さん、塩野さんにはスケジュール調整をお願いしてご協力いただき、杉浦醫院の希少ピアノを西条小学校体育館へ移動しての開催も考えましたが、今回は予算上見送りとなり「院内コンサート」の開催趣旨に触れるのが残念です。

 

 しかし、演奏者の「子ども達にも・・」と云う願いが学校の「是非聴かせたい」と重なり、参加者数も1,000人規模と、20倍以上の方々に「杉浦醫院院内コンサート」の良さを実感していただき、既に7回継続開催されてきたことを知っていただく絶好の機会として、太田デュレクター云うところの「学校も地域もハッピー・ハッピー」の昭和町コミュニティー・スクール構想にも参画していきたいと思います。

 

 童謡100年と「平成」最後と云う重なりも何かの縁でしょうから、11月1日の午後3時開演の「童謡のしらべ」コンサートに西条小学校へお越しくださいますようご案内いたします。

尚、5校時の全校授業参観もご自由に参加できます。 

2018年10月3日水曜日

杉浦醫院四方山話―554『アッと驚いた!花嫁学校』

  「アッと驚く為五郎」なんてギャグも「死語」になりましたが、かつては普通に使われていた言葉ですっかり聞かなくなった言葉はたくさんあります。

 

 私の通った小学校の近くには「花嫁学校」という二階建ての建物があり、子どもも大人もその学校を「花嫁学校」と呼んでいましたが、本当は創業者の苗字の付いた「○○学園」だったのかも知れません。

これも死語ですが「花嫁修業」と云う言葉もありましたから、裁縫とか料理とかお茶とか結婚してから必要な実学を適齢期の女性に教える花嫁修業の学校を「花嫁学校」と総称していたのでしょう。

グランドや体育館などは無く、ちょっと大きめの家と云った感じでしたから、この種の学校は小学校と同じくらい各地域にあって、どこでも「花嫁学校」と呼ばれていたのでしょう。


 「花嫁学校」も「読み・書き・そろばん」を習った寺子屋と同じで、江戸時代の頃からだろうと勝手に思っていましたが、杉浦醫院とGHQの関係について調べていく中で、全くお門違いな「花嫁学校」の存在や起源を知りましたので、「アッと驚いた花嫁学校」についてまとめてみます。


School; Central Decimal Files, 1947-1964 (Group 4); RG ANRC- Records of the American National Red Cross (Entry UD-UP 4, Box 1280); National Archives at College Park, MD
「ニチマイ米国事務所」サイトの写真を借用しました。
  

 1945年の敗戦により日本は連合軍(実質は米軍)の占領下となり、日本には多くの米軍兵士が駐留するようになりました。今回、大差で勝利した玉城デニー沖縄県知事の両親のように米軍兵士と日本人女性が結婚することも自然な流れとしてあったのでしょう。

 そういう米軍兵士と女性たちのために「花嫁学校」(Brides School)は開校したというのです。 

米国赤十字社が1951年から「花嫁学校」を始め、1957年まで続いたようで、上のポスターは「花嫁学校」の開校を知らせるポスターです。日本語で「国連軍の方と結婚された方はぜひ出席してください」とありますから、結婚前の花嫁修業に限定したものではなかったようです。

 

 ≪私達は歴史史料を通して、過去の出来事を理解分析する事により、より良い未来の方向性を決めることが出来ると信じています。≫と云う趣旨で、英語と日本語を選択して読める「ニチマイ(日米?)米国事務所」のサイトには、上記ポスターなど貴重な写真も多く、特に占領下の日本とアメリカ軍についての資料検索には欠かせません。

 

 例えば、米国赤十字社が始めた「花嫁学校」には、300人以上の日本人女性が殺到したと下記写真とともに紹介されているように豊富で解像力のある写真資料が特徴でもあります。

中には既にカラー写真での記録もありますから、GHQには何人かのプロカメラマンも配属されていたのでしょう。

 
American soldiers attend a school at the Masonic Temple, Tokyo Japan, to learn Western living conditions as they exist in the United States.  This meeting marks the beginning of a “School for Brides” in which over 300 Japanese girls attended. 16 Mar. 51; Photographs of American Military Activities, ca.1918 -ca.1981; Records of the Office of the Chief Signal Officer, 1860-1985 ; RG111-SC (Box 764); National Archives at College Park, MD
「ニチマイ米国事務所」サイトの写真を借用しました。

    要は、アメリカ人との結婚に際し「ハイヒールでの歩き方」とか「ベッドメーキングの方法」「コーヒーメーカーの使い方」等々、必要な「実学」からマナーまで、アメリカ人の生活習慣を嫁ぐ日本人女性に身に付けさせる為のカリキュラムだったそうですから、「花嫁学校」は、女性が「嫁ぎ先」で良妻賢母になることが目的であり、日米で共通していたことになります。

 多くの女性が希望も抱き嬉々として参加しているようにも観える上記写真は、米軍兵士と結婚して日本を脱出したいと云う志願女性の存在も多かったことを物語っているように私には観えました。