2018年10月3日水曜日

杉浦醫院四方山話―554『アッと驚いた!花嫁学校』

  「アッと驚く為五郎」なんてギャグも「死語」になりましたが、かつては普通に使われていた言葉ですっかり聞かなくなった言葉はたくさんあります。

 

 私の通った小学校の近くには「花嫁学校」という二階建ての建物があり、子どもも大人もその学校を「花嫁学校」と呼んでいましたが、本当は創業者の苗字の付いた「○○学園」だったのかも知れません。

これも死語ですが「花嫁修業」と云う言葉もありましたから、裁縫とか料理とかお茶とか結婚してから必要な実学を適齢期の女性に教える花嫁修業の学校を「花嫁学校」と総称していたのでしょう。

グランドや体育館などは無く、ちょっと大きめの家と云った感じでしたから、この種の学校は小学校と同じくらい各地域にあって、どこでも「花嫁学校」と呼ばれていたのでしょう。


 「花嫁学校」も「読み・書き・そろばん」を習った寺子屋と同じで、江戸時代の頃からだろうと勝手に思っていましたが、杉浦醫院とGHQの関係について調べていく中で、全くお門違いな「花嫁学校」の存在や起源を知りましたので、「アッと驚いた花嫁学校」についてまとめてみます。


School; Central Decimal Files, 1947-1964 (Group 4); RG ANRC- Records of the American National Red Cross (Entry UD-UP 4, Box 1280); National Archives at College Park, MD
「ニチマイ米国事務所」サイトの写真を借用しました。
  

 1945年の敗戦により日本は連合軍(実質は米軍)の占領下となり、日本には多くの米軍兵士が駐留するようになりました。今回、大差で勝利した玉城デニー沖縄県知事の両親のように米軍兵士と日本人女性が結婚することも自然な流れとしてあったのでしょう。

 そういう米軍兵士と女性たちのために「花嫁学校」(Brides School)は開校したというのです。 

米国赤十字社が1951年から「花嫁学校」を始め、1957年まで続いたようで、上のポスターは「花嫁学校」の開校を知らせるポスターです。日本語で「国連軍の方と結婚された方はぜひ出席してください」とありますから、結婚前の花嫁修業に限定したものではなかったようです。

 

 ≪私達は歴史史料を通して、過去の出来事を理解分析する事により、より良い未来の方向性を決めることが出来ると信じています。≫と云う趣旨で、英語と日本語を選択して読める「ニチマイ(日米?)米国事務所」のサイトには、上記ポスターなど貴重な写真も多く、特に占領下の日本とアメリカ軍についての資料検索には欠かせません。

 

 例えば、米国赤十字社が始めた「花嫁学校」には、300人以上の日本人女性が殺到したと下記写真とともに紹介されているように豊富で解像力のある写真資料が特徴でもあります。

中には既にカラー写真での記録もありますから、GHQには何人かのプロカメラマンも配属されていたのでしょう。

 
American soldiers attend a school at the Masonic Temple, Tokyo Japan, to learn Western living conditions as they exist in the United States.  This meeting marks the beginning of a “School for Brides” in which over 300 Japanese girls attended. 16 Mar. 51; Photographs of American Military Activities, ca.1918 -ca.1981; Records of the Office of the Chief Signal Officer, 1860-1985 ; RG111-SC (Box 764); National Archives at College Park, MD
「ニチマイ米国事務所」サイトの写真を借用しました。

    要は、アメリカ人との結婚に際し「ハイヒールでの歩き方」とか「ベッドメーキングの方法」「コーヒーメーカーの使い方」等々、必要な「実学」からマナーまで、アメリカ人の生活習慣を嫁ぐ日本人女性に身に付けさせる為のカリキュラムだったそうですから、「花嫁学校」は、女性が「嫁ぎ先」で良妻賢母になることが目的であり、日米で共通していたことになります。

 多くの女性が希望も抱き嬉々として参加しているようにも観える上記写真は、米軍兵士と結婚して日本を脱出したいと云う志願女性の存在も多かったことを物語っているように私には観えました。