2011年11月30日水曜日

杉浦醫院四方山話―96 『プレ・オープン1周年-5』

 昨年11月のプレ・オープンから1年が経過した今月、昨年の整備前と後を写真で紹介してきましたが、最終回の2組の写真は、母屋西側からの現駐車場と逆から母屋西側を望んだものです。この現駐車場は、以前は竹林でした。雪や風で左側のお宅に竹が当るのを防ぐため鉄骨の防竹柵が高くそびえていました。この柵の上3段は切って、「下2段は掲示案内板に使えるので残す」と云う活用案でしたが、雷が落ちたこともあり撤去して欲しいと云う近隣の要望で、全て撤去しました。竹も数年前、杉浦家で全て切たそうですが、根が残っていたので、新たな竹が伸び出していたり、切った竹が山積みされていました。欅の株や竹の根を文字どおり根こそぎ掘り起こし整地され、ご覧の駐車場になりました。
 下の組写真中央の白い建物は、母屋に付属している屋敷蔵ですが、繁茂する木々で外観も定かではありませんでした。文化庁の調査官から「この屋敷蔵は、木造の母屋と一体ですが、土蔵造りですから、別の建造物として登録文化財に指定すべき建物です」との指摘を受け、裏のL字型の納屋と二階建ての土蔵へと続く「土蔵造りの建造物」を見て歩けるよう外周道に整備しました。これで、南の庭園から座敷を囲む苔庭を見ながら北へ抜ける周回コースになりました。
昨年度整備された主なものだけを紹介してきましたが、合わせて資料整理や映像資料の制作、収集等々。「今年は、空白の一年じゃん」と的を射た声々には、むべなるかなの感強し。

2011年11月25日金曜日

杉浦醫院四方山話―95 『プレ・オープン1周年-4』

 昨春まで「森の病院」と云われた杉浦医院の名残は、敷地内の至る所にあった「切り株」が留めていましたが、上下水道の配管や造園の必要から全て抜根しました。「大好きだった欅の木を切るのは本当に切なく、つらい思いをしました」と純子さんが哀しそうに述懐するのを何度か聞きましたが、半端ではない大きさの切り株に欅の大きさが偲ばれました。建物を囲むように残っていた株は、防風や暑さ避けとして家屋を守ると同時に春の芽吹きや冬空に凛と伸びた裸木など四季折々の表情で杉浦家代々の家族を見守ってきたことでしょう。
 


 内海隆一郎原作・谷口ジロー画 のコミック「欅の木」は、杉浦家や新田地区の人々と杉浦医院の欅の木を描いたかのような上質なコミックですが、東京競馬場の第3コーナー内側にも大きな欅があり、「欅ステークス」という特別競走まで開催されています。昔から日本の風土に合い、日本人の気質にも合う樹木の代表が欅であったことは、国の天然記念物に何十本と指定されている樹齢1000年クラスの欅が物語っています。

2011年11月21日月曜日

杉浦醫院四方山話―94 『山梨県科学映像館を支える会』

科学映像館の久米川理事長との電話連絡が続いたせいか、この10月から当館に勤務しているWさんから「科学映像館はどこにあるんですか?」と聞かれました。「埼玉県の川越だよ」と答えると「一度行ってみたくって」と云うので「そうか、映像館と云うから映画館があると思うのが普通だよね。川越にあるのは久米川先生の自宅だから、行っても先生の顔が見られる位かな」と笑いましたが、前93話で、インターネットの普及と可能性の拡大に伴い博物館などの展示施設の必要性の有無についても触れたのは、まさしくこの科学映像館が施設を持たず、貴重な映像をインターネットで配信している見本のような存在だからでもありました。この科学映像館の先駆性や運営を一人で切り盛りする久米川理事長の見識、お人柄については、既に何回か当ブログでも紹介してきましたが、過日、プレオープン1周年記念に合わせたかのようにフルハイビジョン化された「よみがえる金色堂」の限定DVDを当館映像資料に寄贈下さいました。
 このDVD映像は、これまでの映像をより高画質にデジタル復元したもので、その差異にも驚きましたが、DVDのパッケジにも映像の頭にも左のように久米川氏は、「山梨県科学映像館を支える会」の支援について、テロップを入れ紹介くださいました。
 「地方病」関係の映像資料収集過程で、科学映像館の存在と充実した取り組みを知り、連絡したのをきっかけに久米川氏からその運営の詳細とご苦労、アドバイスまで頂戴してきました。特に、県にも保存されていないという幻の映画「人類の名のもとに」は、久米川氏のご尽力で取引のある制作会社の倉庫の隅で埃を被っていたフィルムを発見、デジタル化することができました。今回、「よみがえる金色堂」のフルハイビジョン化の費用捻出に「山梨県内でご支援いただける企業や個人がいたら・・」との要請に、たった一度ですが、昭和で開催した講演会に参加され、鋭い質問と意見を述べられた県の教育委員でスーパーやまと社長の小林久氏の存在が浮かびました。思い切って手紙を書き、10万円の資金提供をお願いしたところ即応いただいたことから、これを機に科学映像館の取り組みを広く県内にも周知し、支援の輪も広げていこうと「山梨県科学映像館を支える会」を立ち上げ、小林氏に代表をお願いいたしました。「予算がないから出来ないでは情けない」と資金調達も先頭に立って奮闘する久米川氏と「出過ぎた杭は打てないだろう」と笑いながら、県教委改革から甲府銀座の街活性化にまで奮闘する小林氏の「実存」は、気持よく重なります。

2011年11月18日金曜日

杉浦醫院四方山話―93 『プレ・オープン1周年-3』

 母屋と医院を結ぶ廊下北側は、右の写真のように杉浦家の寝具類が詰まった押入れでした。押入れ上段には、来客用の蒲団や毛布が何組もありましたが、「昔のように泊りがけの客もありませんので、これを機に知り合いの施設に寄贈しようと思います」と純子さんが手際よく手配して空けてくれました。保存整備活用検討委員会では、昭和4年から昭和52年まで医院として使われていた内部が、そのまま残っている貴重な建物だから、出来るだけ手を入れないで、当時のままを基本に保存していくことが確認されていましたが、この押入れは、展示コーナーとして活用する旨を諮り了承され、整備した現在が下の写真です。
 ここに杉浦健造先生と三郎先生の年譜やお二人と杉浦医院にまつわる資料を展示し、下段は、展示交換用の資料の収納庫にしました。下の収納庫の襖も元の押入れの襖を加工して使うことにし、漆塗りの黒い建具や取っ手は元のもので、襖紙だけが新しくなっています。
 杉浦医院には、専門書や医学雑誌なども多数残っていますから、医学関係者には貴重な資料として展示すべきとなることでしょうが、限られた展示スペースに何を展示するかは悩む所です。
資料館や博物館の始まりは、貴族や資産家が収集した骨董品や美術品を並べたり、学者が標本として収集した自然物を分類して見せたように「ただの見せ物」が原点だったようです。18世紀に入って、現在の博物館の基となる大英博物館が誕生し、日本にも明治維新の文明開化で、博物館や美術館が誕生してきました。その中で、ただ物を見せるだけから情報伝達としての「展示」へと変化してきましたが、要は「展示物」で、どんな「物語り」が伝えられるかではないでしょうか。「ほぼ無限な画像・動画・文字情報を扱えるインターネットがあれば、博物館や美術館といった展示施設は要らないのでは・・」と云った議論もある現在、一般的な展示の在り方を踏襲するだけでなく、これからの展示の在り方やホームページを使った展示や発信など施設独自の展示を考えていくことが求められているのでしょう。 まあ、この「四方山話」もその具体的試みの一つと考えて、書いてはいるのですが・・・

2011年11月16日水曜日

杉浦醫院四方山話―92 『プレ・オープン1周年-2』


杉浦家母屋玄関には、大きな鉢植えの観葉植物、主にシュロ竹の鉢植えがずらっと並んでいる写真が多数残っています。また、三郎先生愛用の机の中には、「観音竹と朱呂竹=品種・栽培・繁殖=」という本もあり、研究しながら育てていた様子もうかがえます。
 このシュロ竹を冬の間の寒さから守るために造られたのが、写真右上のムロ=温室です。寒くなるとムロへ、温かくなると玄関先へと重い鉢植えの植物を移動しなければならないことから、三郎先生亡き後、アピオに貸し出し、ロビーやエントランスを飾っていたそうです。 「アピオのA社長さんが辞める時、シュロ竹はどうしましょうかと聞かれましたが、返していただいても管理できませんから、そのままにしました。現在もアピオには、幾鉢かあると聞いていますが・・」 「男の方が十人いても鉢ですから持てるのはせいぜい三人で、裏まで運ぶのが大変でした」 「祖父健造が横浜から一鉢買って来たのものが、竹ですから株分けしないと鉢が割れる程どんどん伸びて、増えていったようです。確か、最初は瓦屋根の部分だけの温室でしたが、鉢が増えたことから、左側に継ぎ足して今の形になったと記憶しています」
「特に夏は、水をたっぷりかけるよう言われましたが、そのせいか蚊が多く、刺されるのが嫌だったこともあり、私はあまり好きになれませんでした」と純子さん。
このムロは、温室としての機能を優先したのでしょう、建物は南西向きで日当たりが良い上に、下から上まで三段の全面ガラス戸で、陽が中まで射すようになっていました。さらに鉢の土の部分に陽が当たるようコンクリートの床には長方形の小プールのような穴が2か所並列に掘られ、重い鉢をこの穴に納めたり、出す為に穴の上には太い梁が通り、滑車がかかっていました。写真の稲藁がかかっているのがその梁です。
建築基準法の耐震強度をクリアするよう両端を筋かい入りの壁に変更した以外、この構造と骨組、形、大きさはそのままに整備したのが右下の写真です。Aボーリングの社長さんが「これが、あのムロけぇー」と驚いたように、現在は休憩室を兼ねた交流施設として、古民家カフェのような趣もあります。元温室ですから流石によく陽が入り、5月頃から「暑つ過ぎて・・・」で、日除けに寒冷紗を張り、凌ぎましたが、これからの季節には暖房無しでも温かく利用できるものと思います。寄贈された書籍や新聞を備え、小企画展なども開催していますので、ご自由にご活用下さい。

2011年11月13日日曜日

杉浦醫院四方山話―91 『プレ・オープン1周年-1』

 昨年4月から、公開に向けて庭園や建造物の整備を行い、昭和町風土伝承館・杉浦醫院として、プレ・オープンしたのが1年前の11月でした。
先日、十数年前北側のマンション建築時に杉浦家からの依頼で井戸を掘ったと云うAボーリングの社長さんが来館され、「見違えるようにきれいになって、びっくりした。ここやあそこにあったでっかい切り株は抜いたのけ」「これが、あのムロけ」「あの碑はどうしたでぇ」「竹藪は・・・」と、たたみかけられました。
「そうですね。ビフォー・アフターも分かるようにしたほうがいいですね」と対応しましたので、プレ・オープン1周年を機に整備前と整備後を写真で紹介し、残しておきます。整備前の写真は、一番地道で大変な作業を請け負ったA建設の斉藤専務さんからの写真です。上の写真は、東側の正覚寺沿いの南側庭園を北から望んだビフォー・アフターです。
山梨県の地方病の歴史を医院と一体で語り継いでいこうと平成8年に建立され、昭和町のホタル公園内にあった「地方病終息の碑」を移設して整備した現在です。木々も手が入り、低木が移植され、終息の碑も昔からここに立っていたかのように存在感と落ち着きを見せています。
また、通路部分には、県内公共施設の庭には初めてと云う「川上砂利」が敷かれました。この砂利は、雨が降るとしっとりした茶色になり、日本庭園全体が一層落ち着いた趣を醸し、「雨もまた良し」といった雰囲気にさせてくれます。9月の台風で傾いた、えん樹の木を使ってのベンチも加わり、木々の間には、山本忠告の墓のMさん宅で株分けしてくださった水仙や鈴蘭も植え付けてありますので、また変わっていくことでしょう。「庭仕事は瞑想である」と説いたヘルマン・ヘッセは、名著「庭仕事の愉しみ」で、草花や樹木に惚れることで、草木が教えてくれる生命の秘密について語っています。ヘッセの瞑想の境地には程遠いものがありますが、造園や芸術のみならず「惚れて取り組むことは大事」と、惚れまくってはいるのですが・・・

2011年11月10日木曜日

杉浦醫院四方山話―90 『清韻亭コンサート』

 昨日、杉浦邸母屋座敷で「清韻亭コンサート」が開催されました。杉浦医院6代目大輔先生は、医業もさることながら、清韻の号で、歌を詠み、書をしたためた文人でした。   明治中頃の建築と云われる母屋も清韻先生が建てたのでしょう、座敷には「清韻亭」の額があることは、四方山話―77『清韻亭(せいいんてい)』で紹介したとおりです。
 「清韻亭」の額が見下ろすこの座敷で、杉浦家では代々多彩な催しが開催されてきました。大輔先生の時代には、歌人が集まっては、季節ごとや歳時に合わせ歌会が開かれ、花鳥風月を詠みあったことでしょう。健造先生の時代には、毎年、ホタルの舞う時期に若松町の芸者を交えての「ホタル見会」が催されていたそうです。マルヤマ器械店の丸山太一氏の父・文造氏も毎年招かれ、「父は、杉浦さんのホタル見会を毎年楽しみにしていました。その日は、若松町の芸者は、みんな西条に行って、空っぽだったそうです」と話してくれました。また、当時の山梨時事新聞には、杉浦家のホタル見会に合わせ、昼は座敷に面した庭園で、野点が開かれたことが写真入りで報じられています。明るいうちは茶を愉しみ、夕方からホタルを待ちながら酒をかたむけ、ホタルが舞いだすと庭園の池から鎌田川へと散策しながら昭和の源氏ホタルを愛で、座敷に戻って本宴会と時間もゆったり、内容も豊かな「ホタル見会」だったようです。昭和4年の医院新築の上棟式でもこの座敷で大宴会が開かれた様子が写真に残っています。「祖父は、お酒はだめでしたが宴会好きで、飲んだふりして陽気に振る舞っていました」と純子さん。その後もこの座敷では、親族の結婚式や有楽流の茶会が定期的に開かれ、師匠の純子さんが、日常的に後進に茶の道を教えたりして、現在に至っています。
 加齢による視力の衰えを理由に茶会やコンサートへ出向くことを断っている純子さんに長く懇意にしてきたNさんが、「オンリーワン・コンサート」を企画してくれたのが、今回のコンサートです。 Nさんの友人で、薩摩琵琶奏者清水えみこさんが、純子さんの為に出向いて演奏してくれることになり、純子さんから「私一人が聴くのではもったいないので、急ですが、聴きたい方には来ていただいて・・」と広がりました。先月から、この「清韻亭」での茶会も復活しました。歴史的建造物を会場に伝統文化を純子さん共々愉しみながら継承していこうという多彩な方々の取り組みは、杉浦家代々が「清韻亭」で、綿々と続けてきた文化蓄積でもあることを今回のコンサートが、静かにしっかりと物語っていました。

2011年11月2日水曜日

杉浦醫院四方山話―89 『菊と土』

 太平洋戦争も末期に入ると日本では、本土決戦に備え「竹槍訓練」などに取り組んでいたのと対照的にアメリカは、然るべき人物が冷徹な目で、敗戦後の日本の占領政策と日本統治に生かす研究をあらゆる分野で進めていたことは、歴史家・色川大吉氏が詳細に指摘していますが、日本人をトータルに把握した「菊と刀」も研究成果の一つでしょう。著者は、アメリカ政府が日本研究を委託したルース・ベネデクトという女性人類学者ですが、日本での現地調査が不可能のため、日本に関する書物、日本の映画、在米日本人との面談等を材料に研究を進め、日本文化の基調を<義理><恩><恥>から探究し執筆しました。「菊」は天皇制、「刀」は武士道の象徴でしょうが、「菊」には、日本人が幼い頃から厳しい「しつけ」を受けることで、レール上を着実に進み、上からの理不尽な統制にも従順に従い、集団として乱れない様を手間暇かけて体裁を整えられ、日本人が好んで鑑賞する「菊」に例えたものでもありました。
 「菊と刀」の解釈はさておき、「菊と土」について、貴重のお話を伺いましたので報告いたします。ご覧のように杉浦医院玄関を西条一区の堀之内一郎さんが丹精込めて育てた菊で飾っていただきました。これは、堀之内さんが毎年西条一区の文化祭に出品している菊を今回、樋口・三井両議員の橋渡しで、杉浦医院に届けていただいたものです。今月は、団体の予約見学も数多いことから「菊香る玄関」になり、ありがたく拝借することとなりました。「菊づくりは土づくり」と云った言葉から、このように立派な大菊をつくる第1の要素は「土」であること位の知識しかありませんので、昨日、堀之内さんから、管理の仕方など直接ご指導いただきました。その折、堀之内さんの菊づくりについて、興味深い話を伺いました。堀之内さんが菊作りを始めたきっかけは、「茄子苗づくり」だったそうです。茄子の苗は、雑菌に弱く、良い苗を作るには、「土」が重要だったとことから、土づくりを試行錯誤した結果、川底の泥土を引き上げ、乾燥させた「土」が有効であることを発見したそうです。一見すると、雑菌の塊のような川底の泥土で見事な茄子苗が育ち、たくさん出荷できるようになったことから、菊にもこの土は生かせるのではないかと、菊作りを始めたそうです。茄子に有効な「土」は、菊にもご覧のとおりで、確かに鉢の土は、水の浸透も速く、色合いも川砂のような感じです。
 ベネデクト女史は、各自が善悪の絶対基準をもつキリスト教の西洋的「罪の文化」に対し、日本の文化を内面の確固たる基準を欠き、他者からの評価を基準に行動が律されている「恥の文化」と大胆に類型化しましたが、菊の出来栄え一つとっても他者からの評価を潔く受けることを前提に研究を重ねる日本人の内面について、今回の堀之内さんの「菊と土」のような現地取材ができなかった状況下での類型化には、無理と洞察不足の感は否めません。