2018年12月19日水曜日

杉浦醫院四方山話―565『 ≪インフェクション コントロール≫誌の新連載』

 世の中には、専門分野ごとに各種の専門誌がありますが「ICT・ASTのための医療関連感染対策の総合専門誌」  として「インフェクション コントロール」と云う雑誌があることを知りました。

専門誌は読者が限定されていますから、読者には分かっても素人には一つ一つ調べていかないと分からない用語や言葉が多いのが特徴です。


例えば「ICT・ASTのための・・・」でも、はてICTとは?ASTって?です。

調べてみると「ICT」は、院内で起こる様々な感染症から患者や職員の安全を守るために感染対策がすべての院内で正しく実践されるよう取り組んでいる活動組織だそうです。

「AST」は、薬剤に関する業務に関してICTから独立して、主に医師に対して抗菌剤の処方のアドバイスを行っている薬剤師の組織のようです。


 ですから、今回当館に「謹呈」された2019年1月号の「インフェクション コントロールVOL28号」誌は、感染症特に院内での感染症対策に携わる医師や薬剤師、看護師と云った方々に向けた専門誌であることが分かりました。


 この専門誌で今号から「寄生虫からひもとく風土病探訪記」の新連載がスタートし、その記念すべき初回に「忘れてはならない戦いの歴史:風土伝承館・杉浦醫院」と云うタイトルで、当館が紹介されました。


 この連載は、静岡県立大学静岡がんセンター感染症内科部長の倉井華子先生が執筆していくのでしょう、文頭に「連載にあったて」として、「出来る限り現地に足を運び、生の声をお伝えします」と結んでいるように先生は、9月に当館に取材にみえました。


 先生自らが撮影した写真と共に当館と山梨県民の地方病終息に向けた歴史も紹介され、端的に先生の「思い」「願い」で締められています。

『感染症が制圧されることはすばらしいことであるが、診断を想起できる医師が減ることは事実である。目の前に住血吸虫症の患者が来たら、あなたは診断することはできるだろうか?日本住血吸虫症という疾患に苦しんだ患者が数多くいたという事実、戦いの歴史を私たちは忘れてはならない』と。


 この倉井先生のご指摘は大変貴重で、故林正高先生が生前一番危惧されていた課題でもありました。

 

 それは、山梨県では地方病と呼ばれていた日本住血吸虫症は、その流行期の昭和2、30年代でも県内から首都圏始め県外に嫁いだり就職した人が、体の不調で受診しても県外の医師には、日本住血吸虫症を知らない医師も多く診断が出来ず、杉浦三郎氏はじめ県内の医師の診断で初めて地方病であることが分かり、治療が始まったと云うケースが多かったのが、限られた地域の風土病の怖い一面として、県内の医師には語り継がれているからです。


 時代と共に医師の専門性は高くなり、自分の専門以外については逆に知識としても薄らぐ傾向は否めません。現代の日本では感染症は「院内感染」が主流になりつつありますが、倉井先生が本稿でも「制圧できたと考えられていた感染症が再び問題となることは歴史的にもある」と断言している通りでしょう。

 だからこそ、感染症専門家対象の「インフェクション コントロール」誌で、倉井先生は院外にも眼を向けるよう「寄生虫からひもとく風土病探訪記」を企画したように思います。

これを機に、多くの感染症専門家の皆様のご来館をお待ちしております。 

 

2018年12月5日水曜日

杉浦醫院四方山話―564『NHK・BS1で全国放映』

 今夏、NHK甲府放送局が制作したローカル番組「ヤマナシクエスト」が、BS1で全国放映されることが決まったそうです。

この全国放映は、全国各地のNHK支局が製作したローカル番組の中から、セレクトされたものが放送されると云う事ですから、山梨の地方病終息の歴史をフィリピン人留学生医師と獨協医科大学の寄生虫研究室の皆さんがたどったこの番組は、NHKが山梨県民にだけではなく多く日本人に観て欲しいということでしょう。


  この番組で、私が特に印象に残ったのはフィリピン人留学生医師イアンさんが、山梨県内で官民挙げてミヤイリガイ殺貝活動に取り組んだ歴史や実態を知って「フィリピンでは国民がこの病気を受け入れてしまっているから、日本のような取り組みはない」と云う率直な感想でした。

 

 日本住血吸虫症の患者には、日本では「スティブナール」が特効薬として使われてきましたが、現代では、ドイツの製薬会社バイエルが1970年代に開発した「プラジカンテル」が使われています。

山梨でも新たな発症者が激減し終息も近いと云われた時期に開発された「プラジカンテル」は、WHO(世界保健機構)によって医薬品の入手が困難な開発途上国の最小限必要な医薬品の1つに採用されました。

 

 その結果、中国からフィリピンにかけての東南アジア諸国では、日本で行ったような日本住血吸虫症に罹らない為の予防、啓発活動やこれを根本的に終息させる取り組みは進まず、罹った人は、一本750円前後の「プラジカンテル」を注射して対応することが国民に浸透して、現在に至っているようです。

 

 イアンさんの「フィリピンでは国民がこの病気を受け入れてしまっているから・・・」の言葉は、プラジカンテルで対応すれば事足りると云う現状を憂いての感想なのでしょう。


 当館が伝承していこうとする日本の山梨の地方病終息の歴史は、例えば、黄熱病=野口英世博士と云った個人の業績では語れない、多くの農民であったり、医師であったり、役人であったり、住民であったりの総合された協働の成果に拠る所にあります。

であるからこそ、多くの物語を内包しているのが、地方病終息の歴史でもあります。ある意味ドラマチックな展開が日本の近代史と共に進む終息史は、個人的にはNHKが大河ドラマに仕立てるに十分な素材だとも思っています。

 

 全国放映が決まった「ヤマナシクエスト」には、そんな当館の思いも入っていますから、多くの皆様に観ていただきたく案内させていただきました。


NHK BS1  2018/12/13(木)  18:27~

ヤマナシ・クエスト

「地方病を撲滅せよ〜山梨県民 不屈の100年戦争〜」 

出演 伊東敏恵

「日曜美術館」の伊東敏恵アナウンサーのナレーションは、程よい低さで静かな語りと相まって絶妙です。 

2018年12月3日月曜日

杉浦醫院四方山話―563『2018杉浦醫院庭園の紅葉』

 寒さを体感するようになるとテレビや新聞などでは「気温も下がり、木々も一斉に色づくこの季節、風流に紅葉狩りを楽しみたいですね」と云ったアナウンスや記事が溢れ、名所や付随するイベントが紹介されたりと四季の有る日本では、自然の移ろいでニュースや番組まで作れることを実感させられます。

 

 山梨では、「紅葉狩り」の前は「ブドウ狩り」や「キノコ狩り」も楽しめますが、同じ「狩り」でも「紅葉狩り」は趣がちょと違います。

それは、狩猟をしない貴族が、紅葉を見ながら宴を開き、和歌を詠んで勝負する「紅葉合」が平安時代に流行したことから、彩られた山々や木々を観賞する「紅葉狩り」が時代と共に庶民の間にも定着していったそうですから、「狩る」は「きれいな紅葉を探し求める」という意味なのでしょう。まあ、そう考えると美味しい葡萄や安全なキノコを探し求める「ブドウ狩り」や「キノコ狩り」も同じですね。


 この紅葉は、一般的には「気温が急激に下がることで、光合成によってできる葉の中のタンパク質が枝へと移動できなくなり、糖類が蓄積されて、緑の色素である葉緑素が壊れていくために起こる現象」と云われています。しかし生物学者の福岡伸一教授は、「赤の色素や黄色の色素云々という仕組みを説明するのがせいぜい」で「あんなに青々と茂っていた葉がなぜかくも美しい赤や黄に変わるのか、その理由は生物学者にもわからない」とし「紅葉が美しいと感じるのは人の心の作用なのだと悟った」と朝日新聞のコラムで結論付けていました。


 確かに、癌と診断され『来年の紅葉は見られません』などと宣告されれば、これまでさほど興味もなかった桜や紅葉など身の回りの全てのものが全く違って見え出したと云うエピソードはよく聞きますから、ミモフタモナイ福岡教授の結論「紅葉が美しいと感じるのは人の心の作用なのだ」が真理かも知れません。


 同時に、日本住血吸虫の虫卵から孵化したミラシジウムが、同じ巻貝のカワニナには寄生しないで、なぜミヤイリガイだけに寄生するのか?なのに、なぜホタルの幼虫は、ミヤイリガイもカワニナも餌にして食べるのか?現在も解明されていませんから、自然界の事は分からないことの方が多いのも確かなのでしょう。


 何はともあれ、日本の気候風土が織りなす世界一美しいと云う日本の紅葉を素直に愉しめる人でありたいと今年も杉浦醫院庭園の紅葉をカメラに納めてみました。




   


2018年11月25日日曜日

杉浦醫院四方山話―562『三郎先生の軍刀ー3 つなぎ刀・白鞘(しろさや)』

 三郎先生の軍刀と刀掛けは、昭和町に寄贈された「杉浦家コレクション」として、書画骨董などと共に展示・公開していく手立てを刀剣研磨師の井上弘氏にご相談し、登録証の取得まで進みました。

 

 登録証取得後、井上さんから「この刀は鍵のかかるガラスケースの中に置くの?」と聞かれ「予定としては土蔵の床の間を考えています。螺鈿の刀掛けも手に取って意匠を凝らした裏まで観て欲しいので・・・」と応えると「そうだよ、興味のある人は手に取ってみたいものだよね。それじゃあ≪つなぎ≫と≪白鞘≫が必要だね。」と、「つなぎ」と「白鞘」の実物を出して、私にも分かるように説明してくれました。


 「つなぎ」は「つなぎ刀」のことで、凶器ともなる現在の真刃と同寸に朴の木を加工して造ります。「つなぎ」は、真刃に代わる竹刀とも呼ばれる安全な偽刀で、これを鞘(さや)に納め展示用に使い、抜いた真刃は「白鞘(しろさや)」と呼ぶ刃を錆びから守る新たな鞘に納めます。この「白鞘」も朴の木で真刃の反りや長さに合わせ寸分の違いも無いよう真刃がピタッと納まるよう造ります。

 このように刀剣研磨師は、刃の砥ぎだけでなく砥ぎあがった刃を保管するための「つなぎ」や「白鞘」の制作も重要な仕事であることを知りました。

 

 子どもの遊びから「チャンバラごっこ」も消えたのかオモチャの刀も見かけなくなりましたから、私たちが修学旅行先で定番のように買った木刀も人気薄なのでしょうか?

 今回、井上さんの懇切丁寧な説明で本格的な日本刀の世界をのぞき見出来、知らなかったことやなるほどと云う事の連続でしたから、最後にその辺について2・3披露して締めたいと思います。

 

 私たちが日常生活の中で耳にしたり使っている慣用句(ことわざ)には、日本刀の部位から来ているものが多いことも知りました。

 

 先ずは「ライバル同士がしのぎを削る」の「しのぎ(鎬)」は、日本刀の刀身を刃側から見て1番横幅がある部分の名称です。刀と刀がぶつかる時には刃で受けず、しのぎ部分を使って受け止めることから「しのぎを削る」と云う言葉が生まれたそうです。

 

 同じような意味合いのことわざに「つばぜりあい」がありますが、互いに相手の打った刀を自分の刀の鍔(つば)で受け止め押し合い闘うところから来た言葉でした。日本刀の鍔(つば)の部分は知っていましたが、「鎬」も「鍔」も読めない、書けない漢字で「しのぎ」「つば」のフリガナが私には必要でした。

 

 オマケにもう一つ、「せっぱつまる」は「切羽詰まる」で、切羽も日本刀の部位の名称です。「鍔(つば)」と「はばき」の間にある薄い金属板を「せっぱ」と呼ぶそうで、日本刀でこのせっぱが詰まると刀が抜けなくなってどうにもならなくなることから「切羽が詰まる」と云う絶体絶命のピンチを指す慣用句ですから、「ホント日本刀は深い!」が実感です。

2018年11月19日月曜日

杉浦醫院四方山話―561『三郎先生の軍刀ー2 登録証』 

 前話のGHQによる昭和の刀狩りに付随して、日本人が刀を自由に保有する事を規制する意味もあったのでしょう、美術品の日本刀を所持するには、日本刀1本1本に「登録証」が必要となり、この登録証の無い日本刀を持っていると不法所持として、懲役や罰金が科せられるようになりました。ですから、現在日本にある日本刀は全てお上に登録されていることになります。

そのお上は、都道府県の教育委員会ですから、登録済みの日本刀は全て有形文化財と云うことにもなります。


 では、今回の三郎先生の軍刀は登録済みだったのでしょうか?登録してあれば刀と一緒に発行された「登録証」が残っているはずですが、純子さんも「父や私が登録した記憶はありません」と云っていましたからから、探しても出てこないものと思われます。

 

 井上さんは「杉浦先生のように代々続く旧家などでは、整理していたら「登録証」の無い刀が見つかったということはよくあるんです。そういう場合は、刀を持って南甲府警察署の保安課へ発見届けを提出しなければならない。刀が必要なければ警察に置いて帰ればいいんだけど、これは何時どういう状態で誰が見つけたの発見届を出して、登録証をもらって保存すべき刀だから、直ぐにでも発見届を出すことだね」と教えてくれました。


 このように新たに「登録証」を得るには先ず警察署に「発見届」を出すことから始まります。この手続きが済むと、警察は届け出済み書と刀を返してくれます。

この届け出済み書に記載されている日時に、山梨県教育委員会に刀と届け出済み書を持参し、「登録証」発行の審査を受けます。

 

  この審査は日本刀の専門家によって行われ、伝統的な鍛錬を行い、焼き入れを施した日本刀であることが第一条件で、価値のあるものにのみ発行されます。表面的な錆(さび)であれば井上さんの研ぎによって本来の姿を取り戻せますが、芯まで錆びているような状態では登録証は発行されません。粗製乱造された鉄をただ打ち延ばして刃を付けただけの刀や、車のスプリングに使われていた板バネを加工したいわゆるスプリング刀や、一部の軍刀で洋鉄を使って作られたものなどは審査ではねられるそうです。

 

 このように、今回、三郎先生の軍刀は、警察への発見届けを経て県教委の審査にパスして下写真のような「登録証」が発行されました。

これさえ有れば刀掛けにそのまま掛けて展示公開しても良いのですが、不特定多数の方を受け入れる施設では、刀を容易に手に取ることが出来ないようにしなければなりません。なぜなら、その気になればこの刀を凶器として振り回したり、盗すまれ悪用されることが危惧されるからです。


 その辺をクリアする最善の方法も井上さんからご教示いただきましたので次話に続きます。

ご覧の通り「登録証」は、この刀についてのみの記載であり、所有者名など入っていません。これは、この刀が登録された証明で、所有者はこの登録証が有れば変更可能であることを物語っています。美術品として売買が想定されることから車の名義変更と同じ扱いになるよう図られているのかもしれませんが、ある意味、自動車一台一台に付いている「リサイクル券」と全く同じシステムのように感じました。

2018年11月18日日曜日

杉浦醫院四方山話―560『三郎先生の軍刀ー1 もう一つの刀狩り』

2016-08-13.png
GHQの刀狩りは、日本軍の刀だけではなく、民間の刀も没収しましたから、江戸以降の名刀も
根こそぎ消えたそうです。(写真はネットサイトから拝借しました)

2018年11月11日日曜日

杉浦醫院四方山話―559『三神三朗・三神八四郎・三神吾朗』

 山梨県中巨摩郡大鎌田村は、現在甲府市大里町になっていますが、「大鎌田村」で思い浮かぶ人物は人によって様々です。

 

 この仕事に就いている私には、桂田富士郎岡山医専教授と一緒に「日本住血吸虫」を発見した三神三朗氏が欠かせません。この寄生虫病の虫体を発見した三神三朗氏は、本来であればもっともっと顕彰されてしかるべき業績を残しているにもかかわらず、あまり知られていないのが私には不思議でしたが、孫にあたる三神柏先生の案内で旧三神医院を見学して、全てが了解できたことを昨日のように思い出します。

その辺についての詳細は、当ブログの253 『三神三朗氏ー1』から257 『三神三朗氏ー5』をご参照ください。


 「野球小僧」の異名を持つ友人のO君には、大鎌田村と云えば「ジャップ・ミカド」説もある三神吾朗氏です。甲府中学、早稲田大学と野球を続け、日本にまだプロ野球が無かった時代に渡米し、日本人で初めての大リーグの選手となった三神吾朗氏は、1889年(明治22年)に大鎌田村で生まれ、 1958年(昭和33年)に69歳で亡くなった日本プロ野球の草分け的存在です。


 また、早稲田大学の卒業者やテニス経験者には、大鎌田村と云えば早稲田大学構内に「三神記念コート」を残している三神八四郎氏でしょう。渡米して観た硬式テニスを日本に導入したことでも著名な三神八四郎氏は、1887年(明治20年)に大鎌田村で生まれ、 1919年(大正8年)に32歳の若さで亡くなりました。


 先日来館されたM君は、同級生の間では「重箱の隅をつつく医者」と云われ、医学に限らず歴史から文学まで年代や地名の記述間違いをエクセルに打ち込むだけでなく、曖昧なことは徹底してハッキリさせるので大変な博学です。武田信玄研究家でも著名な後輩大学教授の著書に数十箇所もの誤記があることを本人に私信し「こういう凄い先輩がいることに驚き、感謝に堪えません」と礼状が届くなど指摘の正確さは見事です。

 

 そのM君から翌日「三神八四郎と三神吾朗は兄弟であることは知っているけど三神三朗も兄弟か?」と質問が届きました。三神三朗氏について書いた上記ブログの記憶で「三朗先生は石和から三神家に婿に入ったそうだから兄弟ではない」旨を返答すると「同じ大鎌田村で三男・三朗と四男・八四郎は14歳年が違うけど五男・吾朗と続く「ロウ」繋がりがひっかかる」と。

 

 そう云われて正確に「ロウ」を検証すると三・八四・吾とロウの字は兄弟でも違っていました。その辺を吾朗に詳しいO君に聞いてみると「いやぁ、八四郎と吾朗は兄弟であることは間違いないけどその三朗って人は初めて聞きました。吾朗氏は日本に帰って野球をやめてからは全くプロ野球界から離れ、ひっそり六大学野球を観戦していたそうだから、退き際の良さでも有名だったようだよ」と教えてくれました。「何か三朗先生と似てるねー。地方病の第一人者だったけど自分の研究実績や名前を残すことを拒んだように私は感じているから。そうなると重箱突きのM君のコダワリも正確に調べた方がいいね」となりました。


 三神八四郎氏について、今年の山日新聞でS記者が一面の署名記事を書いていましたから、S記者にも大鎌田村の三神一族についての掘り下げを依頼しました。

 

 矢張り、明治と云う激動の時代に山梨の大鎌田村から東京に出て学び、更に兄弟とも申し合わせたように渡米して野球とテニスと云う新しいスポーツ文化を日本に普及させた八四郎・吾朗兄弟と野口英世と同じ学舎で同期に学び、故郷にある奇病の原因究明に取り組み治療に専念した三朗氏の人生は進取の気性で重なり、晩年のストイックな生き方も共通しますから兄弟と思われても不思議ではありません。

また、兄弟や親族で無かったにせよ、こういう逸材を生んだ事実は、中巨摩郡大鎌田村の風土だったのか興味は尽きません。 

2018年10月29日月曜日

杉浦醫院四方山話―558『きんしゅとう・禁酒塔』

 当館に掲示してある身延線沿線活性化推進協議会が作成した大型ポスターには、常永駅で当館がイラスト入りで紹介されているなかなか楽しいポスターですが、その影響もあってか休日には身延線沿線を散策することが多くなった今日この頃です。

 

 中でも井伏鱒二がこよなく投宿したと云う下部温泉郷は、ぬる目の湯が売りの温泉とそれなりの食事処もあり風呂好き、酒好きには心地よい街ですが、温泉郷には往時の賑わいや活気は無く、井伏鱒二よりむしろつげ義春好みの「うら寂しさ」も漂い、落ち着きます。

 

 温泉郷の入り口近くに週末だけ開いている小さな酒場には、峡南地区一帯の物識りのマスターが居て、出し惜しみせず気軽に話してくれるので「行ってみよう」と自然に足が向きます。

 山梨県の旧下部町(現・身延町下部)は、信玄の隠し湯・下部温泉郷と湯之奥金山、木喰上人生誕の地として知られていますが、先日そのマスターが旧下部中学校近くの山には「禁酒塔」があることを教えてくれました。

 

 「この調子だとタバコも直ぐ千円になりそうだね。俺には酒よりタバコの方が必需品だから千円になっても女房に隠れて吸いそうだけど・・そうそうアメリカの禁酒法はマフィヤの親分・アルカポネを生んで有名だけど下部にも禁酒塔があるの知ってる?」と聞かれました。


「下部中学の体育の授業は、いつもきんしゅとうまで走ってこい!だったからきんしゅとうと云う言葉はこの辺の人はみんなは知っていたけど、それが禁酒の塔だと分かったのは大人になってからだったさ。さもねぇー小さい石の碑で今もあると思うけどあの禁酒塔がある大炊平(おいだいら)ちゅう村は禁酒村だったちゅうこんだと思うよ。禁酒村なんて普通の人は知らんさね」と。「禁酒村とか禁酒塔の話は全く知らなかったので、帰ったら調べてみたいけど禁酒村にも隠れて飲んだ人は絶対居たと思うよね」と笑い話にして帰りました。

 

 とり急ぎ、ネットで「禁酒村」を検索してみると朝日新聞デジタル版に「全国に広がった禁酒村」の記事がありました。

それによりますと大正から昭和の初めにかけて、財政難の自治体が「わが町の未来の為に晩酌の楽しみは我慢して」「飲んだつもりで貯金して」が、禁酒村誕生の背景だったようです。

写真・図版
村民挙げての禁酒で改築費を捻出した小学校が廃校になることを報じた記事=2007年3月14日付大阪本社版夕刊10面

 


 



      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このような「禁酒村」運動は、全国123の自治体に広がって、第1号の石川県河合谷村は注目の的で、「病人が5割減った」とか「ほとんどなかった貯金が、5年間で3万円もできた」「犯罪が絶無になった」などと、酒断ちの成果を村長が全国の禁酒村の村長たちに報告したとの記事もありました。

 すっかり、酔いもさめてしまう記事に出くわしましたが、要はこの禁酒村運動は「校舎改築」とか「風紀改善」とか「健康増進」の為と「反対しにくい目標」の元「隣人相互監視」の風土が一般的な小さな村に広がった運動だったのでしょう。近年の禁煙運動とも共通するある意味「タバコ・酒=悪」と云った嗜好品に対する統制運動で、ここから「欲しがりません勝つまでは」の精神や価値観への転換も容易にしたように思います。
 

 まあ、そんな勝手な教訓や山梨県下でも旧下部町大炊平(おいだいら)村は、この運動に参加した村であったこと、上記新聞記事の禁酒塔写真と同じような「さもない石塔」が今も残っていることなど教えてくれたマスターに感謝しつつも下部中学も現在は廃校になり、児童生徒はスクールバスで統合された身延の学校に通っていますから、全国で先人が酒断ちして維持した学校も同じ憂き目に合っている現実は、一層無常観を募らせます。

2018年10月24日水曜日

杉浦醫院四方山話―557『千歯こき』


  8月に昭和町築地新居のTさんからご寄贈いただいた軽トラック一台分の民具と農具について、大工道具「ちょんな」は紹介しましたが、引き続き今回は、農具「千歯こき」を紹介します。

 

 一昔前までは、秋になると田圃には稲刈りした稲穂が天日乾燥の為に干されていた風景が一般的でしたが、稲刈りと脱穀、選別、乾燥までを一台でこなす「コンバイン」の登場で天日乾燥風景もまばらになってきました。

 

 この天日で乾燥させた稲の穂先から籾(もみ)を落とす作業が「脱穀 (だっこく)」 ですが、「脱穀 (だっこく)」のことを古くは「稲扱き (いねこき) 」とも言いました。

 この「稲扱き (いねこき) 」作業には、「残さず丁寧に」と「能率良く速く」という相反する二つが求められたので、稲扱き (いねこき)用の農具「千歯こき」は、江戸時代からさまざまな工夫がこらされてきました。

 

 左下の写真のように 木の台から鉄製の歯がクシのように水平に突き出した形をしていたことから「千歯こき」と呼んだのでしょうが、千本の歯は誇大でしょう。

鉄の歯が時代や地方によっては竹製だったり木製だったりもしたようですが、鉄製が最も多く、当館にあるものは全て鉄製です。この歯の間隔の違いで稲こき用か麦こき用かが分かります。

 

 台に付属した足置に体重をかけて固定し、櫛状の歯の部分に乾燥した稲や麦の束を振りかざして叩きつけ、引き抜くと稲の場合はこれで穂から籾が落ちますが、籾が付いたままの小さな穂先も出るので、さらに右下の「唐棹 (からさお) 」と云う農具で叩いて籾を採りました。

特に麦では、穂が首から折れて穂のまま落ちるので、その穂を「唐棹 (からさお) 」で叩く作業は欠かせませんでした。

ですから、「千歯こき」と「唐棹 (からさお) 」は、脱穀には必須道具で、稲刈り後の大変手間のかかる仕事でしたから、その後は「足踏脱穀機」更に「動力脱穀機」へと発達しました。

 

 1時間当たりの作業能率は千歯扱きで約45把、足踏脱穀機で約270把、動力脱穀機では600把以上と伝えられていますが、コンバインの出現で「千歯扱き」同様「足踏脱穀機」も「動力脱穀機」さえも今では粗大ゴミ化し、資料館で保存、公開していかないと実物が観れない時代になりました。


 写真は、田んぼの総合情報サイト「くぼたのたんぼ」から転載させていただきました。

 

千歯扱き1

 



唐棹1  

2018年10月15日月曜日

杉浦醫院四方山話―556『情報今昔ーBQって?ー』

 1980年代のバブル期に東京で仕事をしていた私は、年下の女性から「清里のある山梨出身なんですか?」と聞かれたのを覚えています。

私が知っていた清里は、開拓団が入って開かれた高原地帯で、清泉寮をスポットに牧場を観光に結びつけようと図っていた時代でした。

その観光業振興が実ったのでしょうか?昭和も50年代に入ると首都圏から多くの観光客が訪れる「清里ブーム」が起こり、東京では「高原の原宿」とも呼ばれていました。

 当時の若い女性の好みだったのでしょう、観光客目当てのペンションやタレントショップ、土産物店は、それぞれが趣向を凝らしたショートケーキのような店舗を次々建てましたから、ブームに一層拍車を掛けました。

 

 空前の「清里ブーム」に火をつけたのは、当時よく売れた「ノンノ」とか「アンアン」に代表される女性誌で、夏に向けては清里特集を組む中でピーク時には250万人以上の観光客が、清里駅を中心にした一大メルヘンワールドに押し寄せたようです。


 しかし、この「おとぎの国」もバブルの崩壊と共に終わり、現在では、かつての栄光も無残に廃墟が広がり、思わず「よどみに浮かぶうたかたはかつ消え、かつ結びて・・・」と方丈記の一節が無常観と共によぎります。

 清里と同様に「アンノン族」生みの親「ノンノ」も「アンアン」も消えたのか?路線を変えて未だあるのか?どちらにせよ、すっかり影が薄くなったのは確かでしょう。

 

 当館も不特定多数の方々を対象に公開している郷土資料館ですから、千客万来を期してはいますが、溢れ返る来館者で悲鳴を上げると云う程ではありません。

それでも個人もしくは数人での来館者の7割近くは山梨県外からの方々ですから「東京から」とか「新潟から」と云う方々に「どこでここをお知りになりましたか?」と聞くと大部分の方が「ネットで」と返ってきます。

 8月に紹介した杉浦醫院四方山話―550『ブログ・知の冒険』 でも当館が紹介されていますが、先日みえたお二人は「BQってサイトでここが取り上げられていたから」と、具体的なサイト名も教えてくれました。

そこで、「BQ」を検索すると確かに当館は、4つ星の「かなりオススメ!」にランクされ、多くの写真と共に紹介されていました。発信者のプロフィールを観ると名古屋在住の女性が自分の足で取材したあらゆるジャンルのスポットを紹介しているブログであることが分かり、「知の冒険」サイトと重なる感じでした。

 

 同時に、このように個人の責任で「旅情報」を発信するサイトが幾つもあることを知り、この「BQ」サイトはその筋では老舗のサイトで利用者も多く、頼りにされていることも知りました。

 確かに猛暑の8月にお一人で「名古屋から来ました」と云う女性を案内した記憶はありますから、「あの熱心にご覧いただいた方」が発信者の「あさみん」さんだと云うことも分かりました。

 

 同じように取材にみえても「知の冒険」の男性は名刺も出して、事務室で四方山話までしましたが、女性の取材者は人知れず写真撮影をして「ブログBQ」の事も一切話しませんでしたから、男女の性差だけではなく取材の基本もそれぞれが確立しているのでしょう。

だからこそ、同じ杉浦醫院を取材しても紹介の仕方や内容も違って、「山梨に行ったら何処を観ようか」と云う利用者も自分の好みに合うサイトを頼りにすると云う情報の選択をしているのでしょう。

 

 当館は、新聞や雑誌、テレビなどのマスな情報にも取り上げられてきましたが、「ブログ・知の冒険」や「ブログ・BQ」などミニ情報、パーソナル情報を選ぶ時代に特に若い世代はなってきて、具体的な集客に繋がっている「ネット社会」を実感することも出来ましたから、当館の多大なPRもしていただいていることにこの場を借りて、発信者の方々には御礼申し上げます。 

2018年10月11日木曜日

杉浦醫院四方山話―555『第8回杉浦醫院院内コンサートの開催について』

 春と秋に開催してきた杉浦醫院「院内コンサート」も今秋で8回目を迎えます。

当館病院棟の応接室には三郎先生が山梨県では唯一昭和8年に購入したと云う、皇太子(現天皇)の生誕記念にヤマハが限定100台を受注生産したグランドピアノがあり、これを活用して始めたピアノを中心にしたコンサートです。

 

 企画した段階で杉浦家の縁者には、医師でテノール歌手の杉浦誠さんとピアニストの佐藤恵美さんがいたことで、スムーズにスタート出来ました。

杉浦誠さんの紹介で、富士市の調律師・辻村晴夫氏が眠っていたこのピアノを蘇らせていただき、佐藤さんも「このピアノの虜になりました」とすっかり気に入って、毎回のコンサートも嗜好を変えた内容を提案いただき、狭さ故のアットホームな雰囲気も固定ファンの増大に繋がりました。


 8回目となる今秋のコンサートについても「今年は童謡が誕生して100年目の記念すべき年ですから、友人で童謡歌手の塩野雅子さんが日程が合えば行けるので、童謡コンサートでどうでしょう」と具体案をいただきました。「塩野さんは著名な童謡歌手ですし、子ども達にも聴いて欲しいとなるといつものように40人前後の院内コンサートではもったいない気もします」とのお話もいただきました。


 そんな折「昭和町コミュニティー・スクール研修会」が開催され「これからの学校は地域と一体となって地域の人財やイベントを学校と一緒になって取り組んでいくことが一層問われる」旨、太田充デュレクターが熱く語りました。

それではと、杉浦醫院のイベント「院内コンサート」を杉浦醫院のある地域の学校・西条小学校で開催して、子ども達にも童謡を楽しんでもらうのはどうだろうかと校長に提案しましたところ、トントン拍子に話が進み、11月1日(木)に予定していた「学校開放日」の授業参観後、全児童、保護者、地域住民が「童謡のしらべ」を愉しむ「杉浦醫院出張院内コンサート」を開催することとなりました。

 

 当初11月18日(日)を予定していた佐藤さん、塩野さんにはスケジュール調整をお願いしてご協力いただき、杉浦醫院の希少ピアノを西条小学校体育館へ移動しての開催も考えましたが、今回は予算上見送りとなり「院内コンサート」の開催趣旨に触れるのが残念です。

 

 しかし、演奏者の「子ども達にも・・」と云う願いが学校の「是非聴かせたい」と重なり、参加者数も1,000人規模と、20倍以上の方々に「杉浦醫院院内コンサート」の良さを実感していただき、既に7回継続開催されてきたことを知っていただく絶好の機会として、太田デュレクター云うところの「学校も地域もハッピー・ハッピー」の昭和町コミュニティー・スクール構想にも参画していきたいと思います。

 

 童謡100年と「平成」最後と云う重なりも何かの縁でしょうから、11月1日の午後3時開演の「童謡のしらべ」コンサートに西条小学校へお越しくださいますようご案内いたします。

尚、5校時の全校授業参観もご自由に参加できます。 

2018年10月3日水曜日

杉浦醫院四方山話―554『アッと驚いた!花嫁学校』

  「アッと驚く為五郎」なんてギャグも「死語」になりましたが、かつては普通に使われていた言葉ですっかり聞かなくなった言葉はたくさんあります。

 

 私の通った小学校の近くには「花嫁学校」という二階建ての建物があり、子どもも大人もその学校を「花嫁学校」と呼んでいましたが、本当は創業者の苗字の付いた「○○学園」だったのかも知れません。

これも死語ですが「花嫁修業」と云う言葉もありましたから、裁縫とか料理とかお茶とか結婚してから必要な実学を適齢期の女性に教える花嫁修業の学校を「花嫁学校」と総称していたのでしょう。

グランドや体育館などは無く、ちょっと大きめの家と云った感じでしたから、この種の学校は小学校と同じくらい各地域にあって、どこでも「花嫁学校」と呼ばれていたのでしょう。


 「花嫁学校」も「読み・書き・そろばん」を習った寺子屋と同じで、江戸時代の頃からだろうと勝手に思っていましたが、杉浦醫院とGHQの関係について調べていく中で、全くお門違いな「花嫁学校」の存在や起源を知りましたので、「アッと驚いた花嫁学校」についてまとめてみます。


School; Central Decimal Files, 1947-1964 (Group 4); RG ANRC- Records of the American National Red Cross (Entry UD-UP 4, Box 1280); National Archives at College Park, MD
「ニチマイ米国事務所」サイトの写真を借用しました。
  

 1945年の敗戦により日本は連合軍(実質は米軍)の占領下となり、日本には多くの米軍兵士が駐留するようになりました。今回、大差で勝利した玉城デニー沖縄県知事の両親のように米軍兵士と日本人女性が結婚することも自然な流れとしてあったのでしょう。

 そういう米軍兵士と女性たちのために「花嫁学校」(Brides School)は開校したというのです。 

米国赤十字社が1951年から「花嫁学校」を始め、1957年まで続いたようで、上のポスターは「花嫁学校」の開校を知らせるポスターです。日本語で「国連軍の方と結婚された方はぜひ出席してください」とありますから、結婚前の花嫁修業に限定したものではなかったようです。

 

 ≪私達は歴史史料を通して、過去の出来事を理解分析する事により、より良い未来の方向性を決めることが出来ると信じています。≫と云う趣旨で、英語と日本語を選択して読める「ニチマイ(日米?)米国事務所」のサイトには、上記ポスターなど貴重な写真も多く、特に占領下の日本とアメリカ軍についての資料検索には欠かせません。

 

 例えば、米国赤十字社が始めた「花嫁学校」には、300人以上の日本人女性が殺到したと下記写真とともに紹介されているように豊富で解像力のある写真資料が特徴でもあります。

中には既にカラー写真での記録もありますから、GHQには何人かのプロカメラマンも配属されていたのでしょう。

 
American soldiers attend a school at the Masonic Temple, Tokyo Japan, to learn Western living conditions as they exist in the United States.  This meeting marks the beginning of a “School for Brides” in which over 300 Japanese girls attended. 16 Mar. 51; Photographs of American Military Activities, ca.1918 -ca.1981; Records of the Office of the Chief Signal Officer, 1860-1985 ; RG111-SC (Box 764); National Archives at College Park, MD
「ニチマイ米国事務所」サイトの写真を借用しました。

    要は、アメリカ人との結婚に際し「ハイヒールでの歩き方」とか「ベッドメーキングの方法」「コーヒーメーカーの使い方」等々、必要な「実学」からマナーまで、アメリカ人の生活習慣を嫁ぐ日本人女性に身に付けさせる為のカリキュラムだったそうですから、「花嫁学校」は、女性が「嫁ぎ先」で良妻賢母になることが目的であり、日米で共通していたことになります。

 多くの女性が希望も抱き嬉々として参加しているようにも観える上記写真は、米軍兵士と結婚して日本を脱出したいと云う志願女性の存在も多かったことを物語っているように私には観えました。

2018年9月21日金曜日

杉浦醫院四方山話―553『源氏ホタル愛護会記念誌販売開始』

 昭和町源氏ホタル愛護会が結成30周年の今年、記念誌「源氏ホタルと昭和町」を発刊することとなり編集作業を進めてきました。

 

この記念誌のコンセプトは、すっかり都市化された現在の昭和町では実感できなくなっている「水の上にできた街・昭和町」を源氏ホタルを通して「水の町・昭和の歴史」を再認識できる内容になるよう編みました。限られた時間と予算の中でしたが、約60ページの小冊子として完成し、愛護会員はじめ学校や関係機関への配布も終了しました。

 

 朝日新聞に続き山日新聞でも以下のように紹介された記念誌「源氏ホタルと昭和町」を当館でも一冊500円で頒布していますので、是非ご購読くださいますようご案内いたします。



 近々の北海道地震による災害はじめ全国各地で自然災害が続く中「水の町昭和」の歴史を認識することは、地震による液状化現象など決して無縁でないことも分かります。

本誌では踏み込みませんでしたが、町が配布・周知している「ハザードマップ」と合わせて、昭和町の地盤にも目を向ける防災機会にもなればと願っています。

2018年9月13日木曜日

杉浦醫院四方山話―552『今年の落語会スタートしました』

 当館2階の座学スペースで開催している「伝統文化教室」は、6月の「篆刻(てんこく)教室」に続き「古典話芸を愉しむ教室」として、9月から12月までの4カ月、月1回「落語会」を開催します。


 今年で3年目を迎える教室ですが、今年は月ごとテーマを決め、テーマに添った話を山梨落語研究会代表の紫紺亭圓夢さんを中心に披露願うと云う企画です。

9月のテーマは「食べる」でしたから、古典落語「ちりとてちん」と「目黒のさんま」を中入りを挟んで愉しみました。

 

 10月は「学ぶ」をテーマに3日(水)に開催します。11月2日(金)は「だます」。12月7日(金)は「からかう」と続きます。時間は全て午後2時開演、3時30分終了です。


 9月11日の初回も写真でお分かりのように定員30名を10名近くオーバーする盛況でした。

杉浦醫院の1階は全て病院施設ですが、2階は当時から母屋の客室だったことから和室八畳二間と南西側を廊下が囲む間取りです。襖や障子を全て取り払うと広い空間になることも日本家屋の良さですが、ここに高座を設えますから座椅子と椅子をセットしても35、6名が限度で、ゆっくり楽しんでもらうには30名の定員設定となります。


 9月の参加者には、次回以降の出欠席の予定をお聞きしましたが、圓夢さんのアマチュアとは思えない話芸の間には山梨落語研究会の秘蔵っ子・琴音家甘魚(ことねやかんぎょ)さんの色物(大衆音楽)も入り、楽しさも倍増した感もありましたから全4回参加と云う方が多いのも頷けました。

 

 

 そんな訳で、10月以降の参加希望に応じられる人数には限りがありますが、杉浦醫院庭園の秋の移ろいも楽しみながら聴きに行ってみようと云う方はお早めに電話にてお申し込みください。

申込み先☎055-275-1400(昭和町風土伝承館・杉浦醫院)

2018年8月30日木曜日

杉浦醫院四方山話―551『ちょんな・釿(ちょうな)』

  平成の市町村大合併では、地域の博物館・資料館の統廃合も余儀なくされましたから、これまでに各市町村が収集してきた民具や農具がどうなったのか?文化財の収蔵や管理の問題が表面化しつつある今日この頃です。

 文化財と云えば、縄文や弥生の土器類や仏像などをおもい浮かべる方が多いのですが、人々の暮らしとともに歩んできた民具や農具も文字記録に残らなかった地域社会の歴史や暮らしの情報を伝える貴重な文化財です。

 

 特にコンピューター社会となり生活様式の激変や農業の機械化が急激だった日本では、つい10年前まで普通に使われていた「モノ」が役割を終え、処分されているのが日常となりました。


 昭和町築地新居のTさんから「親父が使っていたものだけど・・・」と軽トラ一台分の民具と農具が今月当館に寄せられました。「親父は大工だったので、もう「ちょんな」も珍しいと思って」と、建築に使われていた大工道具もありましたので、随時紹介していきます。

 

 甲州弁なのか定かではありませんが、Tさんの言う「ちょんな」は私も「ちょんな」と思っていましたが、漢字表記は「釿」で、読みは「ちょうな」が正確なようですが、ここでは「ちょんな」で統一します。
Tさんから寄贈いただいた「ちょんな」二本


ちょうな に対する画像結果 右写真の古民家のように「ちょんな」で削られた梁や柱が「カンナ」が使われる前は普通でした。

「ちょんな」は柄を振り下ろして刃先で丸太の表面を削り出し、丸太を角材にするのが主な使い方でしたから、現代のように全て機械で加工する時代からすると気の遠くなるような時間と技が求められたことでしょう。


また、「ちょんな」を使うと、独特の波状の削り肌が残り、風情もあることから、「名栗面(なぐりめん)」という表面の仕上げかたにも使われています。

 
 

2018年8月22日水曜日

杉浦醫院四方山話―550『ブログ・知の冒険』

 この夏、当館に足を運んでくれた方には、ある種共通する傾向が顕著になってきていることを実感しました。

 例えば、昨日は午前中に長崎から男子大学生、午後には名古屋から若い女性が見えましたが、いずれもお一人での来館でした。

長崎からの医学生は大学の講義で知った「日本住血吸虫症」について、夏休みを利用してもっと深く知りたいと山梨を訪ね、昨日県立博物館、今日は当館に来たそうで質問も的確でした。

名古屋の女性はカメラ持参で「古い建造物に興味があって」と来館目的を告げ「それに地方病の事も知りたくて」とのことで「私は何時間でも・・」もお二人に共通していました。

「顕著な共通する傾向」は、昨日の二人のように①一人ないし二人で②目的を持って③当館に絞って④時間無制限で、の4点にプラス「若い方」でしょうか?


 猛暑の盛りに横浜から見えた男性=丹治俊樹さんもある意味屹立した存在感ある青年でした。自ら「ブログのライター」であることを名乗り、名刺もいただきましたので帰り際事務室でこちらの名刺も渡し雑談に及びました。

 「サザンの桑田佳祐と同じ鎌倉学園から大学院まで早稲田で、サラリーマンもしたけど今はライター生活をしている」と云ったプロフィールとブログサイト「知の冒険」が現在の主なフィールドだと教えてくれました。


その場で「知の冒険」を検索すると「世の中思った以上におもしろい」のコピーと共に「スポット知識発掘家・丹治俊樹」の世界が繰り広げられていました。

知の冒険

 世の中は思った以上に面白い!

  丹治さんは、このサイトに配信する記事を書くべく日本中を取材して回っているそうで、当館に来た前日は茅ガ岳の登山もして「深田久弥終焉の地」の足跡を追ったようです。

この「知の冒険」サイトは、「学びのスポット」「公園・自然系」「寺院」「面白・珍スポット」「お店」等々のジャンルに分かれ、ユニークなのは「色街・赤線・遊郭跡」もあることです。

これは、丹治さんの嗜好もあるのでしょうが、民俗学とか文化人類学と云った領域では必須のジャンルでもありますから、丹治さん知の冒険は、手法も含めて現代版「柳田国男」「宮田登」と云ったところでしょう。

 

 今年の酷暑にもめげず、車中泊も含めて今夏取材した山梨県内の記事が彼独特の文体で次々アップされてきましたが、8月15日付けで「学びスポット」として「【恐怖の地方病】甲府盆地に蔓延する死の病を撲滅した背景を学びに「杉浦醫院」を訪問した!」と、当館が取り上げられました。

 

 約2時間の取材で、細かな部分での誤記などあるもののこれだけまとまった記事にする手腕は、流石「ライター」を自称するだけの事はあると感心します。

取材しながら撮影した写真も有効に配され、読みやすさにまで配慮が行き届いているのも見事ですが、末尾2枚の汚い男の写真が余計かな?まあ「真を写す」のが写真ですからどうにもなりませんね。

2018年7月23日月曜日

杉浦醫院四方山話―549『童連=山梨児童文化連盟-2』

 平原さんが読売新聞の記者に提供した満席の観客を前に当時としてはとてもお洒落な少女たちが踊ってい写真は、終戦当時の日本の子ども達の置かれた状況を遺憾なく伝えています。

それは、この「童連」に入って踊ったり演じたりする子どもと「童連」の舞台を楽しみに観る子どもでは、圧倒的に後者の観る子どもが多かったことを写真が物語っているからです。


 平原さんは、学校で担任から声をかけられて「童連」に入ったそうですから、甲府市内各校のそれぞれの教師が「この子を・・」と選抜した、云わば先生のお目に適った小学生が童連入りしたことは想像に難くありません。私の小学生時代は昭和30年代でしたが、「学芸会」とか「鼓笛隊」等の役決めでもその筋の先生が仕切っていたことを覚えています。

まあ、それが問題という訳ではなく、校内行事でも当たり前だったから市内の学校からの児童を組織してと云うより大きな組織になれば、それなりの基準や厳しいチェックを経て選ばれたエリート集団だったのでしょう。


 食べることにも事欠く敗戦当時、食うや食わずの少年少女を集めての活動という訳にはいきませんから、当然基準の一つに親の経済力も問われたことでしょう。

平原さんのお父さんも甲府の中心街で大きな商店を経営していたそうですし、現在も交流のある「童連」のメンバーは、後に高等女学校や大学まで進んだようですから経済的にも恵まれていた方々だったのは確かでしょう。


 その辺についても平原さんに率直に聞いてみました。

「そうですね。指導者の方が時々、親の所に奉加帳みたいなものを持って来ていましたね」と話し「読売の記者には私が何度も強調して話した内容が記事に入っていないのが残念で・・・」と続き「童連がどう運営されていたのか小学生だった当時の私は全く知らなかったけど、甲府の経済界の方が資金援助も含めて協力してくれていた事を後になって知りました」と具体的な名前を挙げて教えてくれました。

 

 その代表が一代で常盤ホテルを興した笹本吾郎氏だったそうで、記者に「常盤ホテルの笹本さんは、童連の後援会長を引き受けてくれて、毎回舞台で挨拶もしてくれたのを覚えています」と話したのに記事に笹本さんの名前が無いのが不本意のようでした。

「現在の社長さんは息子さんだそうですから私は手紙でお詫びしようと思っています」と、お世話になった方々より自分の事の記事が多すぎると遠慮がちに話すのが平原さんでもあります。


 要は、童連のメンバーだった方々も高齢となり鬼籍に入っていく中、今のうちに童連についての資料を整理し、戦後の甲府盆地での文化活動が子ども達の劇団活動から始まったと云う歴史を伝えていきたいと云うのが平原さん達の思いです。

 

 それは、童連の舞台を楽しみに観た同級生達の声も含め、当時中心になって指導してくれた市内の教師たちの思いや何故10年で幕を閉じたのか等々、平原さん達の探求心は尽きません。

 

 山梨県の教員の諸活動については、山梨県教職員組合が資料を含め先輩たちの足跡も残していることと思います。童連に関するどんなことでも情報を平原さん(080-5171-1911)もしくは当館(055-275-1400)までお寄せいただけますようお願いいたします。

2018年7月11日水曜日

杉浦醫院四方山話―548『童連=山梨児童文化連盟-1』

 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月6日の深夜から7日にかけて、アメリカ軍爆撃機B-29が焼夷弾等で甲府の市街地を焼き尽くした「甲府空襲」は、日付から「七夕空襲」とも呼ばれています。


 甲府空襲の体験者も年々減っていく中「山梨平和ミュージアム」は定期的に企画展を組んだり、この時期にも講演会を開催するなど「風化」に抗した取り組みを継続しています。

 

 山梨県内の新聞やテレビでも毎年七夕の前後に「甲府空襲」を語り継ぐ記事や番組が組まれ、報道されるのが恒例となっていますが、いささかマンネリ気味なのは、戦後も70年以上が過ぎると既に話題も掘り起こし出尽くした状態なのでしょう。

 

 そんな中、今年は7月5日付け読売新聞山梨版に「へぇー」と云う記事が載りました。

中心になって取り組んでいる平原国男氏の承諾を得ましたので全文を転載させていただきます。


ー読売新聞山梨版からの貼り付けー


甲府空襲 希望の児童劇団「童連」

OBら記録残す取り組み



踊りを披露する「童連」の子どもたち。客席は観客でいっぱいになっている(平原さん提供)
踊りを披露する「童連」の子どもたち。客席は観客でいっぱいになっている
(平原さん提供)
 

 甲府空襲の焼け跡の中で、子どもに夢を持ってもらおうと設立された児童劇団「童連どうれん」の記録を、劇団員だった東京都多摩市、平原国男さん(83)らOBが残そうと取り組んでいる。

 空襲当時、平原さんは国民学校5年生。空襲は初めてで、「爆弾が落ちてくる『ヒュー』という音を聞くと、全部自分の家に落ちてくるように思えて怖かった」と振り返る。火の手から逃れるために、姉と一緒に真っ暗な荒川の土手を駆け降りていると「ばかやろう!」とどなられた。夜が明けると、土手に横たわっていたのは無数の遺体や重傷者。「気づかないうちに踏んでしまっていたのでしょう」

 無事だった家族と市内の旅館に仮住まいし、2年ほど過ぎた。街では、空襲でがれきとなった砂糖問屋の倉庫に戦災孤児が群がり、焼け焦げた砂糖をなめていた。その姿を見た歯科医が「生きることや将来に夢を持ってもらおう」と考え、一緒に子ども向けの絵本や童話を作っていた小学校教諭らに相談し、賛同者が集まって「童連」を設立した。

 平原さんは、通っていた小学校の教諭に「子どもの劇団ができるからやってみない?」と声をかけられた。児童約50人が集まり、「劇部」「音楽部」「舞踊部」に分かれて練習を始めた。歌や踊りが得意でなかった平原さんは劇部に入った。放課後に市内の小学校に集まり、教諭らの指導を受けながら「風の又三郎」やオリジナルの劇を練習した。「先生が裏方になって舞台装置を作り、衣装は親が作るなど全て手弁当だったが、とにかく楽しかった」。本番が近付くと週に2~3回練習した。

 初演は1947年、県議会議事堂で行われた。その後、毎年春と秋には映画館で1~2日ずつ上演。ステージでは、明るいメロディーと「希望豊かに胸張って」「楽しい日本はもうすぐだ」という歌詞の「かおる花束」などのオリジナルの歌も歌った。入場は無料で、1回の公演に数百人の子どもが集まったこともあり、平原さんは「娯楽に飢えていた時代だったので、いつも超満員だった。延べ1万人は見てくれたと思います」と思い返す。

 戦後の混乱が落ち着いた50年頃、童連の活動は終わった。劇団員として約100人の子どもが活躍したが、転居などで散り散りとなったまま時が流れた。

 東京在住のOBが童連で指導してくれた人を訪ねた際に「みんなで集まろう」という話になり、90年に甲府市内のホテルでOB会を開くと「空襲後の甲府市に文化活動があったことを記録として残しておきたい」という話が持ち上がった。間もなく、平原さんらOB20人が発起人となって「童連のあゆみを記録する会」を作った。2~3年をかけて、市内に住んでいたり各地に引っ越したりしたOBに呼びかけて、当時のプログラムや新聞記事の切り抜き、写真などを段ボールひと箱分ほど集めた。

 しかし、資料集めを担当したOBの死去や転居のために多くの資料は行方不明に。それでもコピーは手元に残されていたため、平原さんら発起人は「OBが元気なうちに何とか本にまとめたい」と、再び資料の整理を始めた。当時、童連の舞台を見た人の感想なども盛り込もうと、OBたちで話し合いを進めている。

 平原さんは「甲府空襲は悲しい記憶だが、童連は人々の心をいやしたと思う。焼け野原に文化の花が咲いた歴史を次世代に残したい」と話している。(荒谷康平)

 

■甲府空襲 1945年7月6日深夜から7日未明に行われ、「七夕空襲」とも呼ばれる。米軍が大量の焼夷しょうい弾と爆弾を市内全域に投下し、市内の全住戸約2万5000戸のうち6割以上が焼失、市民ら1127人が犠牲になるなど、戦時中の県内では最大の被害となった。

2018年07月05日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

ー貼り付け終わりー

 

 6月30日(日)に山梨平和ミュージアム主催のシンポジュームに参加した平原氏は、終了後、取材に来ていた報道各社の記者を集めて「童連」の存在と活動を話し、資料収集についての協力を呼びかけたそうです。

その中にいた読売の荒谷記者が、すぐ反応して平原氏が住む多摩市まで取材に来て書いたのが上の署名記事です。

平原さんは「山日新聞が乗ってこなかったのはちょっと寂しいね」と吐露していましたが、「童連」の関連資料を集めていく上では、山日新聞は矢張り一番資料もあり、頼りがいがあると期待するのは自然でしょう。

2018年7月5日木曜日

杉浦醫院四方山話―547『NHK・ヤマナシ・クエスト』


NHK甲府放送局のH・Pからのコピーです。
 

 NHK甲府放送局が県内各所で取材し、地域に根差した話題や課題を特集して月一回提供している番組が「ヤマナシ・クエスト」です。4月から何度か当館にも取材にみえたOディレクターは、甲府局に配属が決まってから温めていたのが「地方病」だったそうで、甲府局の資料室で「地方病」に関連する過去の番組やニュースも全て観た上での取材でした。

 

 若いO氏が、敢えて今回「地方病」をQUEST(探索・探求)して、番組にしようとしたのは、山梨で風化の一途をたどっている「地方病」を新たな視点で見直し、多くの県民に知らせたいと云う情熱からのように感じました。

 

 その新たな視点とは、山梨県外の視点の導入でしょうか?

 

 当館が「地方病」を伝承していく視点は、一貫して「解明」と「終息」に果たした山梨県民の苦難の歴史とそれを乗り越えた業績と功績、そこに内包されている物語が主なテーマです。

それは、これだけ特有な「病」を有耶無耶にしてきた山梨県の地方病への歴史認識に対する杉浦醫院を有する昭和町の姿勢とも言えます。

 

 「地方病は終わった」のは確かですが、一世紀以上にも及ぶ地方病との闘いの歴史は、終息宣言で終わっている訳ではありません。

 

 今回のNHKの番組がどんなテーマでどういう構成になるのかは分かりませんが、Oディレクターの取材内容からすると、山梨特有の風土病だった「日本住血吸虫症」が、世界に眼を転ずれば、まだまだこの病で苦しむ多くの人たちがいて、山梨で終息させたその歴史や方法を学び、母国の患者救済と終息を願うアジアの研究者が、ヤマナシで地方病を学ぶ意味や姿も紹介されるのではないかと期待しています。

なにはともあれ、Oディレクターの熱意がどう番組に凝縮されるのか?楽しみに放映を待ちたいと思います。

 

 放映日は、NHK総合 7月20日(金)午後7時30分からの「ヤマナシ・クエスト」です。

 

2018年7月1日日曜日

杉浦醫院四方山話―546『井伏鱒二と甲州ー3=幻の随筆=』

 過日、山梨文芸協会総会が県立文学館で開催されました。

例年、総会に先立ち記念講演会を開いているそうで、事務局の蔦木さんから、この講演会の講師依頼を5月の始めにいただきました。

参加者が文芸協会の方々で文学館が会場なら「ちょうど井伏鱒二展を開催中なので、地方病と井伏鱒二についても触れた話をします」と応えました。


 後日、持参くださいましたチラシを見ると演題は「井伏鱒二と日本住血吸虫症」となっていましたので、看板に偽りがあってはいけないと急きょ看板に合わせた内容の資料とレジュメを用意しました。メインは井伏の友人でもあった大岡昇平の「レイテ戦記」にまつわる後日談ですが、その辺については、当ブログでも何度か紹介してきましたので、詳細は下記をクリックしてお読みください。

 
杉浦醫院四方山話―422『大岡昇平「レイテ戦記」と補遺ー1』

杉浦醫院四方山話―423『大岡昇平「レイテ戦記」と補遺ー2』

杉浦醫院四方山話―424『大岡昇平「レイテ戦記」と補遺ー3』

 

 要約するとは、甲州をこよなく愛した井伏が、山梨でのかかり付け医・古守豊甫医師を通して聞いた、レイテ戦記に欠落している地方病の記述について、林正高医師の指摘を大岡昇平に連絡したことに始まります。井伏からの連絡を受け、大岡も甲府を訪れて両医師から取材した内容を中央公論・昭和63年1月号に「日本住血吸虫症ー「レイテ戦記」補遺Ⅱ-」と題して発表しました。山梨の医師二人と井伏を介しての大岡の対応や経緯と補遺に対する林医師と大岡氏の見解の相違などについて話しました。


 その補遺の中で、井伏は大岡宛に日本住血吸虫症について随筆5枚を書き送ったことも記されています。これが「井伏らしい大変な名文」だから、大岡は「自分が補遺を出す前にどこかに発表してくれ」と頼んだそうですが、井伏は「これは大岡にだけ記した文なので、どこにも発表しない」と云い、それを受けて大岡も「では、私も一切引用しない」と決めたというエピソードも披露されています。

 

 大岡の補遺が、全体的に随筆風な記述になっているのは、引用はしなかったものの事前に受けた井伏の随筆5枚が影響したのかもしれません。大岡はこれを発表した年の12月に亡くなっていますから、前年8月の甲府での聞き取りも「耳が遠くなって」とか「私は歩行失調で・・・」と書いているように井伏からの連絡に応えるべく、老骨鞭打っての強行と云った感も行間に滲んでいます。


 そんな文士らしい両作家の姿勢も紹介しながら、つい口が滑ったのでしょう「お二人も既に故人となられていますから、この幻ともいうべき井伏の地方病随筆を何とか杉浦医院で発掘してみたいと思っています」と当てもない大風呂敷を広げてしまいました。

 まあ、是非読んでみたいと云う私の前々からの思いが言わせたのでしょうが「井伏鱒二展を企画出来る県立文学館に是非動いて欲しいところです」と辻褄を合わせましたが、有言実行で当館でも何らかの手立てを考えていこうと思います。


 講演終了後、山日新聞文化部の女性記者から取材を受けましたから「そうだ、天下の山日新聞だったらルートもあるでしょう。是非、井伏の地方病エッセイですから山梨で発掘したいですね」と山日新聞にもお願いしておきました。


 井伏鱒二には、生まれ育った広島県片山地方も上京後よく訪れた山梨も共通して日本住血吸虫症の有病地帯だったことが山梨に慣れ親しんで多くの作品を残した一因であったことも確かでしょう。


尚、大岡昇平の「日本住血吸虫症ー「レイテ戦記」補遺Ⅱ-」が載った「中央公論・昭和63年1月号」は、県立文学館1F資料室もしくは当館でコピー可能です。

2018年6月20日水曜日

杉浦醫院四方山話―545『井伏鱒二と甲州ー2=螢合戦=』

 前話で、井伏の「旅好き」に?をつけ「酒好き」の方が・・・と勝手を書きましたが、確かに井伏作品には流行語にもなった「駅前旅館」や山陽路を舞台にした「集金旅行」など秀逸な紀行作品も著名ですから、「あながち旅好きも・・・」と揺れます。


 前述の「駅前旅館」や「集金旅行」ほど有名ではありませんが、同じく紀行文的短編で編んだ「螢合戦」と云う単行本が1939年(昭和14年)に刊行されています。ここに収められている紀行文も井伏の旅の産物ですが、表題の「螢合戦」始め山梨県内が舞台になっている作品が目立ちます。


 この「螢合戦」は、甲府の常盤ホテルの露天風呂に浸かっていたらホタルが舞い飛んできたことから始まり「甲府盆地の一ばんの低地では・・」と、昭和村一帯のホタルの話に進み、甲州弁の会話で螢合戦当日の村の若い男女の浮き浮き感も味わい深く活写しています。

ですから「螢合戦」は数多い井伏の甲州紀行文の中で、昭和町の前身昭和村が舞台になっている唯一の作品かと思います。



 「螢合戦」の由来は諸説あるようですが、「啼かぬ蛍は身を焦がす」と蛍を燃える恋の思いに喩えたり、蛍を亡くなった人の魂に見立てての和歌も多い中、宇治川の戦いで非業の死を遂げた源頼政の命日に彼の怨霊が蛍となって弔い合戦を挑むというのが京都の「蛍合戦」の伝説です。

 山梨県でもお盆になると「蛍提灯」が売られ、提灯の中には電球や蝋燭ではなく蛍を入れ、その光りを頼りにお墓参りをしたという話を聞いたことがあります。先祖の御霊が蛍になって帰って来ると云う言い伝えで、お墓参りが終われば、霊をあの世に帰すべく蛍も放ったと言います。


 井伏の「螢合戦」は、現在は入手も困難なようですが、井伏鱒二文集‐2「旅の出会い」(ちくま文庫)に収録されていますから、興味のある方はお読みいただくと井伏の甲州通が半端でないことや「旅」と云う概念でよいのかと云う私の?もご理解いただけるかと思います。


 甲府盆地の一ばんの低地・昭和村の蛍から入る「螢合戦」の後半は、確か富士五湖方面の高所の蛍に進む展開でしたから、矢張り井伏は、蛍一つとっても甲州・山梨を隈なく見聞していた訳で、旅の作品も甲州・山梨が多いという事実は揺るぎません。

2018年6月18日月曜日

杉浦醫院四方山話―544『井伏鱒二と甲州ー1=旅好き?=』

た 山梨県立文学館で開催されていた特設展「生誕120年 井伏鱒二展」は昨日が最終日でした。あらためて、井伏がいかに甲州・山梨を好んだかが分かる特設展でしたが、キャッチフレーズの「旅好き 釣り好き 温泉好き」にはちょっと首をかしげました。

 

 それは、「好き」で重ねるなら最初の「旅好き」を「酒好き」もしくは「煙草好き」にすべきだろうと云う私の違和感でした。

本名・井伏満寿二を鱒二とペンネームに魚を入れたほどの「釣り好き」と下部温泉を始めとする県内各所の温泉を作品に結実させた「温泉好き」故に、両方が楽しめる山梨を好んだのでしょう。

私には「釣り」と「温泉」を求めての甲府行=幸富講のように井伏が日本各地を旅することが「好き」だったという印象はありません。

 

 それよりも井伏と云えば「この杯を受けてくれ、どうぞなみなみと注がせておくれ、花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」と訳した「于武陵の勧酒」です。

人間は、くよくよ思い煩いながらより、友と楽しく酒を酌み交わす時間を大事にしなければダメだ。そう、人間はいつかは別れなければならないのだからと云う、井伏の人生哲学がこの名訳に集約されています。

 

 上等なユーモアに裏打ちされた何事にも動じないひょうひょうとした存在感は「体に良いとか悪いとかより好きなものをおいしく食べ」、「飲んで酔わないと体に悪いから飲んだら酔って」と好きなだけ飲み、二日酔いになったら、ぬるい風呂にゆっくり入り、それで酔いが冷めたら、また飲みはじめたと云う井伏の酒好きは、伝説的でもありました。 

 甲府での定宿「梅が枝」での昼からの酒盛りや、ジョニ黒が並ぶ自宅テーブルでの飲酒写真など矢張り、井伏の「酒」は「釣り」「温泉」と同列か上ですから、この3つを同時に楽しむ「旅」が幸富講と命名した甲府行きだった訳で、「旅好き」とは違うかな?と・・・

 

 まあ、今回の特設展では、なぜかジョニ黒をおいしそうに飲む家での写真も当116話「紫煙文化ー2」で紹介した「さあ、一服」の代表的な写真も展示されていませんでしたから、下種が勘繰ると「酒」や「煙草」を県立文学館が「教育的」配慮で自己規制した結果が、「旅好き」に落ち着いたようにも思えます。

 

もしそうであったなら、「余計な気遣い無用、いらぬお世話だ」と井伏もこぼしていることでしょう。

2018年6月11日月曜日

杉浦醫院四方山話―543『平成の日本住血吸虫症』

 山梨日日新聞がシリーズで「やまなしの平成30年」を定期で報じていますが、何回目かに「平成の地方病」を取り上げるそうで、このところ二人の若い記者が入れ替わりでよく取材にみえます。二人とも山梨育ちですが、昭和の末期か平成の始めの生まれと云った感じですから、学校でも「地方病」は教えられなくなった世代で「こんな病気があったことすら知らなかった」そうです。


 そう云えば、ウィキペディアで「地方病」を執筆、更新中の小野渉さんも地元・山梨の題材を執筆していく中で「地方病」を知り、「何も知らなかったことで調べてみようと思った」と執筆動機を語っていました。「知らなかった」故に「学習してみよう」は、「知」の基本ですから、仕事がらみでも次々に出てくる疑問に対処していく若い記者には、こちらも出来るだけの協力は惜しみませんが、逆に問われて確認が必要になることもあり、一緒に学ぶことも少なくありません。


 きっかけは「平成の地方病と云ったら矢張り平成8年に出された流行終息宣言だと思いますが、○○さんにとっては何でしょう?」と問われ「うーん、ちょっと手前味噌になるけど杉浦醫院の開館だね」と答えました。「それは?」「山梨の風土病だった地方病をきちんと伝承していく施設が一つもなかったことが地方病の風化にもつながり、君たちも知らなかったということになったと思うよ。杉浦醫院の開館で、微力ながらも風化の歯止めにはなっていると云う自負はありますよ」と、具体的に答えました。


 「そうですか、その辺の話をもっと聞かせてくれませんか?」となり、取材が続くようになりましたが、新聞社には新聞社の意向があり「こういう方を紹介して欲しい」とか確認内容などからして、杉浦醫院の開館がメインでないことが分かりました。

「まあ当たり前だよな」と応じつつどんな紙面構成になるのか、若い二人の記事を楽しみに待ちたいと思います。


 同時進行で、NHK甲府局の若手ディレクターからの取材と収録も続きましたから、若い記者やディレクターの眼が「地方病」に向き、彼らの問題意識や展開を構想する中で、当館を訪れ取材を重ねた結果が記事や番組となり「地方病」について周知、広報される訳ですから、そういう意味でも風土を伝承していこうと云う杉浦醫院開館の意味はあったのかなと思う今日この頃です。

2018年5月30日水曜日

杉浦醫院四方山話―542『今年のホタル』雑感

 昭和町源氏ホタル愛護会主催の「ホタル夜会」は、既に21日(月)に終了しましたが、今日(30日)の山日新聞一面に「身延町一色のホタル」の発生を伝える記事と写真がありました。

今年も夜会開催日は愛護会の役員会で協議して決めましたが「今年は桜の開花や散りも例年より10日早かったので、ホタルのピークも10日くらい早くなるのでは・・・」で一致し、去年より10日早い21日の設定になりました。

 

 しかし、当日は池には3匹程しか舞わず、裏のホタル小屋には1匹も光っていませんでした。

「ホタル夜会」の主役はホタルですから、肝心なホタルが・・・・と数日前から不安でしたが、案の定の結果で、「オカリナーズ」と「笑和太鼓」の演奏がメインの夜会となり残念でした。


 山日の記事には、一色では今年のホタルの発生が例年より10日ほど遅れ、ピークは6月にずれ込むようだとあり、それは「4月の日中の気温は高い日が続いたけど夜になると気温が低かったのが原因」と一色ホタル保存会の会長は分析していました。


 ここにきて、裏のホタル小屋にも数匹のホタルが舞い始めましたから、一色の10日遅れからすると杉浦醫院のホタルもこれからが最盛期を迎える可能性も十分あります。


 一色の佐野会長の指摘する4月の夜間の低温は、確かにホタルの発生には大きく影響したのでしょう。ホタルは水中で大きく成長した幼虫が4月に上陸しますが、幾ら日中の気温が高くても夜、雨が降って高い気温にならないと陸に上がりませんから、桜と一緒にしたのは早計だったのかもしれません。


 そういえば、「バカの壁」の著者の養老孟士さんは、都市化された現代人の考え方は「あーすれば、こーなる」で、そういう考え方の現代人が作る社会を「予測社会」と規定していました。

そこから人間は人工物で満たすことを良しとして都市化を進めた結果、ますます身体で考えるより脳で考えることが一般化し、今回のように「桜が早かったからホタルも早くなる」思考が当然となって不思議ではなかったのでしょう。

 

 それは、子育てでも「あーしてもこ―ならない」現実を知っているのにホタルも幼虫を飼育して放流すれば、季節になれば舞い飛ぶだろうの「あーすれば、こ―なるだろう」思考が、本当は問題だと云うことを養老氏は警告しているように思いました。

つまり、何が起るかわからない「先の事」を全て「今」の情報で予測して安心を得るのが現在を生きる私たちの当たり前の考え方になっているけど本当は違うよ!と言っているのでしょう。


そういえば、今年の4月の夜風は昼との落差もあってか冷たかったなあ~と思い出せます。

ホタルの自然発生を待つ「一色ホタル保存会」と放流したホタルの発生を予測する「昭和町源氏ホタル愛護会」では、都市化の著しい昭和町の方がより「あーすれば、こ―なるだろう」思考が強くなっていることは確かでしょう。

2018年5月24日木曜日

杉浦醫院四方山話―541『杉浦醫院・サポートの会(仮称)発足』

 この度、杉浦醫院のある西条新田地区の方から、今月の第4日曜日をスタートに毎月1回、午前9時から10時までを活動日とする「杉浦醫院サポートの会(仮称)」を立ち上げる旨、連絡をいただきました。

現在、会員を募集中で、区民に回覧で参加を呼びかけているようです。


 「サポート」する人=サポーターとか「アシスト」は、Jリーグの誕生以来日常的に聞く言葉となった感じもしますが、助ける人=ヘルパーもあり、「杉浦醫院サポートの会」も仮称の段階のようですし、名称は会の性格も規定しますから一考してみました。



ニュアンス的には看護現場で活躍する方を「ヘルパーさん」と呼んでいるように出来ないことは何でも助けてくれるのが「ヘルプ」でしょうか?

コンピューター社会になり、アナログ人間の私などは、未だに分からないことをよく助けてもらいますが、分からない、出来ない部分を助けてくれる位が「アシスト」のような気がします。

「ヘルプ」「アシスト」よりもっと間接的で、応援とか支援と云った感じの助けが「サポート」でしょうか?


「押原公園サポー...」の画像検索結果  昭和町には、既に「押原公園サポーターの会」があり、活動も軌道に乗っているようですが、会結成の呼びかけ人の一人である浅川武男氏によると「公園を利用する人に利用しながらゴミ拾いなど出来ることをしてもらおう」と云う趣旨だったので「公園が押越にあるから押越の区民で」と云う会ではないとのことでした。そう、ご謙遜されても写真のように青いベストのユニフォームも揃え、植え込みの草取りでしょうか、ちょとウォーキングの途中にゴミ拾いと云った感じではありませんね。


 まあ、当初の目的や趣旨とは違ってくるのも会とか組織の常ですが、その弊害部分を極力抑えるための知恵も蓄積されていますから、是非、細く長く継続的な活動でご支援いただきたく私論を書いてみます。


 先ず、一定のメンバーが集まったら、仮称「杉浦醫院サポートの会」の名称をメンバーで協議して決定した方が・・と思います。「見ていられないからサポートじゃなくてヘルプの会だ」とか「要請があった時だけアシストすればいいんじゃない」と云ったメンバーの声で正式名称を決めた方が「押原公園サポーターの会」の二番煎じといったイメージもなく、良いかと思います。

 

 そして、既に「月一回・第四日曜日」の枠が決まっているようですが「いいのかなー」と心配になります。その気がっあても「第四日曜は既に・・」と云う方は入れません。

このように会の名称が決まると一般的には、程度の差こそあれ「会則」とか「規約」を作りますが、これが曲者です。他の同じような会の会則を参考にして「会長1名と副会長・・会計・・を置く」とか「会費は年・・・円とする」「活動は月一回・第四日曜日」」と云った入会に伴う負担や役割り等、会の中身が文章化されます。そこから「会則」が一人歩きし出し「会則でこうなっている」と思考停止も起こります。山梨特有の酒文化でもある「無尽会」にさえ会則がありますから、山梨県人は「会則好き」なのかも知れません。

 

 当館をご支援いただく為の自発的な会の誕生ですから、ただただ「ありがとうございます」で、こちらがとやかく言うのは、僭越かつ失礼かと思いますが、開館以来これまでも地域の皆様にお世話になってきましたから、区民の皆さんに一層利活用いただき、なるべくなら区に杉浦醫院があって良かったという場であって欲しいというのが、一番の願いで正直なところです。

 そんな訳で、新たに誕生する会も「来る者は拒まず、去る者は追わず」で「会則・会費無し」の自由参加で楽しく、ゆるゆるの会であって欲しいと願わずにはいられません。

2018年5月20日日曜日

杉浦醫院四方山話―540『明日・昭和町ホタル夜会』

 5月21日(月)午後7時から、当館庭園で「昭和町ホタル夜会」を開催します。ここ数年、当館での開催が続いていますが、主催は昭和町源氏ホタル愛護会です。私も愛護会の事務局をしていた関係で、ホタルとの縁が切れませんが、地方病終息と共に町のホタルも消滅した経緯や歴史は、当館が伝承していくべき内容ですから当然でしょう。

 
 昭和町の源氏ホタル復活活動は、今年で30年目を迎えますが、この30年で著しい成果があったのかと聞かれるとそれこそ「微妙」としか言えません。
初期の段階で放流を続けた紙漉阿原地区の湧水地域には100匹前後のホタルの乱舞を再現できるようになり、自生の可能性も期待できたことから、ここ20年近く幼虫の放流はストップしてきました。それは、幼虫を放流すると自生したホタルなのか放流したホタルなのかが確認できないからです。今年も14日に現地に行った浅川会長から「3,4匹舞いだした」と連絡がありましたから、阿原には絶えることなくホタルが自生し続けています。これは愛護会の目的でもある「自生に向けた幼虫の放流」の成果として挙げられます。
あとは、細々でもホタルを絶やさず今日まで毎年町内数か所でホタルの光を観賞出来るよう愛護会が図ってきたことでしょう。


 愛護会では、より良い自生環境を探したり、造ったりして30年の間に放流場所も試行錯誤してきました。当時、愛護会で確認してきたことは、連続して数100匹のホタルの乱舞が見られるようになったら「ホタル夜会」を計画して、昭和のホタル復活をアピールしようと云うことでした。
「この程度の数では、恥ずかしくて・・・」と云うプライドが、かつての昭和のホタルを知るメンバーには共通していました。


 平成になってブームのように広がった「ビオトープ」は、昭和町でも全学校に造営され「学校でもホタルを」となりましたが、所詮は人口自然園ですから人間の思うようにはいきませんでした。
暑い甲府盆地の夏は、公園に水と親しむ噴水や池、流路と云った親水広場は欠かせませんから、昭和町の押原公園にも親水広場が出来ました。昭和町ですと「蛍」もプラスされますからビオトープ的な水路も造られました。
この押原公園がオープンしたことにより始まったのが「昭和町ホタル夜会」でした。それは、ホタルの発生数が飛躍的に多くなったからではなく、押原公園の利活用の一環からでしたから、肝心なホタルは・・・・で再考を余儀なくされた結果、当館とNPO楽空で開催していた「杉浦醫院ホタル観賞会」との一本化でした。


  昭和の源氏ホタルが国の天然記念物に指定されていた時代、杉浦健造氏は「杉浦醫院ホタル観賞会」を毎年6月に県内の名士を自宅に招待して開催していましたから、当館でも裏の車庫を利用して幼虫の飼育をNPO楽空と始め、5月末に「杉浦醫院ホタル観賞会」を復活させました。

 庭園の池の環境が良いこともあって比較的たくさんの成虫が舞い、手づくりの観賞会にも多くの方々がみえましたので、愛護会の幼虫も杉浦医院に放流して、夜会に一本化して・・となり4回目を迎えます。


 さて、今年のホタルは? 毎晩見守り活動をしてくれている杉浦精さんの昨夜の確認では、1,2匹ですから、明日も数的にはあまり期待が持てません。それでも7時から始まる和太鼓やオカリナの演奏で、眠っていたホタルも舞いだすやもしれません・・・し、昭和のホタルは「これからが最盛期になります」のアナウンスイベントとして、親子でお楽しみくださいますようご案内いたします。 

2018年5月16日水曜日

杉浦醫院四方山話―539『スチブナールのアンプル見つかる』

 大正12年(1923年)に東京帝大伝染病研究所の宮川米次氏が、万有製薬の岩垂亨氏に依頼して酒石酸アンチモンのナトリウム塩を化学合成し、ブドウ糖を添加して毒性を弱めることに成功した注射薬「スチブナール」は、この病に苦しむ多くの患者に「特効薬誕生」の吉報となりました。スチブナールの詳細については杉浦醫院四方山話―255『三神三朗氏ー3』 等を参照ください。

 

 当館では、これまで上の写真のスチブナールの空箱を調剤室に展示していました。当然、見学者は箱の蓋を開けて中身を確認したくなりますから「開けていいですか?」「どうぞ」となり「残念ですが、中身が無いんです」と謝ってきました。

 

 診察室のケビントには、注射器や聴診器の医療器具がビーカーや三角フラスコと共に納まっていて、薬品類は全て調剤室にあるものと思っていましたが、注射器と同じ茶色の箱で、一つ大きさが違う箱があるのに気づき、何気なく取り出してみると中には何とスチブナールの「アンプル」5本が未開封状態で納まっていました。 

箱も上記写真のカラーのモノとは違い、薄い紙質の茶箱に直接文字も印字された簡素なものですから、発売当初のモノだろうと予測できますが・・・


何より懐かしいのは、近年全く見なくなったガラスのアンプルだったことです。昔は医者に行くと「注射しましょう」が普通でしたから、取り出したアンプルの頭部をヤスリのようなカッターで、医者がジーとこすり、ポンと切り落とす手際の良さが思い起こされます。

薄いガラスのアンプルにも赤い文字で1本1本次のように印字されています。

                  20CC
              スチブナール 
             酒石酸アンチモン
              ブドウ糖
               萬有製薬株式会社
               東京市日本橋区室町三丁目
 

現在の東京が東京で、聞きなれない「日本橋」もありますから、ここからこのスチブナールの大体の製造年代が計れそうです。

 

 1878年(明治11年)に施行された「群区町村編制法」により、当時の東京の府下を15のと6のに分けました。そのとき誕生したのが日本橋区で、現在の中央区の北部一帯だったようです。ですから現在の中央区の前身は、日本橋区と京橋区になります。

 

 明治11年以降は、東京日本橋だった訳ですが、アンプルには東京日本橋区ですから、府が市に移行したのはいつだったのでしょうか?

こういう時、ネット検索は便利で、「東京市」と入れると・・・≪1889年(明治22年)5月1日に市制町村制」に基づき東京は府下に東京を設け、旧15区の区域をもって市域となして、区部の財産管理を移掌した。≫とありました。

以上から、このアンプルは1889年(明治22年)以降から東京が東京になった昭和18年(1943年)7月までの間に製造されたことが分かります。

 この東京・東京・東京の変遷を調べだすと、スチブナールとは関係ない東京市と東京府の二重行政問題(権限や行政効率化の問題)や、戦争遂行上の問題など興味深い史実にはまりそうですから、本題に戻りましょう。

 

 今回見つかったスチブナールのアンプルは、印字されている表記から明治22年以降昭和18年までの間の製造になりますから、大正12年のスチブナール発売当時のモノでほぼ間違いないように思います。

 

 一方の空箱には、東京都中央日本橋本町2-7の表示があります。

中央区は、先の日本橋区と京橋区が、1947年(昭和22年)に合併して、都下の真ん中に位置していることから中央区に変わったそうですから、この箱は昭和22年以降製造のスチブナールが入っていたことになります。昭和22年は戦後の復興期でしたから、箱の意匠からすると昭和40年代以降と云った感じもします。

 

 このように日本住血吸虫症の特効薬として、長い間使われてきたスチブナールを製造販売していた万有製薬も現在はMSDと云う外資の傘下に吸収されているようですが、当館にスチブナールのアンプルと終息期と思われる空箱が揃っていますので、是非ご確認ください。

2018年5月1日火曜日

杉浦醫院四方山話―538『更新停滞の弁』

 3月12日付けの537話からの更新が丸1カ月以上滞っておりましたが、「不器用な男ですから・・」などと気取ってもサマになりませんから、単に能力の欠如であることを認めつつ、その経緯を記して再開いたします。

 

 昭和町にある社会教育関係団体の一つ「昭和町源氏ホタル愛護会」が、今年30周年の区切りの年になります。そこで、これまでの活動を振り返り、今後を展望する「30周年記念誌」を発刊することになりました。私もこの会の事務局を永く務めていた関係で編集委員になり、5月の総会に間に合うよう発刊と云うスケジュールで編集作業がスタートしました。

まあ、突貫工事の日程ですから、逆算して4月25日前後までに「たたき台」となる概案を私が提案することになり、先週末の編集委員会まで「記念誌」づくりに追われ、ブログを書く余裕が全くなかったというのが正直なところです。


 本として出す以上、その本で何を伝えたいのか?同時に興味を持ってページを開いて如何に読んでもらえる内容にするか?はたまた、どの年代、どの層に照準を合わせて構成するか?等々具体化に際しては避けて通れない課題にも直面し、遅まきながら「こりゃ大変だ」と実感し、慌てた次第です。


 そこで、本の表題はズバリ「源氏ホタルと昭和町」として、かつての昭和町の源氏ホタルとホタルを守り育て、甲府盆地の初夏の風物詩として多くの方々を魅了するよう力を合わせた先人たちの努力と乱舞した源氏ホタルの感動を子や孫にも引き継いでいきたいと結成された愛護会の歴史とホタルと云う昆虫の生態を新たに昭和町に移住された方々にもご理解いただける内容にして、昭和町の一家に一冊は置かれ、家族で楽しめる本にしようとコンセプトを決めました。


 また、当館のメインでもある地方病も源氏ホタルも基本は「水の街・昭和町」にあり、昭和の風土と結びついていることも50ページと云う制限の中でお伝えしたいと、取り上げる内容の取捨選択から写真撮影、資料の収集と確認まで、風土伝承館の仕事と表裏一体であることも痛感しながら進めていくと、あれもこれもと欲も出てきました。


 編集委員諸氏に恵まれ、新たな原稿や写真も次々寄せられましたから、予定通り「たたき台」を提案することが出来ました。今後は、最終の調整と校正を経て、印刷会社との詰めに入れそうです。


 以上がブログ停滞の「言い訳」ですが、当館でもこの本を希望者には頒布できるよう図り、より一層昭和町と愛護会、当館へのご理解とご協力をお願い出来たらと思っておりますので、「源氏ホタルと昭和町」のご購読もよろしくお願いいたします。

2018年3月12日月曜日

杉浦醫院四方山話―537『福山誠之館同窓会』VS『甲府一高同窓会』-3

 福山誠之館高校と甲府一高の同窓会について感じたままを書いて来ましたが、これも何かの縁ですので、両校や両風土に重なる部分を記してまとめとにしたいと思います。

 

 『誠之館人物誌』の中には井伏鱒二氏がいます。下記リンクのように当四方山話の中でも井伏氏には何回か登場願いましたから、井伏氏の紹介ページを読んでみました。この『誠之館人物誌』の凄いところは、取り上げた同窓生一人一人の「経歴・業績」や「生い立ち」だけでなく、誠之館で学んだ中でのエピソードや意味にまで言及していることです。

 

 井伏鱒二について、元校長だった吉田博保氏が『旧制福山中学と「山椒魚」ー試練が培った井伏文学の土壌ー』を書いています。

詳細は、上をクリックして読んでいただくとして、吉田氏は福山中学校時代の井伏には、総じて居心地の良い学校生活ではなかったことを代表作の一つ「山椒魚」と重ねて評しています。

 

 具体的には、

≪しかし、満寿二(鱒二の本名)青年にとって、当時の誠之館中学は、必ずしも満足感をもって受け入れられていなかったように思われる。 「岩屋」の内に閉じ込められた「山椒魚」の「悲しみ」は、当時の井伏の「誠之館中学」という閉鎖社会を投影しているように思える。≫  とか

≪私は農家の出身で、幾らかそのせゐもあるだろうが、中学時代には阿部正弘公(創設者)を大して崇めてゐなかった。幕末のころの私の先祖や近隣の人たちは、殿様を恨む百姓一揆を秘かに歓迎してゐたと思はれる節もあるほどだ。『半生記』≫ 

更に

≪服装検査も頻繁に行われ、彼自身も、大正2年(1913年)6月(2学年次)の服装検査にひっかかり、粟根から出て来られたお母さんが、「田舎者で、私の日頃のしつけが悪いものですから」と深く謝罪され、舎長の生徒から井伏君を直接忠告制裁したいむねを受けた舎監が、それを制し、同郷の友人や親戚筋の先輩に、今で言うカウンセラー的手法で、彼の相談相手として立ち直らせてほしいむねを頼んだエピソードもある。≫ 

等々を挙げつつ

≪いわば、多感な青年時代に、多くの試練を与えた福山中学は、以後の井伏文学を生む母胎を形成する一翼を担ったと言ってよかろう。≫と結んでいます。


 成る程、後に進んだ早稲田大学文学部仏文科や日本美術学校も全て中途退学していますから井伏鱒二は、厳しい福山中学で≪言いしれない「諦観(あきらめ)」に到り≫≪この「諦観」を原点に、「諧謔(ユーモア)」と「哀愁(ペーソス)」にあふれた表現手法≫を確立したという吉田氏の評には説得力があります。


 郷里・福山には戻らず、中央線阿佐ヶ谷に住み甲州をこよなく愛した井伏鱒二は、戦争中の疎開先も甲府の外れ甲運村でした。山梨での釣り友達・飯田龍太氏も山梨でのかかり付け医・古守豊甫氏も甲府一高の同窓生でした。甲府の定宿「梅ケ枝」や「天下茶屋」等、井伏氏にとって山梨は「第二のふる里」と云っても過言ではないでしょう。

 当杉浦醫院に通った患者さんが残した落書きの中にも井伏鱒二の名訳が刻まれていますから、甲州人に愛された井伏氏と云えます。

それは、生まれ育った広島県福山地方は、甲府盆地同じ盆地でもあり、山梨と同じ日本住血吸虫症の数少ない有病地域でしたから、井伏氏にとっても甲州人にとっても親近感もあったのでしょう。

甲州・無頼氏が刻んだ井伏鱒二の名訳「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」
 

44話 『落書き考』      116話「紫煙文化ー2」   

424話『大岡昇平「レイテ戦記」と補遺ー3』  

2018年3月5日月曜日

杉浦醫院四方山話―536『福山誠之館同窓会』VS『甲府一高同窓会』-2

 当館の図書資料の中に昭和62年度甲府中学・甲府一高同窓会が再販した「歴史資料写真集」と云う約50ページの冊子があります。奥付に初版は昭和54年1月で、これを増補改訂した第3版が62年3月、同年5月には第4版とありますから、需要があって版を重ねていることが分かります。


 この写真集は、望月春江の「鯉」から始まって鳥居雅隆や米倉寿仁等々の絵画、石橋湛山や中村星湖等々の「書」など「本校卒業生」の作品から講演のため来校した西脇順三郎の色紙など甲府中学・甲府一高が所蔵している文化資料の写真集です。


 この写真集が編まれるように甲府一高は、福山誠之館高校に勝るとも劣らない文化資源を擁しているのにその存在や内容が全くと云っていいほど知られていません。

その点、福山誠之館高校は学校が内包する歴史資料を同窓会が管理して公開していることがホームページ上からもうかがえます。

要は、学校と同窓会の「関係」の違いかも知れません。


 上記の「写真集」の中には、「校門門扉」「図書館前の池」「本館前庭」「校門西石庭」「日新ホール前庭」「中庭」等々の写真も入っていますが、それぞれの寄贈者は「東京同窓会」「甲子会」「御坂会」「惜城会」「昭和2年卒業生」等々、同窓会もしく同窓生有志が母校に寄贈したものであることが分かります。甲府一高同窓会は、母校に気前よく必要な備品や施設を寄付することが伝統になっているようです。昭和町の押原中学校の桜並木も同じように同窓生の手による植樹だったそうですから、山梨県の同窓会全体の傾向かも知れません。

 

 贈られた学校は、以後これらの維持管理をしてきたのでしょうが、在校生には学校を構成する一部としての認識しか持てないのが実際かと思います。福山誠之館同窓会は、このような同窓会の寄贈物を同窓会が積極的に常時周知活動をしていますから、在校生も同窓会の寄贈物に囲まれた学校であることを知りつつ同窓生となっていき、その伝統が継承されているのでしょう。


 まあ、よく言えば甲府一高同窓会は「金は出すが口は出さない」、福山誠之館同窓会は「金も口も出す」と云った感じもしますが、矢張り同窓会に対する風土の違いと解すのが妥当かな?と・・・・


 

 近々では、甲府一高の卒業生で、「中世史」の東京大学教授だった五味文彦氏の蔵書が市川大門町の旧二葉屋酒造店を改修したギャラリー内に寄贈されるそうです。同窓生である五味氏の学術書は、同窓会が窓口を開いておいて母校内に「五味文庫」を設け、公開した方が五味氏の意にも添うように思いました。同じような事例はもっとあるかと思うと矢張り「勿体無いなー」です。

2018年2月28日水曜日

杉浦醫院四方山話―535『福山誠之館同窓会』VS『甲府一高同窓会』-1

 前話「東京銀座・江木写真館」について調べていく中で、広島県の県立高校・福山誠之館同窓会サイトに行きつきました。

 

  1880年(明治13年)に江木写真館を創設した江木保男・松四郎兄弟は、福山藩の医者であり儒学者の江木鰐水(えぎ・がくすい)の5・6男で、すぐ上の兄は明治初期の外交官・江木高遠です。二人は、福山誠之館高校の前身・藩校「福山誠之館」の卒業生であることからこの同窓会サイトに江木保男・松四郎兄弟の江木写真館も紹介されていました。


 江戸時代の藩校「福山誠之館」が明治に「広島県福山中学校」となり、現在が福山誠之館高校です。山梨県で云うと江戸時代、甲府城南の地に設置された「官学・徽典館」を経て「山梨県立甲府中学」が現在の「甲府一高」ですから、同じような歴史、伝統の学校といえましょう。


 そこで、甲府一高同窓会のサイトも開いてみました。感じ方や感想は十人十色ですから是非、上記赤字のリンクをクリックして両高同窓会サイトをご覧いただき、普段思いも馳せない(であろう)「同窓会」について、時間をとってみるのも一興でしょう。


 同じような文化や卒業生を輩出してきた両校の同窓会なのにこのホームページの違いは何なんだろう?が、私の初発の驚きでした。

 

 私事で恐縮ですが、同窓会総会の当番幹事になった20年弱前、記念誌担当を仰せつかった私は卒業以来初めて母校に行き、同窓会担当職員や図書館司書から学校にある学芸資料や歴史資料を見せてもらい、それを基に記念誌を作りました。

ですから、福山誠之館同窓会サイト上で紹介されている数々の歴史資料や人物資料、収蔵している学芸資料などを観て「井伏鱒二も卒業生か」とか「一高にあった石橋湛山の書の方が・・」と思ったりで、伝統校が蓄積し内包する文化の共通性を確認した程度でした。

「成る程、インターネットの時代では足を運ばなくても、こうして母校の歴史や秀でた卒業生について調べることも出来るのだな」と、一高のサイトも観てみようと思ったのでした。



 その結果が、前述の「初発の驚き」で、幾晩か酒など飲みながら無い頭で考えてみましたが、私に出せた結論は「同窓会に対する風土の違いだろう」程度でした。


 山梨県の地方新聞は現在「山梨日日新聞」一紙だけです。この新聞には、毎年県内の高校の同窓会総会の広告が載りますが、どこの学校も総会とアトラクション入りの懇親会がセットです。また、山日新聞には、同級会やクラス会など写真入り記事が、投稿記事として毎月掲載されていますし、同級生による「無尽」と云う飲み会も甲州名物です。

このように山梨では、「同窓会」は懇親を深め交流を図ることを第一の目的として定着しているのでしょう。それは、健康寿命日本一にも貢献しているとの評価もありますから、良しとしましょう。


 その上で、私の中には「勿体無いよなー」の思いが募るばかりでした。それは、福山誠之館同窓会がきめ細かく関係資料を整理して、公開していることで、江木写真館創設者の生い立ちまで語り継いでいることの意味と必要性を痛感するからです。


 例えば、今日の山日新聞が「山梨の先人13」で、『首席で卒業した甲府中学(現甲府一高)では教員から「数千人に一人の秀才」と評されるほどだった』と紹介されている「映画監督・増村保造」についてもどれだけの卒業生が同窓生であることを知っているか?等々・・・

矢張り「同窓会」が存在して果たすべき本来の任務について、少なくとももっと議論があってしかるべきではないのか?もう少し考えていこうと思います。

2018年2月22日木曜日

杉浦醫院四方山話―534『東京銀座・江木写真館』


 杉浦醫院には、診察室を見守るように大きな額に入った健造先生の写真が掲示されています。当時としては大きく引き伸ばされた写真ですが、粒子も粗くなく健造先生のキマッタ顔と背広姿が、この写真撮影にのぞんだ先生の意気込みまで感じさせます。

 

 孫の杉浦純子さんは「祖父と父は性格や趣味が180度違っていましたね。祖父はあの時代に自分の写真を東京銀座の江木写真館まで行って撮ったんです。父はそういったことには全く興味がなく、ピンボケ写真ばっかりで困ったのを覚えてます」と話していました。

 

 確かに健造先生の写真はたくさん残っていて、「甲府・内田写真館」とか撮影した写真館の名前入りのもあります。県の近代人物館はじめ副読本などに使われている健造先生の写真は、全て「東京銀座・江木写真館」で撮影された診察室にある写真です。

江木写真店(明治24年)

 

 この「東京銀座・江木写真館」は、現在もあるのか?

先日、東京から来館されたご年配の方々に伺いました。

「今の静岡新聞社ビルが、昔は江木写真館だったようだね」「塔のある高い建物で、待ち合わせ場所としても有名だったそうだけど今は銀座ではやってないと思うよ」と教えてくれました。

 

  早速、ネットで調べてみると中央区文化財調査指導員の野口孝一氏が「江木塔の写真師たち」と云う文章の中で、江木写真館の創設から往年の写真技師の話まで詳細がありました。

それによると、一万円札の福沢諭吉の肖像写真も江木写真館の成田写真師の撮影だということですから、健造先生が上京してまで撮りたくなったのは江木写真館の写真師の腕や技術の高さを情報としてキャッチしていたからでしょう。

 

 確かに現在のようにカメラが自動的にピントを合わせるオートフォーカス機能等が一般化したのは、昭和も50年代に入って「ミノルタα-7000」の登場以降だったと思いますから、明治・大正・昭和と永く写真は、撮影する写真師の腕による違いが大きかったのでしょう。


 同時に、野口孝一氏の「江木塔の写真師たち」から、明治時代に写真館を始めた江木兄弟の向学心や進取の精神は、奇病解明に取り組んだ健造先生と相通じますから、健造先生はその辺の情報も知っての江木写真館選択だったのかも知れません。

*野口孝一著「江木塔の写真師たち」と写真は中央区ホームページから拝借しました。     

2018年2月8日木曜日

杉浦醫院四方山話―533『松医会報85号』

 北里大学の寄生虫学の辻教授から「研究室の学生と杉浦醫院で研修会を持ちたいが、学生は来春から臨床に入るので、1月31日しか日時がとれない」旨の連絡があり「午後1時から4時までの3時間を杉浦醫院のプログラムでお願いします」との依頼がありました。

 これまでも麻布大学の「さくらサイエス」の研修会を毎年受けてきましたので「寒い館内ですが是非ご利用ください」と引き受けました。

3時間を内容あるモノにすべく辻教授からも「プログラムの中に実際に日本住血吸虫症の患者さんを診たお医者さんが居たら、その方のお話もお願いしたい」との注文もありましたから早速、巨摩共立病院名誉院長の加茂悦爾先生にお願いしました。


 加茂先生は、三郎先生が「地方病の事は加茂先生がいるから大丈夫」と、太鼓判を押した後輩で、当館も開館準備段階からご指導いただいたり、貴重な資料をご寄贈いただいたりしてきました。今回も加茂先生から「松医会報85号」をお土産に頂戴しました。


 「松医会報85号」は、平成19年秋に信州大学医学部松医会が発行した会報ですが、約150ページの会報と云うより書籍です。この85号では「日本住血吸虫症」を特集として取り上げ、信州大学医学部を卒業後、日本住血吸虫症の研究や臨床に携わった6名の医師と研究者のエッセーで構成されています。


 それぞれの先生方が自分と日本住血吸虫の「かかわり」についての随筆ですから、専門の医学用語が飛び交う学術誌と違って、私にも興味深く読めたのが特徴です。


 山梨大学医学部の前身山梨医大が開校したのは昭和53年ですから、山梨の地方病の研究、治療は、信州大学医学部出身の医師が中心でした。今回の執筆者6名は、甲府市立病院の故・井内正彦先生、市立病院の後輩で故・林正高先生、巨摩共立病院の加茂悦爾先生、後輩で後に横浜市立大学に転じた天野晧昭先生、東京医科歯科大学の太田伸生先生と綿々と現役の太田先生まで繋がっています。


 松医会は、「会報」を定期発行するでけでなく、現在の医学部学生も視野に入れての支援活動もしているようですから、信州大学医学部の鉄の結束の要になっているのでしょう。

上記6名の先生方も日本住血吸虫症の個々の研究分野は違っていてもお互い横の連絡も密で、信州大学の教授や先輩後輩が助け合っての研究活動であったことが分かります。

 

 そして、何よりも信州松本の地で青春を過ごした者同士の共通した価値観あるいは人生観のようなものが醸し出されていることです。それは、北杜夫の「ドクトルマンボウ青春記」の世界とも重なる大らかさが飾らぬ表現と確かな文章力で表出されています。

森鴎外から北杜夫や南木佳士まで、医者に作家が多いのも頷ける「松医会報」です。当館2階の座学スペースで自由に読めますので、お楽しみください。

2018年1月24日水曜日

杉浦醫院四方山話―532『木喰上人生誕300年』

  江戸時代後期、各地でさまざまな仏を彫り続けた木喰上人は、1718年に甲斐の山村(現・山梨県身延町丸畑)に生まれ、日本全国を行脚し1808年に亡くなりました。ですから、今年は木喰上人生誕300年の年になります。これを記念して身延町では、工芸館で木喰展を企画しているようですが、山梨に限らず全国で記念イベントが開催されることと思います。

 

 それは、木喰は22歳で出家し、56歳のとき諸国巡礼の旅に出て、60歳を過ぎてから仏像作りを始めと云われていますが、木喰が訪ねて仏像を彫ったのは、北海道から九州、四国、佐渡が島に及び、約30年間で1000体を超える仏像を遺したといわれているからです。

 

 木喰上人が彫った仏像は、それまでの仏像とは違う独創的な作風で、口元に笑みを浮かべたものが多いことから、「微笑仏」と呼ばれていますが、地元庶民の信仰を受けてきたものの仏像として広く知られるようになったのは、柳宗悦が起こした民芸運動の中からでした。

 

 大正12年1月、柳宗悦は、友人の浅川巧の誘いを受けて、甲府市の小宮山清三氏が所有する「朝鮮の陶磁器」を観る為に山梨県に来ました。

柳宗悦は、小宮山家で朝鮮の焼物を鑑賞したのですが、暗い庫の前にあった二体の彫刻に目が留まり、「口許に漂う微笑は私を限りなく惹きつけました。尋常な作者ではない!」と、即座に心を奪われたといいます。座敷にもう一体「南無(弘法)大師」の像があり、その折はじめて「木喰上人」の名を聞かされたといいます。柳宗悦の思いがけない驚きに対して、小宮山氏は「一体贈りましょう」と申し出たそうです。

 

 小宮山氏が柳宗悦に贈ったのが「地蔵菩薩」像だったことから、この地蔵菩薩像が現在も日本民芸館に展示されています。

この甲府の小宮山家での奇縁により柳宗悦は、木喰上人の研究に入り、木喰上人と微笑仏は、広く知られるところとなりました。結果、微笑仏は貴重な仏像として取引もされ、木喰上人が巡礼の中で世話になった各地に残した微笑仏は、地元から次々と消えていったと云われています。 

木喰仏 魅惑の微笑み-地蔵菩薩(民藝館)
小宮山清三氏が柳宗悦に贈った「地蔵菩薩像」(日本民芸館収蔵)


 

 木喰生誕の地・山梨には微笑仏も数多く残されていて、木喰研究会も組織されていましたが、不幸な経緯をたどり現在は休眠状態です。

柳宗悦を甲府の小宮山邸に案内したのも北杜市出身の浅川巧でしたし、柳宗悦没後、この研究を引き継いできたのは甲府の丸山太一氏ですから、身延町立近代工芸館での生誕300年記念展では、柳宗悦と甲州人あるいは山梨の文化との関わりなども紹介いただけたらと思います。


 丸山太一氏の研究資料、書籍は当館に全てご寄贈いただいておりますから、当館では、柳宗悦没後の木喰上人と微笑仏の研究成果展を生誕300年を記念して開催していきたいと思います。

2018年1月15日月曜日

杉浦醫院四方山話―531『夏の季語・甘酒』

 本格的な寒さが身に染みる季節になり、杉浦醫院館内は昼を過ぎても2度、陽のさす診察室でも4度しかありません。もちろん、各部屋にはファンヒーターを置いて来館者に合わせてその都度暖房していますが、昭和4年に夏の暑さを旨として建てた建物は、現代建築のように直ぐには温まりませんので、来館者には一層の寒さ対策をお願する次第です。

 

 寒い冬の風物詩として、温かな甘酒が振る舞われ「おいしいね」と初詣の方々が暖をとっている神社の光景がありますが、杉浦家でも正月は玄関先で「お汁粉」を近所の方々に振る舞っていたそうで「お正月の楽しみだったさぁ~」と暮れに落ち葉播きに来てくださった女性が懐かしそうに話してくれました。

 このように「お汁粉」「甘酒」「おでん」は冬の定番のように思いますが、俳句では甘酒は夏の季語になっています。

 

 鰻(ウナギ)は、旬でない夏場にも売れるようにと「土用丑の日には鰻を」と、かの平賀源内が流行らせたという説がありますが、以来「丑の日に鰻を食べて夏負け知らず」が今日まで定着しています。

 砂糖の無い時代、甘酒の甘味は貴重でしたから、甘酒も、栄養満点で滋養強壮にうってつけの飲みものとして「夏バテ防止に甘酒を」となり、広く夏の飲み物として定着していったのが夏の季語の由来かも知れません。

 

 最近は、この甘酒が人気で、コンビニでは季節に関係なく売られ愛飲している方も多いようですが、江戸時代には「甘酒うり」が街中を廻っていたそうですから、コンビニに行くよりもっと手軽に飲めた訳で、世の中本当に便利になったのかどうかも分からなくなります。


 同じように、昭和になっても「金魚うり」や「アイスキャンディーうり」は来ましたからコンビニより歴史も伝統もあり、それぞれが鳴り物や独特の売り声を発しながら廻っていたので風情もあったように思いますが、単に団塊ジジイのノスタルジアかも知れません。


2018年1月4日木曜日

杉浦醫院四方山話―530『上から目線の感謝状』

 「上から目線」と云う言葉をよく耳にするようになったのは何時頃からでしょうか? 「上から目線」が頻繁に使われるようになった分、影が薄くなったのが「目上の人」と云う言葉でしょうか?

そんな相関関係からすると「目上の人」が発する言葉使いや態度を「上から目線」と云い、一般的には好ましくない注意すべき言動と言ったニュアンスが私にはありますが、正確なところは分かりません。



 「古いものを整理していたらこんなものが出てきたので・・・」と年末に昭和4年の「感謝状」をお寄せいただきました。

杉浦家が「新館」として現在の醫院棟を新築したのが昭和4年ですから、期せずしてこの感謝状と同じであることに不思議な縁も感じますが、地方病終息に向けた山梨県民の貴重な歴史資料でもありますから当館にご寄贈いただきました。

ご覧のように驛治氏の驛の字にはサンズイがありますが、ワープロでは表記できませんでした。

 この感謝状は山梨地方病予防撲滅期成組合が旧中道町(現・甲府市白井)の宮川驛治(えきじ)氏に贈った感謝状です。宮川氏が区長として地域住民の先頭に立って地方病撲滅の為のミヤイリガイ殺貝活動に尽力したことに感謝するものでしょう。

山梨地方病予防撲滅期成組合のトップであった平田紀一氏は「会長」ではなく「総裁」であり、更に「勲四等正五位」の冠も付いています。

文面も「一層奮闘シテ終局ノ目的ヲ達スルニ努メラレンコトヲ望ム」と結んでいますから、感謝状と云うより檄文といった感じで、「上から目線」の本家本元と言っていいでしょう。



 この山梨地方病予防撲滅期成組合は、広島県のミヤイリガイ対策に倣って1925年(大正14年)2月に設立され、「知事を総裁」に「組合長に警察部長」を充てたそうですから、平田紀一氏も当時の知事で、有病地市町村で組織した組合からすると県や国からの補助金を得るうえで欠かせない「総裁」職だったのでしょう。昭和の大恐慌の渦中、当時の山梨県にあっては、小作争議が昭和5年に100件を越え、11年には600件を越えたと云う記録がありますから、有病地市町村の負担金では生石灰などの殺貝剤購入費用も賄えない状況だったようです。


  また、現在のように知事が県民の選挙で選ばれる公選制になったのは戦後の1946年からで、「地方制度改革」の中で身分も地方公務員になりましたが、明治の廃藩置県以来、知事は国が決めて赴任させる官製知事で、身分も天皇の勅命によって任用された勅任官の待遇でしたから、上から目線になるのも必然だったのでしょう。


 日本の社会は、封建社会を脱してからまだ約120年、その内約50年間は官制社会、敗戦に伴う各分野の改革により、民主化されたと云ってもたかだか約70年の歴史なので、基本的には今でも縦社会なのでしょう。目上の人には「了解しました」ではなく「承知しました」だの「お疲れ様」と「ご苦労様」の使い方云々などもその名残ですが、昨今「上から目線」が問題視されるのは、縦社会の規範が弱くなってきている証でもあるように思います。


 年明けのご挨拶で始まるべき今話ですが、国の天然記念物「甲斐犬」が減少の一途をたどる中「改憲」風は熱を帯びて強くなり、呑気に「おめでとう」なんて言ってられない新年でもあるように感じたのは私だけではないでしょう。末筆で恐縮ですが、どうぞ本年もよろしくお願いいたします。