2018年5月16日水曜日

杉浦醫院四方山話―539『スチブナールのアンプル見つかる』

 大正12年(1923年)に東京帝大伝染病研究所の宮川米次氏が、万有製薬の岩垂亨氏に依頼して酒石酸アンチモンのナトリウム塩を化学合成し、ブドウ糖を添加して毒性を弱めることに成功した注射薬「スチブナール」は、この病に苦しむ多くの患者に「特効薬誕生」の吉報となりました。スチブナールの詳細については杉浦醫院四方山話―255『三神三朗氏ー3』 等を参照ください。

 

 当館では、これまで上の写真のスチブナールの空箱を調剤室に展示していました。当然、見学者は箱の蓋を開けて中身を確認したくなりますから「開けていいですか?」「どうぞ」となり「残念ですが、中身が無いんです」と謝ってきました。

 

 診察室のケビントには、注射器や聴診器の医療器具がビーカーや三角フラスコと共に納まっていて、薬品類は全て調剤室にあるものと思っていましたが、注射器と同じ茶色の箱で、一つ大きさが違う箱があるのに気づき、何気なく取り出してみると中には何とスチブナールの「アンプル」5本が未開封状態で納まっていました。 

箱も上記写真のカラーのモノとは違い、薄い紙質の茶箱に直接文字も印字された簡素なものですから、発売当初のモノだろうと予測できますが・・・


何より懐かしいのは、近年全く見なくなったガラスのアンプルだったことです。昔は医者に行くと「注射しましょう」が普通でしたから、取り出したアンプルの頭部をヤスリのようなカッターで、医者がジーとこすり、ポンと切り落とす手際の良さが思い起こされます。

薄いガラスのアンプルにも赤い文字で1本1本次のように印字されています。

                  20CC
              スチブナール 
             酒石酸アンチモン
              ブドウ糖
               萬有製薬株式会社
               東京市日本橋区室町三丁目
 

現在の東京が東京で、聞きなれない「日本橋」もありますから、ここからこのスチブナールの大体の製造年代が計れそうです。

 

 1878年(明治11年)に施行された「群区町村編制法」により、当時の東京の府下を15のと6のに分けました。そのとき誕生したのが日本橋区で、現在の中央区の北部一帯だったようです。ですから現在の中央区の前身は、日本橋区と京橋区になります。

 

 明治11年以降は、東京日本橋だった訳ですが、アンプルには東京日本橋区ですから、府が市に移行したのはいつだったのでしょうか?

こういう時、ネット検索は便利で、「東京市」と入れると・・・≪1889年(明治22年)5月1日に市制町村制」に基づき東京は府下に東京を設け、旧15区の区域をもって市域となして、区部の財産管理を移掌した。≫とありました。

以上から、このアンプルは1889年(明治22年)以降から東京が東京になった昭和18年(1943年)7月までの間に製造されたことが分かります。

 この東京・東京・東京の変遷を調べだすと、スチブナールとは関係ない東京市と東京府の二重行政問題(権限や行政効率化の問題)や、戦争遂行上の問題など興味深い史実にはまりそうですから、本題に戻りましょう。

 

 今回見つかったスチブナールのアンプルは、印字されている表記から明治22年以降昭和18年までの間の製造になりますから、大正12年のスチブナール発売当時のモノでほぼ間違いないように思います。

 

 一方の空箱には、東京都中央日本橋本町2-7の表示があります。

中央区は、先の日本橋区と京橋区が、1947年(昭和22年)に合併して、都下の真ん中に位置していることから中央区に変わったそうですから、この箱は昭和22年以降製造のスチブナールが入っていたことになります。昭和22年は戦後の復興期でしたから、箱の意匠からすると昭和40年代以降と云った感じもします。

 

 このように日本住血吸虫症の特効薬として、長い間使われてきたスチブナールを製造販売していた万有製薬も現在はMSDと云う外資の傘下に吸収されているようですが、当館にスチブナールのアンプルと終息期と思われる空箱が揃っていますので、是非ご確認ください。