2014年9月25日木曜日

杉浦醫院四方山話―366『保健文化賞と莨壺(タバコツボ)』

 1950年(昭和25年)に創設された「保健文化賞」は、医療や高齢者・障害者の保健福祉などで顕著な実績を残した団体と個人に贈られる、この分野では国内で最も権威ある賞とされ、厚生労働大臣名の表彰状を受け、贈呈式翌日は皇居で両陛下と面会するのが恒例となっています。


 創設された翌年の昭和26年、保健文化賞を受賞したのが、杉浦三郎先生です。純子さんも「父は、田舎の一開業医で、この賞をいただいたことに本当に感激したようで、後の叙勲よりこの賞状の方が医者冥利に尽きると素直に喜んでいました」と話してくれました。

下の表彰状等は筒に入ったままで、掲示されたことは一度もなかったそうですから、三郎先生の性格、人柄が偲ばれます。 


 純子さんから、「整理していたらこんなモノも出てきました」と新たな箱入りの品が届きました。木箱の表には「彫金莨壺」とあり、裏には「洋」の署名が入っています。莨壺の丸蓋には、丸く「第三回保健文化賞」と彫金が施され、壺の部分には鯉が彫られていて、中に保健文化賞の共催である朝日新聞厚生事業団の名前で、この作品の彫金家・信田洋氏のプロフィールが入っていました。



 信田 洋(のぶたひろし)氏は、明治35年東京生まれで、平成2年85歳で死去した昭和を代表する彫金家です。東京美術学校(現・東京芸大)を卒業し、昭和5年の帝展で初入選、昭和9年には<蒸発用湯沸瓶>で特選、26年芸術選奨、35年からは日展審査員・参与をつ とめた「日本の彫金界の重鎮であります」と書かれています。  


 今まで、母屋の茶箪笥に入っていたようですから、茶道具にも見えますが、作者が意図したのは「莨壺」ですから、タバコを湿気ないようにこの壺に入れて、蓋を開けては一本取り出して、至福の時間を味わうと言う、タバコが立派な文化的趣向品としての歴史を秘めていることを実証するものでもあります。

 三郎先生は、愛煙家として生涯タバコを手離さなかったそうですから、この副賞もさぞお気に入りだったと思いますが、表彰状同様あまり拘りや執着心は無かったのかも知れません。 

それにつけても厚生大臣名で第一生命が主催する天下の「保健文化賞」副賞が「莨壺」だった昭和26年から60年後の禁煙日本。ホントにタバコはそんなにワルイのでしょうか!と素晴らしい莨壺を観ていると、<喫煙文化>の長い歴史の前で、声高の<禁煙ヒステリー>の浅さが浮き彫りになってきます。

2014年9月22日月曜日

 杉浦醫院四方山話―365 『9・19 朝日新聞』

 この夏から秋は、マスコミでは「デング熱」と「朝日新聞叩き」の報道が続き、現在も進行中です。そんな中、「デング熱患者数は去年は249人、今年は81人であるのになぜこんなに報道が加熱するのか?何かを隠ぺいするためではないか?」と云ったブログが、フェイスブック等で拡散され、「代々木公園で開催予定の大規模な反核集会を潰すため」とか「テレビ朝日ニュースステーションディレクターの怪死を隠ぺいするため」等々が流布されました。

 その後、このブログは、データの読み間違いによるデマ情報と裁断されましたが、正確なところは、今回デング熱が騒がれているのは、海外渡航歴のあるデング熱患者は、去年もいたが、海外渡航歴のない人がデング熱を患ったのは戦後初で、日本国内のヒトスジシマカが媒介したこの疾患による患者の発生は、70年ぶりということのようです。

 しかし、昨年も海外から国内に戻って、200人以上が発病していたとする報道は聞きませんし、グローバル社会で疾患も海外渡航歴の有る無しで大きく違う報道の在り様もどうかなぁーと考えさせられ、あながち「陰謀説」とも云えない貴重な情報でもありました。



陰謀論とは何か (幻冬舎新書)  このように、広く 人々に認められている事実や背景とは別に、何らかの陰謀や策謀があるとする見解を「陰謀説」と言いますが、自ら「陰謀論とは何か」という著書もある副島隆彦氏も「陰謀家」と揶揄されることも多い評論家です。

 副島氏が「陰謀家」と評されるようになったのは、35年前のアポロ計画で人類が初めて月面着陸に成功したという定説に、「アポロ計画は、世界中を騙すアメリカのショーだった」と「人類の月面着陸は無かったろう論」を著してからでした。この副島説は、未だ蒸し返したように採り上げられたりしていますが、副島氏は「自説が間違いであった証拠が出たら文筆家としての筆を折る」と、現在も自説を曲げていません。


その副島氏が、ネットサイト「副島隆彦の学問道場」の中で『安倍改造内閣は、第二次 "統一教会” 内閣である。』と題したブログで「朝日新聞は、謝罪などする必要は全くない」論を展開しています。

上記サイトで読んでいただく方が副島氏の正確な論旨が伝わりますから要約は控えますが、この国の世論形成に係る全てのメディアが同一論調で、時の政権までもが「それに乗って?」あるいは「それ以上に?」肩入れするような情況は、「先ず疑ってかかった方がいい」という齢65年の私の到達価値観ですから、副島氏の異論は私には歓迎すべきタイムリーな見解でした。


 

 朝日新聞の謝罪記事と山梨版での「住血吸虫はいま」の連載が、期せずして9月12日に載ったことを前話で書きましたが、連載2回目は、予告通り19日(金)にありました。

今回は、この病の「語り部」を採り上げ、西条新田の塚原省三さんや高橋積さんから若い語り部小野渉さんまで、谷口記者の取材による簡潔にして緻密な文章が光ります。

 今回の朝日新聞問題では、「次期社長を巡って社会部政治部の暗闘もあり、社内が一枚岩ではなく「内紛」に近い状態にある」などと週刊誌は報じていますが、そんな事とは無縁な一地方で、甲府盆地の暑い夏に汗を流して取材して回った谷口氏のような記者が、朝日新聞の紙面を創っていることを思うと、副島氏の見解も「陰謀説」とは無縁な「言論の自由」が保障されている日本国での一見識と私には読めました。

2014年9月17日水曜日

 杉浦醫院四方山話―364 『9・12 朝日新聞』

   9月12日(金)付けの朝日新聞一面は、深々頭を下げる社長と幹部の写真を載せた「謝罪」と「おわび」の記事で埋め尽くされた異様な紙面でした。

 私も朝日を購読していますが、その9月12日の朝日新聞が、甲府支局の谷口記者から杉浦醫院に送られてきました。

それは、谷口記者が約5カ月、精力的に県内外を取材してまとめた「遠ざかる記憶 住血吸虫はいま」の連載が、山梨版で9月12日からスタートしたからです。

 「この連載は谷口哲雄が担当し、毎週金曜日に掲載します」と表示された署名記事なので、T記者とイニシャルを使う必要も無いと判断して書き進めます。

 今回の記事も「甲府盆地西部」で、自らミヤイリガイを採集をして現地で会った方、昭和町の町長室へ出向いての角野町長と志村副町長、元甲府市立病院林正高医師、山梨大学医学部の松田政徳医師、と計5名への取材と栃木県の独協医大で撮影した写真とで構成されています。

 

 このように、谷口記者は徹底して関係者に当たって、直接話を聞くという手抜きしない取材が気持ち良い記者で、当館にも何度も足を運び曖昧なことを確認したり、新たな情報を教えてくれたりが続きました。

こちらで紹介した方には全員取材したことが、「朝日新聞が来たけど、いつ載るの?」と云う問い合わせが来たりして分かりました。じっくり時間をかけて丁寧に取材した膨大な取材ノートから、この連載が繰り広げられる訳で、毎週金曜日が楽しみです。

 

 また、特に要求した訳でもないのに前日には「お陰様で明日から掲載が始まります」と連載内容の報告電話もいただき、「一つ確認ですが、〇〇は、××と云うことでよろしいですね」と聞かれ「それはもう、谷口さんの想像で構いませんよ」と答えると「いえ、私の想像で書いたら問題ですから、事実を確認したくて」と最後も谷口氏の記者魂と気位に感動しました。

 その上、掲載された新聞を郵送してくれたのもY新聞A記者以来ですから、心遣いといった品性にも長けた谷口氏の人間性も記事には滲み出るものでしょうから、期待したいと思います。

杉浦醫院四方山話―363『インドネシア独立の母・長田周子さん-2』

 NHKが収録機材設定などの準備中の約30分間、診察室で控えていた長田周子さんと話しました。

 周子さんは、開口一番「西条とか常永とかこの辺はね、小作争議の盛んなところでしたよ」と話し出しました。

「小作争議の指導者として、臼井治郎なんていう名前は子どもでも知っていたくらい有名でした。臼井治郎もこの辺の人でしたよね」とか「その点、ウチの二川辺りではそんな争議はありませんでしたから、地主のあり方が小作争議に火をつけたんでしょうね。平野力三とか浅沼稲次郎なんかも来て応援していましたよ」と、固有名詞もポンポン正確に飛び出す話しは、とても99歳とは思えません。

 

 そう云えば、「昭和村誌」には、初代から28代までの歴代村長と歴代助役、歴代収入役の顔写真と名前がありますが、第五編「世の変遷」の第三章「農民運動史」のページに記されている農民組合の組合長や会計、幹事と云った幹部の名前と町の幹部がダブルっていることが多いのを思い出しました。

例えば、長田さんの云う臼井治郎氏は、常永村河西区で大正十年に結成された最初の農民組合で組合長を務め、26代村長でもあります。同、副組合長の今村虎房氏は17代助役に、同会計の油川真氏は22代助役を務めていますから、小作争議や農民組合のリーダーは、人望と指導力に長け、村政のかじ取りも村民から任されたのでしょう。

 周子さん親子からよく出る「二川のウチ」は、現在も残っているようで、「この間、横内さんがインドネシアにトップセールスとやらで来たので家に招いて、早く二川のウチを県の文化財に指定しないと無くなってからでは遅いよとよく言っときましたが、分かっているのかどうか・・」と知事もヒヨっ子と云った物言いでした。

 その「二川のウチ」の襖は、東郷平八郎直筆の書だそうで、周子さんの父・長田瑛(あきら)氏を訪ねては、東郷平八郎が二川のウチでよく酒を飲んでいたと話してくれました。

要は、長田家は二川村の地主で、瑛氏は県会議員として活躍したり、蚕糸組合長や製糸組合「模範社」の初代社長も務め、「県会議員の選挙では、臼井治郎と一騎打ちもした」そうです。


 このように故郷・二川のウチや二川で過ごした思い出は、若くしてスマトラに渡り、長くインドネシアで暮らす長田周子さん親子にとっても忘れがたく、近年望郷の思いを一層強くしているのではないかと感じましたが、人間が歳を重ねるということは、案外そういうことかとも知れないと思えてきた30分でした。

 

 杉浦醫院応接室での約4時間のインタビューと前日収録した映像等は、インドネシア独立解放の礎を築いた甲府市出身の長田アミナ・ウスマンさんのドキュメンタリー番組として、NHKの「まるごと山梨]で、9月18日頃放送予定だそうです。更に11月7日放送予定の「やまなしクエスト」では、約25分番組として放送されるそうです。

2014年9月16日火曜日

杉浦醫院四方山話―362『インドネシア独立の母・長田周子さん-1』

 9月6日(土)に急遽、醫院応接室で長田周子さんを追ったドキュメンタリー番組のインタビュー収録がありました。これは、NHK甲府放送局からの依頼でしたが、インドネシア在住の長田周子さんが娘さんと帰国して、故郷山梨の親戚との面会やお墓参りに来県するのに合わせて、6日帰京予定の限られた時間にNHKが取材することが前日に決まったという超過密スケジュールでした。



 長田周子さんは大正3年、甲府の二川(現・甲府市西下条町古屋敷)の富豪の家に生まれ、甲府高女から日本女子大に進学、在学中にセツルメント活動を通じて、明治大学に留学中のスマトラ王族の子息であるマジッド・ウスマンさんと知り合い結婚し、シティ・アミナ・ウスマンと名前を変え、西スマトラのウスマンさんの郷里へ移住したという経歴の方です。 国際結婚が珍しい戦前の昭和13年の事でもあり、当時の雑誌でも”スマトラの青年と国を越えての愛”と大きく報道され話題となったそうですが、この長田周子さんの娘さんが、西条一区の三井夫妻と懇意にされていることから「ウスマンが・・・」と何度か話しもうかがっていましたが、今回のウスマン親子の帰郷に際しても三井夫妻との会食も予定されていました。

 

 また、三井さんのお話で、長田周子さんのお父さんは、東郷平八郎とも親交があった早稲田大学卒業のインテリで、趣味が狩りだったそうで、二川から鉄砲を担いでよく西条方面に狩りに来て、その度に杉浦家にも立ち寄っていたと教えてくれましたので、純子さんに聞くと「朝早く見える長田さんのことを父や母がよく話題にしていました。当時は、土人なんて言葉が使われていた時代ですから、お嬢さんのご結婚も大変だったようです」と覚えていました。


 

 そんな関係で、ウスマンさんご一行の収録は、純子さん88歳と周子さん99歳のご対面から始まりました。インドネシアで医者をしている周子さんの娘さんが「杉浦先生は、日本住血吸虫症の先駆者として、よく存じ上げております」と表敬すると純子さんは「まあ,お上がりください」とおもてなしましたが、インタビュー収録を控え、「収録後おじゃまします」と醫院棟に移動しました。

 

 NHKが用意したインタビュー内容は、昭和16年に始まった大東亜戦争で、ウスマンさん一家は夫人が日本人だという理由で、オランダ当局に逮捕され、ジャワに抑留された当時の様子から、日本軍のジャワ上陸で救出されて故郷に帰り、ウスマンさん夫妻が闘士として活躍された独立運動の実態や初代大統領・スカルノとの関係などインドネシア独立を長田周子さんの視点で語ってもらうモノでした。

 

 ウスマンさん一家は、矢野兼三西スマトラ州知事から「内閣情報員」の資格で日本行きの命を受けますが、スマトラの軍政当局はウスマンさんの現地での影響力を危惧して、実質は日本への”追放”だったようですが、その辺の真実を周子さんの証言として、NHKは引き出したかったようです。

 

 99歳とは思えない体力と知力で、休みなしで約4時間近く「スマトラ義勇軍」について語った周子さんの話しは、人名や地名と年月日までしっかり記憶されていて、廊下で聴いていた私も引き込まれてしまいました。このインドネシア独立運動を担った「スマトラ義勇軍」の「義勇軍」は、日本語ですが、インドネシアでは、当時も現在も「スマトラ義勇軍」として通用していると云った貴重な話を25分の番組にどう編集するのか、NHKディレクターは、これからが始まりなのでしょう。

2014年9月10日水曜日

杉浦醫院四方山話―361『塚原 等 氏-2』

 前話では、山梨訓盲院を設立し、校長として、学校運営の先頭に立った塚原等氏が、資金調達為の東京で、志半ばで帰らぬ人となったことをお伝えしましたが、その志は、息子の塚原馨氏にしっかり引き継がれました。

 

 塚原等氏について、「昭和村誌」には「昭和村西条4319番地に安政3年(1856年)1月13日に生まれ、本名を塚原等という」と記載され、「明治7年山梨日日新聞記者として入社し、梅の家馨の号で俳諧和歌を発表し、後に梅の家三菊と改め文芸を通して庶民の啓蒙に尽くした」旨が紹介され、「45年の長きにわたり県内文芸界の指導者として活躍した」と、村の文人として取り上げられています。

 「大正8年不具な青少年の教育に思いを致し、甲府市百石町に山梨盲唖学校を創立し自ら校長となり、特殊児教育のために尽くし、大正11年2月1日享年69歳で歿した」とありますから、「やまなし近代人物館」の選定功績でもある「県内初めての盲学校である山梨訓盲院を設立した功績」は、塚原等氏の晩年4年間の実績であり、その多くは、文芸活動に注がれていたことが村誌からはうかがえます。


 村誌には、「学校は、嗣子馨が遺志を継いで経営し、成果を収めたので、昭和16年県の経営するところとなり」、現在の山梨県立盲学校、山梨県立聾学校に至っている記述もありますが、この塚原馨氏は、昭和17年7月に誕生した今の昭和町の母体となる昭和村の村長を昭和22年4月から23年8月まで務めていますから、戦後の地方自治の要として、昭和町の礎を築いたことになります。


 また、山梨県立ろう学校「開校二〇周年氏小史」には、「塚原等前校長の愛孫、現校長馨氏の子、塚原一氏は、東京盲唖学校師範部に入学し、卒業後は祖父、父の志を継ぐ予定であったが、入学して僅か3か月、急病のため25歳で亡くなられ、祖父、父と塚原家三代の苦節に、哀しき終止符が打たれた。」とあります。

西条の塚原家は、空き家状態になって久しいと聞いていますが、この一氏の急逝によるものか?引き続き調べていきたいと思います。


 山梨県の盲聾教育の先駆者として、母体となる山梨訓盲院、私立山梨盲唖学校を大正期から立ち上げてきた塚原父子が、この昭和町域から出ていることを誇るとともに、もっともっと周知していく必要もあるように思います。

2014年9月1日月曜日

杉浦醫院四方山話―360 『塚原 等 氏-1』

 来春開館予定の「やまなし近代人物館」で紹介される50人の中には、昭和町から杉浦健造氏と塚原等氏が選定されたことが過日公表され、健造先生については紹介しましたが、塚原等氏については、情報が少なく詳細を報告できませんでした。

 この度、町立図書館のIさんが、図書資料から塚原氏の情報を収集してくださいましたので、それを基に塚原等氏の足跡をたどってみたいと思います。

 

 「山梨県教育百年史ー大正・昭和前期編ー」によると、「山梨県の特殊教育は、先ず盲人、続いて聾啞者に対する私的な施設の開設から始まった」そうですが、いわゆる「劣等児」や「低能児」は、明治、大正、昭和前期まで「就学免除」とか「就学猶予」とし、学ぶ機会が長く閉ざされていたようです。

まあ、学習機会も後手後手に回されてきたからこそ、こういう教育の歴史資料に「劣等児」「低能児」といった言葉が堂々と使われていたのでしょうが、統計のある明治43年で、「尋常小学校の教科を修めてない者」は、男女児童400人以上、昭和4年になっても約150人を数えています。


 今回、塚原等氏が選定された功績は、山梨県初の盲人学校である「山梨訓盲院」を設立し、初代校長を務めたことによりますから、山梨訓盲院について先ず触れておきましょう。

現在の山梨県立盲学校「校訓・和顔愛語」=なごやかな顔と思いやりのあるやさしいことば

 「山梨県教育百年史ー大正・昭和前期編ー」には、「大正8年になって、甲府の盲按摩業者たちによる熱心な運動が実を結び、当時山梨日日新聞の記者で、盲人に対する理解者であった中巨摩郡旧西条村の塚原等を院長とする山梨訓盲院がアルゴン牧師の斡旋によって甲府市旧百石町のキリスト協会に開校された」とありますから、この「山梨訓盲院」も心ある民間人が設立した私立学校で、その中心になったのが塚原等氏だったことが分かります。

 

 しかし、設立当初の生徒数は20名足らずで、社会の無理解もあって、その経営は資金面でも厳しく、「職員はもちろん生徒も募金活動や啓蒙宣伝活動に懸命であった」とあります。

その為でしょうか、山梨訓盲院の名簿には、校長 塚原等 以下、講師、職員数名の後に「顧問」14名の名簿があり、当時の貴族院議員名取忠愛等と共に杉浦健造、吉岡順作と云った医者や実業家の名前が連なっていますから、これらの名士からの資金援助が学校経営には欠かせなかったものと思われます。


 山梨訓盲院第一回卒業生「永関ためよの回想」と云う一文も収録されていますが、「募金活動の苦闘」が縷々綴られ、閉めは「発起人の塚原先生には、資金調達のため、東京に在住している名士の所を狂奔中、過労のためその宿舎で脳溢血で倒れ、学校実現の寸前にして、そのまま帰らぬ人となられたのであります」とあります。

 「山梨訓盲院」を「私立山梨盲唖学校」へと昇格させるべく、資金集めの東京で殉職した塚原等氏の遺志が、現在の山梨県立盲学校に結実しているのでしょう。